バレンタインデーに浮ついた表情の街を見渡すと、必ず思い出すことがある。ちょっと前の、幽霊をやっていた頃のことを、だ。
「あの時は、食べてもらえればそれで良かったんだけど」
呟いた私のそばをひゅうと寒風が通り抜け、思わず首を縮めた。風の強さに一瞬足を止めた人達はすぐにまた歩き始めて、雑踏のざわめきが戻ってくる。夕食の他に生クリームとチョコレートの入った袋を抱え直して、私もまた、同じように歩き始める。明日の準備にかけられる時間は、もうあまり残っていない。
〜ポリフェノールの効用〜
「ただいま」
「おかえりなさい、おキヌさん。……なにかお急ぎですか?」
「ごめんなさい人工幽霊一号、お湯湧かしてくれる?」
「はあ。それでしたらすぐにでも」
挨拶もそこそこに階段を駆け上がり、買い物袋の中身を確認しながら台所に急ぐ。学校の行事が思いの外遅くなったせいで −理事長はじれじれする私たちを見て、なぜかとても楽しそうにしていたのだけれど− 予定が狂ってしまったのだ。チョコ作りと夕食の準備を段取りながらYシャツの袖をまくり、台所の壁につるしてあるエプロンに手をかけた。ほどよい暖房の事務所は、晩冬でも軽装でいられてありがたい。
「いよし!」
ふん、と鼻息も荒く作業に取りかかる。握りしめたシメサバ丸は、とても良く馴染んでいる。思えば、彼?とも長い付き合いだけれど、相変わらずの切れ味を手元のチョコで証明してくれている。
「随分とせわしいですが、今日のデザートでしょうか」
幽霊時代の私と同じ、いや今も幽霊そのものの彼が問いかけてくる。ああ、そう言えばこんなだったなあと可笑しくなって、つい口元をほころばせる。
「なにかおかしいことを申し上げましたか?」
「ううん、全然。ちょっとね、昔を思い出しただけ」
「でしたか」
「えっとね、明日はバレンタインデーって言ってね」
湯煎する手を止めず、だけど少し得意になった私はバレンタインデーというものがどれだけ女の子に大事なのか、いかにも知った風に彼に説明をした。もし美神さんが隣にいたなら、きっと腹を抱えて笑ったことだろう。
「なるほど、それは大事な日なのですね。さしずめ皇国の興廃この一戦にありと言ったところでしょうか」
「別に戦いって訳でも……」
古めかしい彼に苦笑い。指に付いたチョコをなめとって、ふと考える。周りのみんなを見るに、もしかすると、バレンタインデーって戦いではなく狩りなんじゃないだろうか。
タイガーさんと仲良しの魔利さんはともかく、弓さんはいつもどこにいるか分からない雪乃丞さんをとっつかまえてやるといつもはきらきらした目を血走らせていたし、クラスのみんなも忍び笑いを漏らしながらそれは楽しそうに作戦を立てていた。あの目には、お仕事で除霊対象を追い詰めるシロちゃんタマモちゃんに通じる物がある。
「ピートさんなんかは毎年大変そうだけど」
「そう言えば去年の同じ日、この事務所に保護を求めて駆け込まれましたね。あの時は何事かと思いましたが、そういうご事情だったのですね」
横島さんは助けを求めるピートさんを窓から冷たく放り出していた。なんでも、もてるヤツに人権はないんだとか。美神さんも美神さんでエミと関わりたくないわって、落ちていくピートさんに手をひらひらさせただけだった。霊団の如くエミさんを核として追いかける女性陣に、霧になって逃げ回るピートさんが無事だとしれたのは翌日になってからだった。
「ピートさんの後にみえた西条さんとチョコレートの数を言い合ったとき、横島さんは血の涙を流しておられましたね。一体何であれほど悔しがるのかと思っておりましたが」
「横島さんも、あんなに悔しがらなくたっていいのにね」
つい、愚痴が口をつく。
「なにかおっしゃいましたか、おキヌさん?」
「あ、ううん別に! なんでもないの」
去年だって今年だって、あたしのがあるんだから。
なんて、人工幽霊一号に聞かれたら恥ずかしくて事務所にいられない。誤魔化すようにゴムべらで勢いつけてボールをかき混ぜる。生クリームとチョコレートが完全に混ざり合ってとろとろに溶けた頃合いで、事務所にあった高そうなラム酒をちょっとだけ注ぎ入れた。美神さんのコレクションの一つだけど、このくらいは許してくれるだろう。
そのままいくらか冷やす間、一緒に夕食の下ごしらえもしておく。こういう時、材料を選ばないシメサバ丸は本当に重宝する。
「今日は美神さんも横島さんも、7時には来るんだっけ」
「そうですね。後2時間ほどでしょう」
「えと、冷めたら絞り袋に入れて出して、冷蔵庫でもう一回冷やして型作って……あーん時間足りるかなあ」
ガナッシュ作りが終わりさえすれば後はコーティングだけだから、朝に出来ないこともないのだけれど、今日は除霊のお仕事がある。前衛の二人の為にもちゃんとしたお夕食を作ってあげたいし、でもバレンタインデーは毎年一回だけだし。悩んでいる間にも、下ごしらえの手は止められない。
「お手伝いできなくて申し訳ありません」
「いいのいいの、気持ちだけもらうね。いよおし、頑張れ自分」
握りしめたシメサバ丸に頼むわよ、とつぶやく。もうシメサバ丸自体に意志は残っていないけれど、きっと応えてくれる気がした。
一人西日の差し込み始めた台所で、とんとん食材を切り分けていく。手慣れた手順とは言え今日が鍋物だったのも幸いしたのか、なんとか夕食の下ごしらえは終えることが出来て、余った時間、秒針を気にしながら私はチョコの仕上げに取りかかった。
「見事な手際ですね、おキヌさん」
「褒めたって何も出ないわよ」
「いえ、本当に。いつも思うのですが、オーナーや横島さんは、もう少しおキヌさんの用意してくださるご飯を、ありがたくいただくべきかと」
「ちょっとがっつくこともあるけどね。でも、二人ともちゃんとありがとうって言ってくれるのよ」
「そうなのですか?」
「ええ」
言葉にしてくれるのは、いつもじゃあないけれど。ごちそうさまでした。はい、お粗末様でした。食事の後、毎回すっかり空になったお皿を見られるのが嬉しいのは、作った人にしか分からない楽しみかもしれない。2時間かけて仕込んだものを、たった5分で平らげられちゃうのはちょっとだけ寂しいけれど、やっぱり嬉しいものだ。それが二人の感謝の気持ちだって、わかっているから。
「バレンタインデーのチョコレート、横島さんも美神さんも、食べてくださると良いですね」
「そうね。美味しく食べてくれると嬉しいけど」
ちょっと前の幽霊だった私なら、それで満足したかもしれない。だけれど、生き返った生身の私は、もうそれだけでは満足出来ないのかもしれない。
形を整えたガナッシュに一つ一ついろんな味をコーティングしていって、オーブンシートの上に並べていく。
「ちょっとだけ、横島さんに意地悪してあげよっかなって思うの」
「と、言いますと?」
「それはね」
事務所のみんなのお世話するのは楽しいし、ご飯を準備するのも苦にならない。だけど、バレンタインにまで普段のならいで、当たり前にチョコをくれるとみんなは思ってるかもしれない。特に横島さんは、俺にはおキヌちゃんだけやなんて調子のいいこと言いながら手を差し出してくる。
だから今年は、私は彼の差し出した手を左手で払う。きょとんとするだろう彼を、右手にチョコを持って小首をかしげながら、こう言うのだ。
「どうしよっかなー、って。ちゃんと欲しいって言ってくれないとあげませんって、言ってやるの」
「横島さんにはそれがいいかもしれませんね。油断しているとどうなるか、いい薬でしょう」
「あら、人工幽霊一号もそう思うの?」
「ええ。良いチョコレートは、苦みもあるものだと聞いておりますから」
「あはは」
取り分けたガナッシュ、苦みの効いた生チョコレート全部を、甘い抹茶と苺のチョコでコーティングし終え、もう一度冷蔵庫に戻す。明日の朝には、良い頃合いになっているだろう。
「横島さん、喜んでくれるといいなあ」
冷蔵庫のドアをパタンと閉めて、私は後片付けを始める。二人が来るまでは、後ほんの少しだ。夜のお仕事を終えれば、明日はもう、バレンタインデー。
私がちょっとだけ苦みをたたえる、そんな日だ。
Please don't use this texts&images without permission of とーり.