2860

涼しく過ごそう


 空は明るくなり始めているが、太陽はまだ地平線から顔を出していない――夏至は一月以上前だが、まだ日の出は5時前――そんな時間にシロは横島のアパートへと押しかけてくる。
 毎度毎度、大声を張り上げてドアをドンドンと叩くのが近所迷惑だろうと――横島の古いアパート自体はあまり埋まっていないのだが――横島は最近ドアに鍵をかけずに眠っている。男の一人暮らしの上、悲しいことに盗む価値のあるものなどこれっぽっちもないのだ。横島曰くの“お宝”が、押入れの奥にいくらかあるくらいで、これも泥棒がわざわざ持ち出すようなものではないだろう。
 そんなわけで、シロは声もかけずにドアを引き開けると、走ってきた勢いのまま布団にだらしなく横たわる横島に飛びついていく。
「横島先生ーーーっ! 散歩に行くでござるよっ!」
 言葉と同時にシロは寝ぼけ眼の横島の顔をぺろぺろと舐めまわす。
 挨拶と親愛の情を示しているのだが、そんな自分の上に乗ってぶんぶんと尻尾を振っているシロを、「暑苦しいわ!」と横島は半ば突き飛ばすように体から引き剥がした。
 乱暴な扱いだが、シロもいつものことなので別段に気にはせず、「目が覚めたでござるか? それでは早速出発するでござる」と、その手をとってぐいぐいと横島を自転車置き場に引っ張っていこうとする。
「おい、ちょっと待て、シロ。いくらなんでも今日は勘弁してくれよ」
 いつもはなんだかんだと文句を言いながらも結局は散歩――数十キロメートルを自転車に乗ってシロに引きずられること――に付き合ってやる横島だが、この日は必死に彼女を部屋の中に引き戻した。
「えぇー? なんででござるか?」
「なんでって、お前も昨日の深夜の除霊、一緒だったろうが。どうしてお前はそんなに元気なんだよ」
「拙者は普段から鍛えてるでござるからな。日々これ鍛錬――というわけで、散歩に行くでござるよ」
 確かにシロの散歩は、普通の人間にはハードな鍛錬である。
「待て待て待てっ! お前は美神さんとこに住んでるからいいだろうが、ちょっとこの部屋をよーく見てみろ」
 そう言われてシロは横島の部屋をじっくりと見回す。「……うーん、殺風景でござるな」
「ああ、そうだ。ウチには必要最低限以下しかものがない。つまりエアコンなんていう気の利いたものはウチにはないんだ。
 そこへ持ってきてこの寝苦しい熱帯夜続きだぞ? いくらなんでも俺の体力が限界だ。残念だが、真夏の間は散歩は勘弁してくれ」
 体力を消耗しやすい猛暑の中、危険なGSの仕事をハイペースで行いながら、栄養満点の食事を取っているわけでも、きちんと睡眠を取っているわけでもないとなると、さすがの横島でも余計な運動をする気力は残っていなかったのである。
「そんなぁ。拙者、先生との散歩が生きがいなのに……」
「お前、こないだ美神さんにいいステーキ肉もらった時も、これが拙者の生きがいでござるー、とか言ってたじゃねえか」
「どちらも拙者の人生に欠くことのできない要素なのでござるよ」
 「お願いでござる、先生ぇー」と、シロは甘えるように横島の胸に抱きついてくる。
 これが美女だったならデレデレと鼻の下を伸ばしてなんでもいうことを聞き、犬だったら「仕方ないなぁ」と諦めて散歩に出るかもしれないところだが、美少女ではあっても横島好みというには成長が足りず、無邪気な犬と違って言葉もきちんと通じるシロには、横島は容赦なかった。
 「だから暑苦しいっちゅーとるんじゃー!」横島は自分も転がるようにして抱きついてくるシロの勢いそのまま、彼女を布団の方へ放り捨てた。
 「わぅぅ。ひどいでござるよ」身を捻って腹這うように着地したシロが恨めしげな声を上げる。
「そんな目したって駄目だぞ。お前にはこないだから何遍も言ってるだろうが。お前は体温が人より高いんだから、このクソ暑いときに引っついてこられると、こっちまで汗だくになっちまうんだって」
 そんな横島の言葉をふくれっ面で聞いていたシロだが、彼がぼそっと最後に漏らした「冬ならともかく」という言葉に食いついて、ぐいと身を乗り出してくる――きちんと言いつけを守って、ぎりぎりで横島に触れてはいない。
「それは本当でござるか!」
「ん? まあ、冬ならあったかいに越したことはないしな。ハハ、お前なら湯たんぽ代わりにもなるんじゃねえか」
「そ、そんな、先生っ。拙者、まだ心の準備が……」
「おーい、シロー。言っとくけど、その首の精霊石ネックレスは外してもらうからな。――俺はロリコンじゃねえっつの」
「えっ? そうしたら、横島先生と一緒に寝てもいいんでござるか?」
「おお、いいぞ――って、もちろん、これ冬場の話だかんな」
「絶対、絶対、ぜーったいの約束でござるよ」
「わかった、わかった。約束だ。
 その代わり、猛暑日の散歩はなしだからな」
「承知したでござる」
 暑さで脳がとろけていたのか、最近は昼夜を問わずシロが首につけているので純粋に覚えていなかったのか。
 精霊石がなくとも、夜は普通にシロが人型であることを失念している横島であった。


「やっぱりここは天国だなあ」
 キヌの作ってくれた昼食を食べ終え、クーラーの効いた事務所のソファーに寝転がった横島がしみじみと言う。
 「確かに文明の利器の力よねー」こちらももう一脚のソファーにぐてーっと寝そべっているタマモが相槌を打つ。
 短い夏毛に毛がわりしているとはいえ、必要のないときはまったく外に出ず、涼しい部屋でだらだらと毎日を過ごしているタマモは、現代に見事に適応したといえるかもしれない。
 そうして何もせずにごろごろしていた二人だが、このままここで寝ちまうのもいいかな、などと思ったところで、横島がふとタマモに訊ねた。「そういえば、シロはどうしたんだ?」
 昼前に来たときから姿が見えなかったし、もしかして一人で走り回っているのだろうか。
 食欲も満たされ、涼しい快適な室内でくつろいでいるうちに、朝の散歩につき合ってやれなかったことを少しすまなく思い始めた横島である。
「シロ? あいつなら横島がくるちょっと前まで、騒がしく倉庫を漁ってたと思うけど……おキヌちゃん、なにか知ってる?」
 ちょうど、昼食の後片付けを終えて部屋に入ってきたキヌにタマモが訊く。
「シロちゃんですか。それなら、美神さんに許可をもらって、倉庫にあったルームランナーを抱えて出かけましたよ」
「ルームランナー?」
「ええ。これなら、横島さんの横で走れるって言ってましたけど」
「あ、あの、バカ犬。なんにも分かってねえじゃねえか」
 横島は疲れたようにさらに体をソファーに沈みこませた。
 そんな横島から朝のシロとのやり取りを聞き出して、タマモも大笑いする。
「アハハ、ほんとに思考が単純なのよね、シロって。一緒に走るのが駄目なら、横島の横で自分が走ればいいだろうなんて――
 まあ、明日からはバタバタ走る騒音と、ヒーターみたいに発散される熱の横でゆっくり休むのね」
「他人事だと思いやがって……、シロのやつを説得すんの大変なんだぞ」
「ま、まあまあ、横島さん。私からもシロちゃんに話しておきますから」
「ありがとう、おキヌちゃん。俺をほんとに心配してくれんのは、おキヌちゃんだけだよ」
 横島がうっすら涙さえ浮かべてそう言う横で、タマモが呆れたように「いいかげん、クーラーぐらい買えばいいのに」とつぶやいていた。
 もっとも、タマモの方が横島よりも小遣いをもらっているのだが、彼女は彼女で時の権力者に取り入って暮らしてきた前世からの癖が抜けず――人間の転生よりは過去に引きずられ易いのも確かだが――様々なことにあっという間に浪費してしまって貯金など欠片もないので、あまり人のことはいえない。


 そうしてしばらく何もせずに居座っていた事務所から美神に追い出され、横島は自分のアパートに帰っていく。今日は除霊仕事がない――というよりも、美神が溜め込んだ書類仕事に追われていて、それどころではないのだ。
 そんな時にのんびり事務所でくつろぐ横島が、美神にとって非常に目障りだったから追い出されたということである。
「美神さんが持ってた書類に書いてあったこないだの仕事の依頼料だけでも、俺の給料十年分より多いくせに……」
 理不尽だと嘆く横島だが、給料や扱いに関しては多分に自業自得である。隣を歩くタマモにそれを指摘されてする主張が「ちょっとしたセクハラもなしで命が張れるかーーーっ!」であるあたりに、横島のGSという仕事への取り組み方がよく出ていた。
「それにしても、お前が一緒に来るなんて珍しいな。言っとくけど奢ってやる金なんかないぞ」
「いいのよ。シロがまだ横島のとこにいたらからかってやるついでに、私もたまには散歩でもしようと思っただけだから。ちょうど少し曇ってきたし」
 そうは言っても、蒸し暑さはそこまで緩和されておらず、エアコンの効いた室内から出た二人はたちまちに汗ばみ始めていた。
「ふぅ、この分じゃ、今夜もひどく暑そうだな」
 そうため息をつく横島に、タマモがいいことを思いついたという調子で言った。「じゃあ、私が燃やしてあげよっか?」
「はあ? 俺は暑いって言ってんだぞ」
 呆れたように返す横島だが、タマモは心外だという様子。
「本当に霊力以外はダメダメなのね、横島って。脳みそはこのくらい?」タマモが親指と人差し指でほんのわずかな隙間をつくってみせる。
「これでも、ちゃんと脳くらいあるわい!」
「ああ。それじゃあ、つるんつるんなのね」
「ふん、どうせ馬鹿だよ。
 ったく、何が言いたいんだよ」
 タマモはいいからよく聞きなさいと言って、指先から出した炎をジャグリングするように器用に弄んでみせながら説明する。
「燃やされたら熱いものだと横島は思ってるんでしょ。もちろん、その瞬間はそう感じるでしょうけど、ある程度以上、皮膚を焼いてしまえば違ってくるのよ。なんといっても、皮膚は保温、体温調節に大事なものであって、重度の火傷の場合は低体温に気をつける必要が――あれ? 横島、なんか怒ってる?」
「当たり前じゃーっ! 俺は涼しくなりたいだけであって、そのために重症を負ってたまるかぁっ!」
「もう、わがままね」
「俺が、かよ!」
 そんなくだらないやり取りをしているうちに、二人は横島の部屋に着く。
「あら、シロはもう帰っちゃったみたいね。どこかで行き違いになったのかしら」
「しっかりルームランナーは置いていってるけどな。ただでさえ狭い部屋がますます狭くなってら」
「そのルームランナーは別にしても、相変わらず汚い部屋ねえ。ゴミをきちんと片付ければ、少しはスペースもできるんじゃないの?」
 そうタマモは言うが、とくにたまに来るキヌが掃除もしてくれるようになってからは、以前よりさらに掃除を面倒くさがるようになった横島である。彼には女の子にあまり汚い部屋を見られたくないといった考えはないようである。もっとも、これは幽霊時代からの付き合いのキヌが相手だからかも知れないが。
「ほら、こっちのお弁当容器とか、ちゃんと片した方がいいわよ」
「……なあ、タマモ。そう言いながら、やれやれって顔で、なんで押入れから袋に未開封のきつねうどんをせっせと詰めてんだよ、お前は」
「だから……整理の手伝い?」
「それは単なる強奪っちゅーんじゃ! 貴重な食料なんだから返せよな」
 じりじりと部屋の隅に彼女を追い詰めようとする横島。隙を窺うタマモ。
「……大声出すわよ」
「なっ……そりゃ、反則だろ」
 濡れ衣も嫌だが、それよりもタマモのような少女に手を出すロリコンと思われるのは嫌な横島だった。
「ふぅ、しょうがないわね。取引しましょ」
「取引?」
 「そうよ。横島は最近の暑さに参ってるってずっと言ってたでしょ。だから私が幻覚で涼しくしてあげるわ。これはその報酬」そう言って、タマモがカップきつねうどんを詰め込んだスーパーの袋を掲げてみせる。
「おおっ、それは考えたことなかったな。そうか、幻覚でも涼しくなれれば問題ないんだよな。夜とかちゃんと眠れそうだし」
「でしょ。まずはどんなものか、試しにやって見せてあげるわ」
「うん、頼むわ」
 珍しく優しい笑顔でタマモは横島に微笑んで――


 数時間後、横島は大声で叫んでいた。
「あんのイタズラ狐ーーーっ! 誰が本気で騙せと言うたかーっ! 俺のカップめん返せーっ!」
 『吹雪く雪山で遭難しかけて簡素な山小屋で凍えている』という幻覚から復帰して、汗だくで布団に包まり縮こまっている自分に気がついたところである。
 タマモの幻覚は脳を騙している。だからそれが脳で認識されないだけで、身体の反応までは騙せないのだ。暖かい幻覚の中でも実際に寒風に吹かれていれば風邪も引くかもしれないし、猛暑の中で必死に暖を取る様な真似をすれば、非常に消耗するのは当たり前であった。
 そのままぐったりと布団に倒れこんでいた横島に、「やっぱり、タマモちゃんが何かしたんですか?」と声をかけたのがキヌである。買い物袋を片手に、タマモがきちんと閉めていかなかったドアから部屋の中を覗き込んで苦笑している。
 キヌがこうして横島を訪れたのは、タマモがほくほく顔できつねうどんの大量に入った袋を持ち帰ったから。タマモの性格から、入手先とそこで起こったであろう騒動はいろいろと想像できたのである
「夏バテしてるって聞きましたから、精のつくものでも食べてもらおうと思って」
 そう優しく微笑むキヌ。こちらはタマモの笑顔と違って、心底からのものである。
 これが美神が優しさを見せた場合だったりすると、料理の中にイモリの黒焼きだの、苦くて酸っぱくて辛い薬草の根だのが混ざるのだが、キヌの作ってくれる料理はごく一般的に栄養価が高くスタミナがつくとされているものである。もちろん味も文句なくおいしいと絶賛できるものなので、横島はたまにこうして来てくれるキヌにとても感謝していた。
 あくまで霊力回復に重きを置くのであれば、美神の方法も正しいことは正しいのだけれど、それを喜べるかは別の話なのである。


 横島は自分の布団に無防備に横たわっているキヌの身体を見ながら、ぽりぽりと頬をかく。そっと口元に顔を寄せてみると、とても静かでゆっくりとした呼吸が感じられた。
「……あのさ、おキヌちゃん。もしかしておキヌちゃんって、いっつもそうやって料理してるの?」
「たまにですねー。夏場の生活の知恵ってやつです。慣れた料理でちょくちょく味見をしなくても大丈夫な自信があるときとか、熱いお鍋の前にずっといないといけないお素麺やお蕎麦を茹でるときなんかは、けっこうよくこうやってるんですよ」
 ふわふわと流しの前に浮かびながらキヌが横島に応える。
 くてっと横たわった身体から伸びている魂の緒は、幽体離脱になれたキヌだけに、細いけれどしっかりとしたものである。
 横島がそう言うと「うふふ、私もちゃんとレベルアップしてるんです」とキヌは包丁片手に胸を張ってみせた。「今なら身体から遠くに離れてても、数時間くらいはへっちゃらなんですよー。炎天下にお買い物しなきゃいけない時は、体を涼しいおうちの中に置いといて出かけたりもするんです。幽霊時代から顔馴染みのお店じゃないと、ちょっと驚かれたりもしちゃいますけどね」
 霊力やコントロール面の向上もそうだが、美神や横島といることで生まれるこういった大胆で柔軟な発想が、一番キヌの成長している部分かもしれない。
 横島も「おキヌちゃんはすごいな」と素直に感心し、褒められたキヌもまんざらではない様子。
 ただ、「あんまり身体を怠けさせてると太っちゃうかなぁ?」と気になって、サウナスーツを着こんで密閉した暑い部屋に閉じこもってから幽体離脱し、数時間後に身体に戻ってくるという画期的な楽々ダイエット法を考案して試したところ、身体に戻った瞬間に熱中症で倒れてしまい、慌てた人工幽霊壱号に救助されたことは乙女の秘密である。


 こうして、疲れる除霊仕事もなく、キヌにきちんとした食事を作ってもらったこともあり、横島は翌朝にはシロと一緒に散歩をする――という名目で一緒にルームランナーを事務所まで持って帰らせた――くらいに体力を回復できていた。
 また横島は、この日の夜に再び予想外の差し入れをもらうことにもなる。
 持って来てくれたのは、前夜のキヌと横島の会話を小耳に挟んで――部屋が隣同士で、お互いに少しでも風を通そうと開く窓を全開にしていたから聞こえてしまっただけで、決して聞き耳を立てていたわけではない――それをヒントにした小鳩である。
 同じく母娘で暑さに参っていたので、物は試しとまずは自分でやってみて、これは使えると思ったのである。
 快眠というよりも気絶といった方が的を射ている方法だが、少なくとも身体を休めて体力を回復することには問題がなく、霊体は暑さに悩まされることもないので、横島たちは高価な冷房器具に頼ることなく、例年以上といわれたこの夏の猛暑を無事に乗り切るのだった。
 まあ、ちょっとした代償として、夏の終わり頃には「当分はサバも餡子もチーズバーガーも見たくもねえ」という心境になっていたそうであるが。


 私の書くペースだと間に合わないだろうな、と最初からわかっていたので、夏企画用だったとはいえないただの時期外れな話。

[mente]

作品の感想を投稿、閲覧する -> [reply]