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プレゼント

「こっ、この仕事が無事に片付いたら、ご褒美に、この辺りにぶっちゅぅ〜と熱い口づけを――」
 目の前に差し出された彼の頬を、慣れた要領で遠慮なく張り倒した。
「毎度まいど、それをやめろと言うのが分からんのかっ、アンタは! まるで成長のないっ」
「ぐはっ! す、すびばぜん……うぅ、悪霊を相手にする前に既にダメージが……」
 どうせいつもの事だ。
「まったく、このオトコはっ」
 今日もまた、この軽いノリを重ねて、私達は除霊という命懸けの仕事をこなした。

 私は解っているつもりだった。

「あの日」から、横島クンのセクハラはただの儀式と化していた。私を求めてくれている訳ではない。ただ、「それまでと変わらない横島クン」を、彼は演じているだけだった。
 それに気付いていたからこそ、彼の高校卒業に合わせて、美神令子除霊事務所を個人経営から法人へ切りかえた。税務申告で融通が利き難くなるからと避けていたけれど、正社員として迎え入れると言う事で、自分から離れてゆく彼の心を繋ぎ留めようと謀(はか)ったのだ。我ながら、浅ましい考えだったと思う。でも、彼は言った。「バイトのままでも構わなかったのに」と。
 私は、その言葉に安心してしまっていたのだ。バイトだろうが正社員だろうが、待遇の如何(いかん)に関わらず、ずっと、私のそばに居てくれるつもりがあるのだろうと。

「美神さん、ちょっとご相談が……」
 事務所に戻って一杯のコーヒーを飲み終えた頃、私のデスクの向かいに居直った彼は、にこやかに言った。いつしか頭のバンダナをやめオールバックに髪を整えた彼は、ネクタイ姿が随分と凛々しくなった。
「なぁに?賃上げ要求なら応じないわよ」
 向き合うのも気恥ずかしくて、敢えて視線を逸らした。無用な一言を添えてしまう悪癖は、未だに直らない。
「いやいや、給料は、時給二百五十五円の頃を想えば十分ですって。そうじゃなくて……」
「じゃぁ、何よ?改まって」
「俺、そろそろ独立しようと思うんです」
「――!?」
 一瞬にして跳ね上がった鼓動の波を隠して、努めて冷静に答えた。
「……どうして急に?」
「急って言うか、少し前から考えてたんです。……俺、知らなかったんですよ。美神さんが、幾つもお見合い断ってるって。隊長からそんな話を聞いて」
「ママが?」
 彼は、言葉を選んだのか、一瞬の間をおいてから続けた。
「ええ、『そろそろ、令子も結婚を考えないといけない歳だから』って。それで、俺、思ったんです。美神さん、俺を雇ってるから事務所を閉める訳にもいかず、結婚の踏ん切りがつかないんじゃないかと。美神さん好みな金持ちとの良縁がいっぱい来てんですよね?」
 多分、ママは援護射撃のつもりで、わざわざそんなことを横島クンに吹き込んだのだろう。三十路まで残り二年の私を憂いて。でも、ママは横島クンを解っていない。それは、あの頃ならいざ知らず、今の彼に対しては逆効果だ。
「流石に結婚となると、幾ら相手が仕事を続けて良いって言ってくれても、男女二人きりの事務所ってのは印象が良くないと思うんですよね。だから、事務所を続けるにしても、俺がここを出て、別に誰か女性GS(ゴーストスイーパー)を雇うとか。あ、そうそう、おキヌちゃんも、ネクロマンサーの留学から近々戻れるって言ってましたし」
 年下で、しかも私に雇われている身で、極めて前向きに私の将来を考えてくれている、そういう気の回るところが、むしろ腹立たしい……そのくせ鈍感なのだ、この男は。
「それに、自分で言うのも照れ臭いんですけれど、美神さんのおかげで、俺も大分名前が売れて来たし」
 それは私のおかげなんかじゃない。「若くして、核ジャック犯の上級魔族、アシュタロスを倒した男」として、今や、業界で横島クンを知らない者などいないのだから。
「だから、『自分一人食って行く』くらい出来そうかなって……」
 ――やめてよ。
「もう、『あのこと』で美神さんが同情してくれてるのに甘え続けるのも、男としては、ぼちぼち格好悪いかなーってのもあって」
 ――やめてよっ。
「あっ、それに、雪之丞が『一人で始める』のが不安なら、手を貸してくれるとも言ってくれてて――」
「――やめてよっ!!」
 三度目はとうとう声に出してしまった。しかも、デスクに両手を激しく振り下ろして。
 険悪過ぎる静寂が、部屋中を駆け巡る。
 彼は、苦笑を浮かべて私から目をそらした。
 解っていたのだ。彼の想い描く未来の中に、私と言う女は存在しない。
きっと、無意識に言っている。「一人食って行く」、「あのこと」、「一人で始める」、どの言葉も、「あのコ(ルシオラ)」のことに縛られた言葉だ。あれだけ馬鹿で助平だった横島クンが、今は、私はおろか、どんな女をも近付けるつもりは無いのだ。ただ、「セクハラ男の横島クン」を演じているだけ。
「スミマセン。でかい除霊こなして帰って来た後でする話じゃなかったですよね。美神さんも疲れているみたいだし、明日また改めて……」
 彼は、ハンガーに掛けてあったスーツの上着を小脇に抱えると、深々と頭を下げて事務所を出て行った。
「何よ。『でかい除霊』って言ったって、ほとんどアンタが文殊で片付けちゃったくせにっ」
 静かに閉じられたドアめがけて、私は手近に在ったボックスティッシュを力任せに投げつけた。指を引っ掛けた部分から紙製の箱が破れ、ティッシュペーパーが羽毛の様に舞い上がった。
「格好つけんじゃないわよっ。昔の恋人の生まれ変わりを、別の女に産ませる度胸が無いだけでしょうがっ!」
 彼が部屋を出て行った後だからこそ、込み上げてくる悪態。けれど、違う。横島クンに度胸が無いんじゃない。彼は優し過ぎるのだ。
私は解っているのだ。
 あの時、敵・味方の立場に在りながら彼に愛されているルシオラを妬んでいた。だから、普段じゃ到底引っ掛からない様な、アシュタロスの下らない策略に嵌まってしまった。
 そして彼女が消滅してしまった後も、彼に恨まれるのが嫌で少しでも力になろうとした。だから、彼の子供としてルシオラを転生させるだなんて、馬鹿な提案を持ち出した。結果、重たい枷(かせ)を彼の身に繋いでしまった。
 でも、彼は私を責めない。
 あの時、私は既に彼を失っていたのだ。ルシオラの母となって罪を償うことすら、私には許されないのだ。

 翌日。昭和五十五年倒産の由緒正しい廃屋、ホテル菊屋本館跡。

「アンタに個人的な恨みは無いが、少しばかり悪さが過ぎた様だなっ。このGS横島忠夫が、極楽へ逝かせてやるぜっ!」
 幾重にも渦巻く悪霊のうねりに単身飛び込んだかと思うと、彼の周囲を中心に、炸裂音が轟いた。或る霊は恨み節を唱えながらそのおぞましい姿を霧消し、また或る霊は生きた頃の姿を取り戻して穏やかな表情で昇天した。
「ふぅっ、一丁上がりですね。流石に、この数の霊団の処理は、おキヌちゃんには敵わないなぁ」
「何を言っているのよっ。普通、敵う敵わない以前に、ネクロマンサーでなきゃ引き受けられない規模の仕事よっ。本当、よくもまぁ、あれだけの数の文殊(もんじゅ)を的確にコントロール出来るわ。まして、『成』『仏』なんてアバウトな文字を、意図通りに起爆させられる様になってからは、もう、ほとんど反則ね」
 正直、今の横島クンは、私よりも良い仕事をする。特に、霊力を圧縮して作り出した珠(たま)に、望む効力を文字にして念じ込める「文殊」を体得してからの彼は、急激に成長した。
 勿論、私の一番のウリである、華麗な除霊姿は、何人(なんぴと)にも負けはしない。けれども横島クンの場合、低級霊なら数十体は同時に相手出来るタフさ、霊波刀や文殊など、使い減りしないアイテムを主体とした除霊スタイル、そして、一定以上の知能を有した魔族なら、GS横島の名を聞いただけで大人しく引き下がると言う、神・魔族とのコネクション。つまり、彼の除霊はあまり元手が掛からず、すこぶる利益率が良いのだ。
 そんな、いかにも私らしい理由も手伝って、どんどん彼に仕事を任せて来た。結果的に、私はもっぱら、司令塔に徹する様になった。
 こうして、後方から見守るだけ。
いや、そう言えば聞こえは良いが、とどのつまり、私は横島クンにすっかり依存しきっているのである。
――と、まだ、現場に居ると言うのに、余計なことに思考を巡らせていたのがいけなかった。
「――みさんっ、美神さん! 上っ!」
「へっ?」
「あぁっ、くそっ、間に合えっ!!」
 天井の一部が崩落した事に気付いた時には、既に横島クンが私に覆い被さっていた。先程の大規模な除霊で霊的に疲弊していた横島クンは、文殊や霊波刀に頼る事も出来ず、その身一つで私の盾になってくれた。
 降って来た瓦礫のカビ臭さに混じって、鼻をつんと刺激する生臭さがあった。それは彼の血の臭いで、頭部は真っ赤に染まっていた。
「横島クン!」
 ぐったりと力が抜けていて、一切の反応が無い。
「横島クン! 横島クン!! いやぁ――――――――っ!!」

 この日、私は「また」大切な人を失った。

 彼は、奇跡的に一命を取り留めた。そう、頭部からの流血なんて、若かりし頃、セクハラの代償として散々私にしばき倒されていたのだから、タフな彼には大した怪我でもなかったのかも知れない。表面的には。
 穏やかな風が、純白のカーテンをひらりひらりと踊らせる。そのリズムに乗って新緑の匂いが運ばれ、病室を満していた。

 頭部外傷による、逆行性健忘。

「スミマセン、美神さん。この大事な時に……」
 いつかの様な、全生活史健忘ではない。彼は、自分が横島忠夫であることは自覚しているし、性格に著しい変化も見られない。
「いっ、良いのよ。アンタがいつの間にか強くなっていた事には、私もママも驚いたわ。お陰で希望が見えて来たんだもの、少しくらい休んでいたってバチは当たらないわよ。今は来たるべき時に備えるのよ」
 ただ、彼の時間は、アシュタロス事件の最中、もう少し具体的に言えば、シミュレーター訓練と称して私と対峙した直後で止まっていた。
 あの頃ならバンダナの定位置であった額に包帯をぐるぐると巻かれ、個室のベッドに横たわる彼。最近オールバックばかりだった彼の髪が無造作に散っていて、本当に、あの頃の――少年時代の横島クンに戻ってしまったみたいだ。
 私は、ベッドの縁(へり)に腰掛けて、彼に微笑みを向けた。
「もっ、もしかして、シミュレーターを勝手に動かしたこと、滅茶苦茶怒ってます?」
 私は微笑んだつもりなのに、彼は蒼い顔をした。
「なっ、何でそう思うのよ?」
「だってっ、どんなに大怪我したって、美神さんが『休んで備えろ』とか、俺のそばに座って『にこっ』とか、絶対有り得んでしょうがっ!笑顔で油断させて近づいた後には、きつい折檻がっ」
 卑屈な表情で洪水の様な涙を流している。あの頃の私は、そんなにも彼をぞんざいに扱っていただろうか。
「失礼ねっ。私だって流石に心配するわよっ!」
 彼は、ぴたりと嘆くのをやめて、酷く申し訳なさそうに俯いた。
「ははは……スミマセン。ご心配をお掛けしました」
「分かれば良いのよ」
 横島クンになら、何をしても大丈夫。きっと、私はそんな風に勘違いをしていたのだろう。彼の居る生活が当たり前になっていたから。
「でも、俺、行かなくちゃっ」
「駄目よっ、まだ!」
「本当、もう大丈夫ですからっ。早く現場に戻らないと。ぜってぇアシュタロスの野郎をぶっ倒すんですっ」
 言いながら上体を起こした彼の決意の眼差しは、そのまま、私の心を鋭く貫いた。
「――ルシオラの為なんでしょ……?」
 びっくぅっ。
彼の背筋が硬直したのが、音として聞こえる様だった。
「どっ、どうしてそれを、知っているのでせう?」
 大量の脂汗を吹き出しながら、彼は聞き返して来た。
 私は馬鹿だ。記憶を失っている彼にこんなことを言って、何になると言うのだ。
「いっ、嫌ね! 別に責めてなんかいないのよ? アンタ、元々、物の怪に好かれ易いタチだもんね」
 もう一度微笑んだ……つもりだけれど、上手く笑えているだろうか。
「えっ、あ、その――――なんか、美神さん、雰囲気変わりましたね」
「そう?」
「丸くなったと言うか、大人びたと言うか、落ち着いたと言うか」
 そりゃ、あれから八年も経てばね……。
「とっ、兎に角、ルシオラの為にも、今は、しっかり治して、最高の状態で戦線に復帰してちょうだい。半端なコンディションで戻って来られても足手纏いになるだけよ、良い?」
 そう言ってあげたら、彼は再び上体をベッドに横たえた。鎮痛剤が眠気を誘ったのか、未だ傷むらしい頭部を庇いながらも、直ぐに寝息を立て始めた。

「そう……横島君は、ルシオラを護ろうと必死にもがいていた、あの頃の彼に戻っているのね」
 私は、どうして良いか判らなくなって、結局、ママを病院に呼びつけた。今は眠っている横島クンへのお見舞いを少し待って貰い、待合室の長椅子で缶の紅茶を二人啜っている。
「記憶が戻る可能性は?」
「判らないんだって。一過性の健忘かも知れないし、この先ずっとかも知れないし。ただ、自分がどこの誰だかは分かっているし、他の運動機能にも支障は出ていないから、普通の生活を送るのに問題は無いだろうって」
 この待合室に居ると、北側に作られているせいか、まだ昼間だって言うのに陰鬱な気分になって来る。そして、そんなことにすらも苛立つ私は何なのだろうか。
「まだ、ルシオラが亡くなったことは伝えていないのでしょう?」
「当たり前でしょう!? 言える訳無いじゃないっ」
 ここで声を荒げるのは八つ当たりだ。横島クンに甘えられなくなったら、今度はママに甘えようとしているなんて、我ながらみっともない。
 けれども、ママは私の八つ当たりすらも意に介さず、話を続けた。
「ねえ、令子。ここ数年の彼、ルシオラを誰かに産ませるのが嫌で、特定の女の子と親密になろうとしなくなったのよね?」
「どっちかって言うと、誰かに産んで貰うこと自体が嫌なんじゃなくって、『本当はその相手を愛しているのではなく、ルシオラの為に利用しようとしているのではないか』って、自分をそう汚い男みたいに思っちゃうみたいよ。そんな自分が許せないって感じ」
「真面目過ぎるのね」
「ほら、アイツ、一見ちゃらんぽらんな様で、軽いノリで女の子と遊ぶとか、器用には出来ないから。ちょっと、良い感じになると、結婚とかまで考えちゃうヤツよ」
 ママは、ふと何かに気付いたらしく、私の手を取って言う。
「例えば、彼の記憶が戻らなかったとして、このまま、ルシオラが魔界に帰ったってことにしておけば、普通に誰かと結婚して、子供を授かって……別に、それで良いと思わない? 二度もあんな悲しい思いをさせる必要も無いわ……それに――」
「それに?」
 私の手を握るママの力が強くなった。
「今まで、散々横島君にお世話になったでしょう? 今のあなたなら、ルシオラのこともひっくるめて、受け止めてあげられるんじゃないかしら」
「ちょっと、やめてよ。誰があんな馬鹿で助平なヤツと――」
 私の口から出た言葉は、ほとんど条件反射と言えるかも知れない。
「令子っ! この期に及んで、まだ、そんな意地を張るの!?」
 私は、思わず口元を両手で覆った。当たり前だ。本心である訳がない。
 そんな「馬鹿で助平」な筈の横島クンに、何度も命を救われて来たのはどこの誰だ。散々わがままを言って、それでもそばで支えてくれたのは誰だ。
「本当は、私だって分かっているのよ。彼しかいないって……」
 ママの一喝で、いたずらをたしなめられた幼女の様に、小さな声しか出せなかった。
「あのね、令子。その態度で、あなたは周りのどれだけの人を苦しめているか分かる?」
 ママは、凛々しい眉を一層ひそめた。ここ最近無かったママの怒気に、私は所在無かった。
「その様子じゃ、例えば、おキヌちゃんが留学に出た本当の理由だって、解っていないでしょう?」
「だって、あれはママが勧めたって……」
「そう言うことにしたのよ。あなたがいつまでも煮え切らないから」
「ちょっとっ、それどう言うこと?」
 ママは、「呆れた」と言った様子で、事の真相を語った。
 おキヌちゃんは、横島クンが好きだった。でも、一番近くで私と横島クンを見て来た彼女は、私達の気持ちも解っていて、何より、「今の自分が在るのは二人のおかげだから」と、私と横島クンの間に割って入る気にもなれなかったらしい。そして、その想いは私達との関係が長く、深くなるほど強くなった。
 ところが、いつまで経っても私が心を決めないから、いたたまれず海外留学への仲立ちをママに依頼したらしい。つまり、おキヌちゃんは身を引いたのだ。

 周囲に居る多くの人が、私と横島クンが結ばれることを願ってくれている。

 でも……。

「ママ、横島クンは一人で生きて行くって決めているのよ。私と生きて行く未来を描いてはくれない。でね、そんな風なことを言われても、まるで言い返せなかった。転生した魂は、次の人生ではまるで別人格だって分かっていても――頭では解っていても、生まれて来る子供を心から愛せない自分が容易に想像出来るから」
 彼が本当に愛した女性(ひと)の生まれ変わりを、自分の子供として育てる。それはつまり、彼が自分へ注いでくれる愛も、自分が子供へ注ぐ愛も、ずっと疑い続けて生きると言うこと。
「令子……こんなこと、私が言うのも変だけれど、彼は心からあなたを愛してくれているし、だからこそ、あなたにルシオラのことをこれ以上背負わせたくないと
思ってくれている。けれども、そんな彼の優しさがそうしてあなたを苦しめるのなら、いっそ互いが互いの荷物を背負い合えば良いじゃない。夫婦ってそういうものよ?そしてそれは、決して我慢し合うことではない。互いの荷物が互いを満たし合うこともあるのよ」
「……ママとパパの様に?」
「ええ、そうよ」
 ママは嬉しそうに言った。
「……そう、解ったわ」
 背負い合うことで満たしあう……私たちはママ達の様になれるだろうか。でも、ママの笑顔は私を決心させてくれた。

「ねぇ、横島クン……起きて」
 私は彼の耳元でささやいた。
「えっ、美神さん……?」
 二人きりの病室。結局ママは横島クンには会わず帰って行った。
「大切な話があるの……」
 ぼんやりと目を覚ました彼の手を取り、そっと握り締めた。高層ビルに反射する陽の揺らめきが、東向きの窓越し、私達を橙色に染め上げる。 

 あんな思いをもう一度させるのは可哀想だけれど、横島クンの中であのコの最後が無かったことになるのはもっと可哀想。

 だから、この人の悲しみは私が一緒に背負おう。

 そう決めたのに……。

「そんな悲しそうな顔、しないで下さい」
 彼がぽつりと呟いた。
「え?」
「大丈夫、そんな嫌な役回り、美神さんにさせやしませんよ」
 私が今告げようとしたことを、彼は確かに知っている風だった。
「この七年余り、好きなコ一人守れない半人前の俺が、恋なんてしちゃいけなかったんだって思っていました」
「横島クン、記憶戻ったの!?」
 決心が空振りして、喜んでいいのか悲しんでいいのか、一瞬判断がつかなかった。
「眠っている間中、頭の中に声がしていたんです。『私とのことも、美神さんとのことも、一瞬たりとも無かったことにしちゃいけない』って。『全部思い出して、今を大切に生きるための糧にして』って」
「ルシオラが?」
「夢だとは思いますけどね。それに――」
「それに?」
「美神さんにも伝えてって。『あなたはきっと、いっぱい愛情を注いでくれる。何も心配は要らない』って」

 私は泣いた。年甲斐もなくおいおいと。そんな私を、彼は何も言わずに抱き寄せて、そっと髪を撫で続けた。

 救われる様だったのだ。彼の中のルシオラが言ってくれたにしろ、夢の中の出来事にしろ、彼がルシオラの言葉として伝えてくれた。私にとってはそれで十分で。

 ……そう、今度の横島クンの記憶喪失は、覚悟の決まらない私達への、ルシオラからのプレゼントだったのかも知れない。

 ひとしきり泣いて、私の気持ちが落ち着いた頃、彼は口を開いた。
「美神さん、俺、独立するのやめます」
 嬉しかった。でも……。
「……それだけ?」
 私には、彼が何を言いたいのか分かったけれど、敢えて意地悪をした。
 横島クンは、照れ臭そうに鼻の頭を掻いて、視線を外す。
「え、あの……これからも、そばに居させてくれませんか?」
 記憶が戻っても、普段は平気でセクハラ出来ても、こういうところは初心(うぶ)な少年みたいで可愛い。
「これからも、私の丁稚で居続けたいってこと?」
「えっ、いやっ、そういうことではなくて――」
「なら、はっきり言いなさよ。シマらないわねぇ」
 最後に、これくらいの意地悪、許してよね。ここからの私は、あなたが耳目を疑う程、素直な女になってしまう筈だから。
「はっ、はい、では、その……美神さん、俺と結婚して下さいっ!」
 てっきり、「付き合って下さい」とかって言われると思っていた。思わず吹き出してしまった。
「ぷっ、恋人同士はすっとばすのね?」
「だって、そんじょそこらのカップルより、何万倍も互いを知っているし、強い絆が有りますから」
「そうね。グダグダ恋愛ごっこしたり、デートを重ねるなんて私達の柄じゃないものね……」
 セクハラはあんなに積極的なのに、こんな時にはてんで奥手な横島クン。私はベッドに身を乗り上げて、彼の両頬を手で掴み、思い切り濃厚な口づけを捧げた。
 キスに不慣れな彼の鼻息が少しくすぐったかったけれど、その感触すらも、こわばっていた私の心を温めてくれた。
「ぷはっ、な、何を!?」
 この目の前で顔を真っ赤にしている男(ひと)が、こんなにも愛しい。
「プロポーズの返事と…………プレゼントのおすそ分けよ」
 初二次創作で、イマイチ作法が飲み込めていませんが、お暇潰しに……。

【10.12.19 追記】
 本作は、原作の8年後を描いたものです。なぜ、8年後か。これは、10年後の横島クンが未来からやってくる原作の物語から逆算したためです。
 ここで結婚した二人は一年程で子供を授かり、その後しばらくして急激に体調を崩す令子。すると、ちょうど10年後くらいに繋がるかと……。本作ですっかりなりをひそめた筈の横島のスケベ癖が原作の令子の入院先で発揮されるのも、妊娠期間から令子が倒れるまでのコンボで大分「ご無沙汰」だったのでつい……と、言うことかな?と。

 貴重な賛成票を下さった御人には、心から感謝申し上げます。

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