1950

【M6夏企画】夏色散歩

 拙者は犬塚シロ。由緒正しき人狼族の末裔でござる。
 得手は霊波刀。いずれ父上のような立派な剣士となるべく日々修行を欠かさず行っている。
 それで、今日拙者は、師匠である横島先生にいつもの朝の鍛錬をお願いしに参ったのでござる。

 と、いう訳で


「ねぇねぇ先生〜、散歩に付きあって欲しいでござるぅ〜
 ねぇてばぁ〜、先生ぇ散歩! 散歩サンポさんぽ!!」
「だあぁ〜暑苦しい! エアコンもねーのにひっつくんじゃねー!!」


 夏は先生に鍛錬してもらうのも一苦労でござる。



                 ――夏色散歩――



 ここは横島のアパート。確かに事務所のクーラーの様な気の利いた物は無く、今にも止まりそうな古い扇風機が湿気を含んだぬるい空気をかき回しているだけ。
 外はまっさらな晴れで、毎日が元気印なシロ好みのいい天気。これから気温もどんどん上がりそうだ。

 とりあえずシロは言われた通り先生の背中への頬ずりを止めて、改めて正面に向き直る。

「それじゃ散歩行こっ!」
「いきなり結論を出すな。今日はダメだ」
「えぇ〜、何ででござるか……」
 シロは頬をぷうっと膨らませ唇をとがらせる。

(こんなにプリチーな拙者と先生はお出かけしたいはずでござる)

「あのな、よもや昨日俺を殺しかけたのを忘れたんじゃないだろうな」
「むっぐ……」
 狼のような鋭い眼で睨まれて、シロはその獲物のごとく居竦む。

(うぅ、立場が逆でござるよ)

(だって先生はとても強い方でござろう。だからその……たかが炎天下で5時間散歩するくらいどうってことないと思ったんでござるよ。
 まさか真っ赤になって泡を吹くなんて、直射日光は恐ろしいでござるな)

「で、でもちゃんと罰は受けたでござるよ。
 昨日は美神殿に残りの半日を物置に閉じ込められて、とっても息苦しかったでござる。
 だからその欲求不満を解消するためにも散歩に行こっ!」
「学習能力が無いのかお前は!? 俺は療養中なの。行きたきゃ一人で行ってくれ」
 そうムスっと言い放つと、先生は拙者に背を向けてだいぶ薄くなった麦茶をチビチビ飲み始めてしまった。

 すると、シロは急に悲しくなってしまった。
(確かに先生を随分な目に遭わせてしまった。でも悪気はなかったんでござる。
 ただ先生と散歩するのが楽しくて、ちょっと周りが見えなくなって……
 もしかして、先生は拙者が嫌いになってしまったのだろうか……)

「あ〜もう、何で物置の中よりもシュンとした顔なんだよ!」
 シロの方をチラチラ肩越しに見ていた横島が、麦茶を一気にあおってコップを乱暴に置く。
「日がこれから真上になる今はさすがに散歩はしたくねぇ。だけど夕方涼しくなってからなら付きあってやってもいいぞ。
 これで勘弁しろ。な?」
 頭をガリガリ掻きながら言ったその一言で、シロはぱぁっと表情を明るくした。

「本当でござるか!? 先生、大好き!」
「だーかーらー、くっつくなゆうとるやろがっ!!」


「じゃ、行ってくるでござる」
「結局一人で行くんかい」
 玄関で横島のツッコミを聞きながらシロは靴紐をしっかり結ぶ。

(朝の散歩は拙者にとって生きがいでござる。先生との散歩は夕方までとっておいて、まずは一人で散歩を満喫することに決めたのでござる)

「まったく、毎日散歩してよく飽きないよな」
 横島が不思議そうに呟くと、シロはにこにこしなら散歩の魅力を少し語る。
「散歩は素晴らしいでござる。体を鍛えると同時にあり余るエネルギーを発散できるのでござるよ。
 特に今日の様な日は、陽の光を体一杯に受け止めて走り回るのが筋ってもんでござろう」
「太陽の申し子か、お前は」

「それに、毎日違った景色が楽しめて飽きないでござる」
「あん? 散歩コースは毎日ほぼ一緒だろ」
 先生はさらに怪訝そうな顔をする。
「んふふ、先生は案外周りの景色が見えてないのでござるなぁ」
 そう言うとシロは目の前の扉を開け放つ。

 目に飛びこんできたのはアパートの庇越しでもわかる強い日差し。まだ東に傾いている太陽がガラス窓や瓦屋根をピカピカに照り返させているのだ。
 前に真っ直ぐ抜けるような空は青く広く、白い雲とそこかしこの庭木や街路樹の濃い緑が見事に調和していた。
 夏の朝はどこか洗練された大人しさがあるが、それはこれから始まる快活な一日の静かな前奏曲のようなものなのかもしれない。
 しかし、前奏も長くは続かない。一年で最も太陽が降り注ぐ季節は、早くもにぎやかな喧騒という音楽を奏でる。
 目の前の通りを小学生が何人かはしゃぎながら歩いている。背中の荷物から察するに、これからプールへ向かうのだろう。
 その嬉しそうな声に負けないみんみん蝉やアブラ蝉の鳴き声、どこからか流れてくる風鈴の涼しげな響き。車の音も少し混じっている。
 BGM付絵画のようなそれは、毎年恒例の地軸の傾きと太陽が織り成す3ヶ月程の壮大な天体ショー。

 シロは息をゆっくり吸い込む。
 昨日は夜中雨が降っていた。それでいつもより匂いが濃い。
 濡れたアスファルトが乾くむっとした匂い。他の季節には感じられない植物が放つ独特の匂い。水の匂い。土の匂い。
 それらを気まぐれにゆるゆると吹く風が混ぜ、薄め、またどこかに運んで行く。

 流れる風も、雲も、太陽も一秒だって同じ動きを見せない。同じ景色を生み出さない。

(ほら先生、こんなにも違いがあるでござろう)

 シロは心の中でそう思う。
 また始まる昨日と違う今日に胸がわくわくする。

「お昼過ぎには帰るでござる」
 シロは背中のナップザックを背負いなおすと、横島にそう伝える。
「おう、車には気をつけるんだぞ」

 その声はもうはるか背後に聞こえていた。
 シロは階段を飛び降りるように駆け下りると、光のシャワーの下に踊り出た。
 万歳するように大きな伸びをしてシャワーを全身に浴びる。
 そして軽くストレッチをして深呼吸を一つ。
(うむ、今日も体調はばっちりでござる)

 そして、シロは歩き出す。
 一歩一歩、足裏の感触を味わうように。歩く。歩く。

 アパートを出て横道を抜けると大通りに出る。
 この辺りはまだ車や人通りが多いので、横島に飛ばすなと叱られる地点。
 横島と一緒だとウキウキしてつい全力で走りたい衝動に駆られるのだけど、今日はゆっくり歩く。

(普段は気にしないで通り過ぎる所も、こうしてゆっくり歩くだけで新たな景色があるもんでござるな)

 大通りはひたすら真っ直ぐで左右には家が建ち並び、遠くには団地が見える。
 でも団地は煙のようにゆらゆら揺れていて、道路の先には水溜りがくっきり浮かんでいる。だがその水溜りはいくら走っても決して追い付かず、姿をくらましてしまう。

(拙者初めて都会でこれを見て、異様な妖術に化かされたと思って美神殿に真剣に相談したのだったなぁ
 それでものすごく笑われて、おキヌ殿が『かげろう』と『逃げ水』って教えてくれたけど、いまいちよくわからないでござるよ)

 とりあえず逃げ水を逃さずに狩る方法を考えつつ、シロは左右の民家を失礼じゃない程度に観察する。
 たくさんの家にはそれぞれ木や草花が植えてあって、アスファルトの上でもそれなりに自然を感じることができる。
 夏定番の朝顔はもう蕾が閉じてしまっている。

(鉢植えだから、観察日記でもつけているのでござろうか)

 他の家の花壇やプランターにもホウセンカ、サルビア、マリーゴールドなど夏を彩る花が、葉をいっぱいに生い茂らせる木に負けじと存在感を主張している。

(たしかあの木の名前は……ふぇにっくす、だったか? 南国っぽい姿でござるなぁ。
 やっぱり拙者は夏が一番好きだな。生き物皆が活力に満ちてて、こっちまで元気を貰える感じがするでござる)

 そんなことを考えながらシロは大通りを抜け、住宅地に入る。

 ここを横切ると大きな川に出て、そこの河川敷の広場でいつもは横島とキャッチボールをして遊ぶのだが、シロ本人は反射神経の鍛錬をすると認識している。

(でも先生は何故かボールを拙者でなくあさっての方向に思い切り投げるのでござる。
 しょうがないから必死で追いかけて、先生の所に持っていくのを何回か繰り返したらご褒美にちくわをくれるのでござる!
 いやぁ、先生はすごい。ちゃんと拙者のやる気が上がる特訓方法を編み出してくらたのだからな)

 そんなことを思い出したら、シロの体がうずうずしてきた。
 その気分を盛り上げるように太陽も本気を出して地面を炙りにかかり始める。
 さぞ今日の照り返しは強烈だろうと予想できる。

(よぅし! ちょっとだけ早歩きで……)

 シロは歩いていた足のテンポを少しだけ速める。すると視界の端に移る風景が巻物のように移動する。
 平日の昼間に外を出歩く人間はあまりいない。車もラッシュのピークを過ぎたら数える程しか通らない。
 ましてや住宅街となれば、エアコンの冷気を逃すまいと窓や戸を閉め切るため付近は人類が滅亡した世界のようにひっそりとしている。
 しかし、絶えることの無い蝉時雨やむし暑い外気が現実の世界だと認識させる。

(まるで見知らぬ森に迷い込んだみたいでござるな)

 そんな都会のエアスポットをシロはきびきび歩く。さくさく歩く。
 点々と生える並木の影をくぐり、いつもの散歩コースを踏襲する。

 しっかりと舗装され縁石で分離された歩道がただの白線に変わった頃、眼前に草ぼうぼうの壁が見えてきた。
 しかしそれは近づくと、夏草に占領された川の土手であることがわかる。
 この防壁の先には魅惑の広場がある。

「くうぅ〜、とりゃー!」

 シロはもう辛抱たまらんといった調子で土手に真っ直ぐ突っ込み、うっそうと群生する夏草のわさわさちくちく感をものともせずに土手を駆け上がる。
 普段は脇の階段を上っていくのだが、横島先生というタガが外れたシロはテンションと行動が無礼講状態なのだ。
 傍から見れば非効率な行軍に見えるが、シロはこの時アマゾンを颯爽と駆ける探検家さながらの気分であった。

 しばらく草を掻き分け這い登ると、土手の上のサイクリングロードに辿り着いた。
 同時に冒険も終わり、新記録を打ち立てたような達成感に酔っているシロを黄色い夏の使者が出迎える。

(お、今日もきれいに咲いてるでござるなぁ)

 それは土手の端に整然と並ぶひまわりであった。
 背はとうにシロをこえ、葉っぱは顔よりも大きくごわごわしている。
 見上げると種をぎっしり抱え、ライオンのたてがみのように原色の黄色い花びらを生やした重そうな花を太陽にアピールしている。
 その背筋をピンと伸ばして夏を十二分に堪能するハツラツとした姿は、まさに豪快な夏の代名詞であろう。
 誰が始めたかは分からないが、ひまわりが土手の脇に等間隔で整然と植えられており、道行く人々の目を楽しませていた。

(風流、でござるな。うん、まさに夏の新聞紙)

 おそらく風物詩と言いたいのだろうが、シロは鷹揚に頷き一通り眺めながらサイクリングロードを川下へ歩いていく。

 程無くして、ついにお目当ての広場が見えた。
 途端シロは目を輝かせ、これまた雑草がわんさと密集している下り道をサーフィンのように滑り落ちる。
 尻尾がぱたぱたとせわしなく振られ、獣耳があればピンと立っていることだろう。
 近所なのに旅行で遠出したようなはしゃぎっぷりである。

 すちゃっと華麗に着地し、シロは河川敷に降り立つ。
 そこは草を綺麗に刈り赤土を敷いた運動場であった。
 グラウンドの広さはサッカーコート一面分といったところ。たまに草野球大会も開かれるが今は人の気配もなく、はっきり言って何も無い。
 しかし、シロはこの場所をかなり気に入っていた。

(都内で全力疾走できる所は限られているからなぁ)

 指をパキポキ鳴らしてナップザックをおろし、柔軟をかねた準備運動をする。
 筋肉を揉みほぐし、体が温まってきたところでその場にクラウチングスタートの構えを取る。

(まずは軽く走ってからっと――)

 刹那、一陣の風が吹いた。

 いや、風ではない。シロが走り出したのだ。
 スタートは適当、しかしフォームは完璧に大地を力強く蹴る。
 しかもスピードは短距離走選手をごぼう抜きしてしまうだろう。

 ようやく川辺のぬるい香をまとった風がシロに追い付いた。
 風はシロの小柄だがバランスよく筋肉が付き、ひきしまった体をひんやりと撫でる。

 まるで風と溶け合うような感触。めまぐるしく変わる景色で視線は真っ直ぐに。
 そして顔には、悦びとも好戦的ともとれる野性味溢れる笑み。
 それは思いっきりエネルギーを発散できる開放感か、それとも地を駆ける狼の本能か。

 確かなことは、そこに美しくしなやかに疾走する人狼の末裔たる少女が『散歩』をしていることである。

 運動場を真っ直ぐに、ぐるぐる回るように、時に急激な方向転換をしながら隅々まで走る、奔る、疾る。

 と、いきなりシロは立ち止まる。
 そこはナップザックを置いたスタート地点であった。

(ふぅ、このくらいにしとこう)

 シロはスポーツタオルを取り出すと顔や腕の汗を拭って一息つく。
 といっても、広大なグラウンドを何十周としたにも関わらず呼吸にあまり乱れがない。
 まさに恐ろしい程のスタミナである。

(よし、次)

 シロはグラウンド脇の河原に下りる。そしてこぶし大の石ころを数個拾い上げた。
 グラウンドに戻ると、呼吸を整え精神を集中する。
 そしておもむろに石をつかみ上げると、勢いよく頭上に放り投げた。
 土手を越える高さにまで上昇した石は、重力により加速しながらシロの頭に自然落下する。


 刹那、シロの姿が残像のようにぼやけた。


 ぽとり、と小さな音を立てて石がシロの前方に落ちた。
 この段階でようやくシロが目にも留まらぬ速さで石を避けたのだとわかる。

 しかし、ただ避けるだけでは手に霊波刀が出現している意味がわからない。

 数瞬後、石が2つに割れた。
 落下の衝撃で割れたのではない。それなら断面が近づけば顔が映りそうなくらいつるつるの鏡面になっていないだろう。

 そう、シロがあの瞬く間に斬ったのだ。
 これはシロが独自に考案した訓練であり、並大抵の剣士では石に触れられても斬ることは難しい。
 まさに神技である。

 だが、シロは今度はなんと石を3つ手にとった。
 シロは緊張した面持ちでゆっくり眺める。
 やがて両手に抱えるようにしてやっと持ち上げるそれを、力を込めて先程よりやや高めに投げ飛ばす。

 そしてシロは腰元に手を持って行き、居合いのような態勢を取る。

 3つの石がぼとぼとと地面に落下した。

 シロの手は動いてない。
 何もしていないように見えたその時

 石が崩壊した。

 まるでガラスで出来ていたかの様に、3つとも細かな破片となり砂利の小山を形成する。
 ただし砂利の端は真っ直ぐ削り取られ、おまけによく研磨された様に滑らかだ。

 まさに、神速。
 石自身もさっきまで斬られたことに気が付かない程速い斬撃が飛んできたのだ。
 最早シロの動向を見切るのは至難の業であろう。

 そんな免許皆伝モノの剣技をやってのけた当の本人は

(うーん……物足りない……)

 あまりさっぱりした顔ではない。むしろ不完全燃焼を起こしているようだ。

(ボールを使わないのがダメなのだろうか。むー、先生がいないと寂しいでござる……)

 我慢せず全力で走れるはずなのに、一人では味気ない。
 とても難しい技を決めたのに、見ている人がいないと精彩を欠いてしまう。

 思えばシロは散歩自体もそうだが、横島と一緒に出かけることを楽しみにしていた。
 それで目くるめく四季折々の景色を一緒に見て、横島と同じ風景を共有していると感じて嬉しかった。
 そしてなにより自分が最も得意なことをしている姿、自分が一番輝いていて好きな姿を見ていてほしくて――

(うん? な、なんだか急に顔が熱くなった?)

 シロは自分の頬を両手で撫でてその火照りに驚くと、同時に胸にきゅんとしたもやもやを感じる。
 もしかして日射病か、とも思ったがどうも違う。

(……そろそろ帰ろう、かな)

 何やら気恥ずかしくなってきたのでもう帰ることにした。
 身支度を整えるとグラウンドに一礼する。
 そして次は絶対に先生と来るぞ、と自分に約束して閃々と流れる川べりの広場を後にした。

 時刻は正午。
 ついに暑さが凶悪な牙をむき出しに列島を覆う頃、シロはウキウキしながら弁当の包みを開いていた。
 事務所に程近い繁華街まで戻ってきたシロは、広葉樹に囲まれて朽ちた石段を登った先にある神社の木陰の下にいた。

 神社といっても社務所に神主が詰めているような規模ではなく、朽ちた石段を登った先に年季の入った鳥居と物置サイズの社、そしてささやかな鎮守の森がある程度である。
 しかし、その都会では比較的大きな雑木林はこの暑さをしっかり和らげ、緑のざわめきが癒しを与えている。
 シロはこの場所をとても気に入っており、誰にも話したことがない。
 特に秘密にする必要もないのだが、自分だけが知る心地よい空間でくつろぐのは満更でもない気分だった。

「今日のお昼はなーにかなー ふんふふーん」

 シートを敷いた木の根っこの上に腰かけ、陽気な鼻歌混じりにおキヌ特製弁当の蓋を開ける。
 普段は事務所で食べているのだが、今日はここまで持ってきた。
 外でお弁当を食べるはシロのみならず誰もがテンションを上げるだろう。

「おおっ! 美味しそうでござる!」

 二段重ねの弁当箱の上段はおかずのエリアで、卵焼きやプチトマトなど定番のおかずや夏野菜の炒め物、キュウリとカブの漬物といった季節感を重視したメニューも盛り込んである。
 そしてメインは茹で豚のおろしポン酢がけ。これは最後に食べようとシロは順番を決める。
 下段のご飯にはじゃこと白ゴマ、香付けに青じそが混ぜ込んである。
 見てるだけで涎が出そうな弁当をひとしきり観賞すると、シロはマイ箸を構える。

「それじゃ、いただきまーす!」

 そしてシロは弁当を食べ始める。
 事務所に来た頃は肉のみフルコースの前歴がある通り偏食気味であった。
 しかし、おキヌの素朴で滋味溢れる料理と丹念な食育のおかげで今では野菜も残さず食べるようになった。

 そんな愛情たっぷりのお弁当を美味しそうに、食べる。至福の表情で残さず食べる。

「ふぅ、ごちそーさまでした!」

 茹で豚の最後の一切れを食べ終え、持ってきたお茶を飲んで人心地つく。

(――――)

 シロはゆっくり上を向く。
 そこには背中をあずける大木がしっかりと葉を枝に茂らせ、その隙間を通ることで柔らかになった日光がサテン布のように散々とふりそそぐ。
 まるで緑の屋根がさざ波のようにゆれているようだ。
 じめじめとした大気もろ過され、柔らかな冷気が適度に体の余熱を逃がしてくれる。

 ここにいるとやかましいくらいの蝉の声や都会の喧騒も遠くに感じられる。
 涼やかで静謐な空気が流れ、活発で精力的な夏のもう一つの顔が現れていた。

 シロは目を閉じ、人狼の里で無邪気に遊びまわっていた時代を思い出す。

(父上との稽古が終わったら、里の皆で遊んだものだったなぁ。
虫取りしたり、川で遊んだり、それで遊び疲れたらこーやって木の下に寝そべって)

 シロはその場にゴロンと横になる。湿った土の匂いが強くなる。

(そうそう、こんな感じ……たまには、こーゆーのも……悪くないでござるな……)

 半日元気に動き回った体はすぐ心地いいまどろみに包まれる。
 やがて意識が遠のき、次第に呼吸が規則正しくなり始める。

 むにゃむにゃと言いながら背中を丸める姿はまるっきり子犬だが、人狼の戦士の休息を社がやれやれといった様子で見守る。

 普段見慣れた街も視点を変える、歩く速度を変えるだけで新たな景色を見せてくれる。
 そんな細やかな情景をシロは敏感に目で、耳で、肌で感じ散歩を心から楽しんでいた。

 そんな夢見心地の少女は改めて思う。

 散歩って、いいなぁ。と。




「で、あまりの気持ち良さにぐーぐー寝込んで、それで帰りがこんな遅くなったと」
「め、面目ないでござる……」
「ほんとに心配したんですよ。泥だらけで帰ってくるから、何か事故に遭ったのかと思ったんですからね」
「返す言葉もないでござる……」
 日も暮れかかる頃、事務所にダッシュで帰ってきたシロは美神とおキヌに小言をくらっていた。
 タマモにもあきれたような冷笑を貰ってひたすら小さくなっていた。

「まぁ、ちゃんと反省してるようだし物置は勘弁してあげるわ」
「次はちゃんと連絡してくださいね」
「はい、承知したでござる」

 美神達も余程散歩できたのが嬉しかったのかな、と苦笑気味で許すと、うなだれていたシロも顔を上げてホッとした表情を浮かべる。

 その直後、扉を開け事務所に入ってくる一人の男。

「横島 忠夫。ただいま療養を終え復帰いたしま〜す!」
「なーにが復帰よ。夕飯時になったら顔出すんだから」
「でも体力はこの通り、万事快調っス」
 呆れたように呟く美神にギッコンバッタンとコミカルなスクワットを披露する横島。

 その機敏な動きを見て目をキラリと光らせる娘が一人。

「後は飯を食って栄養補給すれば完璧――」
 がっし、と食卓につこうとする横島の襟首がつかまれる。

「先生、その様子だと夕方散歩に連れてってくれる約束は大丈夫でござるな!」
「はっ!? え……」
「やっぱり拙者は先生が一緒じゃなきゃダメでござるぅ。ささ、夜の散歩に参ろうぞ」
「ええっ! いやいや俺これから晩飯を」
「食前に運動した方がきっとご飯も美味しいでござるよ」
「いや待ておぉーい! 美神さん、何とか言ってやってください!」
 ずるずると戸口に連行される横島が必死に美神へ訴える。

「横島クン、シロの散歩にはまだ保護者が必要なのよ。天命だと思ってきっちり散歩の相手を全うしなさい」
「大丈夫です。お夕飯はちゃんと取って置きますから」
「……頑張ってね〜、私はまっぴらだけど」
「ノォ――!!」

 じたばたもがく横島にリードを絡ませて引きずるシロの顔は、一人の散歩以上に期待感と高揚感が見て取れた。

(考えてみれば、夕方に散歩したことなかったでござるな。
 どんな景色が見られるのだろうか。先生とどんなことして遊ぶ……ゲフン、鍛錬して頂けるのだろうか。
 ふふ、楽しみでござる!)


 宵闇が東から茜の空を徐々に覆う一日の終わり。
 それは陽気な音楽の終盤、名残惜しむように流れる後送曲のような少し寂しいラスト。

 しかし、演奏会はまだまだ終わらない。

 生き物も、木も、花も、空気や水でさえも短い夏を精一杯謳歌している。

 それはこれが生きる喜びと言わんばかりに喜色満面で自転車を牽引する少女と、その自転車の上で愉快な悲鳴をあげる少年も例外ではないだろう。

 こうして今日も一年で一番長い1日の夜の帳に幕が下ろされるのだった。

                  【終】
ご無沙汰しております、がま口です。
今回夏企画に参加するため久しぶりにホコリに塗れた筆を執りました。
そんなリハビリのような作品をここまで読んでくださる読者様に感謝です。

今回テーマとして夏によくあるけど、改めて見ると夏だなぁという景色をイメージして書いてみました。
一人で散歩するシロの目を通してそんな『小さい夏』を感じ取っていただけたら幸いです。

でも、シロの目にはそんな景色をも押しのける人物しか映ってなかったりして(ニヤニヤ)

夏空の下、約一時間で散歩を断念したひ弱ながま口でした。

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