窓の外から、名残の太陽が照りつける。
都心の人工的な暑さに茹だるアパートの部屋と違い、昔からの避暑地に建つ別荘は陽にあたっていても快適で、早く起き出して身仕度をする理由もない。
それでも横島が、普段と同じ時間に目を覚ますのは、朝の襲撃者に備える必要があったからだ。
「ヨコシマーーー! 起きるでちゅよーーー!!」
またしてもドアを吹き飛ばして、パピリオが部屋の中に飛び込んでくる。
いつもと同じように跳躍して、ベッドの上に盛り上がった着弾点を目指して放物線を描く。
ぼふん
「ん?」
悲鳴も何も上げず、明らかに手ごたえの違う感触にパピリオは不信を覚え、勢いよく布団を剥ぎ取った。
そこには、苦悶に臥す横島の姿はなく、クッションをタオルケットで包み、人間が寝ている様子に似せた塊があるだけだった。
「むう、なかなかやりまちゅね……」
ダミー横島の下に手を入れ、パピリオはお約束の台詞を呟く。
「まだ暖かい…… そう遠くへは逃げていないでちゅ」
昨日見た時代劇の影響をもろに受けながら、ざっと部屋の中を見渡す。
長の滞在のおかげか、多少なりとも生活感の出てきた部屋の中には誰の姿もなく、たった今壊して入ってきたドア以外に他へ通ずる場所もない。
横島が寝ていたはずのベッドの先の窓は少し開いていて、時折カーテンが風をはらんで膨らみを増す。
「さては、ここから伝って……」
つかつかと窓に近寄って、ガラスに手を掛けると見せかけて、踵を返す。
「――と見せかけて、ここに隠れているのは先刻お見通しでちゅ!」
裏を読んだパピリオが、勝ち誇った顔をして備え付けのクローゼットの扉を開くが、そこには横島のさして多くない私服がまばらにぶら下がるばかりで、とても人間が隠れているとは思えない。
「おろ? ここにもいないでちゅ」
「うはははっ! ひっかかったなーーっ!!」
予想の外れたパピリオが気の抜けた声を出した瞬間、背後のベッドの下の隙間から両手両足を器用に動かした横島が、高らかな笑いとともに這い出して、素早くドアへと向かう。
その様は、昆虫の変化であるパピリオたちと比較するのもどうかと思うが、さながらゴキブリのようであった。
「あっ! こら! 待ちなちゃい!!」
「わはははっ! また会おう、明智クン!」
こちらも、夏休み特集で放映された、懐かしの少年ドラマに影響された横島が、肩に掛けたタオルケットをマントのようにはためかせ、どたどたと階段を降りていった。
「おはよう」
手短に歯を磨き、少し乱れていた寝癖を直してダイニングに戻ると、何もないテーブルの上に新聞を広げて読んでいたベスパが顔を上げた。
「おはよ、ヨコシマ。起きたとこすぐで悪いんだけどさ、朝の支度をしてくれる?」
「ん、わかった」
それだけ言うと、ベスパはまた新聞の紙面に視線を落としてしまう。
やけに熱心に読んでいるので、ひょっとして自分たちのことに関係する記事が出ているのかと気になったが、カラー刷りの写真が大きく載ったその紙面は、ただのスポーツ新聞だった。
独特の書体で書かれたアオリ見出しには、『クワガタ 今期絶望 ……か』と紛らわしく書いてあった。
この別荘に越してきて以来、新聞はおろか、テレビのニュースにも、彼女たち魔族に関する話題はほとんど出ていない。
もちろん、逆天号を失ったルシオラたちが活動を自重している以上、新たな事件など起こりようもないのだが、そんなことは人類は知りようもない。
白昼堂々の魔族の襲来という、古今未曾有の大事件が起きたのだから、それこそ世論は沸騰し、虚実様々な情報が飛び交い、不安を抱いて社会活動が停滞しても不思議はない。
それなのに、先日出かけた横浜や箱根のように、人々はショッピングに集い、観光行楽に足を運び、贔屓のプロ野球チームの勝敗に一喜一憂していた。
人類は、少なくとも日本人においては、ルシオラたちの起こした事件も、よくある日常の中のひとコマと位置付けられてしまったかのようであった。
あるいは、普段と変わらないように高度に情報を欺瞞しつつ、乾坤一擲のチャンスを狙う大胆な策を練っているのかも知れなかったが、それこそ彼女たちの知るところではなかった。
「そういえば、土偶羅は?」
いつも、朝食の仕度は土偶羅の役目なのに、準備もしていないとはどういうことだろう。
中間管理職よろしく、時間にはうるさい土偶羅だけに、朝寝坊というのも考えられなかった。
「ん? ああ、土偶羅様はちょっと出かけててさ、いないんだよね」
「どこへ?」
「ホンアツギ、とか言ってたね」
「本厚木? なんでまた、そんなところへ」
「アシュ様と今後の協議をするんだって。しばらくは戻れないって言ってた」
敵のボスであるアシュタロスとの密談が行われる、というのは充分に興味をそそる情報だが、それが本厚木で行われる、と聞くと、途端に緊迫感が失せてしまう。
たしかに、ここから行くにはわりあい便利だし、地下鉄乗り入れで都心に出るにも、海老名で乗り換えて横浜へ行くにもちょうどいい。
それにしたって、首都圏近郊で通勤可能な手頃な物件を探すわけじゃあるまいし、と文句のひとつも言いたくなる。
それでもまあ、どこぞの博士へのノーベル賞受賞式が執り行われたこともあるみたいなので、それらしい場所といえばそれらしいのかも知れなかった。
横島は土偶羅の行方のことを考えるのは止めて、もう一人足りない魔族のことを聞いた。
「ルシオラは?」
「姉さんなら、まだ寝てるよ。昨日、ずいぶんと遅くまで起きていたみたいだからね」
「――ふうん、何してたんだろ」
「さあ? 姉さんに聞いてみれば?」
さっきからずっと、紙面から目を離さずにしゃべっていたベスパだが、再び顔を上げてにやり、と笑った。
答えを知っているけどとぼけている、そんな笑顔だった。
食パンと目玉焼きをかじるだけの食事を済ますと、取りたててすることもない。
ベスパは相変わらず新聞を読みふけっているし、ルシオラはなにか調べものでもあるのか、また自分の部屋に戻ってしまっていた。
ではパピリオは、というと、庭に出て水撒きをしている。
逆天号が死んでしまって以来、パピリオは庭の手入れをするようになった。
ガーデニング、というほど本格的ではないが、もともとペットを飼うのが好きだったこともあってか、かなりマメに世話をしている。
真夏の暑い盛りに水をやるとかえってよくない、と聞いてからは、毎日朝早く起きて水撒きをしているくらいだ。
中でもパピリオのお気に入りは、日当たりの良い、大きな木の根元に植えた、大きなひまわりだった。
逆天号の墓に埋めたひまわりの種は、その養分を吸い取ったのであろうか、ぐんぐんと成長し、今では横島の背丈を越えるぐらいまでになっている。
パピリオはそのひまわりにオードリーと名付けて大切にしている。
なにせ、たかるアブラムシを退治しようとして殺虫剤を撒き、自分がひっくりかえってしまったこともあるぐらいだ。
そして、そのオードリーのほうも、逆天号に残っていた魔力の影響でも受けたのか、なにやらただの植物ではなくなってきているかのようだった。
ガーデニングの際に植物に話しかける、というのはよくあることだが、そのパピリオの呼びかけに反応するらしいのだ。
「オードリー、今日もお水をあげまちゅからねー」
そう言いながらパピリオが水をかけると、うれしそうに葉を一杯に広げ、胸を反らせたような格好で揺れる。
「なんだか、ロックンフラワーズみたいだなあ」
「なんでちゅか、それ?」
きょとん、としたパピリオの顔に、思わず苦笑が漏れる。
横島が子供の頃に流行ったオモチャで、音に反応してサングラスをかけた作り物の花が踊る、ただそれだけのものだ。
今年作られたばかりのパピリオが知っているはずもない。
そのくせ、妙に大人びた素振りを見せることもある。
ルシオラやベスパもそうなのだが、知識と経験がアンバランスで、それが変なところで顔を出す。
「しかし、よくリトル・ショップ・オブ・ホラーズなんて知っていたよな?」
これまた子供の頃に流行ったミュージカル映画を思い出して言う。
あの映画で、さえない主人公が出会う、吸血植物の名前がオードリーだったのだ。
そのうち、「Feed me」とか言って歌いだすんじゃないかと心配になったりもする。
「そんなんじゃないでちゅもんねー、オードリー?」
『へっっ!』
「そっちかよっ!?」
思わず、漫才の相方よろしくツッコミを入れてしまう横島だった。
取り立ててやることもなく、リビングの椅子に腰掛けて雑誌を読んでいると、二階から降りてくる気配がする。
「あー、のど渇いたー! ……あら、ヨコシマ、こんなとこで何やってるの?」
とくに熱心に読んでいたわけではないのか、横島はすぐに顔を上げると、返事をする代わりに隣のソファを指差す。
ルシオラからは死角になっていたソファの影に、すやすやと寝息を立てるパピリオの姿があった。
「あら、ま……」
「さっきまでにぎやかにしていたんだけどね。静かになったと思ったらこれさ」
かなわない、といった様子で手を広げてみせる。
それでも、そっとタオルケットが掛けられているところをみると、まんざらでもないのだろう。
「ベスパは?」
「ちょっと出掛けてくるって言ってた」
「ふーん」
気のない返事をしながら、ルシオラはキッチンへと向かう。
「ヨコシマー、何か飲む?」
「そうだなあ……アイスコーヒーでいいかな」
「わかったー」
そんな、取り留めのない会話をして、ルシオラが二つのグラスを持ってくる。
いつもならソファに寄り添って座るのだが、まだパピリオが目を覚まさないため、今日は向かい合って座る。
あらためて正面から見るかたちになると、ほんの少しだけどきどきしてしまう。
「何、調べてんのさ?」
ちょっとした戸惑いは、ルシオラが前に座ったからだけではないだろう。
ルシオラは、ウイングカラーを大きく開いたオフホワイトのシャツに、細身の赤い伊達メガネをかけている。
何か調べものをする際、雰囲気を出すためか、時々こんな格好をするときがある。
フォックスと呼ばれる、ややつり上がった感じのメガネをかけた彼女は、知的で年上の、そして情の深い女を連想させた。
「ん? ああ、たいしたことないわ。ちょっと気になることがあっただけ」
「気になる、って何が?」
ルシオラはさらりと流そうとしたが、横島は何故か食いついてくる。
横島自身、彼女たちが全てのことを自分に話してくれているとは思っていない。
今、どこかに行って席を外しているベスパにしたって、自分には知らせられない何か、魔族としての役目を果たそうとしているのだろうとはあたりがついた。
ただ、どこかこう、それとは違う気配を、僅かながらに感じているのだった。
「ちょっとね……」
「言えないのか?」
「……ゴメン」
ルシオラが暗い表情で目を伏せる。
まるで、目の前の男に捨てられる、とでもいうかのように。だが、横島にはそんなつもりは毛頭ない。
「ま、しょーがねーか」
「本当にゴメンなさい……」
「いいって、別に。家族にだって、秘密はあるものさ」
「そ、そうよね……」
「そーゆーコト。じゃ、俺もちょっと上で休んでくるから」
間が持たなくなったのだろう、横島は用もないのに階段を上がっていく。
その足音を聞きながら、ルシオラはくつろぎの場所であるはずのリビングに、冷たい居心地の悪さを感じた。
「お散歩に行くでちゅ!」
眠るでもない、ただベッドに横になるだけの時間を解き放ったのは、やはりパピリオだった。
何故行くのか、何処に行くのかもわかってはいない、子供特有の意志の強さがある。
そのことに触れた横島は、行かなければいけない、と強く意識するのだが、それに追従するのにも少しだけ抵抗があった。
「えー、このクソ暑い中をか? 俺はいいよー」
「ダメでちゅ! 行くでちゅ! 準備は万端でちゅ!」
そう言ってパピリオは麦わら帽子をきゅっ、とかぶってみせる。
お気に入りのベレー帽とは違い、別人のようにも見えた。
「あー、もう、しょうがねえなあ……」
横島はぶつくさと文句を言いながら、そのくせ軽い動きで立ち上がるのを待たず、パピリオは階段を駆け下りて行った。
ぎらぎらと照りつける太陽は、夏の終わりといっても容赦はしない。
「あちいー!」
たちまち額に浮かぶ汗をぬぐい、横島はだらしのない声で音を上げる。
それでも、コンクリートとアスファルトに囲まれた都心と違い、不愉快な暑さではなかった。
「もう、ヨコシマ、遅いでちゅー!」
前を行く麦わら帽子の、赤いリボンが振り向いた。
「そんなに急がなくったって、なくなりゃしねーよ」
「早く、早く!」
のんびりと歩く横島を急き立て、パピリオが走っては振り返り、また走っては振り返る。
三ヶ月以上も住んでいると、少しは地理に慣れてきたもので、車の多い一般道は避け、裏の細い道を行く。
新幹線の高架橋をくぐり、みかん畑を横に歩いていくと、左手に中学校の校舎が見えてくる。
それほど生徒もいないのだろう、体育館に比べて小さめな校舎にはまだ人気はなく、その奥の校庭から、野球部の練習らしき声が聞こえてくる。
何を言っているのかわからない掛け声を耳にして、ふと横島の足が止まった。
「あー、あいつら、どうしているんだかなあ……」
不意に、同級生たちのことが思い起こされる。
元々、一年の頃からあまりまともに通っていなかったとはいえ、一学期のほとんどを欠席してしまったとなると、さすがに何かを失ってしまったような、そんな気持ちになる。
一応はオカルトGメンの任務、ということになっているので、たぶん出席日数は考慮してくれるだろうが、さすがに三ヶ月のブランクは否めない。
ピートやタイガーといったメンバーは事情を知っているだろうが、それ以外の、何も知らされていない連中はどう思うだろうか。
「ま、アイツらのことだから、机にラクガキぐらいはしてそうだけど」
人類の敵、ぐらいのことはスプレーで書いている予感がする。そう思うと、ついつい苦笑いしてしまう。
たぶん、そのくらいには陰湿で、けれども帰ったときにそれを隠さないで置くぐらいにはあけすけな連中だった。
「机、かあ……」
その呟きは、他人が聞いたら何のことかわからないだろう。
長い年月を経て、付喪神となった机の妖怪がいる。
女学校にでも置かれていたのだろうか、女生徒のカタチをとるその妖怪は、自然と彼のいたクラスに馴染んでいた。あるいは、彼自身よりも。
(横島君……)
どこからか、その妖怪――愛子が呼ぶ声を聞いたような気がした。
真夏の太陽で濃い影となった、真向かいの校舎の窓を見渡しても、誰一人として姿もない。
そもそも、目の前のは中学校で、高校生の妖怪である愛子がいるはずもなく――
「ヨコシマ!」
「おおうっ!?」
いつのまにか側に戻ってきていたパピリオに声を掛けられて声を出す。
「何やってんでちゅか、こんなとこで立ち止まったりして?」
「悪い、悪い、ちょっと学校のこと思い出しちまってな。戻れるかどうかもわかんないのにな」
まいったまいった、とばかりに頭を掻く横島を見上げて、パピリオは笑顔で言う。
「――大丈夫、もうすぐ戻れまちゅよ」
「え?」
「ほら、もう、早く海に行くでちゅよ!」
「わっ、こら、引っ張るなって!」
門の外のやりとりなど知らず、誰もいない校舎の窓が静かに見下ろしていた。
有料道路の下を渡ると、ようやくに海岸へとたどり着く。
まるで、初めて海を見た子供のように、パピリオが歓声を上げて、海辺へと走って行く。
「きゃー!!」
「おーい、あんまり走るとあぶないぞー!!」
パピリオの正体は魔族なのだから、転んだぐらいでは何の痛痒も感じないのだが、その姿を見ているとどうしても心配せずにはいられない。
事実、インストラクターに引率されて沖から上がってきた、東京からやってきた初心者のダイバーたちの目には、はしゃぐ妹と気遣う兄としか映っていなかった。
このあたりの海岸には、いわゆる砂浜というものがほとんどない。
ほとんど海没せんばかりに迫る山地から流れ出る石のせいでもあるし、太平洋から北上して、沖へ根こそぎ持っていってしまう波のせいでもあった。
その結果、波打ち際のすれすれまで、河川中流域にみられるような、角が取れて丸くなった、比較的大きな石が多く見られる光景になり、沖はなだらかな遠浅ではなく、すぐに深く沈み込む地形となった。。
これでは、普通の海水浴客が来て楽しむわけにはいかない。そのため、湘南と伊豆を結ぶ途中にあり、背後に箱根を抱くという、リゾートには絶好のポジションにもかかわらず、あまり訪れる人は多くはない。
それもまた、彼女たちがここに基地を構え、長いこと隠れ住めた要因でもあった。
「きゃー!!」
あいかわらず歓声を上げ、パピリオが潮の引いて姿を現した、僅かばかりの砂浜を駆けて行く。
波打ち際で白く崩れる波に触れないようにしているのか、ときおり大きな声を上げて飛び跳ねていた。
「よいしょ、っと」
座るのに手頃な、大きな岩を見つけ、横島は腰を下ろす。
さっき、来る途中の自動販売機で買ってきたジュースの缶を開け、一気に飲み干した。
「ふうっ」
一つ大きな息を吐き、左から右へ、右から左へと行きつ戻りつするパピリオを見ながら、あつらえた背もたれのようになっている岩に背を預ける。
「あーあ、ルシオラも来ればなー」
今日は部屋に篭ってばかりの恋人のことを思い、つい、ぼやきが出る。
ちょっと気まずい雰囲気になってしまったまま出掛けてきてしまったことが悔やまれる。
もちろん、ここへ来たことがないわけではないが、やはり海というものはいつでも一緒に見ていたいものだった。
「えいっ!」
「うひゃあっ!?」
ぼんやりと物思いにふけっていると、突然首筋に感じたひやっ、と、ねとっ、とした感触に悲鳴をあげる。
「な、な、な、何!?」
「きゃはは! ヨコシマったら女のコみたいでちゅー」
さもおかしそうにパピリオがけらけらと笑う。
その手の中では、筒状でぬるぬるとしたもの、ナマコがうねうねと身をよじらせていた。
「な、なんだ…… あー、びっくりした」
「ヨコシマが私をほったらかして、他の女の事を考えているからでちゅ」
「お前ね、そういう誤解を受けそうな表現は……」
「早く、早く、あっちにも魚がいっぱいいるでちゅよ!」
横島の注意もどこへやら、もうナマコには興味がなくなったのか、パピリオはぽいっ、と海の中へ放り投げ、横島の手を引っ張る。
「よしっ! つかまえるかっ!」
「でちゅ!!」
少し傾き始めた太陽に押され、岩場のほうへと仲良く駆け出していった。
すっかりずぶ濡れになって帰ってきたところをベスパに見つかり、即座に二人とも風呂に叩き込まれた。
四人揃った夕食を済ませ、軽いおしゃべりを交わしていると、普段なら起きているはずの時間なのに、さすがに疲れが押し寄せてきた。
「悪い、先寝るわ」
食後のコーヒーも飲みきらぬうちに、横島が重くなった腰を上げる。
「今日はお疲れさま。また明日ね」
「ああ、おやすみ」
そのまま階段を上がる前に、テレビの前でゲームをしているパピリオの頭を、ぽん、と叩く。
「お前も疲れてんだろうから、早く寝ろよ?」
「うーん、もうちょっとだけ」
「じゃな」
そう言うが早いか睡魔が襲ってきたのか、大きなあくびをひとつ漏らして自分の部屋へと上がっていく。
別にどうということのない、普段と変わらない家族とのやりとり、のはずだった。
一時間か二時間か過ぎたろうか、なおもゲームを止めないパピリオを、ルシオラが軽くたしなめた。
「パピリオ、もう遅いんだからそろそろ――」
途端、パピリオはゲーム機のスイッチを切り、コントローラーを放り出して立ち上がる。
振り向いたパピリオの目は、夏休みで夜更かしをしている子供のそれではなく、何かを秘めた、強い意思のある目をしていた。
「ルシオラちゃん、ベスパちゃん――」
さすがに姉妹であろうか、その呼びかけを聞いただけで、二人は、はっ、として顔を上げた。
「パピリオ……」
「あんた、もしかして……」
パピリオはその問いには答えず、しばらくの間二人の姉の目をじっと見つめていたが、やがて、視線をふっと和らげて言う。
「おやすみなちゃい!」
元気のいい子供のように、深々と頭を下げたパピリオは、何も言えない姉たちを残して、階段を上がっていった。
コン コン
控えめな、それでも確かなノックの音に、眠りについていた横島は目を覚ます。
この後になって、横島はよくぞ自分が目を覚ましたものだと思う。
もしも目を覚まさなかったとしたら……そう思うだけで身震いがするのだ。
「んああ……、誰だよ……」
「ゴ、ゴメンなちゃい…… 寝てたでちゅか?」
ドアの影から、パジャマに着替え、枕を抱いたパピリオが恐る恐る顔を覗かせる。
眠りしなで無理に開けた目が、どうしたって嫌そうな目つきに見える。
それがまた、パピリオを戸惑わせていた。
「何だ、パピリオか…… どうしたんだよ……」
「ゴメンなちゃい、起こしちゃって……」
「いや、別にいいけどよ……」
「あ、あのでちゅね、今日はその……、一緒に寝てもいいでちゅか?」
恥ずかしそうに、もじもじとしながら、おねだりをするように聞いてくる。
パピリオの言う寝るとは、文字通り寝ることであって、深い意味はない。
「ああ……、別にいいけど」
そう言って横島はベッドの上で体をずらし、一人分のスペースを空ける。
家具付きで購入したこのベッドは幅広く、大人二人ぶんぐらいの余裕はあるのだった。
「えへへ……、おじゃましまちゅ」
嬉しさいっぱいという感じのパピリオは、いそいそとベッドの端を昇り、横島の脇にもぐりこむ。
「でも、意外だな、お前がこんなことするなんて」
パピリオが見た目どおりの小さな子供だったとしたら不思議には思わなかっただろう。
とかく子供というものは、夜が怖い、風が怖い、雷が怖いといっては泣くものだからだ。
しかし、見た目が小さくたってもパピリオはれっきとした魔族だ。
闇に生きる種の魔族が、夜を恐れるわけがなかった。
「失礼でちゅねえ。私にだって、そう思うときはありまちゅ」
「ホントかねえ」
「だからヨコシマは女心がわかってない、というんでちゅ」
「さよけ」
灯りを消した部屋で、ふっ、と沈黙が訪れる。
「……ねえ、ポチ」
不意にパピリオが横島のことをポチ、と呼んだ。
その名前はかつて、パピリオがペットとして横島を連れてきたときに付けた名前だった。
今はもう、ルシオラが怒るので誰もその名前で呼ばなくなって久しいが、不思議と嫌な気はしなかった。
「何だ?」
「今日は楽しかったでちゅねえ」
「そうだな」
「この前の花火大会も、海水浴も楽しかったでちゅ。その前の温泉旅行も――」
パピリオは今までに行った場所を、あれこれと思い出しては口にする。
その思い出に、横島はただうなずく返事を返すだけだった。
「それから……」
「思い出なんか、まだまだたくさん作れるさ。明日また、どっか行こうか」
「そう、でちゅね……」
「じゃ、今日はもう寝ようぜ。おやすみ」
少し気恥ずかしくなったのか、横島はごろり、とパピリオに背中を見せて寝返りを打った。
「おやすみなちゃい……」
かなり我慢していたのだろう、早くも寝息を立てている横島の背中に、パピリオはぎゅっ、としがみついて呟いた。
「私のこと、ずっと覚えててね……ポチ」
それに応えるものは、誰もいなかった。
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