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抱きしめて Tonight

 秋。夏とは違う季節。
 涼しくなってくると同時に人恋しくなってくる季節。普通はそうであるが、中には普通で無い人もいる。
 美神除霊事務所は、万年発情男を除き当然“普通”でない集団であった。
 だが今年だけは、違っていた。そういう事とは一番無縁と思える人物が、季節風にさらされてしまっていた。


 数年前にも同じような事があった。
 それは自覚している。自覚しているが、前回はちょうど緊急の用ができて、それどころではなかった。

「ま、いいか」

 恋愛事になると、ついそういう言葉が口から零れる。
 何事もはっきりとしないと気がすまない性格のはずだが、この点に関してだけは曖昧に済ませてしまう。
 誰にでも苦手なことはあり、仕方のない事と自分に妥協する。だがどうしても、思い返してしまう。そして再び、ガラじゃないと開き直る。
 端から見れば奇妙な行動であるが、本人としては体が痒くなり我慢できない。それを何度も繰り返すうちに、より深みに入ってしまっているという事実は残念ながら自覚していなかった。

「やっぱり……ひょっとして」

 そう思う時点ですでに恋をしているということは、ほとんど経験がない者は気づくことはない。
 なにせ季節の変わり目であるから、風邪を引いたと思い込んでいるくらいなのだ。
 つい目で追ってしまう。普通に話せていたことが話せない。自分でかなり無理をして話している。でも話したい。他の女性と話しているのを見るとイラつく。以前と同じようにバカやりたいけれど、なぜかできない。鼓動が早くなる。二人きりになるとなぜか緊張する。
 ひょっとしてどころの話ではない。完全にそうなのであるが、『まさか』『認めたくない』という心がまだ残っておりそれが抵抗となっている。
 分からない話ではない。丁稚時代の情けない姿を見ていれば、信じたくないというのは仕方のない事であろう。
 今まではそれでカバーしてきた。それで自分を誤魔化せていたのである。
 だがお互いに年齢を重ねてきたせいか、大人になるとそういうワケにはいかない。体は大人に、そして精神的には未だ成長途上……バランスがとれないのは当然といえた。

「だめ……あ〜ダメ、もうダメ……もぉ〜いけない……誰か助けて」

 枕で頭を隠すと、足をバタつかせて襲い掛かる何かから逃げようともがいた。

「だいたいさぁ、未成年のクセに煙草なんて吸ってカッコつけるんじゃないわよ」

 意中の人、横島忠夫は高校3年になると喫煙者になっていた(マネすんなよ)
 だがカッコつけのために吸っているワケではなかった。美神令子が精神の安定のために金銭や酒に逃げ道を作ったように、横島も精神の安定を図るために吸い初めてそれがクセになってしまったのである。
 単独の仕事も増え、仕事においての責任というもの感じるようになっていたが、給料はさほど上がっていなかった。金の掛かることはできないのだ。
 エロ方面も考えなかったワケではないが、所詮はバーチャル。本物には勝てない。しかも事務所には女性だらけである、暴走を防ぐためにはこの方面に向かうワケにはいかなかったのだ。

「いっちょ前に車なんかに乗りくさってさ」

 18歳になると、すぐに免許を取らせたのは令子本人である。
 仕事の効率化のため、そしてなにより飲みに行ったときのタクシー代わりにと半ば強制的に命じたのである。そして運転がヘタだと文句をつけまくったために、怒られるのを避けるためドラテクを磨いたのである。
 咥え煙草のまま、コブラを操る姿が頭に浮かんだ。途端に顔が熱くなり鼓動が早くなる。餓鬼が背伸びして格好つけているのではなく、その姿が板についているのだ。
 横島の父に会ったときに、おキヌに大人の男に弱いと指摘されたが、まさに今がその通りの結果となっていた。しかも偶然であろうと故意であろうと、そう仕向けたのは令子自身であった。

「あ、あれ?? やっぱおかしい、私おかしい!」

 悶えるように枕を抱きしめると、転げ周りベッドから落ちた。

「なに、なに?? どーしちゃったのよ、私」

 ベッドと壁の間に落ちても、枕を抱えたまま転げている。ベッドから落ちたショックなど感じていなかった。それよりも痒いようなだるいような感覚が我慢できなかった。
 ふと顔を上げ時計を見ると、午前一時を回っていた。

「もう一時か……まだ一時よね」

 起き上がるとテーブルの上に置いてある携帯電話を手にした。
 イルミネーションが光ると、待受け画面が浮かんだ。久しぶりの金額が張る大仕事をやり遂げた時に、記念に事務所全員で撮ったものである。
 横島を中心に左に令子、右におキヌ、前にタマモ、おぶさるようにして後ろからシロが顔を覗かせていた。
 携帯電話をいじり画像フォルダを開いた。何十枚も写真があるにもかかわらず、指先が動く。指先がその写真の場所を覚えていた。
 画像が表示された。カラオケにいった時の写真である。なぜか二人がデュエットするといつも「3年目の浮気」だった。肩に回された手を抓みあげるという定番の写真なのであるが、妙に気にいっていた。
 じっとその写真を見ると、思わず顔が綻ぶ。携帯電話を見つめながら、ベッドに寝転んだ。第三者がその姿を見ると「なにニヤけているの?」とツッコミをいれたくなるくらいに破顔していたが、生憎と突っ込んでくれる人物はここにはいない。

「まったく……生意気なのよアンタは」

 そう呟きながらも顔は緩みっぱなしである。もう一度携帯電話を操作して、リダイアル画面にした。
 一番上に『横島君』があった。時間は昨日の夕方であった。時計に目を向ける。一時をかなり回っていた。

「やっぱり遅いわよね」

 中折れ式の電話を閉じた。デジタル表示された時間が目に入る。
 しばらくそれを眺めると、思い立ったように再び開いた。今度は着信履歴を見た。

『横島君』『横島君』『横島君』『事務所』『横島君』『おキヌちゃん』『横島君』『ママ』

 ページのほとんどが横島の名で埋められている。履歴時間を見ると午前十二時や二時などもあった。指がふらふらと迷うが、通話ボタンを押した。

「向こうもこんな時間に掛けてきてるんだから、私もたまにはいいわよね」

 こんな時間。それはあくまで仕事中の電話であり、プライベートの電話ではなかった。

「5回コールして出なかったら切ればいいんだし」

 5回が過ぎた。

「じ、十回ね。普通、十回は待つわよね」

 10回が過ぎる。

「……そのまま切っちゃったら変に思うわよね。留守電になんか入れとかないとね」

 20回で留守電に切り替わった。味気ない音声が留守電の説明を伝えた。
 溜息が口から零れていたのは、音声が最初の方だけであった。「発信音の後にメッセージを」と言われると視線が泳ぎだし、発信音が鳴ると視線どころか体全体を使って部屋中を見渡した。もちろん何かが見つかるわけなどはない。

「あ、えーっと……私。いや、別に用事なんてなかったんだけどさ……ほら、あの〜……」

 目的などあるワケないので、当然のことながら残す言葉などはなかった。
 思わず無言になってしまうと、何も聞こえてこないはずの電話から異音が聞こえた。キャッチホンである。画面を見ると『着信・横島君』になっていた。
 生唾を飲むと、息を大きくついた。通話ボタンを押す指が震えた。

『もしもし』
「は、はい」
『どうしたんスか? こんな時間に』
「え?……いや〜、ほら、明日仕事でしょ。遊んでないでちゃんと家にいるかなぁ〜と思ってさ」
『子供っすか俺は』
「法的にはまだ子供じゃない」
『まぁそういわれたら身も蓋もないんスけどね……その未成年に酒つき合わせているのは誰すか?』
「自分で稼いでいる人はいいのよ」
『自分の都合でコロコロ変えんでください。まったく我侭なんだから』

 我侭なのは自覚している。なんせ自分を中心に地球は回っていると公言してやまない人物なのだ。

「我侭で悪かったわね」

 言葉では開き直っているものの、顔は綻んだままである。他人がいうとムカつく言葉でも、なぜか嬉しく感じていた。だがもちろん自覚は無い。
 とりとめのない会話を繰り返した。別になんということはない会話である。事務所で話している内容となんら変わりはない会話で、この時間にわざわざ電話で話すようなことではなかった。

「電話って便利ね」
『なんでです?』
「だってそうじゃない。こうやってゴロゴロしていても襲われないし」
『襲われるようなカッコしてるんスか!!??』
「そーいう意味じゃないって。ベッドで寝ていても安心してられるもん」
『あぁ〜そういう意味ね……チッ』

 舌打ちの音が聞こえた。本気で残念がっているようである。声には出さないが笑いが零れた。

『今笑いましたね?』
「ん? う〜うん」

 口を閉じたまま返事をすると、しばらく無言になった。

『美神さん?』
「ん?」
『なにかしてます?』
「なにかって?」

 体を丸めシーツに包まった。

『……GTY+では言えないようなこと』
「なんで?」
『なんでって』
「なんでそう思ったの?」

 しばらく答えが返ってこなかった。息をつく音が聞こえた。おそらく煙草を吸っているのであろう。

『いや、あの……なんつーか』
「なんつーか、なに?」

 目を閉じシーツに包まって声を聞いていると、声に包まれているような気分になった。

『あの……いつもと声が違うんスよ』
「そお?」
『なんつーか、色っぽいというか、可愛いというか……なんかあったんスか?』
「……バカ。ばぁ〜か、眠くなっただけよ」

 思わず足先が動く。喜びを隠しきれない犬の尻尾のように忙しなく動いてしまった。

『眠いとそんな声になるんスか?』
「ん。なんかまったりしてるとそんな感じ」
『いや〜常にして欲しいっすね』
「ダメよ」
『なんでです?』
「いつもツッコミいれとかないといけないじゃない」
『まぁそりゃそうっスけど……って3時っすよ。寝ますか』
「ん」

 うんといっては見たものの、指先は動かなかった。

『んじゃ切りますよ』
「横島くん」
『はい?』
「よっこしまく〜ん」
『なんすか?』
「呼んでみただけ」
『なんじゃそりゃ。もう切りますよ、明日仕事でしたよね』
「そうよ〜。明日も仕事、明後日も仕事、みんなで仕事、一緒に仕事♪」
『だったら寝ましょうよ』
「寝るわよ。おっかねのためにおしごとよ〜♪」
『なんの歌っすか……眠いんじゃなくて、酔ってんじゃないすか?』
「かぁもね〜♪」
『かもねって……いつの間に飲んだんスか?』
「う〜ん……十時くらい?」
『覚めてるって』
「今頃回ってきたのかもね〜」

 枕に顔を押し付けた。酒ではない、声に酔ってしまっている。酒を飲んだときのほろ酔いよりも、かなり気分がよかった。

『んなワケないって』
「んなワケあるの」
『駄々っ子ですか』
「嫌?」
『誰も嫌とはいってないっすよ』
「ならいいじゃん」
『なんか……』
「なんか、なに?」
『ひのめちゃんみたいっすよ』
「だって姉妹だもん」
『幼児ですか?』
「ばぶ〜」

 声が漏れている。どうやら受話器の向こうで笑っているようだ。

「……ウケた?」
『まさか「ばぶ〜」がくるとは……い○らちゃんスか?』
「……はぁ〜い」
『ほんとに言ったよ、この人……いくつ?』
「……みっちゅ」
『プラス20』
「……うっさ〜い、うっさ〜〜〜〜〜い……」

 声が途絶えた。

『美神さん?』
「……………ん?」

 返事というより吐息に近かった。

『美神さんってば』
「……………ん……」

 受話器からは寝息が聞こえてきた。

『おーい、寝ちゃったんスか?』

 寝てしまったのならば返事など返ってくるワケはない。

『しょーがねぇ人だなぁ〜……おやすみなさ〜い』

 言葉は返さなかったが、微笑みを返すように口元を緩めていた。





 ――― おわり ―――


























 人生そう甘くはない。寝て終わりだと、それすなわち死亡。永遠の休みなのである。
 死なない限り、寝たら起きる。次の日というものは、必ずやってくるものであり、明けない夜はないということだ。


















 翌日、美神令子は事務所の自分の席に座ると帳簿を取り出し裏を作成した。
 数字というのは便利なもので、興奮を抑えるには最適である。とにかく頭の中を数字だらけにして煩悩を振り払う。横島的には煩悩であるが、令子の場合はどうであろうか。
 金欲がズ抜けている人にとっては、裏帳簿作りなどは煩悩そのものなのだが、数字には変わりはない。
 (金)欲をもって(色)欲を制しているのである。

「え〜っと、これが繰り上がってこっちに移動させて……よしよし、これで四億六千二百飛んで三万三千五百七十二円と」

 金銭に関して元から細かいのか、それともそこまでやらなくては煩悩を振り払うことができないのか定かでなかった。
 ただ……そのあまりの真剣さに獣娘たちは恐れを抱き、部屋に篭ってしまっているのは仕方のないことだったのかもしれない。
 1時間も経たないうちに、3冊もの裏帳簿を作成すると一息ついた。
 お茶といいたいところであるが、おキヌはまだ学校である。シロタマに頼むほど無謀なことはない。仕方なく自分で紅茶を入れた。
 ティーサーバーの中を漂う茶葉を見つめる。先ほどまで数字だらけの頭に余裕がでてきたのか、別の事を考えてしまった。
 慌てて頭を振ると、カップに紅茶を注いだ。時計に目をやると、三時を回っていた。今日の仕事は7時からで、4時に事務所集合としていた。
 横島が来るのが先か、それともおキヌが帰ってくるのが先か。どちらが先でも嬉しくもあり、そして残念でもあった。

「まぁなるようにしかなんないか……」

 大きく息をつくと、カップに口をつけた。

「おっはよーございまーす♪」

 思わず口に含んだ紅茶を噴出し、そして咽た。

「大丈夫スか?」

 咳き込みながらも、近づいてきた横島を制した。

「だ、大丈夫。ちょっと変なとこに入っただけだから」

 ハンカチを取り出し口元に当てると、洗面所に駆け込んだ。
 蛇口を捻り盛大に水をだして溜めると、顔をその中に突っ込んだ。、途端に湯気が立ち昇り鏡を曇らせる。水が沸騰すると顔を上げ、大きく息をついた。

「だ、だめ……これだと私、丸っきり変な人だわ」

 元から変である。

「とにかく落ちつかないと……」

 顔を何度も洗い、火照りを冷ます。

『美神オーナー、体温と心音が平常値をかなり超えて霊波も乱れていますが、大丈夫ですか?』
「うっさい!!!」

 人工幽霊が心配して声を掛けるが、今の令子にとってそれはいらぬお世話でしかない。

「落ち着け、落ち着け……私は誰? 私は美神令子。美貌でナイスバディの世界最強で最高のゴーストスィーパー、完全無血! 全新系列! 天破侠乱! 天上天下唯我独尊!!」

 なんの暗示か不明だが気合を入れるように顔を両手で叩いた。

「よし!!」

 鏡に写った自分の顔を睨みつけると、顔がキリリと引き締まった。
 納得したように頷き洗面所から出ようとするが、再び戻ると鏡に顔を写した。

「あ……ファンデ剥げちゃった……」

 あれだけ顔を洗えば化粧は落ちるに決まっている。
 慌てて化粧を直し、おかしなところがないか百面相のように顔を変えながらチェックをした。洗面所から出るかと思わせ、再び戻ると鏡に向かい舌をだした。気合を入れた意味などは、まったく無くなっていた。
 オフィスに戻ると、横島は書類を見ながら仕事の道具揃えていた。

「大丈夫スか?」

 道具を片手に振り返るが、令子は視線を向けないままに自分の席に座った。

「大丈夫、大丈夫。ちょっと器官に入っただけよ」
「大丈夫ならいいっスけど……ところで昨夜」
「そーいえばさ」

 言葉を強引に遮った。

「昨夜、あんた電話した?」
「へ?」

 昨夜の電話のことを聞こうとした横島は先手を取られる形になった。まるで別人のような令子の真意を聞きたかったのだが、話の腰を折られる形となった。

「いや、しましたけど……」
「私、何か変なこといわなかった?」
「変なことって?」
「枕元に携帯があってさ、履歴見たらあんただったのよ……記憶ないのよね」
「はい? 記憶ないって」
「なんか変な夢みたような気がするんだけど、それが何だったか分かんないし、何かあやふやなのよね」
「ひょっとして寝惚けていたんです?」

 別の期待をしていた横島は、いかにも残念といった風に肩を大きく落とした。

「いや寝惚けるも何も覚えてないから分かんないって。だから聞いてんの」

 頬杖をつきながら口元を細い指先で隠した。

「いや、たいした事話してないっすよ……ただ」
「ただ?」
「いやいいっス。仕事前に殴られたくないんで」
「なによ、いいなさいよ。殴らないって」

 不安げな視線を向けながら、数歩下がった。

「ほんとに殴らないっすか?」
「ほんとだって」

 苦笑しながら掌を振ってみせると、横島はじりじりと近づいてきた。

「話はいつもと変わらないんスけど、声が」
「声が?」
「初めて聞いたような声でした。いや、普段も色っぽいんですよ。普段も色っぽいんだけど、いつもと違った色っぽさというか、可愛さというか」

 恥かしそうに横島がいうと、拳が飛んできた。顔面に直撃してその場で1回転すると床に倒れた。

「な、殴んないっていったのに」
「な、なんとなくよ!!!」

 かなり理不尽である。だが横島はいつもの事と思う事にした。令子が理不尽なのは当たり前であり、理屈など通用しないのである。
 だが令子的にはこれは理不尽な行為ではなかった。セクハラ以上に恥かしいのである。照れるのである。羞恥なのである。
 そして思った―――化粧厚塗りしてきて良かったと。
 汗は滲んでこなかった。だがその下の素顔はとてつもなく熱かった。もちろん厚化粧のためではなかった。













 六時半に現場に着くと、道具を準備して軽い打ち合わせを済ませると行い、各自持ち場についた。
 雑居ビルの立て直し中に出現した悪霊の除霊である。令子は雑居ビルをじっと見つめていた。

(酔っ払おうが寝惚けようが記憶が飛んだことってないのよね……上手く誤魔化せていたらいいんだけど)

 考えていたのは仕事のことではなかった。
 これではいかんと顔を叩き気合を入れ直すと、いつもの令子に戻った。
 さすがに仕事中には雑念は入らないようである。そこが妄想が暴走する横島とは違う点である。
 とはいうもののさほど難しい仕事ではなく、そして金額的には美味しい仕事であった。
 
「まぁ楽っていえば楽なんだけどね」

 バルタンによる燻蒸浄霊を選択していた。確かに楽な仕事であった。
 外にシロとタマモとおキヌを配置して万一に備え、令子と横島で一階ずつ叩いていくというものである。
 二人ともマスクを被り、バルタンの蓋を取ると先端を擦った。真っ白な煙がでると、見る間に部屋中が煙に包まれた。

「ほんと楽っちゃ〜楽っすね」
「まぁね、いつもこんなボロい仕事だと」

 足元を何かが通り抜けた。
 煙のためによく見えなかったが、黒い影である。
 背筋に悪寒がした。

「ま、まさか……」

 冷たい汗が全身に流れ、血の気が引いた。
 黒光りの団体さんが、壁や床の隙間から出てくると足元を掠めながら走り回っていた。
 声にならない悲鳴を上げると、隣にいる横島に飛びついた。

「ちょ、美神さん、動けない動けないって」

 昭和の時代に流行った抱きつき人形のように手も足も横島の体に絡めている。動けるわけなどなかった。
 さて横島忠夫という人物、こういう好機を見逃す男であろうか? いやそれはない。体に当たる胸の感触を楽しみつつ、次のセクハラに移行しようと試みた。
 掌をわきわきと動かし、どこを触ろうかと狙いをつける。だがその掌の動きがピタリと止まった。

「う、うごぎぐぐごごぎがぐわーーーーーー!!!」

 今度は横島が悲鳴をあげた。あまりの恐怖に令子が全力で抱きついたのである。横島の全身の骨がメキメキと軋みだしていた。

「お、おギヌぢゃ〜ん、ジロ……びがびざんがゴギにパニグっでうごげねぇ。だずげで……ぐお!!」

 何本か折れたのかもしれない。
 無線でそういうと、シロが飛び込んできた。おキヌはゴキと聞いて、腰が引け気味である。

「どーしたでござるか?」

 霊波刀を構えシロがそういったが、すぐに咽た。バルタンはまだ煙を吐き出しているのだ。 
 
「どーじだもごーじだもあるか、俺抱えて外にだじでくれ。これだとなんもできん」
「なんもって……エロいことでござるか?」

 咳をしながらも目の前の煙を掌で払いのけた。

「そうそうどこも触れ……じゃなくて!!」
「分かってるでござるよ」

 横島の側に行こうとすると、煙が急に引いた。おキヌが令子の肩を揺すった。

「美神さん大丈夫ですか? 外に出ますよ」
「いや"ーーーーー!! ごわ"い"!! 私お家帰るーーー!!」

 ほとんど幼児をあやす保母さんの気分であった。
 おキヌは、煙の消えた部屋の中を見渡した。ゴキブリの姿はいつの間にか消えていた。

「帰りますから、外にでましょうね。嫌なものはもういなくなりましたから」

 名前は出さない。出してしまうと今以上に怯えてしまう可能性があるためだ。

「ほん"どに?」

 マスク越しに見える瞳には涙が溢れていた。
 おキヌがにっこりと笑うと、令子は辺りを見渡し横島から降りるとマスクを脱いだ。そしてようやく冷静になると、あることに気がついた。

「美神さん大丈夫ですか? とりあえず一度外に」
「ちょっと待って……煙が引いてるってことは、くるわよ!?」

 四人は霊圧を感じると、身構えた。
 床が揺れた。令子の目の前に悪霊が現れた。
 目の前のものを確認すると、白目を剥いて令子の意識は遥か彼方に飛んでいった。咄嗟に横島が令子を抱きかかえ、シロが悪霊を蹴飛ばした。

「う〜……なんか嫌でござるよ」
「いうな……俺もだ」

 おキヌは意識は飛ばさないものの、かなり顔を引きつらせていた。
 彼らの目の前に登場した悪霊……それはゴキブリの化物であった。
 普通の化物であれば、令子は正常でいられたであろう。だが目の前にいるそれは、体長2メートル程のただデカいだけの化物ゴキブリである。それが天井から目の前に降ってきたのだ。しかもご丁寧なことに、手や接触を揺らせて令子の目の前に。気絶しない方がウソである。

「な、なんでゴキブリが……」
「バルタンに燻されて、ゴキブリにとり憑いたんじゃねぇのか? 浄霊の前に害虫駆除から始めないといけねぇんじゃねぇのかコレ」
「つかえませんね……」

 楽して儲かろうと思った人を三人は恨んだ。もちろん生憎と今は気絶している。

「外に出すなよ。こんなの外に出たら大パニックだぞ」
「分かっているでござるが、どうすれば?」
「とにかく俺ら二人で足を止めるぞ」
「心得たでござる!」

 令子をおキヌに渡し、一言伝えると横島は巨大ゴキブリに向かった。
 ゴキブリ故か動きはかなり早い。そして虫というのは、案外と力が強い。

「万国びっくり人間大集合の場合はカマキリだったよな」
「そっちの方が見た目がいいでござるよ」

 とある格闘漫画を思い出しながらも、二人は戦い続けた。
 二人で霊波刀を振るい続けるが、交わされ4本の手で反撃を受けた。二足歩行するゴキブリという非常に珍しい昆虫は、ビデオに撮ったのならば高く売れるだろうと思ったが、現在気絶して外に連れ出された人が泣いちゃうだろうからやめておいた。尤も泣くだけではなく、錯乱して放映したテレビ局を爆破してしまう可能性があったことも考慮したのはいうまでもない。
 鋭い足が体を掠めた。Gジャンが裂けただけで、かろうじて皮膚は斬られずに済んだ。

「あっぶねぇな、傷ついたら何か病気しそうだぜ」
「雑菌だらけでござるからな……」

 キラリと黒光りする目が笑ったような気がした。

「横島! 買ってきたわよ!!」

 タマモが缶スプレー式の殺虫剤を手に現れた。

「一本で効くわけないでござるよ!」
「だいじょーぶ! まっかせなさい!」

 なぜかシロに中指を立ててみせた。

「タマモ、そっちで構えてろ」

 文珠をタマモに渡すと殺虫剤が巨大化した。

「これだと動かせないし、逃げられちゃうわよ」
「まかせろ! 必ずそっちを向かせる」

 そういいながら横島が巨大ゴキブリに正対した。
 一瞬、両者の動きが止まる。
 横島の額から汗、そしてゴキブリの額(?)から油が流れた。
































「コック○ーチ! コッ○ローチ!」

 叫びながらジャンケンを繰り出すと、拳が作れないはずの巨大ゴキブリも右手(足?)を繰り出してしまっている。ちなみにゴキブリにとり憑いた悪霊は、元は四十代の男性であった。このフレーズには魂が震えたのであろう。

「あっち向いてシュ!!」

 あっち向いてホイの要領で指を向けると、巨大ゴキブリはつられて指差した方を向いた。
 目の前に巨大殺虫剤の噴射口。顔が吹き飛びそうな勢いで殺虫剤が噴霧されると、その強大な勢いと殺虫効果でひっくり返り腹を向けると手足をピクピクと痙攣させた。
 本体のゴキブリが絶命すると、悪霊がゴキブリから弾き出された。

「あんたの負け」

 額に破魔符が貼り付けられると、「そんなアホな〜〜〜」という断末魔を残し浄霊は成功した。
 長くもなく垂れてもいない髪を耳にかけるようなポーズをとった。

「悪霊が怖くて赤○きつねが食えるかーーー!」
「私、普通に食えるけど?」

 乾坤一擲のギャグはタマモによって流されてしまい、昭和ギャグは令子がいなければ通用しないことを悟ると大きく肩を落とした。





















 さて今回の仕事でまるで活躍しなかった令子ちゃん。
 泣いて叫んで抱きついて足をひっぱりまくっていた彼女だが、除霊が終わった現段階でも昏倒したままである。
 錯乱してしまう程大嫌いなゴキブリのアップを、目と鼻の先で見てしまったのだ。彼女の顔は苦痛に歪んで……いなかった。
 意識はまだない。だがなぜか彼女は幸せの絶頂にいた。嗅ぎ慣れた大好きな匂いに包まれ幸せを満喫していたのである。
 意識は無い。だが本能的に顔がにやけてしまっていた。
 体が揺れていた。ゆっくりと目を開ける。ぼやけた視界に、愛しい人の顔が浮かんだ。満面の笑みを湛えると、夢(妄想)にまでみたその胸に顔を押し付けた。

「み、美神さん!?」

 声の主は横島ではなかった。

「ん?」

 胸から顔を離すと、声のする方を向いた。
 かなり焦った顔のおキヌがいた。周りを見渡すとシロとタマモもいた。

「なんだ夢かぁ……」

 眉が歪むと、首を傾げた。
 
「あれ? おキヌちゃん隣にいたわね……ま、いっかぁ」

 夢でみた胸に再び顔を埋めた。
 もちろん夢の中の胸に埋められるはずはない。だが実際に、顔は胸に当たっている。そして嗅ぎ慣れた匂いもあった。
 
(私ってひょっとして匂いフェチ?)

 そう思いながら、大きく息を吸った。煙草と汗の混じった匂い、そして僅かに漂うコックロー○の香り。

「ゑ!?」

 にやけ顔が消え、目が大きく開かれた。そして顔を上げると、息がかかる程近くに横島の顔があった。

「え? え!!!??」

 もう一度辺りを見渡し現状を確認した。
 自分の隣におキヌ、前方にこちらを振り返って見ているシロとタマモ。無表情ながらも鼻から赤い筋をながしている横島。そして、その横島にお姫様抱っこをされている自分。
 
(横島くんが、失神した自分を車まで運んでくれている……抱っこして)

 現状の把握が終了した。夢ではなく現実だということがようやく理解できた。
 その刹那、全身の血液が瞬時に顔に上がってくると、一気に脳天まで真っ赤になり頭から湯気をだして再び卒倒した。限界を突破してしまったようである。

「美神さん!?」

 おキヌが肩を揺すったがまったく反応しない。

「美神さん?」

 横島も揺すってみたが、完全に昇天してしまった令子はぴくりとも動かなかった。

「あ〜あ……美神さんも気の毒にね」

 片目を瞑りながらタマモが口元を歪めた。

「な、なんでやー?」

 令子を大事そうに抱えたまま、横島は半べそで訴えた。

「だってそうじゃない。安心して意識が戻ったとたんに、横島のドアップ見てまた卒倒よ。ゴキ並に嫌だったんでしょうね……」

 横島の全身が石のように固まった。だが石になっても令子を落とすようなことはなかった。
 横島を無視するかのように、三人はスタスタと車に戻っていった。
























 タマモとシロは犬神である。鼻が利くのは当然であり、発情している人間などの見分けは簡単についていた。
 おキヌは元幽霊とはいえ人間である。ニブい、トロいといわれても、人を見る目は十二分にもっていた。ましてや、姉と慕う令子である。横島を見る彼女の目が変わっていたことなど百も承知していた。

「随分と意地が悪いわね、タマモちゃん」

 おキヌが苦笑などではなく、普通に笑った。

「まぁね。ようやくひのめちゃんのお守りが楽になってきたのに、またあの苦労しなくちゃいけないんだもん。あと数年は楽させてもらいたいわ」
「そうでござるな。美神殿があんなだと、先生は間違いなく単行本39巻分の欲求をぶつけるでござろうからな」
「そうね。せめて美神さんが素直になるくらいまでは引っ張りましょうね」

 当分訪れない事と分かっているためか、二人はにっこりと笑いながら頷いた。









「うそやーーーーーー!!!! そこまで嫌わんでもええやないかーーーー!!!!」

 石化の解けた横島の叫びが夜の街に響き渡った。




 昨夜の電話や今日の出来事だけでなく、単行本39巻分の態度をみていれば令子が横島をゴキブリの如く嫌っているワケなどなく、まったく逆だとということは普通の神経を持った男なら理解できよう。
 だが横島は普通の神経とはまったく別の神経を保持しているようであった。
 外見は令子好みの大人になってきた、だが中身はどうやら丁稚時代のまま成長していない。
 令子がどうしても横島を認めきれない最大の理由―――それは横島の中身が大人になっていないという事である。
 いくら外見と行動が理想に近くなっていても、中身が理想と程遠いガキのままでは認めたくないのも仕方のない事であろう。
 そして共同歩調を取る身内三人。


 美神令子の苦悩は、横島が本当の意味で大人になるまで続くであろう事は間違いなかった……合掌。





 ――― 本当のおしまい ―――

 
深夜の電話魔王といわれたおやぢです(謎)

夜中の電話というのは、魔物が潜んでいます。
遥か遠い昔……そう、携帯電話料金が今ほど安くなかった時代、地獄をみました。
実体験をふまえ、糖分の多い前半を書いてみました。
思い出して照れるもよし、過去も未来もそんなことはないと怨むもよし、まぁ人それぞれですのでw

どちらにしても夜中というのは、妙にテンションが高くなってしまい、メールや電話、古くは手紙などを朝起きて後悔してしまうなんて誰にでもあると思いますw

ギャグはまた昭和ギャグを使ってしまいました。
これはさすがに知っている人は少ないだろうなぁ……
「ぼくは死にましぇ〜ん」も使いたかったなぁ〜

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