人間、生きてりゃ――たまには死んでても――その後を大きく左右する局面ってのに出会うことが何度かあるもんだ。
人によって多少はあっても、きっと誰だってそうだろう。
その時にそうと分かることは少ないけど――その時は特別な何かとは思えずに、あるいはゆっくりと考えを巡らすほど余裕がなくて――振り返った時には確かに分かるんだ。
まだ短い俺の人生にだって、何度もそんな時がある。ま、俺の場合はバイト先のせいも多分にあるだろうけどさ。
そのバイト募集のチラシを貼ってる美神さんに偶然出会った時。
成り行きからGS資格試験に臨むことになった時。
強くなろうと初めて自発的に妙神山へ修行に向かった時。
――その時の成果が今、俺の手の中にある。
まあ、ちょっとこの言い方だと語弊があるんだけどな。
とにかく「何故あの時、俺はあんな選択をしてしまったんだろう。もし過去が変えられたら」っていう世の常な願望に、こいつは応えてくれるかもしれないんだ。
いや、きっと応えてくれるはずだ。
すーすーと俺の布団の横から静かな寝息が聞こえてくる。
安心しきってるんだろう。
まさか、俺がこんなこと考えてるなんて思いもしないんだろうな。そう思うと、少し申し訳なくもなる。
でも躊躇ったのはほんの数瞬。
両手から零れ落ちそうになるほどの数のそれに、一気に文字を込めていく。
止められる前にやり遂げるために、あらかじめ文字は考えていたのでここは問題ない。
問題はこの後、それを制御することだ。
今まで、こんな数の文珠を制御したことなんかない。
というか、そんなことは考えもしなかった。
数作れるわけでもなく、一個で十分強力なんだから、貯めてどうこうしようなんて普通は思わないだろう。
いつかの時空消滅内服液入りケーキを食っちまった時に似た感覚が俺を襲う。
文珠を発動させる時にあれをイメージしたのは成功だな。
そう、単純に過去に今の俺が行くんじゃ意味がない。
俺は自分が幸せになりたいんだ。
それがわがままだってことぐらい、誰に言われるまでもなく分かってる。
他のみんなは、こんな反則なしに毎日を何とか生きてるんだから。
でも、確かにチャンスがあったことを知りながら、それをこの手に出来なかったことを毎年のように思い出しちまうなんて、俺には辛過ぎるんだ。
現在が薄れていく。
目指すのはずっと昔だ。
まあ、平安京とかそういうわけじゃねえけど、俺みたいな若者にとっては十年一昔って言葉がその通りの意味を持ってるってことだ。
あれが起こったのはそんな前じゃないが、その時に戻ったって駄目なのは分かってる。
だから、もっともっと時間を遡る。
文珠がどう働いてくれるのかはわかんねえけど、とにかく昔の俺の体に今の意識っていうのがベストだと思うから。
……それが最初の一石になって、歴史の流れが変わっちまったりしないといいんだけどな。
俺はあいつに会わなきゃいけない。
俺が望み得る最高の女性を、今度こそ絶対に手に入れるんだ。
……もう、霊力が持たない。
目的時はすぐそこ。
というか、今なんとか文珠を制御してるのはこの俺なんだろうか?
もう感覚があやふやだ。
こうして時を遡ってることだし、現在の俺っていうのさえどこを基準にするのやら。
――余計なことを考えたせいか、単純に限界が来たのか。
俺の意識はここで途切れた。
お袋が俺を揺り起こしてくれる。
こんなに優しく起こされたのなんて、いつ以来だろう。
懐かしい部屋を出て、懐かしい廊下を歩き、懐かしい洗面所で顔を洗い、眠気を追い出して頭をスッキリさせる。
大丈夫、俺だ。
つまり、あれをやった俺だ。
「この時の俺」はどうしたのかなんて悩みはしない。
「だからって薄情者な人でなしってワケじゃないぞ」鏡の中の俺自身の幼い顔がまるで責めているように見えて、思わずそうつぶやいてしまう。
……それは事実じゃない。
確かに同じようなことをした美神さんが、人格が上書きされるっていうより、二つの道に枝分かれしただけだと思うって言っていたけど、それは俺が俺を殺したわけじゃないってだけだ。
ここの俺の周りの連中には、ほんとにすまないことをしちまったんだ。
例えばその筆頭は両親だろうな。
でも親なら、息子の幸せを望むもんだろ?
そうやって、無理やり自分に納得させることにする。
自分の欲望のために過去を変えようなんて奴が、いまさらぐちぐち言うべきじゃないとも思うし。
今の俺はちょうど物心ついた頃。
もちろん中は俺で、それはとっても重大な変化だ。だから、かつて経験した過去とは当然のようにいろんなことが違ってくる。俺の望みは叶わなくなるのかもしれない。
でも、とにかくやってみるって決めたんだ。
目標はたった一つに定める。
ガキだったから仕方ないってのはわかるけど、昔の俺はいろんなもんを望み過ぎてた。
それも単に目先の欲望に負けてだ。
今度はふらふらしたりしない。
欲しいものはたった一つ。他のものなんか何もいらない。頭で欲しいと思うことさえ、絶対にしちゃいけないんだ。
歴史を変えないようにすることは難しい。
それでも俺は覚えている限り昔の俺の行動をなぞって――まあ、大きなイベントとか以外はろくに覚えちゃいないんだが――毎日を過ごしていく。
ロボットの玩具? ミニ四駆? クラスの女の子? 年上のお姉さん?
どれも大したものじゃない。
前者は子供が一時遊んだらそれで終わりなものだし、後者は欲しくてもそもそも手に入らない。まあ、クラスの女の子に関しては今はそういう対象じゃないが、昔は望んで挫折したってことだ。
それなら、一縷の望みに過ぎないのかもしれなくても、未来の俺の彼女のことを妄想し続けることの方がよっぽど重要だ――というか、そうしないと駄目なんだ。
心をしっかりと定めないと。
今度こそ失敗しない。俺は彼女を望むんだ。
懐かしい顔に初対面するっていうのは不思議なものだ。
GS助手を探していた美神さんとの出会い。
今回も美神さんに飛びついた時には、正直本気だった。
再現するとかそういうことじゃない。あのフェロモンつーかボディは反則だぜ。
まあ、もう大丈夫だろうし、こっからは俺の知ってる歴史通りにするために、むしろ本能むき出しの煩悩少年でいった方がいいんだろう。
昔の俺はそうしてたんだから。
そうそう、それからしばらくしておキヌちゃんに出会った――再会した――時は、懐かしさにしんみりしていて、危うく彼女の罠に嵌まるところだった。
まったく、ここまで頑張ってきておキヌちゃんに殺されたんじゃ、洒落にもならん。
もちろん、その時だけでなく美神さんの事務所での仕事は常に冷や冷やものだった。
思い返せば「ずいぶん運が良かったなあ」と、命が助かったことを感謝したくなるような仕事や事件さえも、もう一度、出来るだけその通りに繰り返さなきゃいけないんだから。
何度も「今回は死ぬんじゃないか」って、肝が縮んだもんだ。
それでも何とかなったのは、俺の悪運の強さか。
それとも、一番大事なところで俺にしっぺ返しを食らわせるための宇宙の底意地の悪さとかだったりしたらどうしよう?
今回はそれだけを願って生きてきたんだから、ほんとにもう立ち直れないかも。
――おっと、美神さんがシャワーを浴びるみたいだ。仕事前に霊力を蓄えとかないと。
そして運命の日はやって来た。
今度も俺はあいつに出会えたんだ。
だけど、もちろんそれで全てじゃない。
俺は必死になってやるべきことをやった。
それは、本来人間に出来ることじゃない。
身体はがたがたのぼろぼろ。
それでもこれまでの俺は、俺の煩悩の前に立ちはだかったものなら、どんな壁だって乗り越えてきた――それこそ銭湯から魔族まで。
今回も例外じゃない。
美神さんたちとも力を合わせ、俺はついにそれをやり遂げたんだ。
美神さんやおキヌちゃんは、俺のことを複雑な目で見つめてる。
その気持ちも分からなくはないけど、俺はこのために、十年以上の時間をこのためだけに費やして来たんだから、今は静かにひたらせて欲しい。
そんな俺の雰囲気が伝わったのか、二人は珍しく何も言わない。
そう、全てが終わった時、俺の手は無事に最高の美女と繋がれていた。
俺は今度こそ、俺の理想の彼女を手に入れたんだ。
感極まって涙を浮かべる俺に、ジャケットを羽織らせてやった彼女が「どうしたの?」と無邪気に訊ねてくる。
今の俺は幸せすぎて頭の中がもう空っぽなんだが、だからって彼女に何か訊かれて何も応えない男ってあれだよな。そう思い必死に考えをまとめる。
「えっと……そうだな。『いっそ違う道を選んだ方が幸せかもしれない』そう言われて、俺はそうしたんだ。こうして君と出会えて、それが本当に正しかったんだって、ようやく確信出来たとこさ」
俺は彼女をぎゅっと抱きしめ、彼女もしっかりと俺を抱きしめ返してくる。
ふと顔を上げると、ギャラリーの中の呆れ顔と目が合った。
視線が痛いなあ。
まあ、顔を見るまでもなく、向こうがこっちをどう思うかは分かってたけどな。
こんな奴、前代未聞だろうさ。
でも、俺は――たとえ大酒のみで柄が悪かろうと――世界中の子供たちとおんなじように大好きだぜ、あんたのこと。
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