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【南半球的夏企画】ひとひらの夏 3

「温泉?」

「でちゅか?」

「うむ」

鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、鸚鵡返しに聞き返すルシオラたちを横目に、土偶羅は愛用の湯飲みで茶をすすりながら、鷹揚に頷いた。
ただ一文字、”寿”と書かれた土肌にビードロ釉をかけた器は、一見すると伊賀焼のようでもあるが、実はそれほど銘があるものでもなく、部下のハニワ兵がどこぞの露店で買い求めてきたものでしかない。
それでも、失ってしまった逆天号から持ち出した数少ない品で、これで濃い目に煎れた安い粉茶を飲むのが、土偶羅の至福の一時であった。

「なんでまた?」

飲み干した空き缶を脇にどけ、すかさず二本目のビールのプルタブに指をかけるベスパが問うた。
この別荘に来てからというもの、増える一方のその酒量こそが今回の勧めの一因でもあるのだが、土偶羅は特になにも言わなかった。
小言は言わない代わりに、湯気の出の薄くなった湯飲みを傍らに置いて言った。

「別に理由というほどのこともないんだが、こうも何もすることがないとさすがにヒマだろう? たまには少し気晴らしに出かけてみるのも悪くはあるまい」

「温泉ねえ……まあ、悪くないけど、ちょっと地味じゃない?」

「つまんないでちゅー! どうせならデジャブ―ランドとか、そういうとこのほうがいいでちゅ!」

「お心遣いはありがたいのですけれど……やっぱり、あんまり人目につくのもどうかと思いますし」

三姉妹がそれぞれに異議を唱えてくるが、土偶羅はまともに取り合おうとはしない。
ちなみに、今ここに横島がいたら、一も二もなく賛成しただろうが、あいにくと買い物に出ていて不在であった。
未だに身柄を拘束された生活とはいえ、近所に一人で買い物に行かされるぐらいには信用されている。
もちろん、彼らの目を盗んで逃げ出すことなどできやしない、と見透かされてのことでもあった。

「ああ、そのことなら心配いらん。ここはな、昔からアシュタロス様が昵懇の宿での。お前たちの正体なぞ誰も気にはせんわい」

それにな、と土偶羅は三本しかない指のひとつを、ずい、と突き出して言う。

「ここの温泉は良いぞ。効能は肩こりに腰痛、それに美肌効果も高いと評判じゃ」

土偶羅の最後の言葉に、ルシオラたちの表情が、さっ、と変わる。

「……ま、まあ、たまには地味なのもいいでちゅね」

「そ、そうね……」

「よし、それじゃ決まりー!」

それぞれの思いを余所に、一泊二日の小旅行が決定した。





梅雨前線にすっぽりと覆われた日本列島の、しかもウィークデイともあって、湘南海岸とを結ぶバイパス道路に車の影は少ない。
そんな中を、路面に残る今朝まで激しく降っていた雨の痕を掻き分け、ルシオラの運転する車が軽快に走る。
もともと彼女たちの暮らす別荘から温泉宿までは、直線距離でおよそ十キロも離れていない近さで、わざわざ有料道路に乗り入れる必要もない。
だけど、ルシオラ自身が信号のない道を運転するのが好きなこともあってか、自然とこの道を選んでいた。
早川の河口で左に大きく曲がり、川の流れに逆らって空中を滑らせるようにアクセルをふかすと、まるで山の中に吸い込まれていくような錯覚に囚われる。
やがて、厚木から流れてきた車と合流する頃には、もう出口となった。
世界でも珍しい、広軌と狭軌併用の三線軌となっている登山鉄道と平行して走ると、そこはもう、目的の温泉地の入り口であった。

「なんだ、もう着いちゃったんでちゅか」

車の運転には興味のないパピリオが、読んでいた絵本から目を離して聞いた。実際、まだ半分も読み終わっていない。

「ううん、ここもそうなんだけど、今日泊まる宿はまだずっと先よ」

ハンドルを握るルシオラは、バックミラー越しに答える。
期待はずれの返事を聞いたパピリオは、後部座席でさっきとは正反対の不満を募らせる。

「えー、まだかかるんでちゅかー。もう疲れたでちゅ」

「もう、そんなこと言わないで」

「だってー」

「それにしてもあれだねえ。休みでもないのに、なんだか人間が多いね」

さして広くもない後部座席で窮屈そうにしながら、それでもしっかりとビールを飲みながら、ベスパが呟く。
渋滞こそしていないが、さっきまで走っていた有料道路とは違い、温泉街の街中を走る国道は、乗用車や大型観光バスの車列が途切れることはない。
鏡越しにその様をちらりと見たルシオラだったが、さすがに振り向くことはしなかった。もう、何本目なのかも数えてはいない。

「このぐらいはしかたがないわよ。これでも普段よりはずいぶんと空いてるみたいだし」

「はー、世の中には暇人が多いってことかねー」

「まあ、ここは有名な温泉だからなー」

助手席に座る横島も、軽い相槌を打つ感じで話を合わせてくる。
関西でずっと育ってきた彼も、西の有馬温泉と並び称される有数の温泉ということは知っていたし、話に聞いてもいた。
ただ、来た事はあるのかと聞かれれば――

「なんだ、ヨコシマは来たことあるの?」

「……入浴剤で売ってるのは見たことあるぞ」

「なによ、それ」

ご当地の温泉とは何も関係がないのは百も承知だが、興味本位でスーパーの棚に並んでいる銘柄のを手にとったことはある。
だが、悲しいかな、帰れなくなって久しいボロアパートには、それを入れる湯船がなかった。

「甲斐性なしでちゅねえ、ヨコシマは」

「やかましいわい! なんで、入浴剤ごときでそこまで言われにゃならんねん!」

「きゃー! 怖いでちゅー!」

「こら、よしなって」

「あっ!」

おどけてしがみついてくるパピリオをたしなめ、ベスパが残りのビールを一気に呷ろうとしたとき、急にルシオラがブレーキを掛けた。
慣れぬ道を走らせていた観光客が急停車するのはよくあることなのか、それほど慌てるでも、クラクションを鳴らすでもなく、助手席のすぐ脇を大型観光バスがすり抜けていった。

「ど、どうしたんだよ、ルシオラ?」

「もう、姉さんったら、なにやってんのさ」

「やーん、びちょびちょでちゅ……」

助手席の横島は驚き、ビールをこぼしてしまったベスパは文句を言い、それを服にかけられてしまったパピリオは今にも泣きそうな顔をしていた。飲みもしないお酒の匂いほど嫌なものはない。
すぐさま横島がバッグを開いてタオルを手渡すが、ルシオラは一顧だにしない。
謝りもしないルシオラの態度に、ベスパもパピリオも抗議をしようとしたが、運転席から周りの様子をしきりに窺い、手持ちの地図を真剣な表情で見つめるのを見て、もしや、という疑念に囚われる。

「ルシオラちゃん、もしかして、誰かに見つかったとか……?」

「Gメンかっ!? まさか、神族の連中じゃあないだろうねっ!?」

「なっ! マジかよ!!」

ワーゲン・ビートルの狭い室内に緊張が走る。
逃亡した海外の探索に戦力を割かれ、とても国内までは手が回らないだろうと踏んだオカルトGメンたちの罠に嵌まってしまったのか。
それとも、全てを見通してはいてもろくに見てはいないヒャクメの、有能だかどうだかわからない千里眼に運悪く捕らえられてしまったのか。
いずれにせよ、身動きも満足に出来ない状態で奇襲を受けては、さすがの彼女たちでもひとたまりもない。
かつて、諸共に逆天号を撃沈しようとした非情さを思えば、助手席に座る横島の、人質としての価値を認めてくれそうにもない。
ベスパたちは、今や絶体絶命の危機に立たされている気がしてならなかった。
おそらく、この危機をなんとか打開すべく、必死になって策を練っているのであろうルシオラの、次の一言が彼女たちの運命を決める。
やがて、地図からゆっくりと上げた顔をこちらに向けるのを見て、思わずごくりと息を飲んだ。

「ゴメン、道間違えちゃった」

「だああっっ!!」

バツが悪そうに、舌をぺろっと出して謝るルシオラの台詞に、横島はダッシュボードに突っ伏し、ベスパとパピリオは後部座席に倒れ込んだ。





行きつ戻りつのうちに、なんとか乗れた旧東海道を上っていく。
蒼々と茂る木々に隠れた滝を見やり、二子山と呼ばれる、二双の山の麓でハンドルを右に切った。
彼らの別荘へ至る道によく似た、未舗装の狭い道をしばらく走らせると、急に視界が大きく開け、明るくなった。

「到着ーー!」

大胆なハンドルさばきでタイヤを軋ませ、ほとんど建物にぶつけるようにして停めたルシオラが、颯爽と車から降りて大きく背伸びをする。
しかし、他の同乗者たちは、そんな爽やかな気分ではない。心なしか、ビートルのエンジンに擬態した魔物ですら、披露困憊している様子だった。

「やっと着いたかあ……」

「なーんか、えらい目にあった気がするんだけど……」

「気持ち悪いでちゅ……」

死屍累々、といった有様で、のそのそと車から這いずり出てくるのを見て、ルシオラが不満そうに言った。

「何よ、みんな。運転していたのは私じゃない。なんで、そんな顔してんのよ」

「だってなあ……」

「姉さん……、散々迷ったくせに、そんなコト言うかい、普通?」

「だ、だって、土偶羅様に書いてもらった地図が悪いのよ。ガイドブックにも載ってないし……」

「それにしたって、ねえ?」

「しょうがないじゃない! まさか、カーナビとか付ける訳にはいかないんだし……」

カーナビに利用されているGPSそのものは、あくまでもGPS衛星からの電波を受信し、三次元測位の原理を応用して空間上の一点を特定するというもので、個々の受信機の位置を全て追跡しているものではない。
しかし、市販のカーナビは、位置情報を補足するために地上の基地局に対して測距情報を発信しており、自らの位置を公開してしまう。
そのため、彼女らの利用が人類側に万が一気付かれた場合、人工的に作られた、擬似雑音系列と呼ばれる送信データを送り続けることによって、ピンポイントでその位置を補足し続けることが可能になってしまう恐れがあった。
しかし、そのことに配慮することと、走っている道を迷い続けるのとでは、全く別の問題であった。

「もう、そんなのはどうでもいいでちゅから、お風呂に入らせてくだちゃい……」

言い争いをする姉二人をよそに、げんなりとしたパピリオが懇願する。
マンガだったら、顔に縦線が入って、背景にどんよりとしたトーンが張られていてもおかしくない表情だった。
そのタイミングを待っていたのだろうか、玄関から出てきた、女将らしき女性が声をかける。

「いらっしゃいませ、お客さま」

「あっ、どうも……」

「遠いところをお疲れでございましょう。さあ、こちらへどうぞ」

女将はにっこりと微笑んで中に入るよう促すが、ルシオラたちは少しためらっていた。
赤毛連盟にも入れそうな見事な色の髪に、燃える炎か流水紋にも似た図柄の和服は些かアンマッチだが、その佇まいはふくよかで上品であった。
ほんの少したれ目の、温和そうな顔はどことなく日本人ばなれしているが、ふんわりとして暖かそうな雰囲気を纏う美人だった。
アシュタロスが懇意にしているというからには、見た目ではわからない背景があるのだろうが、およそ魔族と関係のありそうな人柄には見えなかった。

(ね、姉さん、ホントにココ、大丈夫なんだろうね?)

(うーん、土偶羅様は心配いらないって言ってたけど……)

ルシオラとベスパは小声でひそひそと話をしているが、横島はそんなことは構わない。
母性を感じさせる年上の、優しそうな美人とくれば、思いっきり彼のストライクゾーンで、最近鳴りを潜めていた浮気心がにょきにょきと顔を出す。

「ボ、ボク横島っ! 今日からここの常連で――!」

「アレ、お客さま、おたわむれを――」

「ちょっと! なにやってんのよ、ヨコシマーーッ!」

いつのまにか手まで握る、横島の臆面もない行動にルシオラはつい大声を出し、ベスパはずっこけてしまう。
そのとき、先程ぶつけそうになった車の衝撃で緩んでいたのか、屋根の上に掲げた看板が落下してきた。
危ない、と思う間もなく、宿の名前が大きく揮毫された看板は、あろうことか女将の身体を直撃し、ぐしゃり、と嫌な音を立てて押し潰した。

「どわあッ!?」

目の前で起きた、予想だにしない惨劇に、横島やルシオラたちは呆然と立ち尽くしている。ちなみにパピリオは、玄関先で居眠りをしていた。
最早、手も足も原形を留めてなく、地面に突き刺さった看板の他は、どろりとした謎の液体が広がるばかりだった。
トラウマになりそうな光景がおよそ二コマほど続いたのち、謎の液体が、にゅっ、と屹立したかと思うと、たちまち元の女将の姿になった。

「大変失礼いたしました。お怪我はございませんか?」

「え、ええ……」

「よかった」

女将は、ほっ、と胸を撫で下ろすと、襟元を正して深々とお辞儀をする。

「あらためてご挨拶をさせていただきます。うちは当館の女将を努めさせて頂いております、パンドラですのサ。どうぞよしなに」

「――こんなこったろうと思ったよっ! どちくしょおおおおおっっ!!」

「お、お客さまっ!?」

「いーのいーの。ほっといてあげて。それよりもさ、部屋案内してくれる?」

「?? は、はい、では、どうぞこちらへ――」

泣きながら駐車場の片隅へと走っていった横島を余所に、ルシオラとベスパは安堵して宿の中へと入る。
もしかして間違った宿へと来てしまったのではないかと疑っていたのだが、これ以上はない確かな証明に安心することが出来た。
空から降ってきた、かどうかはわからないが、人間じゃない女のコが経営する温泉旅館なぞ、そう滅多にあるものでもない。





小さなバッグを下ろし、上質の畳の上に足を投げ出すと、それだけで人心地ついた気分になる。
さらには、自然の森を上手く生かした庭から流れ込む、そぼ濡れた木々の匂いに吹かれると、何もかも忘れられる開放感があった。

「あー、幸せー!」

備え付けの柔らかな座布団も使わず、畳に突っ伏してごろごろしているルシオラは、この上ない幸せを満喫していた。
パピリオはさっさと浴衣に着替え、広い館内をあちこち探検して回っていた。もっとも、大規模なホテルや旅館とは違うので、ゲームコーナーやお土産売り場などがあるわけではない。
さらにベスパは、なにやら企んでいることがあるようで、部屋を下がった女将を捕まえて話し込んでいた。

「ルシオラちゃん、ルシオラちゃん、露天風呂があるでちゅよ。早く行くでちゅ!」

「んー、もうちょっとだけー」

「お待たせー! ん? なんだい、姉さんまだ寝てんの?」

「あっ、ベスパちゃん! もー、ルシオラちゃんったら、さっきからずっとこんな調子なんでちゅよー。 なんとか言ってくだちゃい」

「姉さんもしょうがないなあ。じゃ、先に二人で入ってこようか」

「……もう、わかったわよー。今行くから」

もそもそと起き出して、自分の浴衣とタオルを選ぶ姉を置いて、妹二人はいそいそと大浴場に向かっていった。

その頃、横島の方はといえば、一時のショックから立ち直り、ルシオラたちの後を追うべく館内を歩いていた。
ずっと一緒にいるとうっかり忘れてしまいそうになるが、ルシオラたちは人間ではなく魔族なのだから、旅館の女将が人間でなくったってたいしたことではない。
たとえ、上質で柔らかそうな和服に見えるのが、実は得体の知れないなにかで出来ていようとも、その事実から目を背けさえすればいいのだ。
一応、今夜の夕食が気になるので厨房を覗いて見たりもしたが、怪しげなハニワ兵が立ち働いているということもなく、実に美味そうな食材が運ばれていた。
それに、アレは食事をしなくても平気なような気がする。きっと、そうに違いない。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、配膳の準備中なのだろうか、たくさんの膳を持った仲居とすれ違う。

「ム!」

ベテランらしい中年の仲居はぴたり、と足を止め、鋭い眼光を横島に向けて言い放つ。

「アンタ――恋をしてるね」

「のわあっ!?」

思わず大きく仰け反り、そばのダンボールに頭から突っ込んでしまう。
けれども、仲居はそんな横島の様子には動ぜず、きらりと目を光らせる。

「訳ありだね。道ならぬ恋とみたよ」

「な……、なぜ、それを……」

「温泉旅館の仲居を勤めて四十年、無数の宿泊客を見てきたあたしにゃピンときたね」

いつの間にやら腕を組んで、遠い目をしている。
もしかして、この仲居も妖怪かなにかなのかと思ったが、どうやら普通の人間らしい。

(いろんな人生があるんだなあ……)

柄にもなく感心してしまう横島だったが、その正体はただのしゃべり好きのおばさんだったらしく、延々と無駄話を聞かされて、早々に音を上げるはめになった。
ようやくに開放されてたどりついた部屋には誰の姿もなく、またもがっくりと肩を落とす。

「みんな俺を置いてけぼりにして……。しょうがない、俺もひとっ風呂浴びてくるかな」

そう言うが早いか、荷物を置いて、大浴場へと足を向ける。

「ふろ――む らっしゃ―― ういずら―――――ぶ♪」

小脇にタオルと浴衣を抱え、ぎりぎりコードにかからない鼻歌を口ずさむ。
日本人とは不思議なもので、温泉と聞くだけでどこか浮ついた気分となり、深く考えなくなったり、注意が散漫になったりしてしまう。もちろん、横島とて例外ではない。
大浴場の二つの入り口にかかる暖簾は藍染めで、それぞれ一文字ずつが大きく白抜きになっている。
どうしてこれでわからないのか、と他人は常に疑問に思うのだが、見ていない者には見えてなく、読みもしない者は読まないものなのだ。

「い――なり ずし――な――ら♪」

いなり寿司がいったいどうしたのか、もはや頭に浮かぶCMのフレーズをそのまま口にしているだけで、何の脈絡も意味もない。
確かに、慰安旅行で羽目を外した宴会芸にいなりずしはよくある手だが、さすがにそれを披露する場でもない。
だいいち、そんなことをすれば、今はまだ出番のない狐の化身に祟られてしまうかもしれないではないか。
それはともかく、男湯一人という気安さのままに、脱衣所を隔てる曇りガラスの扉を勢いよく開けた。

「あ……」

脱衣所にはすでに先客がいた。
小恥ずかしい鼻歌まじりなぞを聞かれるだけでも赤面ものだが、今日の宿には他に予定の客はいないという。
ということは、つまり――

「きゃーーっ! ヨコシマのエッチーーッ!!」

シフォンフリルのリフトアップ・ブラを外したルシオラは、慌てて胸を隠して叫び、マリンブルーにブラックの縁取りというシンプルなデザインのスポーティーなショーツに手をかけていたベスパはそのまま硬直する。
一方、キャラクタープリントのショーツ一枚ではしゃぎまわっていたパピリオは、あまり気にした素振りでもない。

「あ、いや、べ、別に、覗きにきたわけじゃなく――」

「いいから、さっさと出てけーーっ!!」

「ぶへっ!?」

思いもしない光景に、逆にうろたえてしまう横島だったが、高級旅館には似つかわしくないはずなのに、何故か山積で置かれているケロヨンの手桶に追われ、ほうほうの態で逃げ出すはめになった。





「あー、びっくりした」

内湯につかりながら、横島は、ほおっ、と息を吐く。
その気もないのに、間違えて女湯に入ってしまったのなら至極当然だろう。
しかし、それが横島の口から出たとなると、何故だか妙に嘘くさい。
脇に積まれていた湯桶がバランスを崩して倒れると、びくっとして怯える始末であった。

今までの振る舞いが災いしてか、あらぬ疑念を抱かせる横島だったが、実のところ、本当に覗くつもりはなかった。
それどころか、あの別荘に一緒になって二月の間、ルシオラたちの誰一人として風呂はおろか、着替え一つに至るまで目にしたことはない。
日頃の彼をよく知る人が聞けば、我が耳を疑うだろう。目を疑うだろう。
けれども、それにははっきりとした理由があるのだった。

少しぬる目の浴槽から、バイブラ・バスへと移動する。ジェット水流が作り出す気泡が、たちまち身体を包み込む。

「はー、柄じゃねえよなあ、まったく……」

背中のツボを押される心地よさに身を任せ、浮力を得て浮かぶ足を伸ばして呟きを漏らす。
人に言われるまでもなく、並外れた煩悩を誇る己の行動が、自分らしくないのは充分にわかっていた。

「だけど、やっぱ、できねーよなあ……」

何が、とは問うまでもない。
だが、そのあとに待ち構えているのは何か。
身勝手な欲望に翻弄され、一時の快楽に流されてしまったあとに待ち受けるもの、それは、抱いた女の死、という現実しかない。
ルシオラは、どうせそのうち消滅するのなら、惚れた男に抱かれて終わるのも悪くない、などと言うが、とてもそんな風に割り切れるものではない。





「ま、悩んでいてもしょうがないか」

そこそこほぐれた身を勢いよく起こすと、すたすたと歩み寄って、外へと通じる引き戸に手をかける。
温泉旅館のご多分に漏れず、この外は自慢の露天風呂となっていて、そこからの景観が宿のウリのひとつらしい。

「おおっ! すっげえーーっ!!」

軽く身を振るわせる空気を横切ると、すぐさま生垣の向こうに目を奪われ、横島は思わず声を上げる。
カルデラの外輪山を形成する山々は、弧を描くように連なり、まだ高い陽に照らされた青葉が輝いている。その奥に、微かに煙ってきらめくのは湖だろうか。
山の中腹より少し高い場所にある宿の、切り立った崖の上に位置する露天風呂からの眺めは、あたかも宙に浮かんでいるかのような錯覚を覚えさせる。
もっとも、眼下には『第三新東京市建設予定地』などと書かれた、野暮で無粋な看板が立っていて興が冷めるのだが、見ないようにすればどうということもない。
何もかも忘れさせてくれるような、雄大な景色に感嘆しつつ、岩造りの広い湯船に身を任せた。

「はあー、極楽極楽、っと」

なにやらおやじ臭い台詞を吐きながら、のんびりと湯に浸かる。
こんなにのびのびとしてお風呂に入ったのは、はたしていつ以来のことだろうか。
と、そのとき、横島の耳にルシオラたちの声が聞こえた。

「ねえ、ホントにこんなの持っていくの?」

「いいじゃないか、女将さんには了解もらってんだし。一度やってみたかったんだよ」

ルシオラとベスパが何をしているのかはわからないが、その声を聞いた途端、またもスケベ心というか、イタズラ心が騒ぎ出す。

(ははーん、向こうも入るんだな。それじゃ……)

ある意味お約束ではあろうが、女湯を覗いて見て、どうせすぐに気付かれて撃退される、そんな光景をイメージする。
さっきのでルシオラたちの反応はわかっているし、なにより、ケロヨンは実においしい。そんな芸人魂が囁くのだ。

(よっしゃ、そうと決まれば――)

まずは、男湯と女湯を隔てる板塀によじ登り、そこからよく見え、なおかつ見つかりやすいポイントへと移動する。
ケロヨンを食らったとき、派手に湯船に落ちれば最高だ。
そんな画を頭に描きながら脇を向いた横島は、思わず気の抜けた声を漏らす。

「へっ?」

そこには、視界を隔てる板塀も垣根もなく、どこまでも雄大な景色が連なっているばかりだったからだ。

「わーーーいっ!!」

どうなっているんだ、と疑問に思う間もなく、激しく水しぶきを上げて、何かが湯船に飛び込んできた。
それは何かと尋ねるまでもなく――

「パ、パピリオ!?」

「うわあ、すっごいでちゅー!!」

「な、なんでお前がここにっ!? ということは、も、もしかして――」

「パピリオったら、そんなに勢いよく飛び込んだら危ないでしょ――あら、ヨコシマも来てたのね」

「ほら、見てみなよ、姉さん。いい景色だねえ」

「ル、ルシオラッ!? ベスパまでっ!?」

振り向いた先には、一糸纏わぬ姿で立つ、二人の美女がいた。

「どどど、どうしてここにルシオラがっ!?」

「どうしてって、私たちも露天風呂に入りに来たからに決まってるじゃない」

「だ、だって、こっちは男湯――」

そう言って横島は、自分が入ってきた方に目を走らせる。別になにも変わったところはなく、来たときのまんまだった。
その仕草にピン、ときたベスパは、片手に持っていた盆を湯船の側に置きながら、にやりと笑う。

「お前、さてはよく見なかったんだろ?」

「ここ、露天風呂は混浴よ?」

「なんですとおおおおおっっ!?」

その日、訪れていた多くの観光客が、山々に木霊する場違いな山彦の声を聞いたという。





「ぷはーっ、たまんないねえ、こりゃ」

ベスパは湯に浸かりながら、持ってきた徳利からぬる燗にした日本酒を猪口に注ぎ、一息に飲み干す。
さっき、宿の女将に相談していたのは、露天風呂でお酒を飲むことだったのだ。
何かの折にテレビでその様子を見て以来、機会があれば一度やってみようと思っていたのだった。

「ちょっとベスパ、なんだかおやじ臭いわよ」

「いいからいいから。それより、姉さんも飲む?」

「――じゃ、ちょっとだけ」

姉妹同士の差しつ差されつのやりとりを、横島はじっと身を小さくして見つめている。
顔がすでに真っ赤になっているのは、のぼせているからでは決してない。
それを見越したベスパは、再度にやりと笑って声をかける。

「なんだよヨコシマ。あんたもこっちへ来て飲めばいいじゃんか」

「い、いいって俺は! み、未成年だし……」

「つれないねえ。女の誘いを断るもんじゃないよ」

「あのなあ……」

「ははは。冗談だよ、じょーだん」

ベスパは高らかに笑って、また猪口を飲み干す。
自然と上背を反らせたときに、波立つ水面から胸の先が見えた。
見ようと思ってなくても、つい見てしまう。

「あ、あのさ……」

「ん?」

「なんで、裸なのさ……?」

「バッカだねえ。お風呂に入るんだからさ、脱ぐに決まってるじゃないか」

「それにしたって、湯浴み着とか、バスタオルとか……」

そう、今の彼女たちはパピリオはともかく、ルシオラもベスパも何も身に付けてはいない。
にごりではない湯の中で、ゆらゆらと揺らめく加減が、いっそ艶かしい躰を強調する。

「別にいいじゃないか。見られて困るもんじゃなし」

「俺が困るんだって!」

さすがにそろそろ限界だった。それはもう、いろいろと。

「……だいたい、さっき間違えたときはあんなに嫌がったくせに、なんで今は平気なんだよ」

「ああ、それは――」

事もなげにベスパが答えようとしたとき、広い湯船で泳ぎ回っていたパピリオが、すいーっと平泳ぎで割り込んでくる。

「ヨコシマも女心がわかってないでちゅねー」

「へっ? 何が?」

「着替えを見られるのと、裸を見られるのは違うんでちゅよ」

「そ、そういうもんなのか?」

「そうよお!」

急に大きな声を出して、ルシオラが横島を睨み付ける。
心なしか、目つきがとろん、としていた。

「ど、どうしたんだ、ルシオラ? まさか、もう酔ったとか……?」

「よおってなんか、いないわよおー」

嘘だ。明らかに嘘だった。
普段も飲み慣れていないというのに、風呂に入って温まりながら飲む酒は、殊のほかまわりが早い。
それがために、飲酒した後の入浴を禁止しているところも少なくない。

「嘘だー! 絶対酔っ払ってるって!」

「むー!」

そんな横島の声は無視して、自分の隣の水面をばちゃばちゃと叩く。どうやら、側に来い、ということらしい。
本来ならば嬉しい恋人のお誘いだが、今の横島は躊躇いを隠せない。
ルシオラの側に行くには、立って岩を跨ぐしかないのだが、立つに立たれぬ事情がある。

素朴な疑問なのだが、欧米などにあるヌーディストビーチで、意に反して勃ってしまった場合、いったいどうすればいいのだろうか。
その答えは簡単である。
勃ったままの自分をさらけ出してしまえばいいのだ。
だけど、横島にはナチュラリストとしての気構えがあるわけでもなく、

「お、おじゃまします……」

ハンドタオルで前を隠し、不自然に身をかがめて来る以外に方法はなかった。

「むっふっふー」

つかず離れずの距離を置いて並んだつもりなのに、すぐさまルシオラが片腕を取ってしがみつく。
何がうれしいのか、ごろごろとのどを鳴らしそうな感じで、頭を擦り寄らせてくる。
そうなれば当然、二人の間にはすき間もなく、密着するのも自明の理だった。

(おわあっ!? む、胸がっ! ふとももがっ!?)

アングル的には、まだ少年誌の許容範囲だろうが、さすがに横島の理性も限界に近い。
体中の血という血が一箇所に固まって、貧血すら起こしそうになる。
そんな、苦悶にも近い横島の表情を見て、ベスパはさも面白そうに笑う。

「あんたも大変だねえ。どうよ? このまま、姉さんを抱いてあげれば?」

「そんなこと出来るかっ!!」

文字通りの悪魔の囁きに抗い、横島は耐えるように叫ぶ。
本当のところを言えば、このままルシオラを抱いてしまいたい。ヤッてしまいたい。
けれども、一時の欲望に流されてしまっては、ルシオラは消滅して死んでしまうのだ。そんなこと、絶対に出来るはずがない。
そんな横島の決意を知ってか知らずか、更なる悪魔の誘惑が聞こえてくる。

「なら、代わりにあたしとするかい? いいよ、あんたさえその気ならね」

別段、艶かしいポーズをするでもなく、またも酒を飲み干しながら事もなげに言う。
その後に訪れる出来事など、どうでもいいといった風情だった。
湯に触れぬよう、まとめ上げた長い髪がひと房、はらりと垂れた。

「ぐっ……!」

次々と繰り出される悪魔の攻撃に、横島は歯を食いしばって耐える。
たとえルシオラが死ななくったって、ベスパが犠牲になってしまっては同じことだ。
こういうときに限って、鼻血も気絶もしない自分の体質が、いっそ恨めしかった。
しかし、横島は忘れていた。この場には、もう一人の悪魔がいることを。

「もう、ベスパちゃんったら、ヨコシマがかわいそうでちゅよ」

「パ、パピリオ……」

「ベスパちゃんにだってテン・コマンドメントが組み込まれてるんでちゅから、ヨコシマがそんなこと出来るわけがないでちゅか」

「そ、そうだよなっ! さすが――」

「だから、私とすればいいんでちゅよ」

「パ、パピリオッ!?」

「ルシオラちゃんやベスパちゃんと違い、私にはコード7は組み込まれていないでちゅからね、大丈夫なんでちゅよ」

「え? そうなのか?」

「アシュ様も、さすがに私に手を出す人間がいるとは思わなかったみたいで、設定すらしていないって土偶羅様が言ってまちた」

だから、ね、とパピリオは振り向いてにっこりと笑う。
その無邪気な笑顔は、どんな妖艶な悪魔よりも凶悪だった。

断じて言うが、横島忠夫はロリコンでは決してない。
今までも、そしておそらくこれからも、いわゆる幼女趣味に手を出すことはありえない。
だが、このぎりぎりまで追い詰められた極限の状況の中で、はたして正常な判断が出来たであろうか。
その証拠に、お湯の中に立って笑うパピリオの姿は、たまらなく魅力的に見える。
しかし、魔神でさえも想定しなかった相手に手を出してしまって、はたして人としてどうなのだろうか。
人類の敵としてどうとか以前に、何か自分の大切なものが失われてしまうのではないか。

どれだけ思考回路の中で演算が繰り返されたのだろうか、ショートしかかっている理性よりも先に、身体のほうが動いた。
横島はゆらりと立ち上がり、タオルを引っかけたまま、ゆっくりとパピリオに近づいていく。
相変わらずの笑顔の中に、期待とちょっぴりの不安をない交ぜにしたパピリオに手を触れさせる寸前、またも突然にルシオラが叫ぶ。

「やっぱりダメーーーッ!!」

その叫びと共に、加減を忘れた電撃が水面の上を走り、無防備な横島の背中に直撃する。
強烈な麻酔に刈り取られる間際、

(それだっ!)

と言わんばかりに、親指を押し上げたところで意識が途絶えた。





身体を揺るがす小刻みな振動で、ふと我に返る。

「あれ……、ここは……?」

なにやら、見覚えのあるシートに座っていた。
きょろきょろと左右に首を振り、窓の外を眺めれば、赤い髪の女将とルシオラが話しているのが見える。

「ここは、って、車の中に決まってるだろ。何寝ぼけてんのさ」

後部座席に陣取っていたベスパが、呆れたように返事をする。
なるほど、確かに乗り慣れたワーゲン・ビートルの助手席だ。しかし――

「えっ? 今から何処に行くんだよ?」

「何処って、家に帰るんだよ。何を言ってんのさ?」

「帰る? だって、今日は泊まりだろ? 晩メシは? 足柄牛のステーキは?」

「昨日さんざん食ったじゃないか! パピリオの分まで取っちゃって……」

「そうでちゅ! ひどいでちゅ!」

「えええっ!?」

「おっまたせー! ……あら、どうしたの?」

「あ、姉さん。寝ぼけてんのか知らないけど、ヨコシマが変なコト言ってんだよ」

「そうなの? 昨日、飲み過ぎたからかしらね? さ、それじゃ帰るわよ」

「納得いかーーーん!!」

ありがとうございました、という女将の声が、何故かむなしく聞こえて去っていった。
さらに続けて第三話です。
これはもう、ルシオラ好きのアラコさんに奉げますw
描写的にはぎりぎりサンデー準拠かな……と思いますがどうでしょう?

実は、ここでちょうど折り返し地点。
でも、ここで止めといたほうがキレイなんだよなぁ……(苦笑)

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