「お、おキヌちゃん……こ、こ、今夜は来れるかな?」
柔らかなおキヌちゃんの体を抱きしめながら、除霊事務所の玄関で、美神さんにバレないように小声で囁く。
俺は、今日のバイトから帰る所。おキヌちゃんは用事があると美神さんに断り、二階の事務所から玄関のある一階に下りてきていた。
おキヌちゃんの形の良い可愛らしい耳が、今日の寒い風に先程まで晒されていた為か、ほんのりと赤い。
俺の腕に、おキヌちゃんの温かい体温が伝わる。さらさらした長い黒髪から、ほんのりと蜜柑のような良い香りが立ち上る……、た、たまらんっ!!
「えっと……、それが……、今夜は美神さんの書類のお手伝いがあるらしくって……、ごめんなさい……」
真っ赤な顔で、本当に残念そうに、すまなそうにおキヌちゃんが囁く。俺を抱く彼女の両手に力がこもる。
「そっか……。まぁ仕方ないか……」
おキヌちゃんは、美神さんが氷室家から預かっている形になっているし、美神さんにとっても、ずっと一緒に過ごしてきた、大切な大切な仲間だ。
そんなおキヌちゃんに、俺が手を出してしまった事がバレたら……、しゃ、しゃれにならん……。冗談抜きで、殺されてしまう。
万が一、いや億が一にも見つかってはならないのだ。
実際、今日の仕事で『乙女』が弱点の筈のユニコーンがおキヌちゃんに『近づきもしなかった』時はバレるのでは無いかと、内心、緊張で冷や汗が止まらなかった。
む、ちょっとまて……?ユニコーンのヤツ、美神さんには一応近づいてきてたよな?えっ!!!てことはっ!?
「ちょっとー、おキヌちゃん。すまないけどコーヒー煎れてくれる?うんと濃いやつ」
二階から、美神さんの声が響く。
「は、はいー!今行きますー!」
大きな声で返事をしたおキヌちゃんは、そのまま顔を俺に向け、瞳を閉じる。
その顔が、ふっくらした薄く口紅でもつけているような、ピンク色の唇がゆっくりと俺の唇に……。
マシュマロのような柔らかな感触……、重なる唇、熱い頬と頬がくっつき、おキヌちゃんのなんとも言えない良い匂いが、俺の脳を溶かす。
おずおずとおキヌちゃんの唇が微かに開き、その柔らかく、濡れた熱い舌が、一瞬だけ俺の唇をなぞるように掠める。
「明日、朝行きますね。えへへ、恥ずかしい……です。なんだか、通い妻……みたいですね」
少し俯きながら、林檎のように頬を赤く染めて、小さな声で囁く。か、かわいいっ!!うおおお!!
唇に残る、おキヌちゃんの柔らかい舌の感触を思い出しながら、俺は事務所を飛び出す。
襲ってしまいそうになる体を、必死に理性で押し留めつつ。
文珠怨 中編
「うううう、お、おキヌちゃんっ!!か、可愛すぎるっ!」
自宅へと向かう帰り道で、俺は何度目になるか解らない独り言を呟く。
あんな可愛い子と、こんな関係になれるとはっ!!はっ、まさかまだタマモの幻影の中とかいうオチじゃないだろうな……。
ガンガンと頭を近くの電信柱にぶつける。この痛み、うむ、現実だ。
あの日、タマモのあの素晴らしい悪戯から五日目……。まさに夢のような日々。くうぅ、生きていて良かった。
今日、ユニコーン狩りでおキヌちゃんに少し情けない所を見られてしまったが、伊達に付き合いが長い訳ではなかった。
「た、大変でしたね……」
なんて優しくフォローまでしてくれるなんて……。ポ、ポイント高いっ!ポイント高いぞ、おキヌちゃん!!
し、しかも帰り際にあんな技を使ってくれるとはっ!これはもう、これから爛れた愛の日々が続くとしかっ!
ああ、あかん……。こんな興奮したら今夜は眠れないかも知れん。
この状態では明日の朝、おキヌちゃんの顔を見た瞬間に飛び掛ってしまうかも知れん……。
流石にまずいか……。あんまりがっつきすぎる男は嫌われると雑誌で見たような気がする。
懊悩する俺の視界の隅に、ちらりとレンタルビデオ屋の看板が映る。財布の中は比較的暖かい。
あの日から毎日欠かさずおキヌちゃんがご飯を作りに来てくれるし、給料も若干あがっているからだ。
ビ、ビデオは浮気じゃ無い……よな?映像、そうしょせん映像だ。
若干の後ろめたさを感じながらも、俺の脚はフラフラとビデオ屋の中に、そして、ピンク色の暖簾で仕切られた大人の世界へと、体を運んでいく。
うう、いかんと思いつつも、通いなれたコーナーへと勝手に向かう体が憎いっ!はっ!これは新作……。
俺の右手が電光石火のスピードで、新作の棚に飾られたビデオへと伸びる。そのパッケージには、紫のボディコンスーツに身を包んだ美女が艶然と微笑んでいる。
「こ、これはっ!!乱れボディコン女社長だと……。この亜麻色の髪といい、ボディコンにガーターベルト、そして性格きつそうな顔、このチチ……、いやチチは美神さんの方が0.7センチ大きいな……。しかし、しかしだ、うむやはり少し顔の雰囲気がっ! だが待て待てパッケージの写真に騙されては……」
「くっ!こっちは……、美少女剣士乱れ旅……。この角みたいな髪飾りといい、いや小竜姫様はもう少し胸が控えめで……、いやいやしかしこの清純そうなコが……。くっ、パッケージの写真だと皆可愛く見えるのは何故なんだっ!」
「な、なにぃ!犬耳少女野外遊戯……、ごくり……。こいつはスリリングだぜ。尻尾、尻尾プレイって何だ、くっ、気になる。し、しかも後半は金髪ナインテール美少女とのプレイだとっ……。うは、たまらん」
三本全部借りるのは流石にヤバイだろう。量が多くなるとおキヌちゃんが部屋に来たとき、リュックの中に隠せなくなる。
ならば、一本だな。一本なら何の問題もなく隠せるし、仕事帰りに返却も容易だ。
「問題は、どれを借りるか……だな」
とりあえず棚から三本とも全部取り出し、両手でトランプでも持つように抱える。
今、この大人エリアにいる客は俺一人。
そう、この新作を横からさらわれる事無く、じっくり選ぶことが出来るという状況である。
咳払いをして、パッケージから内容を推測しようと、頭脳をフル回転させ思考に沈む。
それから何分過ぎただろうか、静寂にふと我に返る……。静かだ……。元々ここはあまり人気のある店ではない。
しかしそれでも、夜7時というこの時間ならば、帰宅途中のサラリーマンで、いつもはもう少し賑わっている。
だが、気付くと店内の喧騒が聞こえない。
遠く店の入り口あたりに置かれたテレビから、宣伝用のビデオの音、役者の喋るセリフだけが、どこか虚ろに聞こえてくる。
「なんか、ちょっと不気味だな……」
訳も無く、ぼんやりした不安が胸をよぎる。背中にゾクゾクと悪寒を感じる。うう、風邪がぶり返してきたのかも。鳥肌が立つ。
店内の電気って、こんなに暗かったか?不思議と照明が薄暗いように感じる。流れている音楽すら、どこか白々しく響く。
店員の気配さえ感じない。カウンターがやけに遠く思える。
孤独……。この店に俺だけ閉じ込められたような、そんな不条理な考えすらうかぶ。
「疲れてるのかな?俺……」
呟きながら、ビデオを棚に戻そうとする。なんだか、一気に見る気が失せてしまった。今夜は早く帰って、さっさと寝ようと決意する。
カタンッ、と音が鳴る。
棚に戻したビデオと金属製のラックが触れ合い、響く音……。その音だけが嫌に大きく響いた。
訳も無く、つばを飲み込む。手に持ったビデオはあと二本。
一本を右手に持ち、今度は音が鳴らないように、ゆっくりと置く。
カタンッ、と音が鳴る……。
ゆっくりと、音がしない様に置いたつもりだったのに……。いや、置いた。細心の注意を払い、音を立てぬように置いた。
何故、それならば何故、音が鳴るのか……。
「き、気のせいだ……、そ、そう!今日女装なんかしたせいや……。絶対気のせい、気のせいだ」
呟きながら、最後のビデオを棚に戻そうとする。元の位置に戻す余裕もなく、とにかく早くこの場を立ち去りたいとだけ思う。
近くの棚、俺の目線の位置にちょうど、一本分のビデオが入るか、入らないかという位のギリギリの細い隙間を見つける。
その暗い隙間にビデオを押し込もうと、腕を上げる。
「くっ、きついな」
ちょっとだけ幅が足りないのか、なかなか入りにくい。
なんだ? 何か物が挟まっているのか? ビデオを持ち直し、隙間を覗く……。
誰かが覗いていた。
向こうから、俺を見ている。暗く細い隙間……。そこから俺を見つめている。
その棚のウラには壁しかないはずなのに……。闇の中で、誰かの白い目だけが俺をはっきりと睨んで……。
「う、嘘や!」
悪寒を振り払い、ビデオを握り締めたまま、暖簾を飛び出す。
一直線に出口に向かう。
「お客さんっ!お会計!」
はっ! と我に返る。そ、そうだ! 俺は仮にではあるがプロのGSだ。こんな事でビビルのは間違ってる。
ドキドキと高鳴る心臓を抑え、カウンターにビデオを置く。ああ、借りるつもりは無くなっていたのに……。
パッケージの中の、ちょっとだけ美神さんに似た亜麻色の髪の女性を見る。ま、いっか……。
金を払い、店を出て我が家へと足を向けた。
これが、怪異の始まりだと知らずに……。
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