両親の小言や親戚の冷やかしなんてものは、いつになっても据わりが悪い物だ。犬神・宿木両家合同の宴会、年若いせいか一族の慣習か、跡取りながら末席に着いていた宿木明は改めて辟易していた。
犬神初音と宿木明。古い神の末裔として崇められてきた一族の若武者が、バベルという国の一流組織に特務エスパーとして迎えられ、両家の面目躍如だと褒められたのはほんの一瞬のことだった。
任務について以後は一応は主家にあたる犬神の家からはともかく、宿木一族からの叱咤激励という名前の文句や小言絶え間なく明に降り注いだ。ただの小言ならば別に明にとっては苦痛でもなんでもなかった。古い血統が持つ特殊な能力は、両家以外の人間達から尊敬されもすれ、影では蔑視されている事実も明にはよくわかっていたから、それに比べれば、気の置けない親族がやいのやいの言うくらいはなんてことはないと思っていたし、事実これまではそうだった。
−里帰り−
東北の初夏、生い茂る若葉は新鮮でみずみずしい。早い時間から始まった宴会もまだまだお開きになる様子すらうかがえず、退屈した明は
短夜の
木下闇をぼんやりと見つめていた。ふと誰かが近づく気配に振り返れば、一族の中でも特別お節介だと評判の叔母がニコニコしながら近づいてくるではないか。この叔母の欠点は、自分の幸せを他人にも強制したがる癖があるところだったと、朧に思い起こす。
初音ほどではないにしろ、危機回避能力に長けた明はこれから何が起こるのかうっすらとでもわかっていたのだけれども、宿木の跡取りという立場がこの場からの逃走を阻んだ。明自身、持って生まれた気性をこの時ほど恨んだことはないだろう。
「明ちゃん、お久しぶりね。随分と大きくなって」
「お陰様で。叔母さんも変わらずお元気そうで」
「あらやだ、そこはお綺麗でってくらい言わないと」
自分で言うなよ、と周りから笑い声がわき起こる。いいじゃない。あなただってこのところ言ってくれた試しがないんだから、と年甲斐もなく −あれは旦那だろうか− すねて見せる様子は、叔母の若い頃の美貌を明に感じさせるには十分だった。
「明ちゃんだって、初音ちゃんにそれくらい言ってあげてるわよねえ?」
「ぶっ?!」
飲みかけの烏龍茶を張り替えたばかりの青畳に思い切り吹き出す。あら大丈夫、と澄ました顔でハンカチを渡し、叔母は続けた。
「東京の家で二人暮らしなんですもの、きっと祝言もすぐよね。仲人は叔母さんのところにやらせてよ?」
おお、そうだそうだ。この人に頼むと良い。子供が生まれれば一族も安泰だ。酒の回った大人達は先ほど以上にはやし立てる。
「ちょっと待ってくださいよっ?! 俺と初音は全然そんなんでないですから!」
たまに小鹿主任にもからかわれるが、明の実感は犬の訓練士と言った方が良かったかもしれない。毎日毎日ご飯の世話をして、初音の暴走を体を張って止め、
癇癪みたいなよくわからないわがままを諫め、社会常識を仕付け。
二人きりの生活でも色恋沙汰のひとつもありはしないというのが本当のところだし、これから先もあり得そうもないのだ。
「たく。今、初音がいないからってからかいすぎですよ、皆さん」
「あらいいじゃないの。初音ちゃんが中座してるからじゃないわ。仮にいたとしても言うことは同じだし、あたしの感が外れたことないんだから」
それに一族の皆、そうなることを望んでるわ。叔母は明に耳打ちして、また旦那であるらしい男性のところにそそくさ戻っていった。努めて形取っていた自分の笑顔が強ばるのが、明にはよくわかった。
☆☆☆☆☆
「あたたたた……」
炎帝が明の意識を強引に引き戻す。時刻はもう雲の峰が勢いよくそびえ立つ頃で、みんみん蝉の合唱が鳴り響き随分と明るいが、明は頭に感じる鈍痛にまた布団に倒れ込んでしまっていた。暑気払いと理由をつけ、ますます調子づいた親戚連中にもう高校生なのだから遠慮するなと無理矢理に飲まされてしまい、明は人生初の
宿酔を経験していた。
「高校生に飲ませるのは違法だっての……てててててて」
なんとかわずかにひんやりした板張りの廊下這いずり出、縁側から空を見上げた。
薫風が意識を鮮明にしていく。夏の日盛、旧家らしくやたらに広い庭には陽炎も立っている。きっと外を歩く人間もまばらだろう。
だるい体をひっくり返し、今度は部屋を仰ぎ見た。部屋につるされた蠅取リボンにはいくらか不幸な蚊達がかかっており、先ほどまで自分が寝ていた夏蒲団は乱雑に飛び散らかって、よくわからない掛け軸には日が差し込んでしまっていた。
「ん……あれは」
枕元に置かれた水差しと、お盆で押さえた白いメモ紙が明の目に入った。このままつぶれるように外寝してしまってもいけないと、明はもう一度部屋に戻る。
伸ばした手の先にメモをつかむと、熱い畳に俯背になったまま、目を走らせた。
『いつもの川で行水してます。明も起きたら来てね 初音』
「ぶっ?!」
明は思わず、昨夜飲んだお酒を全部はき出しそうになった。えづいてまた駆け足で縁側に戻る。幸いにも酒は吸収され切っており戻すような事はなかったが、しばらく咳き込み、落ち着いてから再びメモを確認した。
書いてある事に間違いはない。
「たくアイツ、いくら田舎だからって、いい年した女が何考えてんだ!」
川までは目と鼻の先。夏燕もかくや、という勢いで飛び出す明。サンダルをつっかけ、もえぎ色のつやつやした
柿若葉を肩に跳ね当て、初音とよく遊んだ川に駆けていった。
「くおらー初音−! でてこーい!!」
程なく着いた川縁、しだの忍や苔が張り付いた石の上に初音の着衣を確かめてから、明は改めて声を張り上げる。声を上げる度、頭が鈍く痛む。
日の光が乱反射し水面がまぶしく、茂って緑を濃くした木々の青葉は一層陰影を濃くしていた。
「あ、明−!」
草いきれの間、水の中から顔を出した初音を明はすぐに見つけた。やはりというかなんというか、服を脱ぎっぱなしにしていたから当然だが、初音は素っ裸でそれは気持ちよさそうに泳いでいた。山間の源流からさほど遠くない川だ、
夏蓬が生い茂っている訳でもないというのに。
出来るだけ目をそらしながら、幼なじみの痴態に注意した。
「こら初音、お前いくつだと思ってんだー! さっさと上がって服着ないかっ!!」
「大丈夫だよ、ここらにわたしらの家以外、家なんかないんだからー! 明も早くおいでよ、気持ちいいよー!」
言うが早いか、さっさとまた水の中に戻ってしまう初音。確かに清流の水は気持ちよいに違いないのだろうが、自分が潜って引き上げる訳にもいかない明は頭を抱えた。
「いくつになってもかわりゃしねーんだからよ、ったく」
川縁の大きい石に腰を下ろした明は、水と戯れる初音を遠目に見守りながら、昨晩の叔母の言葉を思い起こしていた。
『きっと祝言もすぐよね』
どこがだ、明は独り愚痴る。初音は相も変わらず犬レベルだし、百歩譲って周囲が言うようなことがあったにしても、まだまだ熟していない青い瓢も同然ではないか。
そうでなければ、男の前で女が気安く素っ裸になるものか。
「だけど、どうなんだかな。アイツと俺の関係が変わるってのもなんか想像できないな……」
生まれたときからの付き合いで、世話を焼かせる幼なじみで、妙な能力を持って苦労してきた仲間で、特務エスパーの相方で。
そこに恋人、なんて肩書きを入れてみても、明にはどうもしっくりこないのだ。
「ま、しばらくは犬と飼い主でいいのかもな。小鹿主任もいることだし」
大人達が言うようなことがもしもあるのなら、時間が解決してくれるだろうさ。深呼吸ともため息ともつかない様子で息を整えた明は、相変わらず楽しげな水音に向かって、鈍痛も気にせずに負けじと叫んだ。
「こら初音! 早くあがらないと服持って帰るからな!!」
「えー!! ちょっと待ってよ明、それってあんまりだよ?!」
「うっさいっての。素っ裸で家に帰るのが嫌だったらさっさとあがりやがれ」
「うー! じゃあいーもん。初音素っ裸で帰ってやるから!!」
全く。思わず天を仰いだ明の側を、青嵐が通り抜ける。地上を吹き抜けた風にも入道雲は動じることなく泰然としていて、明は今度こそため息をついた。
「ホント、ちったー変わってくれればどんなにいいか」
夏空を滑るように燕がせわしなく飛び交っていた。お前も苦労してるな、と雛を育てているのだろう親鳥に言葉を投げて。
いつものように、明は初音を諭すために腰を上げた。みんみん蝉の合唱も、変わらずに続いていた。
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