抜けるような青い空に、真っ白な入道雲。
長かった梅雨もようやく終わり、ギラついた太陽が周囲の景色を夏一色に染め上げている。
朝の通学路は容赦のない日差しに灼かれ、すでにかなりの温度に達していた。
「暑いわね。全く・・・・・・」
天気予報の長期予報によれば、どうやら今年の夏は記録的な猛暑らしい。
爽やかという表現とはほど遠い、刺すような日差しを浴びながらの登校に、私はつい暑さへの不平を口にしてしまっていた。
「澪先輩。今日、ソレ言うの7回目です」
「だって暑いんだもの。仕方ないじゃない! 記録的な猛暑よ! 記録的な! アンタだって暑いって思うでしょ!?」
「こんな日差し、ビックサイトに比べたら涼しいくらいです」
「涼しいって・・・・・・」
全く暑さを感じていないかの様なパティに、私は二の句が継げなかった。
某イベントで鍛えられているせいか、この娘は暑さに対する耐性がどこかおかしい。
いや、おかしいのは暑さに対する耐性だけじゃないんだけど・・・・・・
普通の感性を求め、私は後ろを歩いていたカズラとカガリに視線を向けた。
「暑い日に『暑い』って言ってナニが悪いのよねぇ?」
「あはは、確かに言いたくもなるわよね。それに、記録的な猛暑ってフレーズって毎年聞いている気がしない? ボージョレーヌーボーの宣伝じゃあるまいし」
「でしょ? 季節にメリハリがあるのは好きだけど、流石にここまで暑いとうんざりだわ。あー暑い暑い暑い!!」
「澪・・・・・・今は俺たちだけだからいいけど、少佐の耳に入りそうな所で言うなよ。もう南極はゴメンだ・・・・・・」
「うわ、ナニその顔。ひょっとしてアンタ2年前のがトラウマになってるの?」
「カガリ寒がりだものね・・・・・・」
露骨に顔を歪めたカガリに、南極旅行中の彼を思い出したのかカズラがクスリと笑う。
私よりも少し後にパンドラ入りした2人は、所謂幼馴染みというヤツだった。
「アレは寒いというレベルを超えている・・・・・・」
「いーじゃん。その分、アンタ熱さに強いんだから! この炎天下に汗一つかかないし」
「そういう問題じゃない!」
発火能力者のカガリは熱さを感じにくい。
水に弱いという弱点はあるものの、この季節に制汗剤いらずの体は正直羨ましい。
そんな私の軽口に、南極で死にそうな目に合ったカガリが若干切れ気味の反応をしたのだが、全く怖くない。
傍目にはクールなこの男は、何を隠そうパンドラ内部では、真木さんの後継者と言われているいじられキャラなのだ。
「まあ、確かに私も南極は二度と御免かな。明日からの夏休みを有意義に過ごす為にも、もう『暑い』は禁句にしましょう」
「決まりですね。破ったら帰り道でアイス奢りというのはどうです? しかもダブルで」
「ちょ! パティ、あんたナニ勝手に決めてんのよ!」
「夏のイベント行けなくなるの困りますから・・・・・・」
冗談じゃなかった。
頭脳明晰な私にはわかる。
コレは明らかに罠だ。
熱さを感じにくいカガリに、暑さにおかしな耐性のあるパティ。そして低レベルながらもサイコメトラーであるカズラ。
そんな3人が私からアイスをせしめようとしている。
―――このままでは私が不利。ここは一つあのバカを巻き込んで・・・・・・
私の頭脳が目まぐるしく回転する。
こういう場合には、自分よりも先に『暑い』というヤツを巻き込めばいい。
私の目は前方を歩く3人の姿をとらえていた。
「んじゃ、あいつらも巻き込みましょうよ! おーい薫!!」
あのバカの事だ、3歩も歩けば賭のことなど忘れ『暑い』を連発するに違いない。
自分の思いつきにクククと笑いながら駆け寄った私は、薫たちの頭に
人形の目印を見つけ派手にずっこけるのだった。
――― 世界で一番暑い夏 ―――
「アンタって、よく考えると凄く便利よね・・・・・・」
女子更衣室
私は心底感心したように、大掃除に勤しむ薫たちの
人形を眺めていた。
教室以外の清掃は通常業者任せの六中だが、教育効果云々のため年に何回かは生徒に大掃除させる。
クラスに割り当てられた女子更衣室の清掃は、流石に男子にはさせられないとの事で急遽選抜チームが指名されたのだが、そのメンバーは影チル3人こと『中の人』にパティと私。
『中の人』が男子であることはめんどくさいのでスルーしている。
ちなみにカズラはカガリと共に現在教室の清掃中だった。
「何を今さら・・・・・・去年から薫ちゃんたちが任務の時は、ちょくちょく代わっていただろ?」
「いや、そう言うんじゃなく。3体とも掃除がキチンとできているからね・・・・・・皆本に甘やかされてるから、あの子たち掃除がヘタなのよ」
「あ、そういう意味ね。薫ちゃんたちの評価は落とせないから、掃除もちゃんとやるようにしてたけど・・・・・・リアリティ無かった?」
「薫は基本ガサツかな。サボる訳じゃないけど・・・・・・」
「紫穂は隙あらばサボろうとします」
「隙あらば・・・・・・って、アンタは人のこと言えんだろ! 今だってロッカー上に置きっぱなしだった漫画読んで!!」
唐突に会話に加わってきたパティに『中の人』がツッコミを入れた。
それもそのはず。パティは女子更衣室について早々、ロッカーの上に放置されていた少女漫画に掃除もそこそこにのめり込んでいる。
「いや、普段は読まないんですがつい珍しくって・・・・・・」
「そうよね。アンタ普段は少年誌専門だし」
「少女漫画ってページがめくりづらいんですね・・・・・・なんででしょう?」
「そりゃ、少年誌より『厚』・・・・・・ッぶねー! アンタ卑怯よ!!」
何気ない会話に組み込まれた『禁句』に、間一髪気付いた私は慌ててその言葉を呑み込んでいた。
「はて? 何のことでしょう?」
「とぼけんじゃないわよ! 今、さりげなく『暑』・・・・・・だぁぁぁぁっ!! と、とにかく禁句を言わせようとしたでしょッ!!」
「チッ・・・・・・軽い冗談ですよ」
「うわ。ナニその舌打ち。アンタ、ガチで勝ちに来てるでしょ!!」
パティの目は獲物を狙うハンターのソレだった。
いや、本当のハンターなんて見たこと無いけど、多分狙われた雉はこんな気分だろう。
雉も鳴かずば撃たれまい。
ならば鳴かなきゃいいのよね。
「おほほほ・・・パティさん。冗談はそれくらいにしてマジメに掃除をするですわよ!」
会話を打ち切るように宣言すると、箒を手にまだ掃除の済んでいない奥へと移動する。
頭脳明晰な私は、掃除に集中することで無言を貫くことにしていた。
まさに一分の隙もない完璧な作戦。
シャカシャカと箒を動かしながら長椅子の側を通った時、コツリと何かがぶつかる手応えが伝わって来た。
「?」
予知能力を持たない私だが、不思議な程その手応えが気になっていた。
意識をそこに向けると小さな手帳が知覚できる。
一瞬、テレポートで引き寄せようともしたが、薫の顔が浮かんだので止めておく。
学校では超能力を使わないというアイツとの約束を、私たちは転入して1年経とうとしている今も守り続けている。
「ん・・・っと」
膝を床につけ、床に胸がつかないよう左手で体重を支えながら、長椅子の下へと右手を伸ばす。
壁に寄せるように配置された長椅子の、丁度足の影に隠れるようにその手帳はあった。
「先輩。見えてます・・・・・・」
「うっさい! 見んな。バカ!!」
パティの声に怒鳴りつつ、最後の一伸びで手帳をしっかりと掴む。
おそらく持ち主が落としてからそう時間は経っていないのだろう。
可愛らしいキャラクターが描かれた手帳には、埃などはついていない。
すっくと立ち上がり、振り返った背後にはパティの姿しかいなかった。
バタバタと逃げるような3人分の足音は、この際聞かなかったようにしよう。
「何です? 急に這いつくばって・・・・・・」
「コレよ。コレが落ちてたの」
「手帳ですか・・・・・・誰のでしょう?」
「中を見ればわかるでしょ・・・・・・」
手帳をペラペラとめくり始めた私に、パティも興味深そうに近寄って来る。
小さな丸っこい字で書かれたメモは、本当にとりとめもないものだった。
私は持ち前の推理力を発揮し、書かれたメモから落とし主をさぐり始める。
「可愛らしい文字・・・・・・落とした子は多分女子ね」
「そりゃ、女子更衣室に落ちてましたからね」
「クッ・・・・・・まだわからないでしょ! 入り込んだ変質者が落としたかも知れないじゃない!!」
「いや、ソレはかなりの無理・・・・・・!」
手帳の数ページ目に書かれていた情報に、ページをめくっていた指先が止まる。
そこには私たちに関係のある地名が記入されていた。
「これは・・・・・・」
「ええ。ロビエト大使館ですね。それも地番まで正確に・・・・・・」
予期せぬ・・・・・・いや、これを予感したからこそ、私はこの手帳のことが気になったのだ。
言いしれぬ不安が足下からジリジリと這い上がってくる。
気を緩めると震えだしそうな指先で次のページをめくった時、私は自分の予想が当たっていることを確信する。
次のページには私たちの、特にカガリに関する情報が書き込まれていた。
火野カガリ・・・・・・玉置カズラ、筑紫澪、パティ・クルーとは兄妹。
低レベルのエスパー。
住所はロビエト大使館。
毎朝電車とバスで登校。
星座、血液型、趣味、好きな音楽・・・・・・
私は食い入るように手帳に書き込まれたカガリのデータに目をとおす。
これだけ詳細に調べ上げるには、かなりの期間注意深くカガリを観察していたのだろう。
私たちに存在を一切気取らせず、これだけの調査を行う人物とは一体何者なのか?
「これは、また随分と王道な・・・・・・」
茫洋としたパティの呟きが耳に障る。
この娘は、まだ生じている事態の大きさに気付いていない。
「ナニ呑気なこと言ってるのよ! カガリが狙われてるのよ!!」
「あー。そうとも言いますね。カズラ先輩に教えますか?」
チラリと影チルに視線を向けると、『中の人』は慌てて視線を逸らした。
チッ。やっぱりあの時・・・・・・・
しかし、それなら後を任せても文句は言わないだろう。
「当たり前でしょ! 行くわよパティ!!」
そう言い捨てると、私は一目散に教室へと駆け出した。
教室に戻ると大掃除はほぼ終了していた。
クラスの子たちは移動させた机を元に戻し終え、大掃除終了のチャイムが鳴るまでの間それぞれの友人たちと談笑している。
教室の隅にカズラを見つけた私は、そこにカガリの姿がないことに顔色を変えた。
「カズラッ! カガリはどこっ!」
「え? どこってゴミ捨てだけど・・・・・・ジャンケンに負けたから」
「何で1人で行かせるのよ! 危ないじゃない!!」
「は? ナニ言ってるの澪。アンタまた何か悪い物でも食べたの?」
「笑い事じゃないの! カガリが・・・・・・チッ」
周囲には東野やちさとがいる。
私たちがパンドラの高レベルエスパーであることは知られたくなかった。
しかし、事態が急を要するのは明らか。
緊急事態だからこれくらい薫も許してくれるだろう。
というか、あのバカも仲間の危機には率先して能力を使う筈だ。
私は躊躇わずにカズラに超能力の使用を促す。
「これ
視て。そうすりゃ分かるから」
「
見ればいいのね・・・・・・」
紫穂の様には行かないが、カズラのサイコメトリーも接触することである程度の情報を読み取れる。
手帳をめくったカズラの顔色が変わるのを見て、私は彼女に今の事態が伝わったことを理解した。
「・・・・・・・・・」
「その顔は分かったようね・・・・・・すぐにカガリを見つけてガードするわよ」
「はぁ? 何で私が?」
「ちょ! ナニ言ってるのカズラ!?」
私はカガリの危機に関心を示さないカズラに、素っ頓狂な声をあげていた。
付き合いの古いカズラは、真っ先にカガリの為に動くと思っていただけにその驚きは大きい。
いや、その反応のあまりの素っ気なさは、軽く怒りを覚える程だった。
「アンタ、正気なの!? その手帳にはカガリの・・・・・・」
「俺がどうかしたか?」
「カガリ!」
ゴミ捨てから帰ってきたカガリの声に、私はつい安堵の表情を浮かべてしまう。
振り返った先には、いつもの飄々としたカガリの姿があった。
「アンタ無事だった!? ナニも変なことなかった」
「変な事って・・・・・・何でお前がそれを。っと、その手帳はまさか・・・・・・」
「アンタ、この手帳が何なのか知ってるの!?」
カガリが自身の情報が書かれた手帳の存在を知っている!?
予想もしなかった事態に、私は混乱を隠せなかった。
状況を整理するために思考をフル回転させるが、認識が追い着いていかない。
「ああ・・・・・・今、ちょっとな」
カガリの様子は何処かおかしかった。
しかし、混乱の極みにある私は、その点について質問を口にすることはできない。
そんな私を他所に、カズラは手に持っていた手帳をカガリに押しつけるのだった。
「そう・・・・・・。はい」
その時カズラが浮かべていたのは初めて見る表情だった。
感情を無理に抑えたお面の様な表情。
そんなカズラの態度に、カガリも戸惑いの表情を浮かべる。
「おい、カズラ!」
「良かったじゃない。勝手にすれば」
良かった? 何で?
一連の流れに、私は完全に置いて行かれていた。
カズラは表情を隠すように後ろを向くと、そのまま自分の席に着き、ふて腐れたようにパティが持ってきた漫画を読み始める。
一方、カガリは困ったように頭を掻いてから、小さく溜息をつくのだった。
「なぁ、東野・・・・・・ちょっと付き合ってくれねえか?」
「ああ、別にいいけど」
「ちょっと。どこに行くのよ」
「トイレだよトイレ。付いてくるなよ!」
ぶっきらぼうな一言を残し、カガリは東野とともに教室を後にする。
私には分かる。カガリは何か隠している・・・・・・
そして、ソレにはあの手帳が関係しているらしい。
付いてくるなですって!? ヒトにさんざん心配させてナニよその態度は!
その一言にカチンと来つつも、私は急いで彼らの後を追った。
カガリと東野が向かったトイレは、裏門から窓が確認できる位置にあった。
裏門にぴったりと背中を合わせた私は、自分の右耳を隠すように掌を当てる。
これで誰が見ても物思いに沈む女子中学生にしか見えないだろう。
念のため周囲に目を配ると、近くに立っていたパティと目があった。
「パティ・・・・・・アンタも来たの?」
「ええ、おも・・・・・・いや、心配ですから。ところで、先輩は学校から出て何をやるつもりなんですか?」
期待に満ちた目で答えを待つパティに、私は軽く溜息をついた。
全く、この娘は緊張感に欠ける。
仲間への危機―――カガリに起こりつつある謎の事態の解明に決まってるじゃない。
「情報収集よ! ここならギリギリセーフでしょ?」
「は? セーフとは?」
「あのバカとの約束よ。全くめんどくさい・・・・・・」
悪態をつきつつ、私は自分の耳を男子トイレへと転送させる。
「ホラ。ここなら学校外でしょ。そして今は登下校中でもないし・・・・・・名付けて壁に耳あり作戦!」
「プッ。流石、澪先輩・・・・・・」
「シッ! 2人が来た! アンタにも教えてあげるから黙ってなさい!!」
私は何か言おうとしたパティを黙らせる。
転送させた耳の感度は良好。
パタパタという上履きの音が2人分聞こえてきた。
『火野。なんかあったのか?』
最初に切り出したのは東野だった。
コイツは何故かカガリと馬が合うらしく、転入早々から友だちになっている。
『ああ、さっきゴミ捨てに行ったとき女子に呼び止められてな・・・・・・放課後、校舎裏に呼び出されちまった』
『呼び出し!? ずいぶんと穏やかじゃねえなぁ・・・・・・なんか酷いことでもしたのか?』
『ちげーよ! なんか、その、告白されるらしい』
「何ですって! そんなコト聞いていないわよ!!」
予想外の事実に、実況中継中の私は驚きの声を発していた。
「澪先輩落ち着いて! 多分、ソレ以外の想像してたのって先輩だけですから」
「え? 私だけって・・・・・・」
「いいから! 続きを早く!!」
「・・・・・・東野が、『え! マジで!』、んで、カガリが『冗談じゃこんなこと言わねえよ。どうやらコイツのせいだ・・・・・』って」
ヤバイ。思考がグルグルして、自分で喋っていることが良く分からない。
パティの妙な迫力に押され、私は忠実にカガリと東野の会話を意味も分からぬまま再現していた。
『手帳? なんだよソレ』
『俺のこと好きな娘が無くしたんだと。で、探したけれど見つからない・・・・・・俺を呼び止めたお節介な女友だちが言うには、誰かに拾われる前にってヤツらしい』
『うわ・・・・・・それがあのタイミングでお前の元にか? 信じられねえ』
『全く・・・・・・。で、ものは相談なんだが、参考にお前の話を聞かせてくれないか?』
『へ? お、俺の? 俺のナニが?』
『頼む。マジで困ってるんだ・・・・・・俺の周りに、この手の相談できるヤツってお前しかいねえんだよ』
『わかったよ・・・・・・俺とちさとの事を話せばいいんだな?』
『ああ、お前たちがどうやって付き合い始めたかを・・・・・・』
「ええぇぇぇぇぇぇぇぇっ!! あの2人、付き合ってんの!?」
衝撃の事実に私は驚きの声をあげていた。
ただの幼馴染みだと思っていたら、いつのまにか付き合っていた東野とちさと。
そして、その秘密の関係に気付いていたカガリ。
この驚きを共有しようとパティに視線を向けるが、返ってきたのはまるで可哀想なモノを見るような視線だった。
「・・・・・・あれ? ひょっとして知らなかったの私だけ?」
「多分・・・・・・薫さんですら気付いていると思います。最近ちさとさんにセクハラしませんし」
「うわ。ナニよそれ! アイツより私の方がニブイって言いたいワケ? 大体、アンタたちも水くさい・・・・・・」
「先輩。それよりも話の続きを・・・・・・」
教えて貰えなかった不満を口にしようとした私の唇が、パティのしなやかな指先で塞がれる。
悔しいことに、この娘の仕草には女の私でも逆らいがたい魅力があった。
「わかったわよ・・・・・・その代わりあとでちゃんと教えなさいよ! えーっと、東野がどこから話したものか迷ってるわね。んで、カガリが慌て無くっていいって。一旦休憩するみたいね・・・・・・ん? 『ジー』って・・・・・・・ナニごそごそやってるのかしら? そして『じょぼぼぼぼぼぼぼ・・・・・・』 じょぼぼぼぼ? ッって最低ッ!!」
直に聞いてしまったおぞましい水音。
その正体に気付いた私は慌てて耳を戻し、ハンカチでゴシゴシと擦るのだった。
「どうしました?」
「どうしたも、こうしたも無いわよ! アイツら何でトイレでおしっこなんかしてんのよ! ホント、もう最低!!」
「いや、本来そういう所ですし・・・・・・聞いちゃったんですか?」
「思い出させないの! あ”ぁぁぁぁぁ・・・耳が腐る!!」
「プププ。本当の意味で”腐る”と」
「笑い事じゃないわよ! あー、もう盗み聞きは止め、止め! ホント、最初から告白だって知ってたらこんなコトはしなかったわよ!」
力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ私は、恨みがましい目でパティを見上げる。
彼女が時折浮かべる得体の知れない笑顔が、殊更疲労を感じさせた。
「全く・・・単にカガリのファンの手帳なら、最初からそう言ってくれればいいのに。紛らわしい」
「紛らわしいって・・・・・・一体、何だと思ったんですか?」
「え? ホラ【普通の人々】とかが、カガリを狙って・・・・・・」
「そっちの発想の方がレアですって。去年、あんだけ痛めつけたんですから、しばらくは平気でしょう」
「それもそうか・・・・・・でも、良かった。実を言うと、さっきカズラがカガリのことを心配しなかったのがショックだったんだよね。あれ? だけど、それじゃ何でカズラはあんな態度とったんだろ?」
「そりゃ、好きな子を別の娘が狙っていればああなりますって」
「なんだ、そういう・・・・・・えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
カズラがカガリのことを好き!?
この日何度目かの、そして最大の衝撃的事実だった。
「マジで!? だって、カズラっていつもカガリのこと怒ってばっかりじゃん! ちさとと東野みたいに・・・・・・あ!」
私の頭の中でようやく全ての状況が繋がりはじめる。
必要以上にかまう女子と、それを煩がりつつも受け入れる男子。
それが典型的な幼馴染みの姿だと思っていたが、どうやら2人の間に一定以上の好意がないとそうはならないらしい。
そういう事に気がつかなかった自分のニブさに、私は今さらながら顔が赤くなる思いだった。
「・・・・・・それならば、カガリもカズラのことが好きなのかなぁ?」
私は自信なさげにパティに問いかける。
自分が好きな2人が両思いになる。
それは私にとってとても嬉しいことだった。
「さあ、それは私にも分かりません」
「何でよ!? ニブイ私とは違って、あんたそう言う部分に鋭いんでしょ!」
「ホラ、私はカガリ先輩や東野君をフィルター通して見ちゃってますから」
「今すぐ外しなさいって! そんなフィルター!!」
「まあ、普通に見てても気付かないんじゃないですか? ウチでそんな素振りを見せたら葉兄さんの餌食でしょうし」
「あー、それは確かに・・・・・・でも、東野に相談したってことは、幼馴染みと付き合う気になったってことでしょ?」
「ノーマルとエスパーが付き合うにはどうしたらいいか・・・・・・かも知れませんよ」
「あ・・・・・・」
パティの言葉に、私は考えない様にしていた未来を想像してしまった。
カガリがカズラの思いに気付かず、他の誰かを好きになってしまう未来。
パティが付いてきたのもそれが心配だったのだろう。
今の呟きには、いつも飄々としている彼女らしさは無かった。
重い沈黙を打ち消すように、掃除終了のチャイムが鳴り響く。
これから何をするべきか考えをまとめられないまま、私たちは教室へと戻るのだった。
終業式、HRと何事も無く時間が過ぎていた。
二期制のため通知表の配布はなく、夏休み中の諸注意だけの盛り上がりに欠けるHRもそろそろ終わる。
相変わらずふて腐れたままのカズラと、チラチラと時計に目をやり時間を気にしているカガリ。
私とパティは、あれから2人に声をかけられないでいた。
ふと、薫ならこんな時どうするか考えるが、すぐにその考えを頭から振り払う。
私は薫じゃない。そしてカズラとカガリは私の大切な仲間なのだ。
「はい。それではみなさん。水の事故とかに気をつけて、楽しい夏休みを過ごしてくださいね」
考えがまとまらないうちに担任が口にした最後の挨拶。
その直後にかかる号令が、みんなが待ち望んでいた夏休みの始まりを告げる。
瞬時に広がった開放的な喧噪が、ほんの少しだけ私に勇気を与えていた。
「あ、あのさ!」
まだ何も言うことを決めていない制止が、カガリとカズラを振り向かせる。
しかし、脳をフル回転させて紡いだ言葉は、情けないほどの現状維持案だった。
「折角夏休みなんだし、帰りにみんなで何処か寄らない?」
今日、カガリが告白を聞かずに帰りさえすれば、何も変わらずに夏休みを迎えることができる。
私は祈るような気持ちでカガリの答えを待った。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・悪い。ちょっと用事があるんだ。今日は先に帰っていてくれ」
カガリはそう言うと、私たちを振り切るように廊下に出て行ってしまった。
柔らかな。しかし、確かな拒絶に私は言葉を失う。
放課後の喧噪から取り残されたように、私たちの間に重苦しい沈黙が広がっていった。
「・・・・・・んじゃ、私たちだけで帰りましょうか! カガリもああ言っていたことだし」
気まずい沈黙を破ったのはカズラだった。
カズラは張り付けたような笑顔を浮かべると、教室を出て昇降口に繋がる階段の方へと歩き出す。
私とパティはカズラにかける言葉を見つけられないまま、ただ彼女の後を付いていく。
帰宅する生徒で混雑した廊下を抜け、階段を下り、昇降口で靴の履き替えを行う。
その間ずっと自分にできることを考えていたが、情けないことに良い考えが全くと言っていいほど浮かばなかった。
「で、何処に寄るの?」
「え?」
ローファーのつま先をトントンと地に打ち付けつつ、カズラが口にしたのは不意打ち気味の質問だった。
完全に虚をつかれた私は、すぐにはその質問に答えることが出来ない。
「え? じゃないわよ! さっきアンタが言ったんでしょ。帰りに何処かに寄らないか・・・って」
「ああ・・・そうね。カズラは何処がいい?」
「執事喫・・・・・・」
「パティ案は却下!」
既にお約束となっているやり取りに、カズラの口元が緩む。
普段なら何でもない事だったが、私は胸に安堵が広がっていくのを感じていた。
「じゃあ、洋服を見た後、アイス屋さんにでも寄りましょうか? 澪が『禁句』を口にしてないのが残念だけど・・・・・・」
「いや、もう少し揺さ振れば可能性が・・・・・・」
「絶対に言わないって!!」
約一名はマジかも知れないが、私は他愛のない会話に心底安心していた。
カズラはいつもの彼女に戻っていた。
カガリも告白を受け入れたりはしないだろう。
明日からは全て元通り。
また、みんなで変わりなく仲良くやっていける。
ケラケラと笑いながら昇降口を出た時、私は今の考えが間違っていたことに気付いた。
薄暗い昇降口では笑顔に見えたカズラの表情が、日差しの眩しさに一瞬だけ歪む。
その顔はまるで泣いているようだった。
夏の日差しがはぎ取ったカズラの嘘。
私たちに心配をかけまいとする気遣いが胸を締め付ける。
「ダメだよ・・・・・・」
「え? アイス屋さんは嫌?」
「違うッ!」
私は感情を爆発させていた。
咄嗟にカズラの手を掴むと、校舎裏を目指し走り出す。
自分でもその行動が正しいのかは良く分からない。
しかし、私は走らずにはいられなかった。
「ちょ! 澪、何する・・・・・・」
「アンタ、カガリのことが好きなんでしょ!」
「な! なにを・・・・・・」
「ゴメンね。気付いてあげられなくて・・・・・・でも、このまま帰っちゃダメ! 帰ったら絶対に後悔すると思う」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
誰かを好きになることが、どんな事なのか私にはまだ分からない。
だけど、このままカガリを置いて帰るということは、自分の気持ちを諦めるに等しいような気がしていた。
「勇気を出してカズラ・・・・・・私とパティが付いている」
もしも、この行動でカズラが傷ついたら一緒に泣こう。
怒ったのなら全力で謝ればいい。
次の角を曲がれば校舎裏が見えてくる。
私は告白の場に乗り込んで、カズラにも告白させるつもりだった。
「はい。ストップ!」
「キャッ!」
曲がり角に近づいた時、植え込みの影から東野が飛び出してくる。
急制動が功を奏し、私は間一髪で東野の胸には飛び込まずに済んでいる。
しかし、私たちの乱入は完全に出鼻をくじかれた形でその勢いを失っていた。
「なによアンタ! 邪魔する気?」
「乗りかかった船だからな・・・・・・」
「まさか・・・・・・カガリに頼まれたの? 私たちが乱入しないようにって」
「いや、完全に俺のお節介。乱入とかされて予想外にこじれると、纏まるもんも纏まらなくなるしな」
「どういうことよ?」
「男の約束だから言わない。でも、まあ、アイツのこと信じて待ってろってことかな」
東野はそういうと先程までいた植え込みの影を指さす。
私の目を見て話しているということは、私にそこから確認しろということなのだろう。
植え込みの影から恐る恐る校舎裏を覗くと、数名の女子に見守られる中、1人の女子に深々と頭を下げるカガリの姿が目に入った。
よく見るとその女子の手には、先程の手帳が握られている。
カガリは何事か話している様だったが、私の位置からはカガリが何を言っているのは聞き取れない。
しかし、泣き始めた女子を見て、私はカガリがその女子からの告白を断ったことを理解した。
「カズラ・・・・・・良かったね」
「え? それって・・・・・・」
私は植え込みから離れると、顔を輝かせたカズラがその光景を見ないように、さりげなくもと来た方へと誘導する。
望み通りの結果なのに、素直に喜べないのは泣いている女子を見てしまったからだろう。
ふられた娘に、一緒に泣いてくれる友だちがいることが救いだった。
「うん。カガリ、付き合う気無いみたい」
「それじゃ俺帰るわ。ちさと待たせてるし・・・・・・」
私たちが状況を理解したのを確認すると、東野はそそくさとこの場を立ち去ろうとする。
一瞬、私たちも一緒に立ち去ろうとしたが、ちさとに悪いので止めておく。
いくら私がニブくても、それぐらいの判別は付いた。
「東野」
「ん?」
「ありがとね」
その言葉には、お礼と、もう大丈夫という2つの意味を込めたつもりだった。
東野は安心したように笑い、そのまま私たちに背を向け軽く手を振ってから歩き出す。
私たちは東野の姿が見えなくなるまで、その後ろ姿をずっと見送っていた。
「ったく・・・・・・騒がしいと思ったら」
東野の姿が校舎の影に隠れるのを見計らったように、背後からカガリの憮然とした声が聞こえた。
別段驚きはしない。東野について行かなかったのは、この場でカガリを待つ気になっていたからだった。
ビクリと肩を竦ませたカズラを庇うように位置を変えると、私は極めて自然に再会の挨拶を口にする。
「あら、カガリさん。こんな所で奇遇ですわね」
「わざとらしいんだよバカ」
カガリはぶっきらぼうにそう言うと、私の脇をすり抜けカズラの前に立った。
「アイツ・・・・・・東野から聞いたのか?」
「東野君から? 何を?」
「分からなければいい・・・・・・」
カガリはそれっきり黙り込み、私たちを置き去りにするように歩き出す。
東野とカガリの会話を思い出した私は、湧き上がる笑みを堪えるのに必死だった。
「待って! カガリ、怒ったの?」
「・・・・・・・・・・・・」
カズラの呼びかけにカガリは答えない。
ただ黙って正門に向かい歩いて行く。
だが、決して早すぎずカズラを置いていくことのない歩調は、何かのタイミングを計っているように見えた。
パティの手を引き、私はほんの少しだけ2人との間に距離を置く。
正門まではあと数歩の距離。
私の心の中では、期待を込めたカウントダウンが始まっていた。
「!」
それはほんの些細な動きだった。
正門を通過した瞬間、僅かに歩みを遅らせたカガリがカズラの手を握りしめる。
一瞬、驚いたように歩みを止めたカズラは、その後カガリに手を引かれ歩き出す。
何度も肯き、空いている左手で何度も涙を拭いながら。
この間、2人の間に言葉のやり取りは無かった。
カガリがカズラに何を伝えたのかは、2人だけの秘密にすればいい。
歩みを止めた私は、遠ざかる2人を見てこう呟く。
「あっついわねー! もう見てらんないわよ全く」
「あ! 澪先輩。禁句・・・・・・」
「言っちゃったわね。でも、聞いたのアンタだけだから、奢るのはアンタだけね」
私は回れ右するとカズラたちとは反対側に歩き出す。
目当てのアイス屋はバス通りから少し離れた場所にあった。
「ホラ、はやくこっちに来なさい! アイス奢ってあげないわよ! あーアツイ! アツイ!」
「あ、また言った! トリプル奢って貰いますからね!」
ようやく意味が通じたのか、パティが小走りで追いかけてくる。
彼女にしては珍しい笑顔に、つい私も笑みがこぼれた。
「いいわよ別に。私、『暑い』夏が好きだから! 大体、何で夏に『暑い』って言っちゃいけないのよ! 『暑い』って夏への誉め言葉でしょ?」
「・・・・・・先輩って時々天才ですね。それじゃ、私、先輩の分を奢りますよ。私も今年の夏はアツくなって欲しいから」
「時々は余計よ! あーアツイ!」
それから私たちは何度も『暑い』を口にしながらアイス屋を目指す。
店についたら、アイスを食べながら葉兄対策を考えよう。
私はギラついた太陽を見上げ、もっと頑張れと声をかける。
2人が迎える世界で一番暑い夏の為に。
――― 世界で一番暑い夏 ―――
終
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