2639

夢が重なるとき

 明が、すぐ近くに立っている。

 そしてそのそばでは、初音が明をじっと見つめている。


 それはいつもの光景のようだった。

 しかし、初音の焦燥に彩られた表情。そして一歩も動けず声も出せない状況が、この場の異常を物語っていた。

 そして、初音は口をこう動かそうとする。


 ――だめ! ここにいちゃだめ!


 懸命に明へ警告をする。
 しかし、いくら叫んでも明には何も聞こえていないようだ。
 初音の四肢は石のように動かず、視界は正面の明を捉えて離さなかった。

 その時

 蛇の這い回る音の様な不気味な風切音。
 湿った物体に何かが貫通する鈍い音。


 明が、目の前で仰向けに倒れる。


 初音は息を呑んだ。

 体には、不恰好な鉄パイプが生えていた。
 根元から紅い液体がじわじわと染み出す。

 その液が放つ香り、嗅ぎ慣れた鉄と死のニオイを初音が感じた瞬間、途方もない吐き気に襲われ全身の皮膚が粟立つ。

 まさに目を覆いたくなるような惨劇だった。

 そして溢れた鮮血が足元に広がり、その先の明と目が合った。

 手を伸ばした明の、一筋の鮮血を流すその唇が動く。


 初音 ***――



 初音は全力で体を起こした。

 荒く息を吐くと、そのまま視線を左右に巡らせる。
 しかし、そこには血まみれの明どころか一滴の血痕も無い。

 目に入るのはいつも寝ている部屋だった。

 時刻は真夜中。
 手は脂汗でびっしょりで、初音は肩を抱くようにしてそれを拭う。
 そして布団の上で呼吸が落ち着くのを待ち、すぐさま明の部屋へ確認しに行く。

 明はすぅすぅと何の異常も無く寝息を立てていた。

 ホッと一息つくと、初音はさっきまでの悪夢をできるだけ思い出す。

 (……明がそばに居て、でも何もできなくて
  それから、明に鉄パイプが刺さって……初音に何か伝えようとしたみたいだけど……)

 考えるのも嫌な結末に顔を歪めた。
 でも所詮はただの夢。さっさと忘れて寝てしまおうと普段の初音なら考えただろう。

 でも、その夢が脳裏に焼きついて離れない。
 なぜなら


 (……また、同じ夢)


 一週間程前から、初音の夢の中で明が死んでいる。
 何度も、全く同じ状況で。

 しかも、ここ数日はよりはっきりと、起きても鮮明に内容を記憶する程に夢は増幅されている。

 (明……)

 初音は得体の知れない不安にとらわれる。

 初音は、悪い予感が当たらないことを祈るしかなかった。




        ――夢が重なるとき――




 「それ、予知夢じゃないかしら?」
 初音と明の指揮官である小鹿はココアを吹いて冷ましながらそう言った。

 初音の定期検査が終わり、バベルの談話室で最近の嫌な夢について小鹿に初音は相談していた。
 と言っても夢の内容を事細かに伝えたら卒倒しかねないので、同じ夢を何度も見ると言ったら、こんな答えが返ってきたのだ。

 「予知夢?」
 初音は眠い目をこすりつつそう返した。
 昨日を含め、初音はここ数日ろくに寝付けていないので無理はない。

 「そう。すごく現実的な夢で、その夢が近い将来、実際に起こった場合にそう呼ぶの。
  初音ちゃんは予知能力も持つ合成能力者だから、予知夢を見る可能性は高いと思う」
 ココアが冷めたらしく、一口すする。

 「それで、その予知夢って当たるのか?」
 重要な質問をぶつける。
 初音は、当たらないと言って欲しかった。

 でも、期待していた答えは得られない。

 「さぁ、わからない」
 「わ、わからないって……」
 「予知能力にもいろいろなタイプがあってね。
  安定して予知をし続けられるタイプなら的中確率を求められるけど、予知夢はいつ発生するかもわからないし、特定の能力者も確認されていないの。
  だから、的中確率はおろか研究もされていないのよ」
 「そんな……」

 さすがに主任なだけあって、説明はわかりやすかった。
 そのせいで、初音の不安は膨れ上がる。

 「まぁ、でも滅多に当たらないと言われているわ。
  そもそも予知夢と正夢の境界線も曖昧なくらいだから」
 小鹿はそう言うとココアをくぴくぴ飲み始めた。
 が、まだ熱かったらしく、あわてて口を離すとまた吹いていた。

 初音は気分の晴れないまま、小鹿にお礼を言って部屋を出た。

 滅多に当たらないとは言っていたけれど、夢を見た時の背筋がざわざわする感覚は忘れられない。
 初音の心に黒々とした霧が広がっていく。

 「――初音」

 だが、それもそんな呼びかけですぐに霧散する。
 声の先にはいつもの柔らかな笑みがあった。

 「明、検査はどうだった?」
 「ん? 大丈夫、異常なし」

 初音は明に駆け寄る。明の匂いが近くなって安心する。

 「ちょっと待たせちまったな」
 「ううん、へーき」
 「そうか。じゃ、この後は何も無いから小鹿主任に報告したら帰るぞ」
 「うん」
 初音は先を歩く明の後をついて行く。

 明の背中は、いつも逞しくて頼りがいがあると初音は思う。
 でも、それは同時に突けばあっさり壊れる程脆い。

 (だから……初音が守らなきゃいけない)

 初音はぎゅっと拳を握り締めた。



 夜。
 晩御飯を食べた余韻に浸って眠りたい所だが、初音はだんだん寝るのが嫌になってきた。
 寝るたびに必ず明の死に様を見せつけられるのは、たとえ夢であっても気分が悪い。
 だが寝不足で頭が重く、初音は憔悴し始めてきた。

 それで床に就いたものの、体は起こしてうつらうつらしていた。

 「初音、まだ起きてたのか」
 そんな声に初音は意識を覚醒させる。
 「……大丈夫だから」
 戸口に立って心配そうに見つめる明に、初音は感情の薄い返事をする。

 「何か、悩み事でもあるのか?」

 そう言われても、初音は何と言っていいのかわからなかった。
 夢のことは気にしすぎなのかもしれない。
 それに、初音は明を不安にさせたくなかった。

 「……ううん、なんでもない」
 気がついたら、そう答えていた。

 明は軽く息を吐くと廊下の奥に歩いて行く。

 そして、次に戻ってきた時には手に布団を抱えていた。

 「どうしたの?」
 「今日はここで寝る」
 「え、にゃ!?」
 初音は思わず上ずった奇妙な声をあげてしまう。
 それでも、明は構わずにいそいそと布団を隣に敷く。

 「な、何で急に……」
 初音は頬を赤らめて聞く。
 すると明は憮然とした表情になる。

 「あのな、今の初音はどっからどー見ても大丈夫じゃないだろ。
  原因は知らんけど、こんな状態の初音をほっとける程俺の神経は太くねぇ」
 明は布団を敷き終えると、初音の隣に腰掛ける。

 「食欲は……問題ないけど、最近あんまり寝てないだろ。
  それに何かに怯えてるみたいだし。
  だから俺が横で寝ててやるから、安心して寝ろ」
 明はそう言って、初音の背中を撫でてやる。

 初音は胸がじんと熱くなる。
 そうだ、逃げている場合じゃない。
 この手の温もりを守るんだ。

 初音はこくんと頷き、布団にもぐりこむ。
 明はそれを確認して電気を消した。

 「――明、そこにいる?」
 「ん、ちゃんといるぞ」

 暗闇の中、初音の消え入りそうな声を励ますように明は答える。
 やはり眠るのが少し怖いけど、明が隣にいるだけで初音は心が穏やかになってゆくのを感じた。


 「……ずっと、ずっと一緒だよね」


 何の脈絡も無い質問だが、初音は聞かずにはいられなかった。

 明は、力強く言う。


 「ああ、当然だろ。ずーっと一緒にいてやるよ」


 数瞬、初音の目が見開かれる。
 そしてその目は満足げに細められた。

 初音は目を閉じ、明の言葉を頭の中で飴玉を転がすように反芻する。

 その内に、初音の意識はまどろみに包まれていった。



 明が、すぐ近くに立っている。

 見飽きても、見慣れることがない悪夢がまた始まった。
 でも、初音は動揺せずにできるだけ辺りを見回そうとする。

 初音は眠る前にこの予知夢と闘うことを決心した。
 もちろん、こんな事は起こらない方がいいに決まっている。

 でも、もし明が突然不慮の事故で居なくなってしまうとしたら――
 もし、その事故を前もって知っていたのに何もできなかったら――

 想像するだけでも耐えられない。
 初音はそんな事だけは、絶対に嫌だった。

 そのためにも、まずは敵の正体を掴むことが先決だ。

 初音は明を注視したいのをぐっとこらえ、何か場所の手がかりを探す。
 しかし夢が鮮明になったとはいえ、周りの景色はぼやけたままでわからない。

 風切音。
 鉄パイプが明に刺さる。

 やはり、パイプがどこから現れているかさえわからない。
 しかし風切音はパイプが落ちてくる音で、それが明に直撃しているようだった。

 そして、明が口を開く。


 初音 ***――


 懸命に耳をすましたが、後半がどうしても聞こえない。

 手がかりはほとんど無い。
 初音は何かないかと明を眺める。

 すると、初音は気付く。

 ――明の腕時計は?

 明はいつも日付機能のついた時計をはめている。
 はたして初音は伸ばされた左手の腕時計を確認することができた。


 そこには、こうはっきり刻まれている。

  13 SUN 10:04



 初音は全力で体を跳ね起こす。

 ついに有力な情報を掴んだ。
 初音は急いで隣に寝ている明を見やる。

 そこで、初音はすさまじい光景に戦慄した。

 寝ているはずの明の布団は空だった。

 「明ッ!?」
 初音は布団から飛び出すと、家中明の姿を探す。
 しかし、どこにも明は見当たらない。

 すると気が動転していた初音は、ようやく台所のメモに気がついた。
 初音はそれを読む。


 『初音へ

  俺は買い物に行ってくる
  昼には戻るから、朝飯はテーブルの上のを食べていてくれ

  P.S. これを読んでるってことはちゃんと眠れたみたいだな
      あんまりよく寝てるから起こさなかったぞ』


 初音はメモを放り出すと、携帯電話に飛びつく。
 震える指で明の番号を押し、耳に押し当てる。

 (お願い……早く出て……)

 初音は祈るような気持ちで、やけに長く感じる呼び出し音を聞いた。


 台所の日めくりカレンダーの日付は、13日 日曜日。
 初音はせわしなく置時計に目をやる。

 時刻は、10時前だった。

 初音は自分の迂闊さを呪う。
 残された猶予はもう一刻もない。

 しかし、初音はなんとしてもあんな惨事を防ごうと必死だった。
 そして

 『はい、もしもし。どうした、初音?』
 電話口からのん気な声が聞こえてきた。

 「明! 今どこにいるのっ!?」
 『え? どこって……いつものスーパーからの帰り道だけど』
 「ねえ、近くに工事現場とかある?」
 『工事現場?』

 初音の鼓動が早鐘のごとく脈打つ。

 そんなものある訳が無い。無いに決まっている。
 初音は背中を氷で撫でられたような不快感に耐え、そう自分に言い聞かせる。


 『あるもなにも、今それの隣を歩いてるぞ。高層マンションが建つらしいな』


 その言葉を聞いた瞬間、初音は心臓を鷲掴みにされた。

 「明ッ!! そこにいちゃダメ!! 早く離れて!」

 子供のように喚く初音。

 初音は確信した、これが予知夢の正体だと。
 だが

 『えっ? ちょっと……周りがうるさくて……きこえな……』

 電話口からも聞こえる騒音。
 工事車両が出入りするエンジン音、溶接で鉄が溶ける断続的な火花の音。

 そして、鉄パイプで足場を作る金属音と、その材料を吊り上げるクレーンのウィンチの巻き取り音。

 「お願いだからそこから逃げて! 早くしないと明が死んじゃう!」

 昨晩まで初音に優しくしてくれた明が、ずっと一緒にいてくれると言った明が、死ぬかもしれない。
 そんな予知夢の呪いが、初音を恐慌状態に追い込んでいた。
 初音は懸命にうったえるが

 『……え……ごめ……充電が切れそ…………』

 そんな途切れ途切れの言葉を最後に、無情にも電話が切れてしまった。

 「明!? 明ッ!」

 誰もいない部屋に、初音の声が虚しく響き渡る。

 その直後、携帯電話は床に投げ出され、初音は外に飛び出した。

 そして『鷹』に変身すると、その身を空高く舞い上がらせる。
 数秒後には眼下を走る車の数倍の速さで空を裂き、スーパーの方向へすさまじいスピードで滑空する。

 ここからいつものスーパーは歩いて20分程かかる。
 しかし、今の初音なら5分とかからないだろう。

 (初音、絶対に明を守る!)

 あんな、あんな悪夢の出来事を現実にしてなるものか。
 初音はその想いを力に、空の道のりをどんどん加速する。

 そして、初音は発見する。

 (あれが工事してる所!?)

 突如現れた鉄製の檻を連想させる、鉄骨が組み上げられただけの高い建物。
 地上では作業員がせわしなく動き、檻を上へ上へと伸ばす作業をしている。

 初音は遠隔透視を駆使し、明を探す。

 (――! いた!)

 前方に明を見つけ出す。
 大通りから脇にそれた、工事現場に隣接する裏道を家の方向に歩いている。
 初音は即座に明の頭上を確認する。

 そこで、あってはならない光景を目にした。

 大型クレーンにぶら下がった鉄パイプの束が、まさに明の頭上を横切ろうとしていたのだ。

 初音の数倍になった感覚が異変を捉える。
 ワイヤーの結線部が軋み、束は明らかに傾きバランスを崩しかけている。

 (落ちる!)

 初音がそう考えた時には、もう体はアクションを起こしていた。

 ビニール袋を手に提げ、生命の危機に未だ気付かない明に向けて急降下する。

 その直後だった。
 ついにワイヤーの縛りが甘い部分がほどけ、パイプが自由落下を開始する。

 (間に合え――)

 蛇の這い回るような耳障りな風切音、夢で何度も聞いた音だった。
 その音が初音の数メートル上に迫っている。

 (もう、あんな思いはしたくない――!)

 初音は今まで出したことの無い速度で明目掛けて飛んでいく。



 明は、ふと腕時計を確認する。

 時刻は、10時04分だった。

 「ん?」

 腕時計のガラスにおかしな影が映っている。
 明は天を仰ぐ。

 そして、明は目撃した。

 自分の真上から落下してくる――


 『超大型猛禽類』を。


 刹那、明のいる所に鉄パイプが雨のように降り注ぎ、金属どうしがぶつかり合うけたたましい音が路地に響き渡る。



 「――ッ……明ぁ……」

 初音は普段の少女の姿で地面に伏していた。
 それでも、初音は明の安否を確認しようとする。

 その時、明は


 「いっ……てぇぇ……あううぅ」


 額を防護柵へしたたかにぶつけたらしく、初音の目の前でうんうん悶えていた。

 あの時、鉄パイプは明の頭上わずか数十センチまで迫っていた。
 しかし、ギリギリまで初音は冷静に判断をしていた。

 このままのスピードと重量で突っ込めば、そちらの方が被害が大きい。
 かと言って、上から掴み上げる程の余裕は無い。
 そこで、初音は咄嗟に獣化を解き人間の姿に戻ると、そのままの勢いで明を突き飛ばしたのだ。


 結果、初音は惰性で地面に転倒し、明の代わりにビニール袋に入ったネギや卵が脇でぐしゃぐしゃに潰されていた。

 「な……何がおき……ううぅ」

 明は額を押さえてはいるが、幸い大事には至っていないようだ。
 もちろん、パイプは体のどこにも刺さっていない。

 「よかった……」
 初音は泣き笑いの顔をくしゃっと緩めると、安堵の息をつく。
 そして無事を確認すると、初音は明の胸に飛び込みたい衝動に駆られる。
 すぐさま明に駆け寄るべく腕に力をいれ、体を起こそうとして失敗した。



 「――あれ?」



 初音は肘をつく。それ以上は力が入らない。

 さっきから体中が痛い。
 転んだときの打撲かと思っていたけど、どうしてお腹に痛みが集まっているんだろうと初音は思う。

 初音はお腹を触る。湿った手触りと、やわらかいはずの部分の無骨な硬さ。

 「う……そ……」

 鉄の香を漂わせる平坦な紅い花が腹部からゆっくりと広がる。
 その瞬間、初音の背中から腹部を貫いた鉄パイプは、夢の既視感と共に初音へ耐え難い激痛をもたらした。

 「がっ!! ぐ……げほっ!」

 目から涙が、口からは血液が溢れる。
 猛烈な痛みが脳裏を焼き、眼球の奥で爆ぜる赤い火花が視界を汚染してゆく。

 (そん……な、いっ……あ、 ああ、明……あき、らぁ……)

 最早喋るだけの余裕はないが、初音はうわ言のように明と唇を動かす。

 だが、一際大きな痛みの波が初音の意識を飲み込みにかかり、初音の視界に闇が広がった。


 そして感覚が闇と溶け合う数十秒の間、初音はこちらに駆け寄る大好きで守りたかった匂いを感じた。




 (――……ん)

 次に初音が目覚めた時、最初に目に入ったのはビルの隙間に埋もれたやけに狭い空だった。

 全身が気だるく重い。
 お腹はひどく熱かったが、手足の先はかじかむ程冷たいのが不思議だった。
 初音は億劫なのをこらえてゆっくり考える。

 (……ああ、そっか)

 初音は全てを悟る。

 (失敗……しちゃったな……)

 お腹から温かいものが流れ出るのを感じながら、初音は以前空港の事件で聞いた話を思い出した。

 未来には重さがあり、重い未来を無理矢理変えればその代償を払うことになる。
 明は救われた。そして、しっぺ返しは初音に下された。

 そう、頭の遠くで冷静に考えていた。

 (――そういえば、明は?)

 初音は動かしづらい瞳を懸命に動かして明を探す。
 意外とすぐ近くにいた。

 「は……ね! おい……つね……!」

 (明、すごい顔してる……でもごめん……よく聞こえないよ)

 明は初音を抱えるようにして、傍で名前を叫び続けていた。
 しかし初音には、ノイズ混じりで切れ切れの声しか聞こえなかった。

 (でも……これだ……け、大声……だせるなら……大丈夫、だよね)

 もう痛みはほとんど無い。
 ただ、まぶたが鉛のように重い。
 明の無事を確認した瞬間から、心地良いまどろみが体中を支配している。

 もう、意識を保つのがつらい。
 このまま、眠りたい。

 「……ね!? 初……!! 初音!」

 (……ごめん……でも、……明が、生きてて……くれ、れば…………初音……は、それで……いい……)

 初音は目を閉じる。

 そして、呼吸が浅くゆっくりとなる。

 「……音! しっかり……ろ! だめ……」

 (……あきら……ごめん…………さよなら……)

 そのまま、初音は深い眠りに落ち――



 「……つね! 初音! ***!」



 (――ん?)


 初音は停滞する意識の片隅にそれを聞く。
 どこかで、何度も聞いたその声。

 初音はようやく気付く。

 (まだ……ゆめ……さいご、まで……)

 最期まで聞き取れない言葉。

 「初音! **ろ!」
 (……え……あ、な……なん、て)

 わずかずつだが響いた声に初音は意識を覚醒させる。

 「初音! *きろ!」

 (……ああ、……もし、かして……)

 初音は明が何を伝えたかったかをついに知る。


 夢が重なるとき



 「初音! 生きろ!」



 初音の目に光が戻る。

 「初音! 生きろ!
  なあ、初音。俺が言ったこと覚えてるか? ずっと、ずっと一緒にいるって言ったろ!
  だからあきらめるんじゃねえよ! 勝手に俺を残して死ぬな!
  生きろ初音!!」

 (あきら――)
 
 初音は思い出す。自分は何を守りたかったのか。

 明の作ってくれるご飯を食べて、一緒に任務をこなして、温かい優しさに包まれて眠る。
 時には怒られたり喧嘩したり、でも褒めてもらって頭を撫でられた時は心がふわふわするくらい嬉しかった。

 そんなかけがえのない日々が、今壊れかけている。

 (そ……だ……初ね……まだ……)

 まだ死ねない。まだ大切なものを取り戻していない。

 初音が守りたかったのは明だけではない。


 明と初音、二人の未来だ。


 (あき、ら……わかった…………でも)

 もう死のうなんて考えない。
 明のこんな顔は二度と見たくない。二度とさせない。

 でも

 (い……いまは……すこしだけ……やすませて、ね……)

 初音はゆっくり目を閉じる。

 しかしそこに暗闇はなかった。

 少女は最期に



 長い、永い 夢を見た――――





 普通病棟とは隔離された特別病棟。
 その一番奥の病室に、初音は目を閉じ横たわっている。

 そばには明が力無くうつむいてイスに座っている。
 頬には涙の跡が見受けられ、ベット脇のキャビネットには明用であろう、トレーに乗った食事が手付かずのまま放置されていた。

 無機質な白い壁の部屋には静寂が満ちていた。


 突然、初音の目がぱっちり開く。

 その視線はすぐ明に向けられ、初音は目を細めた。
 明を起こさないようにそっと上体を起こす。
 そして音を立てないよう気を遣い、ゆっくりと横のトレーへ手を伸ばす。

 と、閉ざされていた明の目がぱっと開く。
 二人の視線が交わり合い、気まずい沈黙が流れる。

 初音が上ずった声で第一声を発する。
 「あ、明。お、おはよう……」
 「おはようじゃなくて、まさかコレを食べようとか考えてたのか?」
 トレーの豚生姜焼きを指差され、図星の初音はいたずらが見つかった子供のように目が泳ぐ。

 「だ、大丈夫。明が看病してくれたから、もう元気だよ」
 「腹を縫ったうえ三日も意識不明だったんだぞ。まだダメ! 当分普通の食事は我慢だ」
 「むー……」

 初音は頬を膨らませてうらめしそうな顔をする。
 対する明は、軽くたしなめるように初音を睨んではいるが、表情が緩むのを抑えきれなかった。

 一時はかなり危なかった。
 普通の人間なら助からなかったかもしれない。
 しかし、初音は驚異の生命力でなんとか峠を乗り越え、今や軽口が言い合えるほど回復している。
 
 それは、確かな『生きたい』という思いが生んだ奇跡だった。

 「あれほどゆっくり休むよう言ったろ?」
 「だって、初音お肉を食べないと力が出ないし、治るものも治らないよ……」
 そう言って口を不満そうに尖らす初音を、明は苦笑して眺める。
 「はいはい。退院したらいっぱいご馳走を作ってやるから、今はコレで勘弁な」

 明は鞄からりんごを取り出すと、ナイフで手際よく皮をむく。
 それをおろし金であっという間にすりりんごにした。

 「ほら、あーん」
 「む……あーん」
 口元にりんごをすくったスプーンを近づけると、初音は雛鳥のように口を開けてりんごをついばむ。
 口の中に柔らかな甘みと酸味が広がる。
 「おいしい?」
 「うん。もっとちょうだい」
 「よしよし」
 こんな調子で結局りんごを全て平らげてしまった。

 「明、何から何まで迷惑かけてごめん」
 「それは言わない約束でしょ」
 申し訳なさそうに呟く初音に、明は時代劇でお馴染みの台詞を茶化して言う。
 初音の表情が穏やかになる。

 「ていうかさ、迷惑なんてもっとかけてもいいくらいだ」
 しかし、今度は明が神妙な面持ちで切り出す。

 「予知夢のこと、どうして黙ってたんだ?」

 空気が一変した。
 明の咎めるような目つきが突き刺さる。
 初音は表情筋をこわばらせて萎縮してしまう。
 それほど、明は怒っていた。

 「な、何でそれを……」
 「小鹿主任が話してた。もっと真面目に相談を聞けばよかったって泣いてたぞ」
 初耳の事実に初音の心がちくりと痛む。
 「……だって、そんなこと話しても」
 「むやみに不安がらせるのは良くないと思ったのか?
  それともどうせ信じてもらえないなら話しても無駄だと判断したとか?」

 初音は核心を突かれ言葉に詰まる。
 でも、それで何でこれほどの剣幕なのかわからない。
 困惑でシーツをぎゅっと握り締める。

 「今回の事件だって、俺に言ってくれれば外出を控えるとか対策を講じて初音もこんな怪我せずにすんだかもしれないんだぞ。
  血だまりの中でぐったりしてる初音を見た時、俺がどんな気持ちだったかわかるか?」
 その光景を思い出したのか、手を少しだけ震わせる明を目の当たりにして、初音はつらそうに顔を伏せた。

 「初音はな、ものすごい行動力がある。でも、一人で勝手に思い詰めて予期せぬ行動に出る悪い癖があるんだ」
 面と向かって欠点を指摘され、初音は肩を落とす。
 反論したかったが、お互いを知り尽くす幼なじみには通用しないだろう。


 「まったく、そーいうのが余計なお世話っていうんだ」
 ふ、と明の怒りが鳴りをひそめ、いつもの穏やかな表情に戻る。

 「キツイこと言ってごめんな。でもそんなに気を落とさなくていいぞ。
  初音のおかげで俺もこうして無事に過ごせているんだから」
 明の手が初音の下ろした髪をくしゃっと撫でる。
 初音は甘えるように頭を軽く揺らした。

 「ただ、何か心配事があるならまず相談しろ。
  俺は真剣に聞くし、悩みが消えるまでつきあってやる。
  それに今の初音には、バベルみたいにたくさんの心配してくれる仲間がいるだろ。
  だから、一人で無茶しないでどんどん頼ってくれ」
 「……うん。ありがと」
 初音は言葉をひとつひとつ噛みしめながらゆっくりつぶやく。

 初音は改めて自分が明のために闘うように、明や皆が自分のため共に闘ってくれることを知る。
 そんな仲間の存在が、こんなにも心強くて嬉しいことだとは予想外だった。
 それが予知夢の呪縛を解き放ち、初音の胸に今まで感じたことの無い深い安らぎが沁み渡っていく。

 ぽんぽんと撫でてくれる手が心地いい。
 こんなに幸せすぎて、何だか泣けてくる。

 「ねぇ……明」
 「ん? 何?」

 初音の声に明が手をどかすと、そこには瞳がゆれる水面のようにきらきらと輝く快活な笑顔があった。

 「初音、事故で気を失ってからずっと夢を見てた」
 「夢って、まさか誰かが」
 「ううん、そんなんじゃないよ」
 緊張した顔の明に対して、手をぱたぱたとふって物騒なことではないことを示す。

 「初音がね、お母さんになる夢だよ」
 「えっ、お母さん!?」
 「そう」
 初音はとっておきの秘密を話すように、はにかみながら続ける。

 「初音の子供がたくさんいて、はしゃぎながらご飯を食べてた。
  テーブルの上に大きなお皿山盛りのからあげがあって、まわりをぐるって囲んで取り合ってるの。
  あ、初音はもちろん一番大きいのを取ったよ」
 「っぶ、初音らしいな」
 絵に描いたような温かな家庭像にお互いの口元がほころぶ。

 「そーか、初音もお母さんになったら料理とかするんだな」
 「ううん、料理してたのはお父さん。初音は味見係」
 「あ……そうなの」
 やっぱり初音だなぁ、と明は苦笑する。
 「初音の分まで作ってくれるなんて、どんなお父さんだろうな」

 明が何気なく言うと、途端初音の健康的な頬に朱が散る。

 「……お父さんはね、初音の一番大切な人。
  初音のことをいつも考えてくれて、だから守りたいって思う人。
  ちょっと鈍感なのが玉にキズだけど、ずっと一緒にいてくれる人だよ」

 そう歌うように呟くと、明に視線を送る。
 だが、顔をさらにバラ色に染めてすぐに逸らしてしまう。

 「……あ、あぁ〜」

 明が呆けたように声をもらす。

 初音の心臓が早鐘のように脈打つ。
 こんなの告白と同じではないか。
 そう思いながら明の一挙一足をうかがう。

 そして、明は真摯な表情でこう言った。


 「そんな奴いたっけ?」


 ぼふ、と初音は掛け布団に顔を埋めた。

 「おい、どうした? 顔が真っ赤だけど」
 「……大丈夫。そーゆーとこもちゃんとわかってるから……」

 明はきょとんと首をかしげた。初音は、はぁーと溜息をつく。

 すると、明が近づいてくる。
 というより、明の吐息が初音の鼻先まで感じられるほど接近して

 「なっ、ちょっと近……ひゃうぅ!?」
 「うーん、ちょっと熱っぽいな。やっぱりまだ寝ていた方がいいぞ」

 うまく舌が回らない初音の額へ、明が額をぴったりくっつけた。
 明は純粋に病み上がりの初音を心配しての行為だろうが、この計ったようなタイミングに初音は真っ赤な顔で硬直してしまう。
 だが、うっとりと目を閉じ、明のされるがままに身を委ねる。

 (優しい人、っていうのもつけ加えなきゃ……)

 つい顔がにやけてしまうのを抑えきれない。


 その時、病室のドアが急に開け放たれた。

 「やっほー、お見舞いにきたよ! ……」
 「こらこら、病院では静かに……」

 現れたのは皆本とチルドレンの面々。

 彼女たちが見たものを客観的に伝えると、顔をくっつけ合う幼馴染の二人が、自分たちの存在に気づいた途端にぱっと顔を離す状況である。
 ちなみに、初音の顔は赤く火照ったままだ。

 「……あー、すまん。僕たちは帰るからどうぞごゆっくり」
 「い、いやっ! 皆本さん何か勘違い」
 「バッカ! 皆本、これからがいー所じゃん」
 「姐さん! 誤解だって」
 「薫、野暮なこと言うんやない。ここは若いの同士でしっぽりと」
 「しっぽりって何!?」
 「あらあら、お盛んねぇ」
 「もー! 明のせいでもー!!」
 「うわわ、なんで俺のせいなんだよ!?」

 病室の中が一瞬でにぎやかになる。
 初音は枕で明をぽすぽす叩きながら二人の、そして気の置けない仲間たちとの希望に満ちた未来が戻ってきたことに感謝した。



 それ以来、初音は予知夢を見なくなった。

 能力が消えたのか、明の危機にしか反応しないのか、それはわからない。
 もしかしたら、最期の夢は予知夢ではないのかもしれない。

 しかし、初音はこう思う。


    どんな未来でもかまわない

    私は、これからもずっとあなたと共に生きる――


             【終】
ご無沙汰しました、がま口です。

今回以前からコツコツ書き溜めていたものを、企画に乗っかって投稿した次第です。
もう少し早く書き上げたかったです……

内容は……本当にクリスマスと関係ない上、ハウンドファンの皆様から鉄パイプで殴られそうな勢いのものですね……きゅ〜ん(震)

最近夢をぱったり見なくなったがま口でした。

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