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【南半球的夏企画】ひとひらの夏 1

夜明けから、夏を書き換える雨が降りしきる。

二階から見下ろす青い芝生は艶やかに濡れていて、昨日までの重い陽射しに乾ききっていた根を潤していた。
開け放たれた窓から流れ込む、ひやりとした朝の空気が、起き抜けの身体を目覚ましてくれる。
八月も終わりの今頃はまだ、都会では残暑が厳しい限りで、暦の秋と言われても実感が湧かないのに違いない。
けれども、芝生の先の林から見え隠れする海と、後背に迫る山々に抱かれたこの別荘にいると、自分と同じように、ここから立ち去ろうとしている季節というものを、否応なしに感じさせられるのだった。
横島はしばらくの間、夏の喧騒が途絶えた庭を、そして眼下に広がる磯浜をじっと眺めていたが、やがて静かに窓を閉じた。

何度も修理したおかげで、少々立付けが悪くなってしまった木製のドアを開け放したまま、灯りのついていない廊下に出る。
隣に並ぶ、みんながひとりずつ使っていた部屋のドアは全て閉じられていて、リビングに繋がる拭き抜けから顔をのぞかせてみても、下からは物音一つ聞こえてこない。
白い塗料が所々剥げた手すりに手を添え、階段をゆっくりと降りていっても、ごく僅かに自分の体重で羽目板が軋むばかりだった。

「おはよう」

すっかり片付けられてしまっていたリビングを横切り、キッチンのカウンターに向かって声を掛けるが、やはり、返事をしてくれるものは誰もいない。
昨日から、いや、そのずっと前からわかっていたことのはずなのに、こうしてたった一人で朝を迎えてしまうと、どうにもやるせない気持ちが込み上げてきてしまう。
調理器具も食器もすっかり片付けられたキッチンに足を踏み入れ、奥に鎮座する大型の冷蔵庫のドアを開くが、およそ食材と呼べるものは何もなく、ミネラルウォーターのペットボトルが冷やされているだけだった。
横島は、まだ半分残っていたミネラルウォーターを手に取り、立ったまま口をつけ、一息に飲み干した。
水道の水で中身を洗い流し、ごく僅かに残っていたはずの霊的残留物も消えたペットボトルをダストボックスに放り込むと、いよいよ、今まで彼女たちの住んでいた痕跡はなくなってしまった。
これで、遅くとも明日には大挙してやってくるはずの捜査員たちが調べたところで、彼女たちの行方を追うことは出来ない筈だ。
あと自分がやるべきことは、鍵を掛けて出て行くだけ、それだけなのはわかっているはずなのに、どうにも立ち上がる気がしない。

雨が上がるまで、もう少しだけ――

朝寝坊する子供のような言い訳を頭の中で繰り返し、リビングのソファにじっと腰掛けたまま、ぼんやりと濡れる庭の芝生を眺めている。
この雨がやめば、きっと、夏は終わる。そう自分に言い聞かせながら。



















            ―――――    ひ    と    ひ    ら    の    夏    ―――――




















ルシオラたちと一緒に、横島がこの別荘へとやって来たのは四月下旬、未練残さず桜が散ったあとの、新緑眩しい頃のこと。
晴天に恵まれれば盛夏を思わせる陽気に包まれることもあるが、まだまだ長袖の服がしまえない、そんな季節だった。

美神美智恵を指揮官として、周到に準備された人類の反攻に思わぬ痛撃を受けた彼女たちは、移動兵鬼である逆天号の治癒・休養と今後の計画の立て直しを兼ねて、一度身を潜めることとした。
策源地としてきた南米を目標に、太平洋上で行方をくらませたと見せかけた彼らは、夜陰に乗じて密かに東京へと舞い戻り、隠れ家のある郊外へと向かう。
けれどもその足取りは、隠密行にありがちな暗さや悲壮感はまるでなく、最寄りの駅で切符を買い、普通列車のボックスシートに向き合って座り、ジュースを片手に、どうということのないおしゃべりに興じている姿は、とても人類を滅亡の淵に陥れようとしている魔族の一行には見えなかった。

小一時間ほどの小旅行が終わり、二面三線のホームから太平洋が見渡せる小さな駅で電車を降り、海とは反対の方の出口から外へ出る。
この辺りは数十万年前の造山期に、富士箱根火山帯から流れ出た溶岩が海まで押し寄せ、そのまま固まって出来た地形で、辺りには土砂を運び込む大きな河川もなく、目の前に広がる海で泳げるような砂浜はない。
それがため、相模灘の豊かな漁場を担う港や、切り立った高台からの眺望を有する別荘地としては適しているが、もっと東寄りの湘南海岸のような、一見の海水浴客が大勢押し寄せるといった賑わいからは離れている。
無人の改札に、場違いのように簡易型のICカード清算機が立つ脇を抜けると、駅前の小さなロータリーには客待ちで停まっているタクシーはなく、地元民らしい何人かが、まもなく来る上り列車を待ちながらおしゃべりしているのが目につくだけだった。

「それで、どっちに行けばいいんだい?」

「んーと、たしか、こっちだったと思うんだけど……」

「おいおい、ホントに大丈夫なんだろうね、姉さん?」

「大丈夫、まーかせて! ここまで来れば、あと三十分もかかんないはずだから」

「えー、まだそんなに歩くんでちゅか。もう疲れたでちゅ」

「おーい、みんなちょっと待って。コイツ、やたらと重くて……」

綺麗な日本語を話す、南欧系の顔立ちをした姉妹らしき女性たちと、こちらはまごう事なき日本人の、お世辞にもあまりもてなさそうな高校生ぐらいの男子という、ちょっと交友関係が想像しづらい取り合わせが、一瞬だけ地元民たちの興味を引くが、タイミングよく流れた列車到着のアナウンスによってかき消されてしまう。
やがて、彼女たちが地図も持たずに坂道を上っていくころには、駅の待合室は無人となっていた。

それなりに交通量のある旧街道に沿ってしばらく歩き、林の間の脇道にそれると、途端に辺りが静かとなる。
真夏であれば蝉の声が鳴り響くに違いない道も、まだ早い初夏のうちでは虫の音もなく、穏やかな風に揺れる木々の枝が擦れる囁きが聞こえるのみだった。
舗装もされていない、車一台がやっと通れるだけの狭い小道が、次第にまた登り道になっていくと、末妹のパピリオから軽い不満がこぼれ始めるが、不意に前方が明るくなり、木々の間に海が広がっているのが見えると、途端に元気になって駆け出すのだった。。

まだ磯遊びをする人とてない海から吹き上げる冷たい風が、椎や樟の若葉を揺らす原生林の奥隘に、ぽつん、と一軒だけ木造の洋館が建っていた。
アーリーアメリカン調の白い板張りの別荘は、随分と長い間利用する者もいなかったのか、どことなく人を拒むような、放棄された家屋が醸し出す、一種独特の雰囲気を漂わせていた。
おそらくは彼らが契約したときに慌てて整備したのだろう、妙にこざっぱりと刈り込まれた庭の芝生が、不釣合いな風景となって、心ならずも連れられて来た横島を戸惑わせる。

「あ……、あんたら本当に世界征服が目的か!?  なんてこじんまりした基地だ!」

「目立たないし、おちつくし、安いのだ!」

その異形の姿をさすがに人目には晒す勇気は持てなかった横島の叫びは、無理やりに押し込まれた背中のリュックに担がれる土偶羅にとっても今更な質問ではあったが、それに対する土偶羅の答えも、どこかピントがずれている印象は否めない。
例えば、霊峰・富士から連なる地脈の関係とかなんとか、何かそういった、もっともらしい理由を想像、というよりも期待していたのだが、実際はかなり庶民的、というよりも所帯じみて現実的すぎるものだったからだ。
更に、土偶羅の話によれば、他にも何箇所か候補に上がっていたところがあったそうで、アシュタロス配下の魔族に散々と不動産屋めぐりをさせた挙句、ようやくここに決めたのだという。
話半分にしても黙って聞いていると、どうにも聞き覚えの有るような名前がちらほらと出て来て、縦線の入った額を冷や汗が流れ落ちる。
入り口で愚にもつかないことをしゃべっている二人を、ルシオラが軽く先を促した。

「さ、土偶羅様もポチも、そんなところに立ってないで、早く中に入りましょ」

「う、うむ」

「は、はいっ!」

ぱたぱたとパピリオが廊下を駆けて行ったあとに続いて玄関をくぐると、長いこと使っていなかった部屋特有の、閉め切って乾燥した空気と、若干のほこりと、余所余所しい生活感のない匂いがした。
今時、風呂もない安普請の自分のアパートとても住めば都で、それなりに快適だった逆天号の部屋とも違う感じに気後れするが、長くても数日の滞在ならば、と思い直して靴を脱ぐ。

「ふうっ」

土偶羅を降ろし、とりあえず水道の水で乾いた喉を潤すと、どこからかパピリオがしきりに呼ぶ声が聞こえた。

「ポチーーーッ!! こっち、こっち、すぐ来るでちゅーー!!」

「はいはい、今行きますよーー!」

一息入れる間もない呼び出しに、人使いの主人に対しておざなりな返事がこぼれるが、矢継ぎ早に酷使されるのは今に始まったことでもないためか、それほど苦にも感じない。
もう、すっかりそのペットネームに順応してしまった横島は、特に疑問にも不快にも思わずに、声のする二階へと階段を登っていく。
コの字型に囲む階段を上がった二階はそれぞれのベッドルームとなっていて、開け放たれた奥の部屋の向こうからパピリオたちの声が漏れてくる。

「どうしたんです? そんなに大きな声を出して――」

「あっ、ポチ! どうでちゅ? いい眺めでしょう?」

「えっ、あっ、そ、そうですね――」

正面に大きく開けた窓を指し示し、意気揚揚とした風情でパピリオが得意気に披露する風景が目に飛び込んできて、横島は思わず息をのむ。。
瑞々しい若葉を一杯につけた木々の向こうに、金波銀波にきらめく穏やかな海と、包み込む湾に浮かぶ島のように鎮座する山々とが、まるで一枚の絵画であるかのように配されている。
対岸の小さな港には、数えられるほどの漁船が舳先を連ね、翌朝の出航に備えて身体を休めている。
ちょうど山の影にかかる漁港を走る道には、気の早い街灯がぽつり、ぽつりと灯っていた。
山と海の間の狭い土地に、斜面を駆け上がるようにして建ち並ぶ家々が見えるが、不釣合いなリゾートマンションやホテルなどは一切なく、油彩画の中にうまく溶け込んでいた。

何処の者とも知れない人間が出入りをする施設の近くを避け、地元の人からもあまり注意を払われないロケーションというのも、おそらくはこの別荘を隠れ家として設置する条件として絞り込んでいたのであろうが、それでも、ここを選んだ者の趣味の良さが光っていた。
横島には、先ほど土偶羅が口にした配下の魔族だという名前を思い出し、どうにも、そういったセンスとはイメージが結びつかなくて仕方がないのだが、ここは素直に驚くばかりだった。
再び生きて会えることがあれば、軽口でも叩いてからかってやりたかったが、今となってはもうすでに遅い。そのことが、ほんの少し残念な気がするのだった。

「じゃ、ここがポチの部屋でいいでちゅね」

「えっ……、マジっスか!?」

この別荘でも一番上等な場所を、パピリオの観点から見れば只のペットに過ぎないはずの自分に割り当てるという。
今まで自分がいた事務所だったら、絶対ありえなかったに違いない提案に、横島は戸惑いを隠せないが、当のパピリオも、そしてルシオラやベスパも気にする素振りは見せなかった。

「ポチも今まで一所懸命働いてくれたでちゅからね、ごほうびでちゅ!」

「パピリオは人使いが荒いから大変でしょ? せっかくだから、のんびりしたほうがいいわ」

「あれ? それは姉さんのほうなんじゃないの?」

「そんなコトないわよ!」

たいして家具もない、がらん、とした広い部屋の中で、他愛のない姉妹喧嘩が始まりそうだったが、もちろん本気であるはずもない。
味方であるはずの美神たちよりも暖かい心遣いに、柄にもなく、ほろり、と感じ入ってしまうのだった。

「別にそんなに気にしなくてもいいさ。あたしらもね、あまり正面で目立つのも具合が悪い、というのもあるのさ」

「それはそうとして、これじゃ、いかにも何もなさ過ぎよね」

ルシオラが部屋を眺め回して、そう言った。
もともとこの別荘は、彼女たちに土偶羅を加えた四人だけが使う予定で、この部屋はダミーとして空けておくはずだったのだ。
それが、自分たちが無理やり連れてきたとはいえ、横島を追加して過ごすとなれば、それなりに考えなくてはいけないものも出てくる。
ほんの二、三日の滞在だから、服はそのままでもいいとしても、下着にタオルといったものやら、他にも細々としたものも必要だった。

「まあ、いいわ。それじゃ……、ポチ」

「は、はい!?」

「買い物につきあって」

そう言うが早いか、ルシオラはガレージの車を出すべく階下に降りていく。

「それじゃ、あたしは逆天号を放してくるよ。たぶん、二、三日もあれば治るだろ?」

「そうね、そんなとこかしら。じゃ、行ってくるけど何かいるものある?」

「姉さんに任せるよ」

「そう。パピリオは?」

「特にないでちゅ」

「わかったわ。日が暮れる前には帰ってくるから」

行きましょう、と促すルシオラの後を追い、横島も急いで階段を駆け下りる。
こうして、この別荘での、長くて短い夏の思い出が始まったのである。





夕陽が海と山の向こうに沈み、心許ない街路灯がぽつり、ぽつりと灯りはじめた頃になって、二人を乗せた車が戻ってきた。

「よいしょっ、と」

「あ、重いでしょ。半分持とうか?」

「平気平気、このくらい」

買い物袋を両手に下げた横島を手伝おうと、とっさに差し出したルシオラの手が触れる。

「あ……」

途端、顔を赤らめて動きを止める。
一昔前の青春ドラマかマンガのような反応は、高校生と生まれて間もない魔族という間柄にはふさわしいのかも知れなかったが、つい先程まで車の中で抱き合い、夜を囁いた女としては今更でもあった。
けれども、別荘の庭にもエントランスにも、あきれ顔をして突っ込んでくれるような妹たちの姿はない。
夜の帳が押し寄せてこようとする暗がりの中、別荘の古ぼけた白い壁だけが浮かび上がっていた。

「ただいまー!」

となり町のスーパーに買い物へ出かけただけなのに、あからさまに遅くなって帰ってきた二人だったが、玄関先にも誰の姿もない。
てっきり、パピリオかベスパに冷やかされるか、あるいは小言を言われるかと思っていただけに、ルシオラの顔に怪訝そうな皺が寄る。
まさか、自分のいない間に何かあったのか、人間たちか、それとも神族の襲撃を受けたのでは、と警戒するが、それにしては室内が荒れた気配もなく、不穏な様子はどこにも見えない。

「んー? 暗いなぁ」

呑気なことを口にする横島を背にかばいつつ、リビングにそろり、と足を踏み入れると、奥のダイニングテーブルに向き合って座る影が二つ見えた。
ルシオラはとっさに身構えて凝視するが、それが二人の妹の姿だということに、ようやく気づいた。

「な、なんだ、あんたたちか。脅かさないでよ」

安堵のため息をつくルシオラを、ベスパがゆらり、と見やる。
元々目の下についていた文様をさらに濃く、隈のように焦燥させたベスパが、震える声で出迎えた。

「あ、ああ、姉さんか…… おかえり……」

普段、強気で勝気な彼女からは想像もできない、はじめて聞く声だった。
さして長くもない、擬似的な家族生活の中でも聞いたことのない、全く異様としか言いようのないものだった。

「ど、どうしたのよ、ベスパ!? パピリオも!? 何があったの?」

ベスパはルシオラの問いに答えようとせず、虚ろな視線をこちらのほうへ、正しくはルシオラの背後の何もない空間に向けて漂わせている。
そして、パピリオもまた、さっきからテーブルの上を見つめるばかりでこちらに視線を合わせようともしない。
明らかに尋常ではない二人の様子に、ルシオラは近寄ろうとするが、そのときになってはじめて、テーブルの上に転がるひとつの物体の姿を見て、その場に立ち尽くす。
いったい何が起こったのか、二人の異常な様子の訳を瞬時に悟ったルシオラは、手にしていた買い物袋を、どさり、と取り落としてしまう。
幸いに割れはしなかった、パピリオのためのハチミツの瓶がフローリングの床に転げ出てもなお、ルシオラはその場で固まったままだった。
それほど長い間ではないにせよ、三姉妹ともが薄闇の中の沈黙に漂っていると、不意に頭上の明かりが灯った。

「――どうしたんです? 電気もつけないで?」

「ポチッ!」

間を読まぬ横島が、不思議そうな表情でキッチンから顔を出すと、それまで一言も発せず、微動だにもしていなかったパピリオが、テーブルを蹴倒さんばかりに駆け寄って飛びついた。

「――逆天号がっ! 逆天号がっ!」

「ど、どうしたんです、パピリオ……様?」

しかし、パピリオは横島の呼びかけにも顔を上げようとせず、シャツにしがみついて泣き声を漏らすばかりだった。
いったい何のことかわからない横島は、困り果ててルシオラへ、そしてベスパのほうへと目を走らせる。
仲が良さそうに思えたので考えづらいが、もしかしたらベスパと喧嘩でもしたのかもしれない、そんなことが頭をよぎったからだが、どうやらそういう事情でもなさそうだった。

「ヨコシマ……」

「ポチ……」

やがて、うつろなルシオラとベスパの視線が、戸惑った横島のそれと絡み合い、救いを求める幽鬼のように、ゆらり、と動き出した。

「な、なにを……」

本来が人類を震撼させた魔族とはいえ、あからさまに怖い二人の様子に横島は思わず後ずさりをしてしまうが、腰にしっかりとパピリオがしがみついている状況では、大して身動きも取れない。
あえなく、二人の幽鬼が伸ばした手に取り憑かれてしまいそうな瞬間、つい目を閉じてしまう。
だが、訳もない怖さに想像していた事態はなにも起きず、左と右の両肩に重みを感じただけだった。
恐る恐る目を開けて首を回すと、双肩に縋りついて咽び泣く、ルシオラとベスパの頭が見えるばかりだった。

「うーむ、それにしても困ったことになったもんじゃ。まさか逆天号がこんなことになるとは――って、ポチ、なにをしとんのじゃ、お前は?」

「い、いや、それが、俺にもなにがなんだか……」

美人の三姉妹に抱きつかれるという、世の男たちに心底うらやましがられそうな状況に身動きが取れなくなっている横島を見て、何かをぶつくさと呟きながら出てきた土偶羅があきれ返った声を上げた。
対の椅子が倒れたままに放置されているダイニングテーブルの上には、死んだ昆虫特有に肢を硬直させた、逆天号の死骸が転がっていた。





「――つまり、予想以上のダメージに加えて、日本の気候が合わなかったと?」

「簡単に言えば、そういうことだわな」

逆天号の死因を分析した土偶羅によると、そういうことになるらしい。
南米の密林に生息するヘラクレスオオカブトを母体とした逆天号が活動するには、初夏とはいえ日本の気温は低すぎ、それに加えて栄養とする木々の樹液にも恵まれなかった。
ヒト型を模しているルシオラたちならばともかく、その大部分を昆虫のままに残していた逆天号にとって、この環境の変化は耐えがたいものになっていたのだった。
自分たちの活動条件を基準に作戦計画を立てていた土偶羅やルシオラたち、ひいてはアシュタロスの判断ミスと言ってもいいだろう。

「それで、これからどうするんでちゅか、土偶羅様?」

先程まで泣き咽んでいたにもかかわらず、他の姉妹よりも先に立ち直ったパピリオが、今後の方針を問い質す。
その言葉を受けて、改めて横島も土偶羅の言葉を聞き逃すまい、と向き直す。
魔法兵鬼として、直接に深刻な脅威であった逆天号が失われたことは、彼にとっても人類にとっても朗報だったが、事はそれで終わりというわけにはいかない。
まして、彼らと行動を共にしてきた横島にとっては、これからの自分の身の処遇をも左右される、文字通り生きるか死ぬかの瀬戸際にあった。

「まあ、詳しくはアシュタロス様の御判断を仰がなくてはならんだろうが、しばらく作戦は中断せざるを得ないだろうな」

「そうでちゅか…… 仕方ないでちゅね」

「多分、お前たちの処遇についても指示が出るだろう。それまではここでおとなしくしていることだな」

そんな会話を聞きながら、横島は焦燥の色を濃くしていた。
メフィストの生まれ変わり、すなわち美神令子の魂を探索するという任務も、ひとまず凍結されるらしい。
まさに特A級の情報と言えたが、それをICPOの美智恵に伝える手段がない。
電話を掛けようにもこの家には電話らしきものはどこにもなく、携帯電話も持ってはいない。
あるいは、近所のスーパーで見つけた公衆電話まで走っていくにしても距離があり過ぎたし、だいいちあまりにも不自然だ。
今も世界中を捜索しているはずのヒャクメの手腕に頼るのも、はたしていつになるかわからない。
その、ヒャクメに託された連絡手段もあるにはあったが――

「……通信鬼があればなー」

思わずため息と共に呟いてしまったが、ふと顔を上げると土偶羅やパピリオはおろか、今の今まで黙りこくっていたルシオラやベスパまでがこちらに顔を向けている。
その刹那、横島は自分が最大級の失言、ジェルジンスキー通りでミノックスの名を口にするような、信じがたいヘマをしでかしてしまったことを悟り、動揺する。

「あ、いや、その、べ、別に隊長に連絡しようとか、そういうわけではなくって――」

冷や汗まじりにしどろもどろになって、言わずもがなのことを口走る横島のうろたえぶりに、四人はあからさまに肩を落として息を吐く。

「……まったく、どうしてお前はそう間が抜けているのかしら」

「あんたが人間どものスパイだなんてことは、あたしらはとっくにお見通しなんだよ」

「そ、そんな…… いったいなんで……」

「いくら隠していたって、逆天号の中で通信鬼を使えばわかりまちゅ!」

「まあ、その通信鬼も二度と使えなくなってしまったけどな」

「どちくしょおおおーーっ!!」

と、叫んでトイレに駆け込むのは、もはやお約束とも言える行動だった。

「ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ! ルシオラはともかく、他のヤツらに正体がバレちまった! ど、どうするよ、俺?」

焦る気持ちをごまかすためにトイレの水を流してみたりするが、渦巻く水に見えるのは、土偶羅たちにつるし上げを食らい、煮えたぎる湯につけられる拷問を受ける自分の姿だった。
仮にそうはならなかったとしても、次にやってくるのは、冷酷非情なダブル・クロス委員会のメンバーに違いない。

「もうアカン! こうなったら、なんとしてでも逃げ出さないと! 死んだあとで銅像建てられたり、空に顔を浮かべられたりしてたまるかーーっ!!」

以前にも繰り返したような台詞を吐きながら、狭い個室の中をきょろきょろと見渡す。
だが、外へと通じる窓はとても自分が通り抜けられるような大きさではなく、天井にも床にも、外せそうな羽目板はない。
だらだらと嫌な汗が流れるままにしていると、背後のドアをノックする音が響いた。

「ポチ? いる?」

無邪気な死刑執行人の声が、ドアの向こうから掛けられる。
トイレに篭っているだけで隠れられるものでもないのはわかっているが、それでも、開けられないようにドアノブをしっかと握る。
今こそ、この人生最大の危機、過去にも何度かあった気もするがそれは忘れて、この状況を己の才覚と演技力で乗り切るしかない。
ついに覚悟を決めた横島は、思い切ってドアを開けた。

「すいません急に――ちょっと腹の具合が――!!」

二番煎じの苦しい言い訳にもパピリオは顔色を変えることもなく、にっこりと笑って言った。

「とりあえず、みんなでごはんを食べるでちゅ。これからのことはそのうち考えるでちゅよ」

「え……?」

「ほら、みんなが待っているから手を洗って早く行くでちゅ!」

「は、はい」

手を拭くが早いか、背中をぐいぐいと押してリビングのほうへ向かうパピリオには、裏切り者を始末するような慳貪な様子は微塵も見られない。
もしかして、自分の演技力で騙すことに成功したのか、とも一瞬思った横島だったが、後ろで軽やかに告げるパピリオの呟きに、そうではないことを否応なしに知らされる。

「……私におんなじ嘘は通じないでちゅよ。つくんなら、もっと上手い嘘をつかないとダメでちゅ」





「ごちそうさま!」

ありあわせの簡単な食事を終えて、膳を下げる。
もっとも、食事らしい食事を摂っていたのは横島だけで、ルシオラは砂糖水、ベスパはローヤルゼリー、パピリオはハチミツといった内容だった。
彼女たちによれば、人間と同じような食事を摂ることもできるのだそうだが、とても今はそこまで食欲がわかないらしい。
土偶羅に至っては、いろいろと気苦労も多いのだろう、【チェルノブイ○のおいしい水】を鯨飲して早々と酔っ払っている始末だった。
さすがに試してみるつもりはないが、ビールのホップとはまた違う、独特の苦味がたまらないそうだ。
ちなみに、チェルノブイ○とは現地の言葉で『苦い水』を意味するらしいのだが、本当かどうかは確かめる気にもならない。

「ん、じゃ、そこ置いといてー」

キッチンで数少ない食器を洗っているルシオラが、シンクの水を止めないで返事する。
一瞬、恋人同士か新婚家庭のようなやり取りに心ときめくが、リビングでベスパとパピリオが見ているテレビから流れるニュース映像に、悲しい現実に引き戻されてしまう。
テレビの画面では、思いっきりカメラ目線を取った横島が、中指を立てる、下品で挑発的なポーズで叫んでいる。
ご丁寧に、どこかで聞いたような、おどろおどろしいバックミュージックまで流れている始末だ。

『おろかなる人間ども……! いずれおまえたちは我々の前にひざまづくのだ――!!』

「うっわー、悪そうでちゅねー」

「まさに下っ端幹部ってとこだね」

自分たちがやらせていたくせに、ベスパもパピリオも、めいめいに勝手なことをのたまわっている。
もっとも、ここまで細かい演技の指示が彼女たちから出されたわけではなく、ほとんどが悪ノリした横島のアドリブによるものだった。
結局のところ、自業自得と言うより他はない。

「でも、あんまりヨコシマに似てないでちゅね」

パピリオの言うように、ニュース映像に繰り返し流される映像の横島は、目が吊りあがり、肌の色も本物より青黒く、声も若干高めに変更されている。
美神美智恵の指示で作られたヤラセ映像は、あとでどんな言い抜けでもできるように、微妙な修正が入れられていた。
それは、GS見習いとはいえ一般人で、まだ高校生にすぎない横島の立場を考慮したものであり、その横島を潜入捜査に使わざるを得ないICPOの立場を守るためでもあった。
万が一、横島が殺されてしまうような最悪の事態となった場合、その可能性は非常に大きいと分析されているのだが、スパイ活動という公務による殉職ではなく、あくまでも魔族との戦闘に巻き込まれた不運な一般人として処置する、そういった布石が打ってあった。
けれども、当の横島はそのような意図には気づく余裕はなく、全国ネットで晒されてしまった自分の顔に、見苦しいまでにうろたえていた。

「これで俺は人類の敵じゃーっ!! のわーーーっ!!」

そんな情けない横島の元へ、洗い物を終えたルシオラが、手を拭きながらあきれた声を投げ掛ける。

「ばっかねえ。そんな心配いらないわよ」

「ル、ルシオラ……」

「あれだけ修正が入っていれば、もうお前とは違う別人だし、身元も明らかになってなければ一般人たちにはわからないわよ」

「ううっ、俺のことをわかってくれるのはお前だけじゃーっ!!」

「あんっ! もう、そんなにひっつかないで」

「……なーに、やってんでちゅかね」

ギャラリーの目も気にせず繰り広げられる気恥ずかしいやり取りに、パピリオが年不相応な半眼を向ける。
夕食の前に集まったリビングで、ルシオラたちの、そして横島のこれからの処遇が決められた。
作戦はひとまず中断されるが、計画そのものは放棄されたわけではないので、ルシオラたちは引き続き、待機任務とすること。
横島はスパイという任務はバレてしまったにせよ、ルシオラたちの動向を逐一把握しておくことが重要なのは変わらないこと。
さりとて、ここに潜伏していることを通報されては困るため、身柄を拘束して手元に留めておかなくてはいけないこと、などが示された。

そのとき、ルシオラが静かに、しかし、きっぱりと宣言したことがある。
それは、自分が横島に惚れてしまっていること、横島になら抱かれて死んでもいいと思っていること、などだった。
当然、ベスパは激怒したし、パピリオは困惑していたが、ルシオラの決意が固いことを知ると、引き下がらないわけにはいかなかった。
皆の前で告白された形になる横島は、家族公認でヤれる仲になった、などと妄想を繰り広げていたが、ベスパからコード7の脅迫を受けると、さすがに意気消沈してしまう。
ルシオラは、別にどうなってもかまわない、などと刹那的な台詞を口にするが、いくら煩悩の塊といえども、抱いた女が死んでしまうと聞かされて抱けるほど修羅ではない。
その反動もあってか、やたらと恋人っぽい雰囲気を醸し出そうとする二人に、いささか辟易とする思いだった。

「ポチ……いや、ヨコシマも姉さんも、よくやるよなー」

見た目には十歳程も年の違う妹と一緒になって、ベスパもうんざりした表情で二人を見つめていた。
ちなみに、呼び名が「ポチ」から変わったのは、なにも彼女たちが横島を認めたからではなくて、ルシオラがそう呼ぶように強弁に主張したからだった。
ルシオラ曰く、これから仲間として一緒に住むんだから、きちんとした名前で呼ばなきゃダメだ、ということだが、はたしてどうか。
案外、自分の惚れた相手がパピリオのペットと同じ扱いというのが我慢できなかった、という辺りが真相なのかもしれない。
ともかく、このままにしておいては見てるほうが疲れてしまう、そう思ったベスパが先に動いた。

「あー、お楽しみのところ悪いんだけどさ、あたしらもいいかげん疲れたんで、そろそろ一風呂浴びて休みたいんだけど……」

「えっ……、あっ、そ、そうね、もうこんな時間だもんね」

ちらり、と時計を見やれば、それほど夜遅いというわけでもないが、それなりにはなっている時間だった。
昨日の太平洋上での激闘、そして今日は朝から長いこと移動してここへ来たこともあり、さすがに眠気を覚えるようになってきた。
それじゃお風呂入って寝ましょうか、というルシオラに、パピリオの声が重なった。

「ねえ、ルシオラちゃん。逆天号はどうしたらいいでちゅか?」

パピリオが、リビングの隅に除けられた逆天号の亡骸を指差して問う。
すっかり固くなってしまった逆天号は、もう二度と動き出すことはない、ただの虫の死骸と化していた。
ルシオラはパピリオの指先に一瞥を向け、仕方がない、と言わんばかりに嘆息する。

「もう残しといてもしょうがないし、ヘタに証拠になっても困るわね。明日、どこかに捨ててくるわ」

もはや自分たちには何の貢献もしない兵鬼としては当然の割り切りだが、そのやり取りに横島はどこか腑に落ちないものを感じた。
思わず無言のままにすたすたと歩み寄り、その大きな角をひょい、と摘み上げて手のひらに乗せる。
カブトムシとしては世界最大級なのだろうが、その小さな身体の中に、つい昨日まで自分たちが乗っていたと思うと、頭ではわかっていても奇妙な感じがする。
多少なりの自意識はあったにせよ、たとえば人工幽霊一号のような自我があったわけでもなく、話をしたわけでもない。
それでも、その中で何日か過ごし、洗濯もし、ところどころ修理もしたのかと思うと、ゴミ箱に捨てておしまい、というのもかわいそうな気がした。

「どうするんでちゅか、ヨコシマ?」

「ん? ああ、このまま捨てるのもなんかかわいそうだし、せめて庭に埋めてやろうと思って」

下から覗き込むパピリオの質問に答えると、そのままリビングの窓を開き、サンダルを履いて庭に出た。
昼間は少し暑いくらいだったのに、長袖を着ていても寒いくらいに冷え込んでいる。
なるほど、これじゃお前も耐えられなかったか、などとその理由を改めて確認しながら、脇に置かれていた少しさびの浮いた小さなシャベルを手にとった。
ガーデニングには程遠い庭には花壇らしきものはなかったが、日当たりの良さそうな木の根元を掘り返す。
その様を、脇からパピリオが興味深そうに覗き込んでいる。

「俺もなー、子供の頃に飼っていたペットが死んじゃう度にこうして埋めていたっけ」

月明かりの下で、しゃくっ、しゃくっ、と音を立てて穴を掘る。
小石混じりの土は掘り難く、ちょっとした作業になったが、横島は手を休めることをしない。
数分ののち、そこそこの深さの穴を掘り終えると、その中にそっと逆天号の亡骸を置いた。

「石があると痛いだろうからな」

そう言って横島は掘った土の中から小石を取り除き、土だけ静かにかぶせていく。
もちろん、逆天号はすでに死んでしまっているのだから、痛みも何も感じるはずはない。
それでも、パピリオの目には逆天号が喜んでいるように見えた。

「これでよし、と。お前にこういうのもなんだが、成仏しろよ」

少し体積の減った上に最後の土をかぶせ、形のよい石を選んで墓石代わりに乗せる。
墓碑銘も何もない、端から見ればそれとは決してわからない墓だが、今はこれが精一杯だった。

「よかったでちゅね、逆天号」

裸足であとをついてきたパピリオが、感慨深そうに感想を漏らす。
こうして聞くと、とても魔族の一員とは思えず、普通の子供のように見えてしかたがない。
けれども、子供というものは往々にして返答に困るようなことを口にするもので、やはりパピリオも例外ではなかった。

「パピリオも死んじゃったら、お墓を作ってもらえまちゅかね?」

「え……」

無邪気なパピリオの問いかけに窮する横島を、背後からそっと伸びてきた腕が救い出す。

「……ありがとう」

背中からぎゅっ、と抱きしめ、耳元で囁くルシオラの声は、ほんの少し潤んでいた。
季節感を考えない男・赤蛇ですw

去年(2009年)の夏企画に出そうと思って練り込んでいるうちに、殊のほか長くなってしまって間に合わなかった一品です。
まあ、密かに【ボツ以上、投稿未満】に晒したりしてましたけど……w
1・2・3とそこそこ揃ったので、ちょっと上げてみたくなりました。
お目汚しですが、よろしかったらどうぞ。

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