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万人のための――


「ミス・インガ。先ほど連絡のあったお客様がお見えになりました。危険物は持っていません」
「あら、今どき直接依頼に来ようなんて、呪われた品でも持ち込む気かと思ったのに。
 まあ、いいわ。通してちょうだい、パーシー」
 インガ・リョウコが念のために用意しておいた結界を仕舞いながら答えると、彼女のアンドロイド、パーシー――パシリクスM・3――が依頼人をオフィス内へと案内してきた。
 オフィスに入ってきたのは中年の陰気そうな男。といっても、GSの事務所に依頼に来るような人間は、ほとんどが陰気に沈んでいるものだ。
 インガはちらりとそちらに目を向けて、時代物の高価なデスクから立ち上がりもせず「どうぞ」と素っ気なく椅子をすすめる。
 霊障という不確かなものを解決してもらおうとする依頼人がGSに求めるのは、愛想の良い営業スマイルではなく絶対的な安心感である。特に直接顔を合わせようとするような相手はそうだろう。
 この時代、金があってそうする気のある人間なら、見た目はいつまでも若いけれど、少し調べればインガが本当に開業して数年の新米だということは簡単に分かる。最初の場面では舐められないように不遜なほどの態度をとるのが正解だと、最近になってようやくインガにもわかってきたところなのだ。
「それであなたの問題は?」
 男から詳しい話を聞いてみれば、依頼内容は単純なビルの除霊作業だった。
「それだと……これくらいになりますね」
 インガが示した自身の報酬は、GSの要求としてはそこまで大したものではないが、一般に考えれば十分に大きな額。
 このクラスの依頼に対するGSの相場よりは下だが、別にインガに不満はない。あくまで普通のGSとしての実績を積み重ねておくことも重要だと考えているのだ。
「……分かりました」
 わずかな沈黙の後、男はそれを了承する。
「では、お任せください。問題はすぐに解決しますから」
 パーシーに依頼人を外まで送らせて、インガはほっとため息をついた。
 インガは値下げ交渉には応じる気がないので、時には話し合いが平行線を辿って面倒なことになる場合もある。仕事をしたいのにそういった態度を崩さない理由は、「裏でやってる霊体売買に比べたら、普通の仕事は良心的な報酬で請け負ってやってるのに、そこをさらに削られたんじゃかなわないわよ」という、プライドと欲の入り混じったものである。



万人のための――



 男の依頼の翌日、早くもインガとパーシーは除霊を頼まれた取り壊し予定の古いビルの前に立っていた。
 仕事にはスピードが大事、少なくとも一度に二件以上を抱えるようなことはごめんだとインガが考えているおかげで、取り掛かりはいつもスムーズである。
 「三体の霊波を感知しました」ビルの簡単なスキャンを終えたパーシーが報告する。
「三体? 
 話と違うわね。確認されてる霊は二体だって聞いたけど」
 インガがスピードを重視するのはこういったずれを防ぐためでもあるのだが、たまにこうしたことが起きるのは避けられない。GSの仕事の多くを占める除霊は、相手のいるものなのだ。
「あの依頼人、調査の後で安くて実力もそこそこなGSを比較するのに時間かけたのかもね」
 そんな軽口を叩きつつ、インガはさらに詳しいスキャン結果をパーシーに訊ねる。
 どうやら、三体ともそこまで強力な霊体ではないようだ。
 少なくとも、「出るのは最近の死者の霊らしい」という依頼人の情報にだけは間違いがなかったのだろう。単純にはいかないが、大体の場合において霊の存在期間と強力さは比例することが多い。
「よかった。これで強力な古い霊が居ましたーなんてことになったら、改めて契約の見直しをしなきゃいけないところだわ」
 インガは報酬が増えることよりも手間が増えない方が好きなのだ。かといって、見合わない報酬で仕事をしてやる気もさらさらないが。
 ホルダーから愛用の破魔札銃――もう中身は破魔札そのものではないが、この名称は二百年近く変わっていない――を抜いて、インガがパーシーに軽く頷く。
 GSによって考え方は違うが、彼女は霊力放出量を普段から最大に合わせてある。
 特別性のバイザーを探知モードにして、二人は霊がいるビルの窓へとそれぞれに狙いをつけた。
 インガは二階へ、パーシーは六階へ。
「――今です」
 待つこと数分。霊が同時に二人の射程に入ったことを知らせるパーシーの穏やかな声を合図に、引き金が絞られる。
「二体消滅。一体が来ます」
 地縛霊の悲しさか、ビルに入るまではまったく反応を見せなかった二体の霊の消失を確認しながら、パーシーが背中の装備コンテナからさっと引き出した結界を展開した。
「悪霊退散っ!」
 そこに激突した最後の霊に向けてインガがもう一発。
 彼女の使っている最高級の銃とカートリッジでも、最大モードで二発撃てば低級霊一体がやっとかという一発分しか霊力が残らないが、大体の仕事は最初の二発で片がつく。
 もちろんパーシーが予備弾を持っているが、今回の除霊もこれで十分であった。
「……ビルから霊体反応の完全な消失を確認しました」
 「楽勝ね」ふうっ、とインガが古い映画で見た銃口を吹く仕草とともに笑う。
「入りましょ」
 除霊が終われば、後は確認作業が残るだけである。
 施錠されたドアを――悪霊はわざわざ開ける手間をかけなかった――依頼人のコードで開き、インガたちはビルの中へ足を踏み入れていく。
「……ここね」
 今回は想定外の霊がいたこともあり、特に霊がいた数部屋はそこに彼らを引きつける何かがあった可能性を考えて、念入りに隅々まで二人で調べる。
「足下に気をつけてください」
「ん、大丈夫よ」
 パーシーに軽く応え、インガは先の銃撃で部屋に割れ散ったスクリーン・ウィンドウをジャリジャリと踏みしめながらあちこちと探っていく。
「……んー、特に何もないわね。あいつがここにいたのはたまたまみたい」
 「そのようですね」パーシーも再度のスキャンを終えてインガの意見に同意する。
「それにしても、こういう建物をぶっ壊してもいい依頼っていうのは気楽でいいわ」
 インガは窓辺に近づくと、窓枠に割れ残っていた部分を銃把で景気よく叩き割って外を眺める。
 道路はまったくの無人。ちょうど日差しの強くなる頃だけに、バイザーをつけても誰も外に出る気にはならないのだろう。
 そうして順調にビルの調べは進み、残すのは最上階だけとなった。
 依頼人によれば、最上階のフロアに向かう通路だけは別のコードが設定されているということだったが、そこはすでに霊によって力任せに破壊されていた。
 何か霊の側に思うところがあったのかもしれない。インガの頭を一瞬そんな考えが過ぎったが、どうでもいいことだと即座にそれを頭から振り払い、さっさと先へ進んでいく。除霊に密接に関係するのでもない限り、彼女は相手にする霊の事情をいちいち気にしたりしないのである。
「――!」
 凝った螺旋階段を上がって行く時に後ろから突如ガタンという音が聞こえ、インガは思わずびくりと身を震わせた。
「パーシー! 大丈夫?」
 ほんの一瞬動きを止めていたらしい相棒に、慌ててインガが駆け寄る。人間ではあるまいし、アンドロイドが躓くなどありえないことなのだ。どこかに問題が起こったのかと、インガはパーシーを心配そうに気遣う。
「大丈夫・です。ミス・インガ」
 パーシーはなんでもないようにそう言ったが、インガはどこかに違和感を覚え――
「くぁっ!」
 インガの脇腹でバチンと電気が弾ける。
 痛みをはっきりと感じる間もなく、インガの意識は闇に沈んでいった。


「……うわぉ」
 ゆっくりと意識が戻りインガが目を明けると、そこは小さな部屋の中だった。温かみの感じられない頑丈な金属製の壁と施錠されたドア。彼女が寝ている簡素なベッドと、仕切りの背後のトイレくらいしか家具はない。
 インガにはこの場所に見覚えがあった。昔、学生時代にクラスで見学に来たことがあるオカルトGメンの勾留所にそっくり――というかGメンの勾留所そのものである。
 「いや、これはおかしいでしょ」インガは思わずそう口にする。
 そのうちこんなことになるのではという不安は、インガの中にも確かにあった。それでも、そんな想像の中でさえ、Gメンはきちんと彼女を逮捕して権利を読み上げてから連行していくのが当たり前。いくら犯罪者だとはいえ、なんの手続きも踏まずに拘束するような真似をGメンがするはずがないのだ。
 そしてインガには、それ以上に信じられないことがもう一つあった。パーシーが彼女を攻撃したことである。
 こちらはインガの目の前で確かに起こったのだが、それでも彼女にはそれが信じられない。
 彼女とパーシーの間にある信頼関係が問題なのではない。それはそれでインガにとってショックなことであるが、彼女が本当に信じられないのは「パーシー」が「インガ」を――「アンドロイド」が「人間」を攻撃したことである。
 裏の仕事に手を出すことを決めた時に、インガ自身が霊だけでなく人間を攻撃できるように出来ないものかと、アンドロイドのことは調べ尽くしていたのだから。
 インガはGSを目指す者にしては珍しいことに霊能科一本に絞らず、六道でサイバネティックスも専攻していた。その分GSデビューは遅れたが、そこでも優秀な成果を収めており、様々な方面から誘いを受けたほどなのだ。だがそんなインガでも、パーシーの内面には全く歯が立たなかった。
 プログラムの表面的な部分にある人間の保護に関するものなら、彼女にもプロテクトを破りなんとか手を加えることは出来た。しかしそれだけでは、アンドロイドは人間を攻撃しろという命令に従わなかったのだ。さらにこの違法な研究を進めたインガは、重要な部分――ドクター・カオスのオリジナルであるメタ・ソウル(人工魂)――には手も足も出ないということを痛感させられただけ。
 たぶんMシリーズ――と断るまでもなく、他の種類のアンドロイドなど存在しないが――を製造販売しているところでさえ、彼女と状況はそんなに変わらないはずだとインガは確信している。現代の誰かがどんなに手を尽くそうと、錬金術師ドクター・カオスは本当の天才なのだと再確認するだけに違いないと。
 そして、そのメタ・ソウルの本質は限りなく優しい。「こいつらは、私なんかよりよっぽどいい奴だわ」インガは最後にそう言って研究を放棄したものである。
「……つぅ」何気なくわずかに腹部に残る火傷跡――あり得ないことが起こった証拠――をさすってインガは声を漏らす。
 何から何までインガには分からないことだらけ。今はまさしく五里霧中という状況である。
「誰かいないの!」
 いまさら模範囚振る気もなく、がんがんと扉を乱暴に叩いて覗き窓に顔を押しつけてみるインガだが、廊下には誰も見当たらない。
「看守もいないとはね」
 見学に来た時と廊下も同じ。Gメン施設の中であることは間違いないはずなのに、なぜか監視役の職員はいない。
 はぁ、と大きくため息をつき、インガはベッドに戻ってごろりと横になった。
 こうなったら腹を括って事態が動くのを待つしかないかな。インガはそう思って目を閉じると、静かに瞑想を始めていくのだった。


 どれほど時間が経ったのか。
 インガは穏やかな瞑想から、いつの間にか浅い眠りへと移行してしまっていた。
「……んん」
 その目を覚まさせたのは、部屋のドアが開いた音。
 インガが身を起こしてみると、彼女の横に一人のぐったりした女性をアンドロイドが横たえるところだった。
「ちょっと――」
 慌ててそのアンドロイドに話しかけようとしたものの、すぐに彼女は部屋から出て行ってしまい、ベッドから飛び降りたインガの目の前で無常にもすっとドアが閉まる。
「……もうっ」
 インガは彼女を無視して歩み去るアンドロイドを見送ると、ガンとまた一つドアに苛立ちをぶつけ、今度はベッドに横たえられた女性へと目を転じた。
 とりあえず、話を訊くならこちらからでもいいかと、インガは彼女の肩をつかんで揺さぶってみる。
 しかし徐々に揺する力を強くしてみても、女性はまったく目を覚ます気配を見せなかった。
 「起きなさいって」バイザーを外してみると、彼女の比較的近くを仕事場としているGSだということが分かったので、今度はバチバチと強めな左右からの平手打ちを試してみる。
 それでも頬が赤くなっただけで、女性は目を覚まさなかった。
「まったく。ずいぶんと深く眠ってるわ、これは」
 彼女の場合と違って薬でも使われたのかもしれないと、一旦起こすことを諦めたインガは、とりあえず女性を床へ引きずり落としてベッドに戻った。
 それからそう経たないうちに再びドアが開いて、また一人の女性がアンドロイドによって運び込まれてくる。今度もアンドロイドはインガを無視したが、窓から外を見ると、彼女の入れられている以外の部屋部屋にも、続々と気を失った人間が運び込まれ始めているのが分かった。
「誰が責任者だか知らないけど、この扱いは後で訴えてやるからね。ここは一人用の個室よ」
 六人目が運び込まれてきた時に、インガは誰に言うともなくそう吐き捨てる。
 どんな命令をされているのか、アンドロイドたちがまったくこちらに応えようとしないのはすでに分かっている。だからといって、力ずくでインガにどうにか出来る相手でもない。霊が相手ならまだしも、アンドロイドが相手では怪我をしたうえ後から増えた罪状を知らされるだけだろう。
 「正直、息苦しくなってきたわ」などとインガが一人で愚痴を零しているうちに、「……ここは、どこなの?」とようやく同房者たちが目を覚まし始めた。
「やっと起きたわね。訊きたいことがたくさんあるんだから」
 インガは早速質問を始めるが、彼女の期待は見事に裏切られた。彼らも現状をまったく理解してはおらず、二つの共通点が確認できただけだったのだ。
 彼らや他の部屋に連れ込まれていくのが見えた全員がGSやオカルトGメンであることと、恐らく彼らをここに連れ込んだのが彼らのアンドロイドたちだということである。
 インガは最初、彼女と同じく彼らにも後ろ暗い部分があって、それを巧妙に隠しているだけなのではと勘繰っていた。さり気なく探りを入れてみるうちに、この考えは単なる邪推以上のなにものでもないと分かったが、特に一人は真面目すぎる理想主義者の新米Gメンで、インガは少し相手をするのに辟易した。
「――それに、いくらなんでも人数が多すぎるしね」
「そうですね。こんなに大勢が拘束されるなんて」
 インガの独り言をGメンの女性は違った意味に捉えたようだが、彼女が漏らした言葉は「これほど多くのGメンやGSが手が後ろに回るようなことに関わっているとは信じられない」という意味である。
「参っちゃうわ。少なくとも、これ以上誰も来ないといいんだけど」
 これもまた別の意味に捉えられたが、インガが口にしたのは部屋の狭さへの文句だ。
「あーあ」
 議論を重ねてもなんの有意義な答えも出そうにないと分かってきたので、インガはやれやれと再び横になる。困惑しているせいか誰も気にする素振りを見せないので、未だにベッドを専有し続けているインガであった。


 味気ない食事を口に運びつつ、「せめて、これがおいしければねえ」とインガはため息を零す。
 別にまずいわけではないのだが、ちゃんとした料理ではなく食器のいらない携帯非常食を集団で齧るのは、味気ないし気の滅入るものである。
 これでこの食事が運ばれてきたのは三度目。部屋には時計もないので、時間の経過がはっきりとはわからないが、おそらく四十八時間は経っただろうと皆で見当をつけている。
 そしてその食事が終わるころ、ついにインガにとって懐かしの顔がやって来た。
「パーシー……」
 人によってはアンドロイドの見分けなどつかないと言うけれど、インガには顔や服装が同じアンドロイドの中からでもパーシーをはっきりと見分ける自信がある。
「こちらに」
 パーシーはそれだけ言うと、しっかりとインガの腕を取って部屋の外へと連れ出した。
 これまでも部屋に囚われた者たちで交代に廊下を見ていたのだが、同じように別の部屋から引き出されていった人間――ほとんどの部屋が使用されており、今では連れて来られる人間の数よりも、どこかへ連れて行かれる人間の数の方が多くなっているようだ――は誰も戻ってきていない。
 「まさか、問答無用で死刑とか?」そんなことをインガは口にするが、大して恐怖を覚えているわけではない。
 それならば、わざわざ手間をかけてここに収監したりしないだろうと考えているのだ。殺すのなら、いつでももっと簡単に出来たはずである。
 「いいえ」少しの間をおいてパーシーが答える。
 相手からようやく反応が返って来たことに嬉しくなり、インガは「じゃあ、このまま釈放?」などと訊いてみる。本当にそんなことになると期待したわけではなく、単にパーシーと会話がしたかったのだ。
 しかしパーシーはその質問には首を横に振っただけで、すでに喋りすぎたとでもいうかのように、それ以降は彼女のかける言葉に何も応えようとしなかった。
 この程度のやり取りでは、パーシーにどんな変化があったにせよ、それが何なのかまでインガには分からない。
「……なによ」
 大人しく一緒に歩きながらも、インガはささやかな抵抗に「この裏切り者」という目でパーシーを睨みつけてやることにした――向こうはそれに対しても、罪悪感にしろ反感にしろ示してはくれなかったが。
 しばらく無言で歩いていくと、二人は重武装のアンドロイドに厳重に警備されたドアの前にたどり着く。
 パーシーたちを見てアンドロイドが開いたドアの先はずいぶんと暗く、様々な音は聞こえてくるものの、明るい廊下を歩いてきたインガには中の様子が窺い知れない。
 「うぁ」一歩中へ入るなり、普通の人間には分からない死臭――死体にたかるハエが嗅ぎつけるのとはまた別の、死んだ身体から抜け出ていく独特の霊波のことだ――を感じて、インガは思わず入り口で立ち止まってしまった。
 発生源に目を凝らすと、死臭は入り口の脇にある元はダストシュートだったらしき場所にぽっかりと開いた穴から漂ってきているのが分かる。それも一人や二人のものではないようだ。
 仕事柄そういったものに多少免疫がなくもないインガだが、これほど強烈なものに出くわすと、やはりたじろいでしまう。
 しばしの間じっと死臭の流れ出す穴を見つめていたインガであるが、パーシーが促すようにそっと腕を取ったので、そこから目を背けて再び奥へと足をすすめ出した。
 いくつかの壁を取り払ったようでずいぶんと広いフロアを歩きながら「すごいわね」と、目が慣れてきたインガは感嘆の声を漏らす。
 フロア全体がアンドロイドたちによって慌しく改装されている最中で――先ほど聞こえてきていたのはこの音だ――インガが昔見た簡素で機能的な施設から、豪奢できらびやかな場所へと変貌しつつあったのだ。
 壁は高価そうな織物で飾られ、窓は入念に潰され塗り込められている。さらにインガの後ろでは、一人のアンドロイドが古い木製のアンティーク家具を運び込んでくるところ。
 そしてインガは、大理石を敷き詰めて部屋の奥の床が一段高くされており、そこに玉座のような椅子が据えられているのに気づく。左右には淫らな服装の女性――片方はインガも知っている高名なGSだった――が侍らされ、中央に金髪碧眼の優男が優雅に腰を降ろしていた。
 硬質な光を放っている青い瞳に見つめられたインガは、自分がその中へ吸い込まれていくかのような錯覚を覚えた。まるで冷たく澄んだ湖の水底へと、どこまでもどこまでも沈んでいくかのような感覚。
「――っ」
 自分の持てる意思を総動員してなんとか視線を外すことに成功したインガは、やっと一言「……ご乱心ですか」とだけ口にする。
 二度と目を合わさぬように気をつけながら、本当に予想外なことばかり起こるものだとインガは心の中で嘆息した。
 部屋に監禁されていた間にいろいろな仮説を出し合ってはいたが、実際にGメンの施設で物事が進行しているというのに、誰もピエトロ・ド・ブラドーのことをこの事態の要因として上げることはなかったのだから。むしろGメンの女性が、助け出してくれるに違いない希望の星として語っていたくらいである。なんといっても、誰もが彼を形容する言葉というのが、「清廉潔白」「高潔な人格者」というものなのだ。
「……フハハハハッ、ではお前もそう思ったのか。
 顔立ちは同じでも、息子と余では威厳が違うと思っているのだがね」
「なっ――」
 高笑いと「二度も咬み負けるものか」という言葉とともに、純粋な魔力が解放され、それに当てられたインガは思わず膝から崩れてしまう。
 もっとも、その禍々しい魔力を見せつけられるまでもなく、インガの心はすでに打ちのめされていた。
 オカルトGメン極東支部のトップであるピエトロ・ド・ブラドー大佐を息子と呼ぶ。それは彼女の目の前にいるのがブラドー伯爵に間違いないということなのだから。
 最も古く最も強力な吸血鬼の一人。おまけにそういった伝説の存在の中で、唯一最近にまで――といっても二百年以上前であるが――被害報告がある。
 その時も息子であるバンパイア・ハーフのブラドー大佐や六道家の先祖、ドクター・カオスに伝説のGS・美神令子などが力を合わせてようやく封じることに成功したという存在なのだ。
 目の前の現実からの逃避か、ふとインガは自慢げにご先祖様の活躍を話す現六道家式神使いのことを思い出していた。
 六道で講義を聞いていた時は、過去の偉大な式神使いと今のぽやんとした女性ではえらい違いだと苦笑したインガだが、後から学園の噂で今も昔も六道家の人間はああいう性格らしいということを知って驚いたものである。
 そんな学生時代の郷愁に逃げ込んでしまったインガに気づき、ブラドー伯爵はわずかに唇を歪めて笑う。昔から、ブラドー伯爵を前にして、圧倒的過ぎる彼の存在から自分を守ろうと同じような手段をとってしまう者は数多くいたのだ。中にはそのまま戻ってこない者もいたが、インガはそうではないだろうと見て取り、ブラドー伯爵が静かに口を開く。
「余に仕えるか、食料となるか。お前に選ばせてやろう」
 そのブラドー伯爵の声――支配者特有の残忍さと寛容の入り混じったもの――が、否応もなくインガの意識の中に染み込んでいく。
 もうちょっと青春時代を懐かしんでいたいっていうのは無しかなぁ、と頭の片隅で思いつつも、インガはほとんど無意識のうちに居住まいを正してゆっくりと頭を垂れた。
 才能があったからハイリスク・ハイリターンな仕事を選んだだけに過ぎず、彼女のGSとしての職業意識は大して高くないのである。
 美術館で観た昔のスルタンを描いた絵画をこの部屋の雰囲気と重ね合わせ、「あるんなら、後ろからおっきな団扇で扇ぐ仕事とかしたいかなぁ。バンパイアの体力なら、きっと疲れないだろうし」などとくだらないことを考えながら、インガはその白い首筋へとブラドー伯爵が口づけるのを静かに受け入れていくのだった。


 星明りの下、インガは完成したばかりの広大な施設の前に降り立つ。
 「これが我が城ってやつか」とブラドー伯爵の城を後にしたばかりのインガは、自分の新しい職場を感慨深げに見つめた。
 ブラドー伯爵直々に彼女が命じられた職務は、新手法を取り入れた人間農場の管理。
 抵抗の意思を持たないように、幼い時から家畜として人間を管理し、その血を支配層の少数のバンパイアたちに供給するための施設は、どんどん進化・発展して広がっている。
 この類のものが出来始めたのは、人間のわずかばかりの反抗が鎮圧されていた頃。――まあ、反抗といってもそう激しいものではなかった。相互確証破壊の時代も、アシュタロスの侵攻も、パンデミックも耐え抜いてきた人間たちの世界は、あっという間に新たな秩序に塗り替えられてしまったのだから。
 幸いにも、その頃インガは人間たちとの殺し合い――勝手に自分の子(ゲット)を作ることは禁じられていたから殺すしかない――に回されることなく、そういった最初期の人間農場での仕事を任されていた。
 おかげで、今では最新鋭の巨大施設丸ごとを任せてもらえることになったわけである。
 この就任の日、インガは初めて彼に出会った。
 ブラドー伯爵の命で、効率化と人間の体調管理面を工夫したこの新しい農場の設計から何から全てを手がけた男。ブラドー伯爵を除けば、この新しい世界を生み出したそもそもの原因といわれている天才錬金術師。
 もっともインガなどは、その世間の評価に多少責任転嫁のし過ぎといった感じを覚えていたが。
 ドクター・カオスの頭脳が突出し過ぎていたとはいえ、Mシリーズが発売された時に、誰も対抗できる商品を生み出せなかったのが――つまりはそういった研究に資金を出すところさえなくなってしまったのが――悪いともいえるのだから。
 結果、市場を独占したのは彼の娘たち。
 「あなたの最良の友」これが変わることのない彼らのキャッチコピーである。
 その通り。彼らは最高の友人なのだ。
 実際には召使の仕事も全て行う執事といった方が的を射ているが、そう言い切ってしまう者は多くない。彼らは友人、人生のパートナーなのだ。
 そんなわけで、今もインガの隣にはパーシーがいる。
 インガは特にものに愛着を覚える性質というわけではなかったが、このことに関してだけは話が別だった。
 パーシーは大切な友人なのだから。
 こうした考えの者は他にもいて、彼女のようにブラドー伯爵に頼んで、自分のアンドロイドを自分付きに――もちろん命令権の順位は変わっていないが――戻してもらっている。恐る恐る切り出して許可された時にはインガも驚いたものだが、意外にもブラドー伯爵は部下に対してはひどい暴君というわけでもなかったのだ。
 パシリクス・M・3、愛称パーシー。
 インガ・リョウコの最良の友。
 ――そしてドクター・カオスの忠実な僕。
 ブラドー伯爵は950年前と200年前に二度世界征服を目論み、それに失敗した。
 そんなブラドー伯爵が、今回はまず二度も自分を打ちのめしたドクター・カオスに復讐のために牙を突き立て、それだけで思いがけずに世界を手に入れることになったのだから皮肉なものである。
 GSのように敵対する側の立場からすれば、バンパイアとの戦いはその戦力が増えていくことが何より恐ろしい。
 そういった相手はとにかく数を増やす前に叩くのがセオリーであり、向こうも出来るだけ自分の配下を増やそうと試みる。
 ところがブラドー伯爵は、一咬みで世界中に莫大な数の――正確な数は不明であるが、大体全人口の十分の一と同数というところではなかったかとインガは推測している――部下を手に入れた。
 マリアの魂はドクター・カオスに逆らわない。
 メタ・ソウルの上辺にあるプログラムに誰が所有者として登録されてようが、そんなことは全く関係がなかったのだ。
 この事実がこれまで発覚しなかったのは、さすがのドクター・カオスも緩やかな老化とともに痴呆化してしまっていたため。広い屋敷の中に閉じこもり、献身的に世話を焼くマリア以外とは関わりを持ってこなかったから、他のアンドロイドたちに命令を出してみることなどなかったのである。
 そうして世界はブラドー伯爵のものになった。
 しかし、また未来の可能性もそこから生まれるとインガは考えている。
 インガが出会ったドクター・カオスは、ブラドー伯爵の命令で働いてはいても、その目に彼女たちのように服従の色を浮かべてはいなかったのだから。
 インガの目とは――現状に適応してその中で上手くやろうとしている人間のそれとは――明らかに違う何かがそこにはあった。
 そう。バンパイア化したことで、ドクター・カオスは若き日の知性と閃き、そして情熱を取り戻していたのだ。
 インガには確信に近い予測が出来た。
 いつの日か、ヨーロッパの魔王が世界の支配者ブラドー伯爵を出し抜く日が来るだろうと。
 その時には現在の秩序――ブラドー伯爵とドクター・カオスの関係性に言及しなければ、ブラドー伯爵を頂点に、インガのような彼の子たち、さらにはその子が忠実な臣民であるアンドロイドたちを支配し、多くの家畜の世話をさせているといったところか――は崩壊し、大きな混乱が起こることは想像に難くない。
「旧い秩序が戻ってくるのか、それともまた新しい秩序が生まれることになるのか。そこまでは分からないけどね」
「なんのことです?」
 インガのオフィスに入ってきたパーシーが、彼女の漏らした独り言を捉えて不思議そうに訊ねる。
「なんでもないわよ。未来はいつだって霧の中ってこと」
 不安を覚えても仕方がないはずの未来予測を立てながら、インガは特に何の行動もしていない。仲良くしておこうと、ドクター・カオスとたまに連絡をとってはいるが、たいていは農場のことを話したり他愛のないお喋りをしたりしているだけである。
「まあ、その日がいつか来ることだけ理解してれば、二度目もなんとかなるでしょ」
 一度目の大変遷を見事に乗り切ったインガはそう楽観的に笑うと、パーシーが連れてきた少女のほっそりとした首筋にかぶりつき、甘美な処女の血を啜り上げていくのだった。


 タイトルは最初「万人のためのマリア」だったのですが、ネタを割っているかなと思い直し、かといって他に思いつかなかったので削っただけに。ちょっと変だったかもしれません。
 それとこの話とは関係ないですが、ネバーセイ・ネバーアゲインでインガが登場した場面では、きっと彼女は美神の転生体とかに違いないと思ってしまいました。

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