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【夏企画周回遅れ】八月の現状。

 八月某日……。


 6:20

 シロはまだ薄暗い部屋の中で目を覚ました。
 くあぁっと口を大きくあくびをして、時計を見る。時間通りに起きられたので上機嫌だ。
 ベッドから飛び出すとパジャマから普段着に着替えて、準備万端。次は洗面所に行って、顔を洗いに。
 洗面台の蛇口をひねり、出てきた水を手で掬って、顔に覆う。ぱしゃぱしゃ勢い良く、水が当たる音。シロは首を小刻みに振って、水を弾いた。そしてタオルを手にとって、顔を拭く。タオルのふかふかとした感触が心地いい。
「ふう」
 蛇口をきゅっと締めると、水はぴったりと止まった。
 さて、顔を洗うとシロは洗面所を出て、階段を駆けずり降りてゆく。そしてそのまま玄関を飛び出していった。
 外は朝日が差し始めている。空は真っ青で、雲ひとつない。太陽もまだ本調子でないのか、暑くはなく涼しげな空気が漂っていた。ビル影に囲まれた街中をすり抜けていく。大通りから少し外れた通りの角を上手くターンし、地面を蹴り上げた。駆け抜ける速度はさらに加速してゆく。シロはうきうきしていた。その証拠に、ほら。尻尾を振っている。
 彼女には行き先があった。とは言っても、大好きな師匠の住むアパートではない。
「到着〜っ!」
 やって来たのは、周りが住宅地で囲まれた公園。緑も多く広々としており、閑静な公園として近隣の住人にも親しまれている場所である。
 シロはその中央広場に立っている。噴水の描く水の曲線を背にして、得意げに胸を張った。
「今日こそ一番乗りでござるな!」
「あ、シロ姉ちゃんだー」
 と、振り返ると噴水の向こう側で声がした。すると子供たちが群れを成して、集まっているのが見える。残念、一番乗りではなかったようだ。急いで回り込んで、子供たちの下へ行く。
「おおっ、みんな早いでござるなあ!」
「もうすぐ始まるよ、早く早くっ!」
 子供たちは四、五列ほどにきちんと整列していた。シロもすぐその列に加わった。目の前に大人たちが立っており、足元にはラジオが置かれている。するとスピーカーから軽快なピアノが流れてきた。
「ラジオ体操第一〜……」
 高らかに宣誓する男性の声がラジオから聞こえる。
 夏の一日が始まりを告げた。


 8:00

 キヌは朝食の支度をしている。いつもより遅い朝。ほんの少し朝寝坊ができるのも夏休みの醍醐味。そうは言っても、こうしてする事があるのでゆっくりとは行かないが。フライパンに卵を三つ、割って落とす。あっというまに目玉焼きが出来上がった。黄身はとろとろの半熟。トマト、きゅうりを切り、目玉焼きといっしょに皿に載せる。空いたフライパンで、さらにベーコンを焼く。カリカリになるまで、じっくりと弱火で。最後にオレンジを切って器に入れた後、冷えたヨーグルトと砂糖をかけて、完了。ちょうどパンも焼けたみたいだ。
「おはよー……」
「おはよう。朝ごはん、出来てるわよ」
 大あくびをしながら、タマモがやってきた。
「シロちゃんは?」
「アイツならまた朝早く出かけてったけど。じきに戻ってくるんじゃない?」
 まったく朝っぱらからはた迷惑な。という表情でそっけなく話すタマモ。シロと同室だとやっぱり苦労が色々あるのかもしれない。
「じゃあ、待たずに先に食べちゃいましょうか」
 と、テーブルの上に作った朝食を並べながら、キヌもさりげなく冷ややかに言った。
「美神さんはいいの?」
「……寝てるから邪魔しちゃ怒られちゃうわ、多分」
 キヌは席に着くと、マーガリンを掬ってトーストに塗りたくる。少しため息混じりで鼻を鳴らして。
「飲みものは牛乳? リンゴジュース?」
「んー、牛乳。でも先に顔洗ってくる」
「あと寝癖も直さなくちゃね。後ろ髪、すこし撥ねちゃってる」
 言われて、タマモは手で確認してみた。髪の先っぽがちょっと癖になっている。
「ほんとだ。やだなあ、もう……」
 ぶつくさ言いながら、タマモは部屋を出て行った。
 キヌはマーガリンの染み込んだトーストをがぶついた。噛めば、じわっと出てくる油と共にざくっという食感が伝わる。さらに目玉焼きの黄身を崩して、ちぎったパンにつけてベーコンと一緒に味わった。とろりとした黄身の味が塩気の強いベーコンと混じりあい、舌の上を転がる。シンプルだが、これほど美味くできた組み合わせもないだろう。
「たっだいまーでござる!」
 けたたましく階段を駆け上がってきて、シロが元気よく帰ってきた。
「お帰りなさい」
 キヌはコップに牛乳を注いで、彼女に手渡した。
「これはかたじけない」
 もらった牛乳を一気飲みすると、今度はフォークで目玉焼きを突き刺して、一口で放り込んだ。トーストも駆けつけ三杯、もとい三枚をマーガリンもつけずにバクつく。ベーコンも同じようにシロの胃袋に納まっていった。
「シロちゃん、よく噛んで食べないと……」
「ご馳走様でござるっ! では、いってきまーす!!」
 そして、綺麗にトマトときゅうりを残して、またどこかへ出かけていってしまった。その間、わずか五分。入れ違いにタマモが洗面所から戻ってきた。
「……なにあれ」
「シロちゃん台風、かしら……?」
「台風っていうか、嵐っていうか。あのバカ、騒ぎすぎよ」
 キヌとタマモはお互いの顔を見合わせて、シロを見送る。
「まっ。あいつの事はほっといて、ご飯食べよ。いただきまーす」
 タマモはトーストを手に取った。
「ごちそうさま。食べ終わったら、お皿とか台所に置いていてね」
「はーい」
 キヌは自分の食器を片付けて、流しに溜めておいた水につけた。
「さてと」
 腕まくりをして、彼女は台所を出ていく。洗濯、その他もろもろ。
 朝は忙しく幕を開けるのだ。
 

 9:27

 タマモは朝食を食べ終わると、屋根裏の自分の部屋に戻った。ベッドの上に寝転がってごろごろと。特にこれといって何もする事がない。仰向けになって天井を見上げても、変わった所はなかった。
「暇だなぁ……」
 寝返りを打つと、壁際の天窓が目に入った。太陽のきつい光が差し込んでいる。暑そうだ。こんなのを見てしまうと、とても床に寝転がる気にはなれない。
 猫は涼しいところを探すのが得意だという。しかし、残念な事にタマモは猫でなく狐である。そもそも扇風機やクーラーがあるのに、涼しいところを探す必要はあるのだろうか。
「あ〜ぁ……」
 部屋では扇風機が頭を旋回させている。ごろんとまた寝返り。昼まで何もすることがないので、タマモはとりあえず寝る事にした。


 ───


 一方、キヌはあくせく家の中を駆けずり回っている。洗濯機がぐるぐると働いている内に、台所を片付けた。風呂掃除もして、バスタブに水を溜めておく。濡れた手をタオルで拭いた所で、洗濯機は終わったと合図を鳴らす。
「はいはい」
 彼女は返事をして、急ぎ足で彼の元へ向かった。口を開くと、脱水が終わった衣類がしわくちゃになっている。それらを中から取り出して、次々と籠に放り入れた。大きめの洗濯ネットが二つあるのも、お忘れなく。
「よっ、と」
 入れ終わると、キヌは籠を持ち上げた。衣類は水を吸っているのでずいぶん重くなっている。腕に力を込め、籠を宙に支えた。パタパタと足音を鳴らし、洗面所から出て行くと階段を上って、屋上へ。
 外へ出ると黄色い太陽がじわじわと気温を上げていた。屋上は陽がよく当たるので、まるで熱したフライパンの上にでもいるみたい。ここまで来るのも一苦労だ。
 男手があればいいなと、キヌはいつも思う。でも、なぜか特定の男性一名しか思い浮かばなかったので、すぐに止めた。悪い人じゃないんだけどね、と彼女は一人ごちる。男性に手伝ってもらうのもちょっと。しわを伸ばしながら、竿に干す洗濯物の山は全て女物だ。無論、インナーも含む。
「でももし夫婦だったら、ううん。恋人だったら……」
 なんて考えてたら、急に暑くなってきた。人知れず、キヌは首をぶんぶん横に振って慌てる。
「む、麦茶でも飲もうかなっと!」
 あれだけたくさんあった籠の中身もすっかり空になり、見上げれば入道雲がもくもく浮かび上がる。頭の中では妄想ももくもく。顔を真っ赤な太陽にしたキヌは急いで、家の中へ沈んでいった。

 
 10:53

 タマモに来客がやってきている。
「あーっあーっ」
「ちょ、髪……いたたた」
 その客人はタマモの九本の髪房が大層珍しく、手で掴んで、力いっぱい引っ張っていた。
「やめっ、やめてー」
「きゃあ。うー」 
 一体、なにが楽しいのやらとタマモは辟易している。その間も、客は満面の笑みで彼女の髪でお遊びになりやがっていらっしゃる。
 思わずため息が出る。まったく、この客を相手するのも楽じゃない。何が大変って、まず人の言葉がまったく通じない。なものだから、好き放題にされてたまったもんじゃない。
 この赤ん坊という人種には。
「こらー、ひのめ。めーっ!」
「まうまぁ」
 ひのめはきょとんとした顔でタマモを見た。今度は小さな手でほっぺを掴まれる。
「やーめっ、この。いけない子は狐火で燃やしちゃうぞー?」
 指先に火を灯して、怒ってみた。すると。
「あーっ♪」
「うあ゛ぢぃーっ!?」
 ぱちっと音が鳴った。次の瞬間、目の前が炎に包まれる。タマモの顔が燃えた。幸い、すぐに消えたが、顔は真っ黒になった。ひのめは満面の笑みではしゃいでいる。けふ、と息を吐き、ジト目で赤ん坊をにらんだ。
「……なんでお札つけてないの」
「あっ、あー♪」


 ───


「あっ、いけない」
 移動の車中で、ふと美智恵は言葉を出した。
「どうしました?」
「ううん。ちょっとね、さっき令子のとこにひのめを預けてったんだけど」
 部下の西条がハンドルを切りながら、聞き返してきたので答える。
「さっきおむつ換えたときに、背中にお札貼るの忘れちゃったなあって」
「ああ、ひのめちゃんの……」
「言うの忘れちゃったけど、ベビーベッドには張ってあるから大丈夫でしょう。動かさなければ」
 そうですか、と西条は答えると首都高の入り口へ車を滑らせる。
「けど、令子のやつったらまだ起きてこないんだって。ったく、誰に似たのかしらねえ」
「…………」
 視察の現場にたどり着くまで、彼女の大きい娘の愚痴が延々と続いたのだった。


 12:34

「おはよー……」
 のろのろと、令子がリビングへ入ってきた。インナートップスに下着。どうやら起きぬけの状態で、こっちに来たようだ。はしたないというか、だらしないというか。やれやれとため息をついて、キヌは読んでいた本を閉じる。
「もう昼ですよ」
「だるい……暑い、サイテー」
 ソファーに倒れこむと、背もたれに突っ伏してうずくまってしまう。
「男の人がいないからって、みっともないですよ? こんな格好」
「いーじゃない、ここ私の家だし。どんな格好でいたっていいでしょう……」
「私が困ります!」
 ごろんと寝返りを打って、倒れ込む令子。
「寝過ぎですって、美神さん。そんなのだから、だるいんですよ? シャワーでも浴びてきてすっきりしてきたらどうですか」
「……わかったわよぉ」
 機嫌悪そうに舌打ちすると令子は立ち上がり、部屋を出て行った。その際、かきあげた髪がさらさらと枝垂れる後ろ姿はどこか印象的であった。
「私も昼の支度しなきゃ」
 令子を見送って、キヌは献立を何するか思案しながら台所に足を向けた。


 ───


 身に着けていた、薄っぺらい布を洗濯籠に放り込み、風呂場へと足を踏み入れる。大あくびを出しながら、令子はシャワーの栓を捻った。如雨露のように湯が出てくると、たちまち湯気が身体を包んでゆく。熱くなった雨粒は全身をすり抜けて、排水溝へと流れていった。長い髪はたっぷりと水分を含み、重く纏まる。
 垂れたきた前髪を整えて、シャワーを止めた。ぽたぽたと落ちる雫の音を聞いて、頭の中がはっきりしているのを確める。
「ふう」
 いい目覚ましになった。朝ではなくもう昼だが。でも案外、気持ちよかったし、これから毎日やろうかしら。令子は背筋を伸ばして、深呼吸する。身体も十分温まった。いざ浴室から出ようとした矢先───
 ぴちゃん。
「ん?」
 何か音がしたので振り向くと、浴槽に波紋が広がっていた。天井に出来た露が一粒、落ちたらしい。それにしても、もう風呂に水が張られている。えらく気が早いわねと、令子は水面に指を近づけて、そっと触れた。また波紋が広がる。水は冷たかった。続けざまに手を水中に潜らせて、ひらひらと泳がせた。すぐに水の感触が伝わってくる。何度か腕でかき回しながら、波を起こした。
 外で蝉がせわしく鳴いていた。その音を聞きながら、令子は背中にへばりついた水滴がつぅと流れていくのを感じる。すると脳裏にはっと浮かんだ閃きが彼女の好奇心を刺激した。
「……ちょっとだけならいいわよね?」
 浴槽の縁を乗り越えて、足から入ってゆく。
「ひゃっ……あ、んぅ……!」
 先ほど湯に打たれていたこともあって、その温度差に思わず声を上げてしまったが、身体が全部浸かった頃には水の冷たさが心地よくなっていた。水風呂というべきか、水浴びというべきか。
「あー。シャワーもよかったけど、この冷たさも格別だわー」
 令子はすらりと長い足を水上へ伸ばし、上半身はどっぷり風呂に浸かった。髪止めがなかったので、自慢の髪も水の中でたゆたっている。さらに足を組み直して、浴槽に背をぴったりくっつけた。そのまま、しばらく動かずにじっと天井を仰ぎ見る。浴室の明かりはつけていない。窓から入る日差しだけで明るかった。
「今日は暑そうねえ……」
 おもむろに上げた腕を手でさすった。
「あら?」
 いつもよりなにか毛羽立った感触。もう片方の腕も触ってみた。同じだった。さらに太もも、脛も。結果は言うまでもなく。令子は大きくため息をついた。
「そろそろ処理する時期かあ……」
 無駄毛。ここのところ、立て込んでいたので少しサボリ気味だった。
「となると……ここも、よねえ。敏感だからって、避けてられないからなあ……」
 下半身を見つつ、またため息。とはいっても、身だしなみはちゃんとしておきたい。あとで脱毛クリームと剃刀で、処理しておこうかしら。などと思いながら、令子は頭からちゃぷんと潜った。そろそろ水浴びも終わりにして、飯時である。
 蝉はまだ鳴いている。しばらくずっと鳴いていそうだ。
 

 13:29

 昼食は焼きそばだった。
 人参、ピーマン、豚肉、キャベツ。いわゆる定番のソース焼きそば。
 シャワーから戻って、肌がつるつるな令子。なぜかほんのり顔が赤く染まってる。
 焼きそばを作ったキヌ。暑い暑いと服の胸元をつまんでパタパタ。下着がチラリ。
 外から戻ってきたシロ。犬、もとい狼には夏も冬も関係ない。また早食いで出かけてった。
 お客様の接待が終わったタマモ。ようやくのんびり出来るとほっと一息。
 ひのめはお昼寝中。すやすやぐっすり夢の中。
「いただきます」
 ソースに青ノリ、紅ショウガ。マヨネーズはお好みで。かけ過ぎは太る原因、ほどほどに。
「ごちそうさまでした」
 そして、空いた皿が四つ。台所で水にさらされるのでした。


 
 15:12

 空には入道雲、ギラギラとした太陽の日差し。どこからか聞こえる風鈴の音。蝉の音や夏休み中の子供たちの騒ぐ声が街に響く中、ここ美神除霊事務所は平穏な空気が漂っている。
 タマモはペンギン型のかき氷機を持ち出し、氷を入れた。もちろんかき氷を作るためである。取っ手を回して、ガリガリ音を立てて、氷をかいた。
 受け皿に真っ白な氷の山が出来上がる。その上から、シロップをたっぷりかけた。味はブルーハワイ。この前、スーパーで売っていたのを目ざとく見つけて、買ってもらった。カキ氷はたちまち青く染まった。
「でも、なんでブルーハワイって言うんだろ?」
 イチゴ、レモン、メロンとか分かるんだけど。素朴な疑問。けれど、今ここに誰も答えてくれる人はいなかった。遊びに行ったシロはまあいい。ひのめは美智恵が戻ってきたので、母の元へ。令子とキヌはこの暑い中、車を飛ばして、買い物に行ってしまった。なんでもいろいろ買うものがあるらしい。ご苦労なことである。
 氷をスプーンでしゃくしゃくと崩しながら、掬って口に運ぶ。一口、二口、三口……ブルーハワイのラムネっぽい味と共に冷たい氷の食感がやってくる。しかし、あんまり勢いよく食べるので
「いたたたたた」
 タマモにかき氷特有の押しつぶされたような鈍痛が襲ってきた。こいつは頭痛にも似て、たちが悪い。けれど、食べるのはやめられない。そんなアンビバレンツと戦うのが、かき氷という食べ物。
「奥が深いわ」
 こめかみをぺんぺん叩いて、痛みを和らげる。そしてまた一口。
「あたたた……」
 奥の深いかどうかはともかく、氷の山を征服するにはまだ時間がかかりそうだった。


 ───


 クーラーの効きすぎているデパートをあとにして、ACコブラのエンジンを吹かす。
「このあと、スーパーに寄ってくださいね。夕飯の食料、買わないと」
「はいはい」
 令子がアクセルを強く踏むと、コブラは唸りを上げて道に躍り出た。
「……ほんとにいいんですか、お金。買ってもらっちゃいましたけど」
「平気、平気! てか、私とオキヌちゃんの仲じゃない。遠慮しなくていいわよ」
 この車のトランクの中には大きな紙袋が三つ。令子とキヌの衣類や、シロとタマモのお土産等々。結構大量に買い込んでいる。もちろん支払いはすべて令子持ち。
「夏のボーナスってことでさ。受け取ってくれないと私が困っちゃうわ」
「そういうことなら、まあ……」
「ついでにおキヌちゃんの成長を祝って、かなあ♪」
「ちょっ、それはもう言わない約束ですってばー」
 どことは言えないが1サイズ大きくなったそうです。
「あ、そうだ」
「なんです?」
 さらにスピード上げて、道路をかっ飛ばすコブラ。令子はギアをもう一段階上げた。風を切って、混雑した荒波をかいくぐる。
「帰ったら、飲んでいい?」
「……太りますよ、横に」
「うっ」
「際限ないんですもん、飲み出すと……半ダースだけですからね?」
「やった! そうこなくっちゃ」
 我ながら甘いなあと思いつつ。キヌは苦笑いして、喜ぶ令子を見ていた。横を振り向くと、流れてゆくビル郡。交差するビル影は墨を落としたように黒く、天ではこれでもかと太陽がアスファルトを照らした。鉄の毒蛇は東京の大動脈を這ってすり抜けてゆく。令子は手綱を引き、さらに蛇を加速させる。
「捕まらないでくださいよ……」
「いざとなったら、振り切るから心配しなーい」
 そういう問題ではないけれど。ため息を漏らしつつ、キヌは大都会を縫って進む蛇に身を委ねるのだった。


 17:47

 シロも帰ってこない。買い物に行った二人も帰ってこない。
 日は沈み始め、空も暗くなってきた。まもなく夜である。明かりのついた屋根裏部屋で、タマモは煎餅をかじりつつ、ベッドの上で足をぎったんばったんさせている。時の過ぎ行くのを忘れ、枕の上で読書中らしい。
 本の表紙には「風雲!ライオン仮面」作:フニャコ・F・フニャオとあった。
 ご存知のとおり、漫画である。
 サイダーを入れたコップを脇に置いて、次のページをめくった。

 悪の組織くらやみ団に捕らわれた我らが主人公、ライオン仮面。彼を助けたのはなんとかつてのライバル、マスク・ザ・タイガーであった。
『い、生きていたのか!』
『黙れ、いま枷を外すぞ』
 ライオン仮面との一騎打ちの死闘。両者、一歩も引かぬ熾烈な戦いの末、火山の火口に落ちる。咄嗟に崩れそうな岩を掴んだタイガー。その足に捕まるライオン仮面。絶体絶命のピンチにやってきたのはくらやみ団総帥。タイガーもろともライオン仮面を葬り去ろうと銃口を向けた。放たれる弾丸───その時、ライオン仮面必殺オタケビームが炸裂し、総帥の乗ったヘリを爆発させた。しかし、弾丸はタイガーの肩を打ち抜いていた。奈落の底へ落ちていく二人。もうだめかと思った瞬間、今度はライオン仮面が爪を岩壁に引っ掛け、タイガーを助けた。だがタイガーはそれを潔しとはせず自らを引き離し、燃え盛る火口の奥深くに消えていったのだった。(第20巻参照)
『これで借りはチャラだ。行くぞ』
『ふははは……! もはや、逃れることは出来んぞ、ライオン仮面!』
『その声は総帥!』
『タイガー、裏切り者のお前には死をくれてやるぞ』
『ぐああああっ!?』
『はーっはははは! オシシ仮面とオカメ仮面同様、こうもあっけないと拍子抜けだのう』 
『オシシ仮面にオカメ仮面だと……貴様、私の仲間に何をした!?』
『くくくく……安心しろ、お主もすぐに行くことになる、奴らの待つ地獄にな!』
『くっ、許さんぞ! 総帥! 貴様はこの私は必ず成敗してくれる!』
 ついに対峙したライオン仮面とくらやみ団総帥。戦え!ライオン仮面!! 正義の名の下にくらやみ団総帥をやっつけるのだ!!
 <風雲!ライオン仮面〜第38巻〜・完・> 次巻へ続く

 と、本はここで終わっていた。はらはらどきどきの活劇もいよいよ次で最終巻。タマモはおもむろに次の巻を手に取ろうと……した。
 が。
「…………」
 おかしい、ない。あるはずの最終巻がない。あんなに山積みになってた単行本の山は反対側に移動したが、肝心の最後の一冊がない。どんなに手を探ってもないものはない。
「なんでないのよっ、あ〜もう!!」
 ここまで盛り上がった話の結末が分からないという、もどかしさが苛立ちへと徐々に変わっていく。とはいっても、この本を買ったのはシロである。毎月もらうお小遣いで古本屋から一冊ずつ買っているらしいことはタマモも知っていた。同じ部屋に住んでるとはいえ、他人の買い物に興味があるわけもなく、今日暇つぶしで手に取るまで読む気もなかったのだ。恐ろしいものである。気がつけば目が離せなくなって、この様。もう続きが気になって、気になって仕方ない。
「どうなんの、これ……あ〜〜っ!」
 じたばた。ベッドの上で転がりまわっていると、三十八冊分のライオン仮面の山がバランスを失って、倒れそうになっていた。
「あっ」
 という間に本は崩れる。押さえようとしたがもう遅い。タマモも一緒に床に落ちた。
「てててて」
 起き上がると、彼女は目の前に置かれた現実に向き合わされた。床にガラスのコップが一つ転がっている。その中には飲みかけのサイダーが半分くらい残っていたはずだ。けれど、コップの中身は空。問題の液体はどこに行ったかというと、床に落ちた三十八冊の一部分にぶちまけられていた。
「あちゃ〜……どうしよ、これ」
 おそるおそる濡れた内の一冊をつまむタマモ。幸い、全巻に被害は及ばなかったが被害は甚大である。半分以上濡れたものもあれば、端だけちょっぴりというのもあった。どちらにせよ、このまま乾けば、本はがばがばになってしまう。急いで雑巾を何枚か持ってきて、床を拭いた後、本の湿気を取った。余分な水気は取れたが、まだしっとりとしている。無論、このままでいいわけがない。さて、どうしたものか。
「…………」
 答えは極めてシンプルだった。
 そっと本棚へと戻したのだ。巻数順にきちんと。
 起こってしまった事はどうにもならない。だから黙ってやり過ごすことにした。
 タマモは思った。これは事故だと。
「不幸な出来事だったわ……」
 南無阿弥陀仏と本棚に手を合わせて念仏を唱えていたら、あいつが勢いよく部屋に入ってきた。
「たっだいまー、でござる!!」
 一瞬にして、タマモの背筋は震え上がった。振り返れば、クロ、もとい全身泥だらけになったシロが立っている。気が動転して、声も出ないタマモは咄嗟にシロの枕を彼女の顔に投げつけていた。見事に顔面に命中する。
「い、いきなりなにをするんでござるかー!?」
「あ、あ、あんたこそ風呂に入れっ! 泥だらけで部屋に上がってくるんじゃないわよ!!」
 判定、タマモの凄み勝ち。シロは渋々、着替えを持っていってシャワーを浴びたのだった。ちなみに彼女が漫画のことに気づくのに、三日を要したそうな。  
 

 19:39

「やっべ、寝過ごした!」
 古臭いアパートの一室で男が一人、叫ぶ。
 横島忠男は灯の落ちた真っ暗な部屋で目が覚めた。昼間、あんなに暑かった外も夜になれば、さらっとした風が吹いている。深い橙に燃える夕日がビルの向こうにほぼ沈み、空には三日月が浮かんでいた。
 ランニング、パンツ一丁からすばやく着替えると、慌しく外へと飛び出していった。階段を駆け下りてゆき、脇の自転車に乗るとペダルを漕ぎ出す。スピードを上げるのにはそう時間はかからない。
 遅刻という文字が頭の中に浮かぶ。今日のバイトは夜からだった。そのことは記憶している。日中のひどい暑さになにもする気になれず、自然と眠りに落ちてしまった。飯も朝に食ったきり、今まで何も食べていない。ごみも洗濯物もたまってるし、部屋は煩雑なまま。そういえば宿題もまだだ。って、今はそんなことはどーでもよくて。
「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ! はよ行かんと殺されっぞ、俺……」
 いつだったか、うっかり時間を勘違いして事務所に出向いた時があった。すでに仕事は終わっていて、素晴らしく怖い笑顔がそこにあったことを記憶している。その後のことは、思い出したくもない。
「絶対、美神さん、怒ってるだろうな……」
 ドリフトなどを駆使し、自転車レースのスプリンターも真っ青な爆走で事務所へたどり着いた。辺りは真っ暗。窓からは明かりが漏れている。横島は自転車を投げ捨てると、ドアをぶち開けて、一気に階段を駆け上がり、みんなの集まる広間に飛び込んだ。
「すっ、すみません!! 遅れました!!」
 綺麗なジャンピング土下座が決まって、横島は床に突っ伏した。
「…………どうしたんですか、横島さん?」
「へ?」
 顔を上げると、目の前にはここに住む四人の視線とともに肉の焼ける音といい匂いが立ち込めていた。令子は缶ビール片手に、キヌはエプロン姿で焼肉奉行。シロは箸を口に突っ込みながら、タマモは肉を拾い上げている所である。全員、何が起こったのかときょとんとしていた。
「あ、あれ? 今日は仕事だったんじゃ……」
「はあ? なに言ってんのよ」
「今日は急にキャンセルが入ったんで、休みですよ。横島さんも喜んでたじゃないですか」
「そうだったっけ……あー、確かに言ってたかも」
「ったく、嫌なこと思い出させるんじゃないわよ」
 鉄板の上で肉がじゅうじゅうと焦げ付く。脇には人参、ピーマン、ナスや玉ねぎも。令子は焼けた肉にタレを付けて、サンチェにくるんでぱくりと一口。そして喉を鳴らしてビールを一気にかっこんだ。
「カァーッ、おいし! まあ来ちゃったんだし、晩御飯食べてったら?」
「えっ、いいんスか?」
 意外な一言に横島は驚いた。令子は次の缶を開けながら
「たまには、ね。そんかわり、しっかり働いてもらうわよ」
「先生、拙者の隣が空いてござる! ささ、早く早く」
「はい、取り皿とお箸です」
 ひょんな事から横島が加わり、この日はにぎやかな晩餐となった。
 結局、令子はビールを一ダース飲んだ。なぜかキヌも飲む羽目になり、一杯で顔が真っ赤になってけらけら笑ったあと、眠った。横島はここぞとばかりに肉にかぶりつき、シロもそれに追従した。タマモはその隙を突いて、大きい肉に何度もありついた。なんだかんだでてんやわんやの内に夕食が済み───


 21:06


「おキヌちゃん、大丈夫ですかね」
 事務所の玄関外。令子たちが横島を見送りに出ている。
「大丈夫、ちゃんとベッドに寝かせるから。あのくらいだったら二日酔いにもならないだろうし」
「美神さんじゃありませんしね」
「……ほんとだったら、ぶん殴るところだけど勘弁しとくわ。明日からこき使うからね」
「覚悟しておきます」
 墓穴を掘った、と彼は思った。つくづく口は災いの元である。
「じゃ、また明日ね」
「ごちそうさまでした、おやすみなさい」
「おやすみ」
 横島は自転車を漕ぎ出し、夜の中へと帰路に着いた。
「先生、また明日ー」
 シロは彼の姿が見えなくなるまで手を振る。自転車のテールランプが街灯に反射して、光ったかと思うと、次の瞬間には影も形も見えなくなっていた。
「さ、風呂に入って寝るわよ。私たちも」
 令子たちはまた家の中へと入っていく。
 そして扉に鍵がかけられた。しばらくすると、キヌの部屋の明かりが点き、また消えた。風呂脇の通気孔から湯気が漏れ、入れ替わり立ち代りにシャワーの音がし、風呂に浸かる水音が聞こえる。その風呂場の音がかき消えると、広間にあるテレビからの音声もなくなり、電気も落とされた。
 屋根裏と令子の部屋もそれから小一時間ほど明るかったがまもなく消され、全員が床に就いたのだった。

 盆も過ぎた八月某日のそんな一日……。


 終わり

どうもご無沙汰しております。
七月後半から書き始めてようやく完成という恐ろしいほどのスローペースなおかげで、季節はすっかり秋めいてしまって、凹みそうな感じですorz
さて、今回はまったりと一日描写です。
基本的に事件らしい事件、どたばたは起こさず、日常風景に特化してみました。
が、何にも起こらないってやっぱり難しいです。
なんと言うか、こういうのがさらっと書けるといいんですがなかなか。
夏企画には間に合いませんでしたが、過ぎ去りし夏を思い返しながら、夏の一日を感じてもらえると幸いです。
それでは。

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