4761

同居人

「――では、チャンスを待って実行します」
「ええ、お願いね」
「……ひとつ質問が」
「なにかしら?」
「この行為にはどんな意味があるのでしょうか」
「私もそれがどうなるのか知りたいのよ」
「わかりました。結果を見て判断することにします」
「それじゃ、時間が来たら呼んでね。少し眠るわ」
「了解しました。良い夢を」

 誰も知らないところで、ひとつの約束が交わされた。世界を巻き込み、東京を揺るがした大事件から一ヶ月が過ぎ、人々の間に平穏が戻り始めた頃の事だった。




「横島くんは留守番よ。今日は来なくていいから」

 美神令子の口から出た言葉に、横島は激しいショックを受けていた。

「なんでなんすか、なんでなんすかー!? 俺も連れて行ってくださいよー!」
「アンタは昔バカやり過ぎてマークされてるのよ。恥かくのは私なんだから」
「六女に入れるチャンスなんて滅多に無いんすから、そこをなんとか! ねっ、ねっ?」
「ダメなものはダーメ。あんまりしつこいと事務所も出入り禁止にするわよ」
「うわーん、俺は今、世界で一番不幸な男に違いないッ!」

 令子の足首にしがみついて泣き叫ぶ横島の姿に、おキヌも苦笑していた。今日は六道女学院の参観日で、おキヌを預かる令子は保護者代わりに出席することになっていたのである。

「お願いやー、大人しくしてるから連れてって欲しいんやー」
「女子校の中でアンタがじっとしてるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないでしょ。事務所の事は任せるから、たまにはおキヌちゃんの代わりに掃除でもしてちょうだい」

 すがる横島を置いて、令子はおキヌを連れて出て行ってしまった。おキヌは何度か振り返って申し訳なさそうにしていたが、令子に呼ばれて行ってしまった。

「うう、ちくしょー。いつか再び花園にカムバックしてやるっ」

 横島は床に座り込み、がっくりと肩を落とす。人がいなくなった事務所を眺めつつ、横島の脳裏にはふと懐かしい感覚が蘇ってくる。

「そう言えば、昔は俺一人で掃除とか全部の雑用やってたんだよなあ」

 本人が進んでやりたがることもあって、近頃はおキヌに任せていたが、久しぶりに事務所の掃除でもやってみようかと横島は立ち上がる。物置に向かい、バケツとモップを用意した。

「ん〜んん〜」

 廊下を拭き終わる頃には、額にうっすらと汗がにじむ。

「ふふ、俺はひとつ任務を完了した」

 汗を拭いてそう呟いた瞬間、横島はこの感覚がそう懐かしいものではないことを思い出してハッとする。

(そういえば逆転号の中でもこんな事してたっけな。掃除に洗濯に……)

 ふと口元に微笑みが浮かぶ。そして同時に胸の奥がチクリと痛み、横島は頭を振って思い出を振り払う。

「よし、次だ次」

 モップを置き、横島は洗面所の掃除を始めた。いつもおキヌがピカピカにしているので、ほとんど汚れていないのはさすがであった。専用の布で周りを拭いていると、そこに置いてある歯ブラシが横島の目に止まる。

「あれ、これルシオラの……確か片付けたはずじゃ」

 ピンク色の、まだ新しい歯ブラシだった。その隣には子供用の小さい歯ブラシもあり、こっちはパピリオ用のものだ。片付けたはずのものがなぜここにあるのかは分からなかったが、横島の脳裏には彼女たちと過ごした短い日々の記憶が一気に溢れた。

「あれ……あれ?」

 涙がこぼれて頬を伝う。慌てて目元を拭うが、どうやっても抑えることができない。ルシオラとパピリオの歯ブラシを持って、横島は洗面所から出る。鏡に映る泣き顔が情けなくて、とても見ていられなかったからだ。横島は自分が疲れているのかも知れないと思い、休憩しようとリビングに戻る。するとテーブルの上に、さっきまで置いてなかったはずの箱が乗っていた。家電のパッケージに使われている、なんの変哲もない段ボールの箱である。身に覚えのない横島は、箱を手にとって開けてみた。

「……!」

 中に入っていたのは、事務所に居候するのが決まったときに持ってきた、ルシオラ達のわずかな私物だった。どれもほとんど使われた跡が無く真新しい。

「う、うう……ルシオラ……!」

 箱を抱きしめ、横島は床に膝を付く。胸の奥から突き上げる記憶。無理矢理納得させて押さえ込んでいた無念。たどり着けなかった未来――言葉では言い表せない感情が弾け、横島は顔をくしゃくしゃにして泣いた。令子やおキヌの前では、絶対にそんな素振りを見せないでおこうと心に決めていた。彼女たちに気を遣われては、自分が耐えられないと思ったからだ。しかしたった一ヶ月では、全てを納得し忘れることなど無理だった。

「はは……思いっきり泣いたら少しスッキリしたかな」

 気が済むまで泣いてみると、雨上がりの空のように、気分は晴れ晴れとしていた。箱を抱えたまま、横島は立ち上がる。

「無理くり忘れようとしてたけど、そんな必要ないのかもな……ごめんなルシオラ」

 呟いて、横島は顔を上げて天井を見る。この事務所にはもう一人同居人がいる事を思い出したのだ。

「おーい、人工幽霊」
「はい、お呼びですか」

 返事をしたのは事務所を管理する人工幽霊壱号である。

「今の見てたよな?」
「映像は記録されていますが」
「なかったことにしてくれないか。プライバシーってやつでさ」
「分かりました。今回の事は記録ではなく記憶に留めておくことにします」
「はは、お前もジョーク言うんだな」
「他言はいたしませんのでご安心を」
「ああ、それじゃよろしくな」

 横島は段ボールを持ったまま、リビングを出て行く。彼女たちの荷物は自分が預かっておきたいと思い、一度家に帰ることにした。事務所を出て行く横島の表情は、吹っ切れたように晴れ晴れとしていた。




 人が誰もいなくなった美神除霊事務所の中で、誰にも聞こえない声が響く。

「……これでよろしいのですか?」
「ありがとう、十分よ」
「結果は満足できましたか?」
「ええ、満足できたわ。とても……」
「私には意図を理解しかねる部分がありますが」
「ふふ、それはそうよ。だって私のわがままなんだもの」
「わがまま?」
「私はルシオラの残滓。わずかに残ったほんのひとかけらが、いつまでもあなたにくっついて残っているのは、未練があるからよ」
「未練ですか」
「忘れないで欲しいって。彼は私のことを覚えているのかなって。それを確かめたかったの」
「なるほど。では満足した今、未練は消えたのですね?」
「うん、消えたけど……また新しく増えちゃった。もう少しヨコシマを見ていたいって」
「心とは難しいものですね」
「でも楽しいわよ」
「興味はあります」
「ふふ……もうしばらく残ってみることにしたから、その間よろしくね」

 微笑みながら、ルシオラの思念の一部は眠りについた。天井裏で交わされた、誰も知らない会話。わずかな間、同居人が一人増えていたことを知るのは人工幽霊のみ。彼はルシオラと横島の表情を思い出しては、心について考え続けるのだった。
お久しぶりです。この話をアラコ嬢に捧げます。

[mente]

作品の感想を投稿、閲覧する -> [reply]