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【南半球的夏企画】ひとひらの夏 2

いくつかの約束を交わして、いくつかの約束を破り、ほんの少し意気地がなかったせいで、果たせないままに迎えた翌朝、横島は見慣れない部屋で目を覚ました。
日当たりの悪い四畳半の自分の部屋とは段違いの、白いレースのカーテンから漏れる明るい日差しが辺り一面に降り注ぎ、少し開いた窓から流れる風に、ゆらゆらと揺れていた。
泊ったことのないペンションの一室のような場所に、一瞬だけ記憶の混乱を覚えるが、やがてルシオラたちの隠れ家だということを思い出すと、安堵して枕に顔を埋め直す。
ふかふかのクッションと、清潔なシーツの匂いが、横島を幸せの眠りへと誘うが、そのささやかな幸せを奪い取ろうとする、小さな悪魔がいることを忘れていた。

「ヨコシマーーー! いつまで寝てるでちゅかーーー!!」

鍵は開けておいたはずの木製のドアを、文字通り吹き飛ばしたパピリオが飛び込んで来て、その勢いのままにベッドへと向かって跳躍する。
きれいな放物線を描き、その速度と質量に比した衝撃は、フライングボディープレスの形を取って、着弾点に明確に作用する。

「ぐほぉっ!!」

「やーーーっと起きたでちゅね、ごはんでちゅよ」

「目が覚める前に死んでしまうわーーーっ!!」

強制的に腹から搾り出された空気とともに、あやうく遠ざかりかけた魂の叫びが木霊するが、当のパピリオはどこ吹く風といった涼しい顔をしている。

「今日はみんなでおでかけしまちゅから、早く朝ごはんを食べるでちゅ」

「……え、出かけるって、どこへ?」

「いいから、さっさと起きるでちゅ!」

予定になかった唐突な話に戸惑う横島を無視して、パピリオは勢いよく軽めの夏掛けの布団を剥ぎ取ってしまう。
Tシャツにトランクス、という格好ではあったが、見られては困る状態でなかったのが不幸中の幸いだった。

「じゃ、みんな待ってまちゅから、早く着替えて来るでちゅ。あ、ドアはちゃんと閉めておくように」

自分の背丈の倍はあるドアを軽々と立て掛けておいて、パピリオはさっさと下に降りていってしまった。
一応は視線は遮られるものの、プライバシーのなくなってしまった部屋の惨状に、またひとつ余計な仕事が増えたことを思い、横島は肩を落とした。





身支度もそこそこに急いで下に降りると、大きなダイニングテーブルに三姉妹が席について待っていた。

「遅いでちゅ!」

「おはよう、ヨコシマ。よく眠れた?」

「気持ちよく起きれた、ってわけじゃあなさそうだけどね」

そういいながらベスパが、くっ、くっ、と笑う。
自分が連れてきたはずの元ペットの名前を呼びながら、勢いよく階段を駆け上がる妹を見て、こうなることはわかっていた笑いだった。

「とりあえず、さっさと顔を洗ってきな。すぐできるからさ」

「……そうするわ」

横島が、洗面所へと足を向けるまもなく、パンケーキの焼ける香ばしい香りが流れてきた。
その香りの元を確かめるより前に、横島のお腹が、ぐぅ、と自己主張した。

急いで歯を磨き、顔を洗って手短に済ませたにもかかわらず、戻ってきたときにはダイニングが一変していた。
さっきまで何もなかったテーブルの上には、大小とりどりの白い皿が並び、オレンジジュースをたっぷりと注いだデカンタがある。
真ん中には、オーブンでふっくらと焼き上げられた卵焼きが、ちょうどスポンジケーキの台座みたいに丸のまま置かれている。
そして、きれいな焼き色のついたクレープが、横島が早く席につくのを待ち構えている。
一人暮らしのアパート生活は当然としても、除霊仕事明けに事務所で相伴に預かる朝食でも食べたことのない、見事な洋風のプランチだった。

「うわっ、なんか……スゴいっスね」

「そう? そんなに豪華だとは思わないけど」

「これ、ルシオラが? それともベスパ?」

「ううん、土偶羅様」

「土偶羅……様!?」

「そんな、取ってつけたように無理して"様”なぞ付けんでもいいわい」

ふん、と息を荒くして不機嫌そうにしてみせる土偶羅だったが、横島が答えに詰まったのはそれだけではない。
一応、本人は料理人のつもりなんだろう、ギャルソンタイプのエプロンを身につけているのだが、どうみても化粧まわしを巻いた関取にしか見えない。
そのギャップに、横島は大笑いするのも忘れて、唖然とするばかりだった。

「ほれ、さっさと席につかんか。せっかくのガレットが冷めてしまうだろうが」

仏頂面、というのかどうかはわからないが、むすっとした口調で土偶羅がルシオラたちを促す。
どうやら、土偶羅は料理人の役に徹するつもりらしく、エプロンを外そうともしない。

「はあい――ほら、ヨコシマも早く」

「あ、ああ……」

「いっただきまーす!」

まさか、朝の祈りを捧げるわけもなく、横島が席につくと同時に仲良く唱和して、ナイフとフォークを躍らせる。
丸いクレープにナイフを入れ、一口放り込むと、少し粉っぽいソバの香りがした。
クレープ、といえば学校帰りに女子高生が食べるような、生クリームにフルーツやチョコなどを挟んだ甘いデザートを想像してしまうが、これは少し違っていた。

ガレットとは、フランスのブルターニュ地方において、パンの代わりに主食として食べられていた、ソバ粉を原料とするクレープの一種だ。
ほんの半世紀昔の頃まで、痩せた彼の地では小麦は非常に高価で、とても日常の食事としてパンを食することはできなかった。
そこで、比較的弱い土壌でも安定した収穫が見込めるソバを栽培し、挽いた粉を練って、原始的なパンのように薄く延ばして焼く、というスタイルが出来上がる。
これは何もブルターニュ地方独特というわけではなく、似たようなものはヨーロッパの各地にある。
中でもユーゴスラビアやギリシャといった、山間の狭い土地が続くバルカン半島では、今もなお、昔ながらの栽培法とレシピで代々受け継がれているほどだ。
しかし、日本のそばを打ったことがあればわかると思うが、ソバの粉を練った生地は重く粘り、近頃は軽く仕上げるために小麦粉を混ぜるようになったとはいっても、薄く広げて焼き上げるのはかなり難しい。
それを家庭用のフライパンで、いともたやすく焼き上げるとは、土偶羅の腕前もなかなかのものだった。

「うまいな」

生まれて初めて食べるガレットだったが、しっかりと塩味が効いて甘くないのがちょうどいい。
だが、さすがにこれだけを食べて済ませるのは、ワインも飲まずに冷めて固くなったフランスパンだけを食べ続けるのと同じように厳しかった。

「ヨコシマ、ほら、お皿出して」

「あ、うん」

「このくらい大丈夫よね?」

白い皿にルシオラが取り分けてくれたのは、表面をきつね色に焼き上げられた卵焼きだった。
きっちり四等分された切り口からは、細かく刻まれた色とりどりの野菜やベーコンが重なり合い、切り口から、とろり、とチーズがにじみ出る。
映画『ひまわり』で、マルチェロ・マストロヤンニがソフィア・ローレンに作って一緒に食べた、あの卵焼きだった。

「うん、こっちもいけるな」

「何を生意気なことを言っておる。あたりまえだろうが」

まだ化粧まわしをつけたままの土偶羅が、至極横柄に、それでもまんざらでもない様子で焼きたてのガレットを追加する。
これがルシオラかベスパ、あるいはパピリオが焼いてくれたのなら、さらにおいしかったのかもしれなかったが、そのことはやんわりと無視して目の前の皿と、会話に専念することにした。

次から次へと焼き上げられるガレットを口に運び、結構ボリュームのある卵のオーブン焼きを食べ続けていると、さすがに飲み物が欲しくなる。
テーブルのデカンタの、まだ二杯分ほど残っているオレンジジュースに手を伸ばすと、ふと、向かいに座るベスパが飲んでいるものが気になった。
自分たちのゴブレットとは違う、窄めてスリムにした背の高いワイングラスに、淡く色づいた液体が注がれている。
ガラスのふちでがんばっていた細かな泡が、ひとつ、またひとつと浮かび上がっては消えるところをみると、ジンジャーエールのようにも思えるが、どことはわからないが感じが違う。
長いステアをつまみ、形のよいベスパの口に含まれる様をみると、わけもなくのどが鳴った。

「なあ、何を飲んでいるんだい?」

「ん? ああ、これかい? シードルだよ」

「シードル?」

聞き慣れない名前に、横島は鸚鵡返しに聞き返す。
その様子がおかしかったのか、ベスパはにこり、と笑って答える。

「英語に訳すとサイダーだね。飲んでみるかい?」

「ちょっとベスパ、よしなさいよ」

「いいじゃんか、これぐらい。なあ?」

ルシオラが邪魔をするのもかまわず、さあ、とばかりに腕を伸ばしてグラスを差し出す。
横島はちらり、とルシオラのほうに視線を向けるが、目の前で揺れるシードルの仄かな香りに好奇心がそそられた。
ゴブレットに少し残っていたオレンジジュースを飲み干し、ベスパの伸ばす腕の前に置いた。
けれども、ベスパはそれに注ごうとはしてくれない。

「そんなのに入れたら味が混ざっちゃうだろ。このまま飲みなって」

「いや、でも……」

「いいから」

間接キスになるのを知ってか知らずか、ベスパの勧めに気後れするが、つい受け取ってしまう。
ついこの間までの横島であれば、ベスパのような美人の飲みかけなら、それこそ舐め回すようにしてグラスにむしゃぶりついたに違いない。
だけど、ルシオラという、相思相愛の彼女が出来た今となっては、経験不足の男にありがちな、妙な臆病さが顔を出す。
ほんの少し眉をしかめたルシオラを見ながら、ベスパが口をつけていないはずの箇所に、恐る恐る唇を触れさせた。

「さあ、ぐっと飲んで」

思わぬ成り行きに戸惑う自分の気持ちをよそに、にこにことしながら勧めるベスパが気になったが、目を閉じてぐいっ、とグラスを傾ける。

「ぶほおっ!?」

炭酸とは異なる、のどの奥を焼く感触に思わず咽び返るが、なんとか零さずに飲み下すことができた。
その様にベスパは、ささやかな企みが決まって、嬉しそうに手を叩く。

「げほっ……、な、なんだよこれ…… お酒じゃん!?」

「えらいえらい、よく飲んだよ。でも、これぐらいなら平気だろ?」

シードルとは、リンゴを醗酵して醸造したお酒で、ブルターニュの隣、ノルマンディー地方が本場とされる酒だ。
アルコール分もさして高くなく、あっさりとして飲みやすいが、やや独特のクセがある。
およそ九世紀頃、北欧から襲来してくるノルマン人、いわゆるヴァイキングたちが定住し、自分たちが栽培できないブドウのかわりに野生のリンゴを元に作ったのがはじまりと伝えられる。
多分に伝説となっていて真偽の程は定かではないが、南仏・プロヴァンスを中心とするラテン系の人々がワインの中で、北方のノルマン系の人々がシードルで育ってきたのは間違いないようだ。
もっとも、そんなことを聞かされたとしても、今の横島には話を聞くどころではなかっただろう。

「大丈夫、ヨコシマ? もう、このコったら朝からお酒ばっかり飲んでいて……」

「ガレットにはやっぱりこれだよね。姉さんも飲む?」

「いらないわよ!」

隣でまだ咽る横島と、向かいで妙なやりとりを繰り広げる二人の姉を横目に、シュガーバターにたっぷりの生クリームとフルーツを乗せたガレットをぱくつくパピリオが、やけに大人びた表情で呟いた。

「なーにやってんでちゅかね、まったく」





「そういえばさ、なんか、出かけるって言ってなかったっけ?」

濃い目に煎れたデミ・タッセのおかげで、ようやくにすっきりしてきた横島が、今朝のパピリオの言葉を思い出す。
クッションを除けたソファは少し固かったが、コーヒーを飲むにはちょうどいい。
急に思い出した横島の問いにもかかわらず、ルシオラはテーブルを拭く手を休めることなく返事をする。
どうやら、料理を作るのは土偶羅でも、片付けるのはルシオラと、ちょこちょこと手伝うパピリオの役目らしい。
ちなみに、ベスパは何やら別の食後酒のグラスを傾けるばかりで、ダイニングテーブルから動こうとはしなかった。

「そうね、もう少ししたら準備しましょうか」

「出かけるって、どこへ?」

「んー、逆天号もいなくなっちゃったし、そんなに遠くは無理よね」

「なにをするのさ?」

「とおーーーっても大事なコト」

「大事なコトってなんだよ」

「一緒に行けばわかるわよ」

はぐらかすルシオラの答えに首を傾げる横島だが、彼女たちがまた何かするとなれば、そのまま黙っているというわけにもいかない。

「なんかまたやらかすんなら、一応、隊長に報告しないといけないんだけど……」

「平気平気、そんなんじゃないから」

「そうは言ってもなぁ」

「大丈夫よ。そのうち、なんか適当に見繕って報告できるようにしとくから」

ルシオラは片方の手をひらひらとさせて、横島のスパイ活動を咎めようともしない。
敵方と折衝して情報を吟味するなど、癒着と欺瞞以外の何物でもないのだが、横島やルシオラはおろか、土偶羅を含む誰もがそのことに気が付かずにいた。
都合のいい情報を流して撹乱すれば、圧倒的に不利な立場の人類は、ただ振り回されて貴重な時間と戦力を消耗するしかないというのに、だ。

もっとも、たとえ横島がそのことに気が付いたとして、何らかの方法で独自の情報を流したとしても、それがそのまま受け止められた可能性はほとんどない。
逆天号の体内に取り残されたままでいた通信鬼の反応が途絶えた以上、横島の身に不測の事態が起きたのはほぼ確実で、良くて軟禁状態、おそらくは殺されてしまったものと解されていた。
そこへ、横島忠夫を名乗る人物からの連絡が入ったとしても、裏切りか洗脳か、あるいは偽者であると結論付けられたに違いない。
とてもではないが、”魔族と一緒に別荘で暮らし、ふかふかのベッドで眠り、おいしい朝食を食べている”などとは、実際に話しても信じてはもらえないだろう。
そういった意味で、すでにスパイとしての彼の役割は終わっている、と言えるのだった。

「じゃ、これを片付けたら行くからね。ヨコシマもすぐ出れるように準備して」

「りょーかい」

今はこれ以上聞いてもはっきりしないとあきらめたのか、横島は素直に引き下がって残りのコーヒーを一息に飲み干した。
何をするかはわからないが、とりあえずこっそりとついて行けば人目にもつかず平気だろう、そんな風に高をくくっていた。
その判断はおおよそ間違ってはいなかったが、その想像はまったくの間違いであることに、このときは思いもよらなかったのだ。





「で、なんだってこんなとこにいるんじゃーっ!!」

海の見える交差点の真ん中で、たまりかねた横島が叫ぶ。
三車線の広い道路を横断する人々は、突然訳のわからないことを叫びだした横島を不思議そうに眺めるが、歩みをわざわざ止めようとはしない。

「ど、どうしたのよ、ヨコシマ? 突然大きな声出しちゃったりして?」

「これが叫ばずにいられるかーっ!!」

先をゆくルシオラたちは、横島のほうを振り向いたものの、どう対処していいかわからずに戸惑っている。
それを辛くも救ったのは、点滅を終えた信号と、容赦なく罵声を浴びせるクラクションの咆哮だった。
さすがの横島もそれには耐え切れず、バツの悪そうに横断歩道を駆け渡ると、そのまま歩道の脇に三人を誘導する。

「もう一回聞くぞ? なんだってこんなとこにいるんだ、俺たちは?」

「なんだってって言ったって……」

「買い物、だよなあ?」

「そうでちゅ!」

「ここがどこだかわかってんのか、あんたたちはっ!!」

「どこって、そりゃもちろん――」

何をあたりまえのことを、という様子で答える三姉妹の声が、見事にぴたりと合わさった。

「ヨコハマ」

「だぁーーーっ!!」

頭を抱えて絶叫する横島の背後には、国際会議センターと、洋上に広がるヨットの帆を模した白いホテルが、対するルシオラたちの背後には、夜景に浮かぶ壮麗なイルミネーションで有名な大観覧車が、海を隔ててすぐのところに立っていた。
彼らが今いる場所は、多くの人が集まる横浜の中でも、特に近年発展が著しい観光と商業のスポット、みなとみらい地区であった。
こんなところに何をしに来たのかと言えば、新しい夏物の服を買いに来たのだという。それが、先ほどから横島を叫ばせ続けている理由であった。

「大事なコトだと言うからついて来たのに、なんなんだよ、買い物って! 冗談もいいかげんにしろっ!!」

相変わらず横島が怒っている理由はわからないのだが、こうまで言われるとさすがに腹も立ってくる。
つと前に出たルシオラが、精一杯横島の背に合わせて威嚇するように、頭と触覚を突き出して反論する。

「ちょっと! 服を買いに来るのが冗談だっていうの? いくらヨコシマでも許せないわよ!」

「わざわざこんなところまで来なくても、近くで買やいいじゃねーか!」

「あんなところに気に入った服なんて売ってないわよ!」

「今持っているやつで十分だろ!」

「せっかく別荘に来ているのに、毎日同じ服着てるなんて、それこそ冗談じゃないわよっ!」

「秘密基地って言ってたじゃねーか! 密かに隠れ住むつもりなら、それらしくしてろっ!!」

「なによっ!!」

何やら、犬も食わない痴話喧嘩の様相を呈してきた雲行きだが、さすがに拙いと思ったベスパが間に入る。
いちゃつくにせよ、喧嘩するにせよ、そうなると周りが見えなくなるのが、この二人の欠点らしい。
そのことに気づいてしまった自分の迂闊さを呪いたくもなるが、このままいつまでも放っておくわけにもいかなかった。

「……あー、ヨコシマ。お前の言いたいコトもわかるんだけどさ」

「そうだろっ! 俺の言ってるほうが正しいよなっ!?」

「なによベスパ!? あんた、ヨコシマの肩を持つ気なの!?」

ほとんど同時に詰め寄る横島とルシオラに、不覚にもベスパは一歩引いてしまうが、そのまま引き下がるわけにもいかない。
足に力を入れて踏ん張ったベスパは、決定的な一言を言い放つ。

「こんなところでそんな話をしてると、いろいろと拙いと思うんだよね、きっと」

ベスパの困った笑いに気づいた二人は、我に返って辺りを見渡す。
交差点の歩道はおろか、角の公園の芝生の上にも、はては新港地区とを結ぶ国際橋のたもとから見下ろす人、人、人……
皆、物珍しそうにこちらを眺め、ひそひそ話をしている。中には携帯で写真を撮る者までいる始末だ。

「うわあ……」

「ど、どうするよ?」

「だ、大丈夫……、こんなときは……」

「こんなときは?」

「き、『記憶マッチョー』!!」

顔を真っ赤にしたルシオラは、ポケットから何か、嫌なオスカー像のようなものを取り出し、頭上に高く掲げた。
それは瞬く間に眩い光を放ち、辺りに群がる人の波を包み隠す。
時間にしておよそ一秒ほどだろうか、怪しげな光が収まったあとは、もう誰もルシオラたちのことを気にかけようとはせず、思い思いの方向へと散っていく。
その効果を見届けたルシオラは、額に流れる冷たい汗をぬぐって一息ついた。

「ふう、こんなこともあろうかと、コレを用意しておいて正解だったわ」

「お前はどこの真田さんだっつーの! そんなん、どっから手に入れた!?」

「うーん、星の彼方?」

「やめい!!」

これ以上聞くと、何かいろいろと危険そうな気配を感じ、横島は追求するのをやめた。
とりあえずはこの場を移動しないと、などと考えていたとき、ふと、あることに気がついた。

「なあ、そういえばパピリオは?」

この騒ぎで失念してしまっていたが、末妹の小さな姿が見えない。

「そういえばそうね。変ねえ、さっきまで一緒にいたのに」

「あっ! あんなところに!」

ベスパが指差した歩道の先に、ベレー帽からはみ出るパピリオの髪の色が見えた。
だが、パピリオは独りでいるわけではなく、制服を身にまとった二人の人物――警察官に囲まれているのだった。
そのうちの一人がしゃがんでパピリオの目線に合わせているところを見ると、どうやら迷子だと思われている様子だが、彼女が魔族だということが、何かの拍子で露見するかわからない。
横島たちが慌てて駆け寄る気配を察知してか、不意にパピリオがくるりと振り向いて大きな声で言った。

「あ! お姉ちゃん! お兄ちゃん!」

予期もせぬ呼びかけに一瞬足が止まりかけるが、パピリオにつられて二人の警官もこちらを見ているため、あからさまに不審な行動を取るのは控えられた。

「もう、こんなとこにいたの。ダメでしょ、離れたりしちゃ」

「えへへ、ゴメンなちゃい」

瞬時に状況を悟ったルシオラは、名前を呼ぶのは慎重に避けながら、精一杯の演技力で声を掛け、パピリオは演技とも思えない天性のもので屈託なく答える。
その、ごく自然に見えなくもないやりとりに、どうやら警官たちをごまかすことは出来たようであった。

「ああ、保護者の方ですか。こちらのお子さんが一人でいたものですから……」

「すみません、ご迷惑をおかけしました」

「近頃は何かと物騒な事件もありますから、気をつけてくださいよ」

「はい、ありがとうございます」

国際都市・横浜という土地柄なのだろうか、見た目はまるっきり外国人の女性と日本語で話しているというのに、警官たちはまったく違和感を感じていなかった。
しかし、逆にまるっきりの日本人の存在の方が彼らの注意を呼んだ。

「あの、失礼ですが、そちらの方は……?」

一見、不釣合いに見える横島に、警官は僅かな疑念を思い起こす。
軽い嫉妬も含んだ不信の目を向けられて、横島は少しうろたえるが、その窮地を救ったのは、またしてもパピリオの屈託のない声だった。
 
「お兄ちゃんはもうすぐ本当のお兄ちゃんになるんでちゅ! ね、お兄ちゃん?」

「えっ? うん、そうだよなっ」

「そっ、そうよね」

パピリオの、説明になっているのかいないのかわからない話を受けて、警官たちは事情がわかったような気になった。
それぞれ離婚した彼らの父親と母親が、あることで知り合ったのを契機に再婚し、今まで他人同士だった子供たちが急に家族になって、などという、TVドラマかマンガなんかでよくありそうな背景が思い起こされる。
複雑な家庭環境が織り成す人間ドラマにも興味があるが、下手に関わりになってややこしい役どころが振られては適わない、そんなことが頭をよぎった。

「――では、本官たちはこれで。お気をつけて」

中途半端な敬礼もそこそこに、巡回途中のパトロールに復帰する警官たちの背中を追う。
心配していた無線をコールするようなそぶりはなく、それでいて何かを話しながら歩いているところを想像するに、あれこれと勝手な想像を繰り広げているのだろう。
それも、署に戻るまでの退屈な間、勤務時間が終われば忘れてしまうような、そんな類のものでしかなかった。

「はあー、びっくりした」

警官の姿が雑踏にまぎれて見えなくなると、横島は安堵の息を吐いた。
こんなところでルシオラたちの正体がばれ、オカルトGメンに通報されたらと思うと、ぞっとする。
その考え方はすでにおかしくなってきているのだが、横島はそれに気づかない。

「もう、パピリオったら。脅かすのもいいかげんにしてちょうだい」

「大丈夫でちゅよ。今見たように、普通の人間たちに私たちが魔族だなんて、わかりっこないんでちゅから」

「でも、GSたちに知られたら……」

「それこそ大丈夫でちゅ。あいつら、私たちがどこか遠くで隠れていると思ってまちゅからね、絶対気がつきっこないでちゅよ」

事実、そのとおりであった。
美神美智恵を全権とするオカルトGメンは、北太平洋上で異空間に潜行して消息を絶った彼らの潜伏先を探して、北極や南極、砂漠やジャングルの奥深く、あるいは絶海の孤島など、ありとあらゆる場所を必死に探っていた。
中でも個人的な復讐の念にあせるヒャクメなどは、地球を周回する偵察衛星や、各国を飛び交う電子収集偵察機を駆使して発見しようと躍起になっているが、依然として有力な情報は得られずにいた。
もし、ヒャクメが、そして美神美智恵がもう少し柔軟な思考の持ち主で、大都市に張り巡らされた防犯カメラの映像に着目していたら、あるいは容易く発見できたかもしれない。
しかし、かつてヒャクメ自身が逆天号の中で捕虜となって、世界各所を連れ回されていたという事実、そして、きっと入念な偽装を施して隠れているに違いない、という思い込みが妨げとなったのは、ある意味で仕方のないことかもしれなかった。

「ま、あとは姉さんたちが騒がなければの話だけどね」

妹の言葉を受けて、ベスパがからかうように繋ぐ。
先ほどの自分たちの醜態を思い、さすがにルシオラも言い返せはしなかった。
その横で、すっかり毒気を抜かれてしまった横島が、さっぱりとあきらめて言った。

「パピリオの言うとおりならいいんだけど、もし見つかっちゃてたら、さすがに手遅れだもんな。今更あれこれ心配してもしょうがないか」

「たしかにそうね」

「じゃ、お買い物を続けるでちゅ!」

あくまでも予定通りにこだわるパピリオがほほえましかったが、ルシオラはふと、先程浮かんだ疑問を思い出した。

「そういえばパピリオ、あなた、よくあんな嘘が言えたわね。ヨコシマのことをお兄ちゃんだなんて」

別に咎めているわけではない。
少々拙いことになりそうだった状況が、あの一言で片付けられたのだから上出来だった。
でも、それにしてもあまりに自然過ぎたのが気にかかる。
一方、聞かれた方のパピリオは、ルシオラの質問の意味がわからない、なんでそんな、あたりまえのことを聞くのか、といった表情をしている。

「だって、ヨコシマはルシオラちゃんと付き合っているんだから、パピリオにとってもお義兄ちゃんじゃないでちゅか」

「えっ……」

「それって……」

パピリオの言葉の意味に思い至り、横島とルシオラは顔を真っ赤にして言葉に詰まる。
初心な二人の様子を見て、ベスパは、くっ、くっと笑い、横島の空いている方の腕に自分の腕を絡め、軽く引っ張るようにして促した。

「そういうことだね、義兄さん。じゃ、行こうか――」

その日一日、左手にはルシオラを、右手にはベスパを従え、周りをパピリオがちょこまかと走り回るという、実にうらやましい状況のまま、横浜界隈を散策する横島の姿が見られたのだった。
続けて第二話です。
これの前半、朝食シーンまでは上げていたのでご覧になった方もいらっしゃると思います。
映画「ひまわり」はね、やっぱりいいんですよ、ホントに……

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