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暗くなるまで待って -Wait Until Darkness

静まりかえった地下の駐車場に響くエンジン音を切り、愛車を降りる。
昼でも仄暗い、むき出しのコンクリートに跳ねる自分の足音を背に、早めた歩みで横切る。
二つ並ぶエレベーターの、上へ向かうしかないボタンを押すと、右から左へと点滅するランプが迫ってくる。
無人の箱に乗り込み、無愛想なドアが閉じるとようやく、ほっと肩の力が抜けた。
オンとオフの切り替わるのを実感するタイミングというのは、それこそ人によって様々だろうが、私の場合は、いつもこの瞬間だった。
超高速エレベーターが掛ける僅かな重圧が、モーターの駆動音と共に頭の先から降りてくるたびに、自分がなにか別のものに書き換えられるような、そんな気さえするのだった。

「ただいま」

玄関のドアを閉め、ハイヒールを脱ぎながら、声に出す。しかし、当然のように何の返事も返ってはこない。
甘えた声を出して擦り寄ってくる猫も、息を弾ませて駆け寄ってくる犬もありはしない。

私がこのマンションに移り住んで、もう三年になる。
かつては、そして名義上はまだ続けていることになっている事務所兼住居の物件は、今は横島クン夫妻が住んでいる。
今更ながらの大恋愛の果てに職場結婚したふたりへの祝いとして、結婚式当日のサプライズとして譲ったのが、ついこの前の出来事のように思える。
そのことに一抹の寂しさを覚えることはたまにあるが、後悔するつもりはまったくない。

「ただいま」

返事のない声をもう一度掛け、リビングに通じるドアを開けると、誰もいないはずの真っ暗な部屋が私を出迎えてくれた。
灯りをつけるよりも先に暖房を入れ、歩きながら脱いだコートをソファの背に放り投げる。
私の存在を感知したエアコンがピンポイントで心地よい風を送り込むのを受け、邪魔な上着を脱いでいく。

「こんなトコ、人に見られたら大変よね」

誰も観客はいないとはいえ、真っ暗な部屋で一人ストリップをしている自分を思うと、毎度のことながら皮肉めいた笑いが込み上げてくる。
閉ざされたカーテンの隙間から誰かが、たとえば、おキヌちゃんと結婚してからも煩悩旺盛な横島クンが除き見をしているような気になることもあるが、不思議と恥ずかしいと思うこともないし、興奮するようなこともない。
それよりも、私の背中に潜むささやかな秘密を知られたりはしないだろうか、そっちのことばかりが気になって仕方がない。
下着姿のままでいてもいいのだけれど、別に露出趣味もないので、せめてハーフパンツぐらいは履いておく。
もし万が一、このまま私が死んでしまった場合、半裸状態の死体が発見されて変な推測を呼ぶのは避けたかった。
そしてそれは、本来起こりえない仮定のことでも、遠い未来のことでもない話なのだ。

「もういいよ」

かくれんぼをする子供が鬼の子に掛けるのと同じ言葉を、全然違う大人のイントネーションで静かに囁くと、闇の中に包まれた部屋の中を、青白い光がぼんやりと照らし出す。
その途端、まるで張り詰めた肌に優しく触れられたときのような、なんとも言えない快感が私の中を突き抜ける。
背中から延髄へ、そして頭へと熱いものが走り、立ちくらみにも似た白い帳が降りてくる。
待ち望んでいたこの瞬間、私はいつも立っていられなくなり、ソファにしがみついて膝を落とす。
まだ温まっていないフローリングの床の冷たさを感じると同時に、私の上半身は大きく弧を描き、弾け飛んだ。

『ヴ……、ヴッヴッ』

「……平気、平気」

少しまだ息は荒かったが、背中から聞こえてくる、携帯電話のバイブレーションにも似た唸り音に、私はできる限り平静に返事をする。
そんなはずはないのに、私には”大丈夫?”と気遣ってくれているように聞こえるのだ。





私の背中に潜むモノ、その正体はもちろんわかっている。
悪魔チューブラーベル、別名を霊体癌とも呼ばれるこの魔物は、人間の霊体に寄生してゆっくりと成長していき、人間の正常な霊体を魔物に変異させ、最後には宿主の肉体を喰いやぶってしまうという。
憑依例が極めて少ないため、まだわかっていないことが多くあるが、様々な文献を調べた限りでは、概ねそうなっていた。
もちろん、そうなったときに宿主が生存し続け、寿命をまっとうできた事例は皆無、とのことだった。

チューブラーベルは多くの場合、”種”という形で植え付けられるらしい。
大抵は人間に悪意を抱く妖怪や悪魔が用いるが、稀に復讐のために人間に使用されるケースもあったらしい。
私の場合は、そのどちらにも思い当たる節がたくさんあるのがどうしようもないのだが、実際にはそのどちらも違うだろうと確信していた。
普通の癌が、必ずしも後天的な要因で発症するわけではないのと同じように、チューブラーベルもまた、先天的な要因でも憑依するのではないだろうか。すなわち、遺伝的な要因によって。

私とママの師でもある唐巣神父に前に聞いた話によれば、ママもまたチューブラーベルに取り憑かれていたらしい。
退治するのが非常に難しいチューブラーベルをママが退けることができたのは、ママと唐巣神父と、そしてオヤジの尽力の賜物ということだった。
図らずも精神感応という力を身につけたオヤジが、ママに寄生していたチューブラーベルの意識を刈り取り、分離させることに貢献したらしいことは知っている。
それ以来、ママはすこぶる健康で、二十歳も年下の妹を授かるぐらいに仲が良いのだから、多分除霊に成功したと考えていいんだろうと思う。
でも、ママとオヤジという、共に感染したことのあるふたりが結ばれ、その結果私が生まれたのだとしたら、DNAと一緒にチューブラーベルの”種”も受け継がれたとしても不思議はない。
他にどんな可能性があるにせよ、今の私にもっとも馴染む結論はそれしかなかった。

『……ヴゥゥゥン』

「――あっ、ゴメンゴメン。今、用意するからね」

つかの間の黙考に耽ってしまった私に、チューブラーベルが控えめに、それでも催促するかのように唸る。
私は上半身裸のまま、フローリングの床で禅を組み、呼吸を整えて意識を集中させる。
体中の霊力が活性化し、全身を駆け巡ってチャクラに貯まっていくのがわかる。

「……まだよ、まだ。まだ、おあずけ」

独り言のように呟きながら、チャクラに貯まっていく霊力の量を、多過ぎず、少な過ぎず、ちょうどよい具合に整える。
自分で言うのもなんだが、今だトップクラスのゴーストスイーパーである私の霊力は半端な強さではなく、いかにチューブラーベルといえども、そのまま触れればひとたまりもない。
灼熱に身を焼かれる苦しみに耐えかね、逃れようとして本能のままに私の脳や心臓に攻撃を及ぼすだろう。そうなってしまっては、もちろん私に耐える術はない。
一緒に死んでしまうことのないように、私は慎重に霊力をコントロールしてあげるのだった。

「はい、どうぞ」

火傷をしないくらいの準備ができた私は、それまでおあずけしていたチューブラーベルに許可を出す。
このとき、いつも私が頭に思い浮かべるのは、何故だかわからないけどクリームシチューのイメージだった。
チューブラーベルは、恐る恐るスプーンにすくったシチューを一口食べ、次いでお腹を空かせた子供のようにかぶりつく。
私は組んでいた禅をだらしなく解き、文字通り霊力を貪り喰われる倦怠感に身を投げ出しながら、またぼんやりと黙考に耽るのだった。

見えない背中に潜む可愛い悪魔のことを、私は誰にも教えてはいない。
横島クンやおキヌちゃんはもちろんのこと、ママや唐巣神父にも話したことはない。
それどころか、誰かに知られるのを恐れ、ひた隠しに隠してきた。
あの事務所を横島クン夫妻に譲ったのだって、本当のところは人工幽霊一号という、全てを見通す存在から逃れるためだったのだから。

もちろん、チューブラーベルが私に仇なす存在だということを知らないわけじゃない。
彼が――本来は性別なんかないのだろうが私にはそう思えるので”彼”と言ってしまうが、そうはしたくないと願っていても、いつか必ず私の命を奪い、魔物となってしまうのは間違いない。
そうなる前に、なんとかして”彼”を引き離し、滅ぼしてしまうのが一番最良な方法だということもわかっている。
たしかに、非常に難しい除霊になるだろうし、文献を見ても成功例は載っていない。勝算はほとんどない、分の悪い賭だといえるだろう。
でも、過去にも撃退したことのあるママや唐巣神父もいるし、横島クンの文珠も大きな助けになるはずだった。
そしてなにより、”彼”自身がそう望んでいた。

”彼”が後から植え付けられたチューブラーベルであるならば、私はためらうことなくそうしていただろう。
たとえ、どんなに非道な方法を使ったにせよ、この私に寄生してしまったことを後悔させながら、欠片も残さずに滅ぼしていたに違いない。

でも、”彼”は違う。
私と同じ日にこの世に生を受け、決して表に出ることはしなかったにせよ、私と一緒に成長してきた、言わば双子の”弟”なのだ。

もちろん、取り憑いた魔物に親近感を抱く、ましてや”弟”と思うなど、異常だということは理解している。
あるいは、寄生した魔物が巧妙に私の精神を侵食し、錯覚を起こさせているだけだ、という人もいるかもしれない。オヤジならきっとそう言うだろう。
でも、私にはやっぱりそうじゃないのだ。
横島クンの娘がルシオラの生まれ変わりであるように、”彼”は紛れもない私の”弟”なのだ。
”弟”を見殺しにして生き長らえるなど、私にはできない相談だった。

『……ヴ、ヴ』

霊力を食べ尽くしたチューブラーベルが、蚊の鳴くような音を立てる。
この音はいつも、年端もいかない”弟”が泣きながら、ごめんなさい、と謝っているように私には聞こえるのだ。
そして、それに答える私の返事も、いつも同じだった。

「大丈夫よ、おねえちゃんが絶対守ってあげる……」

いつか、妹のひのめに言ったのと同じ言葉を、自分に言い聞かせるように呟くのだ。





「いってくるわね!」

誰もいない部屋に声を掛け、玄関の鍵を閉める。
下へ行くしかないエレベーターのボタンを押し、左から右へと迫るランプを見つめ、今日これからの仕事、一緒に行く仲間の事を思い、少しだけ背筋に力が入っていく。
無愛想なドアが開き、無人の箱に足を踏み入れる間際、微かに背中がうずく。
超高速エレベーターが動き出し、足元から魂が抜けていくような浮遊感を味わうと、私は凄腕のゴーストスイーパー、美神令子に書き戻されるのだ。
夜の闇に包まれ、暗くなるまで待つ、その間だけ。
こちらでは無沙汰をしております。赤蛇です。
以前、チャットであれこれと話していた【美神×魔族】のチューブラーベル篇です。
なんといいますか、美神さんにはこんな、暗闇に浮かび上がる色気も似合うと思うんですよね。
本編では若き美智恵サンもセミヌードを披露してましたし、負けてはおれませんw

実はこの話、相手の魔族を変えていろいろと書いて模索したんです。
ボツにしたほうも投稿未満のほうに上げておきますので、興味のある方はどうぞ。


……さあて、いいかげんに『ネトラレ6』を書き上げないとなぁ。

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