「めずらしいでござるな、おキヌどのが二日酔いなど」
シロは低く押さえた声で静かに話しかけ、浮かない顔をしているキヌの目の前に、そっと薬の小瓶を置いた。
キヌはこめかみを押さえた片手を離さぬまま、なんとか残りの手で蓋を開け、テーブルの上に青い三角の錠剤を二つ振り出す。
それを素早く口に入れると、実家から義母が送ってくれる梅干しを一粒落とし込んだ白湯で飲み下す。
お湯に一片開いた紫蘇の香りと、表面に白く吹くきつい塩気が、わずかにのどの不快感を押さえてくれた。
もともと、あまり酒の強くないキヌだったが、今回のは特に後味が悪い酒だった。
妙な成り行きとはいえ、主の帰らぬ忠夫の部屋で、雪之丞と小鳩の三人で食事をし、酒を飲み、挙句の果てには、そのまま朝を迎えるはめになってしまった。
幸い、酔って羽目を外すようなタイプではないため、後ろ指を差されるようなまねはしなかったが、それでも後悔に似た気持ちは否めない。
朝、ひとり取り残された忠夫の部屋を、まるで逃げるようにして出ることになったのが悔やまれて仕方がない。
「とりあえず、お風呂にでも入ってきたら?」
テーブルから少し離れたソファに寝そべりながらテレビを見ているタマモが、顔をこちらに向けないままに提案する。
務めて素っ気無い素振りでいようとはしているが、朝帰りした自分の匂いを嗅いでみたくてしかたがない、という好奇心ではちきれそうなのが見て取れる。
一瞬、そのことに軽い反発を抱くが、彼女を満たすものは何もないのを確信しているキヌは、その勧めに素直に従うことにした。
「……そうするかなぁ」
「あとでタオルを持っていってあげるでござるよ」
「……ありがと」
重い身体を無理に起こし、バスルームへと足を引きずる自分の背後で、タマモとシロがにやにやとしていたが、もう気にもしなかった。
いつもよりもゆっくりと時間を掛けて風呂から出る頃には、胃の中の薬剤もようやく効力を発揮し、さっきまでの憂鬱な気分を忘れることが出来た。
ヒーリングという特技を持つせいなのか、はたまた体質のせいなのか、キヌにはどうにも市販の薬は効きにくい傾向がある。
他人の痛みや不快感などは、さほど苦もなく癒すことが出来るというのに、何故か自分の身体だけは上手く治すことが出来ない。
その理屈を上手く説明できないのがもどかしいのだが、ちょうど腕の良い占い師が自分の運勢を占うことが出来ないのと同じようなものだろうか。
やむなく、時たまにこうして頭痛に襲われたときなどは、横になってひたすら我慢をし続けるか、忠夫が雪之丞のつてを頼って手に入れてくる薬に頼るほかはない。
鎮痛薬、というにはあまりにもけばけばしい色をした錠剤の入った瓶にはラベルもなく、キヌは未だにこの薬の名前すら知らない。
さすがに非合法なものではないだろうが、おそらく厄珍堂の扱う品々ぐらいには怪しいものに違いない。
めったにお世話になることはないとはいえ、折々に服用しているとなると、小さな瓶の中身もさすがに心もとなくなってくる。
「こんなことなら、昨日のうちに雪之丞さんに頼んでおけばよかったかなぁ」
何気なく、そんなことが口から漏れてみるが、実際にそのことを話題にしたことは一度もない。
はたして雪之丞は、キヌがあの薬を使っていることを知っているのだろうか、そんな疑問が不意に湧いて出る。
いったい、あれを何処から手に入れてくるのか、あれはなんという薬なのか。
ものすごく知りたくもあるが、けっして知ってはいけない、そう言われそうな気がするのだった。
「おキヌどの、替えの下着とタオル、ここに置いとくでござるよ」
曇りガラスの向こうから、匂いを確かめに来たシロとタマモの声がする。
心なしか、予想が外れて落胆しているようにも聞こえる声に、キヌは密かに、それでも満足そうに湯船の中で笑う。
人を勝手に邪推するから、不透明な二つの人影に向けられた視線が、はっきりと物語っていた。
「――おキヌちゃん、今からお昼ごはん作るんだけど、食べる?」
そろり、と聞くタマモの声に、ふと意識が戻る。
さっきまではなにかを口にすることなど、これっぽっちも考えたくもなかったというのに、激しかった痛みを忘れるとともに空腹感がついて出る。
人の気持ちも知らない身体の、いっそ正直なまでの反応に、なにやら自嘲めいたものも零れるが、さりとて自分では作る気にはなれなかったキヌは、すぐさまその助け船に乗った。
「うん、食べる食べる。何にするの?」
「おうどんでいいかな?」
一応は尋ねる形にはなっているものの、断わられることなど考えてもいない即答だった。
タマモとうどん、とくればメニューはひとつしかない。
今の気分には少しあっさりし過ぎて物足りない感じもするが、シロの肉料理に付き合わされるよりは、遥かにましだ。
「いいよ。じゃ、タマモちゃん、お願いね」
「わかったー」
軽い返事を残し、二人がぱたぱたとバスルームから出ていってしまうと、途端にお湯が温くなったような気がした。
一度、自分の部屋に戻り、火照った身体を休め、着替えてから階段を降りると、鰹節や昆布でとった出汁とはまったく違う香りと音が漂っていた。
「ねえ、タマモちゃん、何作ってるの?」
「あっ、おキヌどの、ちょうど今呼びに行こうと思ってたとこでござるよ。すぐ出来るから座っていてくだされ」
「えっ……う、うん」
「でっきたー!」
想像していたものと全く違う匂いに戸惑いながらもキヌがテーブルにつくと同時に、なにやら大きなフライパンを相手に格闘していたタマモがレンジの火を止め、すかさずシロが用意した三人分の皿に盛りつける。
「はい、おキヌちゃんの分。さっそくだけど、食べてみて」
「うまいでござるよー!」
戸惑いを隠せないまま席についたキヌの前に差し出されたものは、想像していたきつねうどんとは全然違う代物だった。
小ぶりのパスタ皿に盛られた、つやつやのオリーブオイルに絡めた太目のうどんには、具らしいものは見当たらず、小口切りに切られたあさつきだけがふんだんにかけられている。
その上に、刻まずに丸のまま焼いて乗せられた唐辛子の赤が、白と緑のコントラストに色よく映えている。
たまに気が向いたときに令子が作ったりする焼きうどんとはまた違う、『うどんのアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ』とでも言いそうな、なんともシンプルで和洋折衷なメニューだった。
もちろん、フォークなぞ用意されているはずもなく、普段使い慣れている箸で器用に手繰り、女三人とも音を立てるのも気にせず啜り込む。
チューブ入りのお手軽なおろしを使わず、わざわざ生のをみじん切りにしたにんにくと、所々軽く焦がしたうどんの香ばしさが、風呂上りの身体が欲している食欲をそそらせる。
オリジナル通りの赤唐辛子だったら強すぎたかもしれない辛味も、これならば丁度良い。それがしっくりと馴染むのは、ごく僅かに垂らされた隠し味の醤油のおかげだろうか。
もともと軽めに盛り付けられていたとはいえ、気がつけば瞬く間に平らげてしまい、物足りぬ箸がむなしく空を切る。
ここへきて初めて、キヌは”いただきます”の一言も言わなかったことに気付き、ちらりとタマモ、そしてシロのほうに目を走らせ、顔を赤らめる。幸い、不用意な自分のその仕草を、二人は誤解してくれていた。
「おキヌちゃん、おかわりならまだあるわよー」
「どうでござる? うまいでござろう?」
何故か作ったはずのタマモよりもシロが得意げなのが可笑しかったが、さすがに自慢するだけのことはあって、おかわりをみすみす遠慮することなどしない。
どんな言葉よりも確かな賞賛に気をよくしたタマモの背中に、キヌは素朴な疑問を投げかける。
「ねえ、タマモちゃん。ほんとにおいしいんだけど、どうやって覚えたの?」
シンプルだけれども手間を掛けた一品は、まだまだ初心者のはずのタマモが読みそうな本には載っていそうもなく、かといって自分がたまに買ってくる女性週刊誌のレシピとも、なんというか、ちょっと違うものがあった。
イタリアンパセリの代わりにふんだんに散らされているあさつきといい、普通の唐辛子よりも大ぶりの、万願寺唐辛子と呼ばれる京野菜をわざわざ用意するあたり、妙に細部に拘る男の料理、という気がした。
はたして、その予感は正しかったことを、タマモに知らされるとは思ってもみなかった。
「えへへ、これはねー」
いつぞやに見たのと同じ仕草で、タマモがにんまりと笑う。
「ヨコシマに教えてもらったのー」
ねー、とシロまで一緒になって唱和するその姿に、キヌは自分が地雷を踏んでしまったことを察知し、後悔した。
「正確には、先生とよく行くお店のメニューでござるが、ね」
「ソコはね、なんでもおいしいんだけど、これが特に人気があるの」
「先生も、いつも最後の締めにはコレ、と言って頼むのでござるよ」
「そ、そうなんだ」
左右から矢継ぎ早にまくし立てるふたりに押されながらも、キヌは別のことを考える。
どうやら最近はまっているらしい料理のことなど、ふたりでいるときに話題にも出たこともなかったし、だいたい、そんなお店で一緒に食べたこともない。
もちろん、イタリアンの店ならば何度か行ったことはある。
ちょっとした休みに、雑誌で紹介されていたお店に出かけたこともあれば、ふたりの共通の友人であるピートのおすすめで、近くのリストランテに行くこともあった。
けれども、そういったときに忠夫が頼むのは、仔牛肉や仔鳩などをじっくり煮込んだラグーで食べる、ガルガネッリやタリアテッレばかりだった。
余談にはなるが、ピートも交えて三人、またはそれ以上でお店に行くと、いつもメニューを決めるのさえ一苦労になる。
バンパイアハーフであるピートには、当然ながらにんにくを食べることはおろか、匂いを嗅ぐことさえできず、忠夫はたまねぎが嫌いだったからだ。
自然、イタリア料理といってもアペニン山脈の向こう、ポー川を越えた地方のメニューになるばかりだった。
しかし、さすがに二杯目となっておいしさが薄れてきたこの料理は、南部地方のイタリアンとは絶対に違う。
良く言えば日本人向けにアレンジした、悪く言えばオリジナルの本質を無視した偽物にすぎないこのメニューは、少なくともイタリアンと名のつく店では出すはずがない。
大方、『何処其処で何年修行した店主が作る無国籍料理』が売りで、古木を模した黒塗りの壁に貼られた、わざとらしい毛書体で書かれたメニューが目立つ、ちょっと流行り目の店に違いない。
そんなところに忠夫と、早くも三杯目に突入しようかという幼い犬神たちが、自分に内緒でせっせと通っているのかと思うと、急に食欲がなくなっていくのを感じ、箸を置いた。
「ごちそうさま」
「ん? どうしたんでござる?」
「もしかして、おいしくなかったとか?」
おかわりを半分以上残して箸を置いたキヌに、シロとタマモは怪訝そうな声を向ける。
その言外の追求を無視し、コップに注がれた冷茶を一息に飲み干しても、口の中は拭えなかった。
「ううん、とってもおいしかったよ。ただ、私にはちょっと量が多かったし、まだ調子が悪いから……」
返す必要もない言い訳を探しているうちに、本当に頭が痛くなってきた。
「今日は美神さんもいないし、お仕事もなさそうだから、ちょっと部屋で休ませてもらうね」
「そうでござるか。なら、あとは拙者たちにまかせておいてくだされ」
「お大事ね」
「ゴメンね。なにかあったら呼んでくれればすぐに降りてくるから」
「大丈夫、心配要らないでござるよ」
頼もしげに太鼓判を押すふたりに後を託し、キヌは早々に席を立ってダイニングを離れる。
一歩一歩ごとに頭の痛いのが増す感じがして、早く横になりたかったが、階段を上がるより先に行かねばならない場所がある。
洗面台に向かい、口の中の痕跡を消し去らないことには、とても休める気分ではなかった。
枕元で鳴る、耳障りな音で目が覚めた。
いつの間に眠ってしまったのだろうか、それが自分の携帯の着信音だということに気がつくのに、ほんの少し時間が空いた。
だるく重い腕を伸ばし、サイドテーブルの上から掴み取るまで、ずっと叫び続けているのがたまらなく不愉快になる。
お気に入りのアーティストの曲といえども、もう二度と再生されることはないかもしれない。
「――もしもし」
サブ液晶に表示されていたはずの相手先も確かめることもせず、普段なら聞かせもしないはずの低い声で話しかける。
案の定、スピーカーの向こうの友人が、軽く戸惑ったように息を詰まらせるのが聞こえた。
『――え、ええと、弓ですけど……氷室さん、ですわよね?』
「え…… ああ、そうです」
『一瞬、誰かと間違えたかと思いましたわ。どうしたんです?』
「ええ、ちょっと頭が痛くて……」
『あら、ごめんなさい。また後でかけたほうがいいかしら?』
「ううん、もう、だいぶ楽になりましたから」
本音を言えば、まだ話すのもおっくうなのだが、わざわざ電話をかけてきた友人に気を使い、話を促す。
もちろん、女が後で話したほうがいいかと聞くときは、今すぐ話したいのに他ならないのを知ってのことだ。
それに、彼女がかけてくる用件といえば、およその想像はついている。
キヌはかおりに悟られぬように注意しながら、次の言葉に身構えた。
『実は、雪之丞のことなんですけど……』
「雪之丞さんなら、昨日、横島さんの部屋で会いましたけど」
『えっ……、そうなんですか』
「ええ、なんか横島さんに用があったらしくて、私がお部屋に行ったときには来てましたよ。そのあと、一緒にごはん食べていきました」
『何か言ってました?』
「うーん、あんまり詳しいとこまではちょっと。でも、電話のことは気にしてましたよ」
『何時ごろまでお邪魔してたんですの?』
「ごめんなさい、実はお酒飲んじゃったんでよく覚えていないんです。でも、たぶん遅くには帰ったんじゃないかな」
嘘は言っていない。
全ての情報を正しく伝えているわけではないが、少なくとも嘘ではない。
しかし、寸でのところで危うく道を踏み外しそうになる。
『他にどなたかご一緒でした? たとえばタイガーさんとか……』
かおりのこの一言に、キヌはもう一人の女の存在を思い出す。
そういえば、忠夫の隣に住む住人、小鳩はどうしたんだろう。
今朝、自分が目を覚ましたときには、二人の姿はどこにもなかった。
小鳩は隣の部屋に帰ればいいだけの話だが、一声もかけていかないのもどうかと思う。
帰ったにしては妙に人気がなく、灯りはおろか、物音一つさえ聞こえなかったことが、急に訝しく思えた。
それに。
キヌは自分が部屋を出て行くときのことを思い出す。
あのとき、鍵は掛かっていたではないか。
忠夫のアパートの鍵はプッシュボタン式のではなく、外から回して掛けないとロックしないタイプのものだ。
ということは、つまり――
『――氷室さん、氷室さん?』
「えっ、ああ、はい」
『どうしたんです?』
「ご、ごめんなさい、まだちょっと頭が痛くて……」
『ならいいんですけど……もしかして、誰か他にいたとか』
ここでキヌは、初めて確信的な嘘を口にする。
「いいえ、私と雪之丞さんしかいませんでしたよ」
『そうですか……ごめんなさいね、具合が悪いのに変な電話しちゃって』
「ううん、気にしなくていいですよ。何かわかったら連絡しますね」
『お願いね』
おやすみ、と言って電話を切ると、嫌な汗が吹き出してくる。
今、自分は親友と思っている相手に二つ嘘をついてしまった。
一つは小鳩が一緒にいたことを隠してしまったこと。
そして、もう一つは――
私と雪之丞さんしかいませんでした、なんと巧妙で性質の悪い言い回しだろう。
かおりは、自分が忠夫と雪之丞との三人でいたと思っている。
でも、本当は忠夫はいなくて、彼女の認識ならば二人っきりで過ごしていたことになるのだ。
しかも、その雪之丞に対する疑念は深くなるばかり。
自分も令子と同じ、ズルい女になってしまったかと思うと、口の中が苦くなる。
けれども、今さらそれを止める訳にも行かないのだ。
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