「……あの子ったら」
つい口をついた呟きを慌てて手で隠す。おこたの向かい側にいるのは、鼻をすする横島さん。良かった、気づいていなさそう。
どうしたの、とも言わず。さっきからずっと鼻をかんでいる。風邪の前触れだろうか、しきりに身震いし顔もほのかに赤い。
私の顔もきっと赤いのだろう、頬の火照りがそっと教えてくれる。でもそれは、体が冷えたからじゃない。風邪を引きそうだから、ってだけでもない。
軽く目眩を覚えるのは、たぶん途方に暮れた私の現実逃避。
だって、ほんとに。
一体、どうしたらいいんだろう。
この部屋に二人、朝まで過ごさなくちゃいけないなんて。気づいてからタマモと名乗ったあの子狐に恨み言をぶつけてみても、もうどうしようもないのだけれど。
良薬は口に苦し、心に……
傾国の怪物だとか九尾の狐だとか。呼び名は様々あれど、恐ろしげな異名からは想像もつかない程愛らしい子狐は、追い立てた人間から身を守ろうと必死に小さな体をいからせていた。
なんとか仲良くなろうとしたのだけれど結局はすっかり化かされてしまい、冬の寒空の下、水泳のまねごとをさせられた。
気づいて帰る道すがら、くしゃみや震えが止まらずに。先ほどまで彼女を匿っていた六畳間で横島さんと二人しばらく、冷え切った体をおこたで暖めていていると、玄関先で不意にこつんと音がした。
かちゃり。
古めかしいノブの音が鳴り、ゆっくり扉を開ける。
蛍光灯の明かりが、足下に小さな葉のくるみを浮かび上がらせていた。
どこから持ってきたのかは分からない。もしかすると彼女が元々持っていたものか、それとも妖力で変化させたものだろうか。
私はすぐに戸を閉めて、外よりはまだ暖かい部屋に戻った。
おこたにちょこんと置いた包みには、なにかが書き添えられている。
「なになに……。煎じて飲め?」
「ちょっと貸してください。うわ、これ蓮の葉でくるんでますよ。さすがに九尾の狐ですねー」
「少しは悪いことしたとおもってんのかな。しっかし美神さんに逆らってまで保護したってーのに。ひでぇ目にあったな……。ズズ」
「クシュンッ……。うう。私、風邪引いたかも、です」
「俺も風邪引いたかな……」
せっかく助けてやったのにさ、と横島さんはぼやく。続けようとした言葉を、無遠慮にくしゃみが遮る。
「ですね。でも、あの子はもっと可哀想だったと思いますし……くちゅっ」
「復活した早々、訳も分からないまま軍隊が全力で追い込んで、罠にかけて除霊しようとしたしなぁ」
「悪い子には見えませんでした。お揚げ見た時の反応ったら可愛くて……」
「食いたいんだけど食ってやるもんか、とか意地張っててなあ。美神さんみた……へぐしゅっ」
言い伝えに残っている、権力者を籠絡して政治を乱れさせたという狡猾さは微塵も見られなかった。追い立てられ混乱もしていたろうし、久しぶりに触れる世界に戸惑い、どうしていいのかよく分からなかったのかもしれない。接し方にしても、とてもいきなりでどっちつかずで。不器用で危なっかしくて、この薬もきっとその証明みたいなものだと、私は勝手に解釈した。
「うう、さみい……。おキヌちゃん、悪いんだけど。それどうやって飲めばいいのか分かる?」
「え、あ。はい、大体分かりますよ。ごめんなさい、話に気をとられちゃって」
せっかくあの子が持ってきてくれたのだ。有り難く頂戴することにしよう。草紐をそっと緩め包みを柔らかく開くと、たくさんの黄色い小さな木の実が顔を見せた。
「わっ」
懐かしい。自然と言葉が漏れた。そうだ、昔の薬って。私が江戸に生きていた頃の薬って、みんなこんなだった。
「横島さん、茶こしってどこですか? 」
「あ、食器棚の方。洗い物の中に無い? 」
「りょうかいでーす」
さっきから横島さんはストーブを一番強くして部屋を暖めてくれている。けれど、体は全然暖まってこない。芯まで冷えてしまったから、出来ればたっぷりのお湯につかりたい。でも電車も走っていない今の時間、もうご近所のお風呂屋さんも閉まってたはずだし、やっぱりこの薬で暖まるしかないみたい。
「さすがおキヌちゃん、元江戸娘だなー。そんな木の実見て、すぐに煎じ方分かるなんて……えぐしゅっ!」
私がキッチンに来たからと思うのはうぬぼれだろうか。隣の部屋から遠慮のない大きなくしゃみが聞こえる。まあ、キッチンとは言っても引き戸一枚隔てた二畳くらいの、小さなものだけど、この小ささが、目の行き届くこの空間が私は結構好きだったりする。
「初めちょろちょろ、後ぱっぱっと……」
関係ありそうでなさそうな歌を歌い、用意する。水を入れた土鍋を火にかけてしばらく、蓋がかたかた踊り始めた。お世辞にも立派とは言えないアパート。窓の木枠も寒風に当てられかたかた揺れ、ほのかに熱い頬に冷気が当たる。おこたからは間をおかず横島さんが鼻をかむ音が聞こえてくる。
「確か、このお薬はちょっとの間煮込めば大丈夫……」
火を強火から弱火にゆるめると、ぱらぱらさぁと木の実を土鍋に放り込む。また蓋を閉めて、微かにずらして。これでよし、と。火の具合を確認し、そそくさおこたに戻って一気に中に足を滑り込ませた。
「うー、寒いです。キッチンは暖房ありませんからねー」
「ほら、ストーブ寄せるよ」
「すみません」
「いいよいいよ、って。っわ?!」
「あはは、引っかかった」
油断していた横島さんに、えいとばかりに冷えた足をぴたりつけた。こたつの中は暖かいから、余計びっくりしただろう。こないだ事務所でやられたお返しのつもり。わかってくれてるかな。
「たく、おキヌちゃんも最近いたずらっぽいなあ」
「周りが良い環境ですから」
「口まで達者だ」
「えへへー」
ふと、あの子はどこに行ったのだろうと想った。
私は今、こうして笑ってられる。美神さんと横島さん、二人に出会えたのはどれだけの幸運だったのだろうか。
あのまま何事もなく妖怪を退治して、この世に生き返ったとしても、私の景色は、カンバスは、すっかり違った彩りを失った物になっていたに違いない。
そう。私だってそうだったのだ。あの出会いがあって、今がある。
あの子は、タマモといったあの子狐は、一体どうなるのだろう。
「……こう言うと冷たいかもしれないけど。なるようにしかならんと思う。アイツがどこいったかなんて、わかんねーし」
「ですけど、ね」
「少なくとも、形の上では除霊したことになってるんだから、もう追い立てられることは無いと思う。この世のどこかで好きに生きていくんじゃないかな」
「また会えますかね」
「そん時、もしアイツが悪いことしてたんなら、それこそもう一回GSとして立ち向かうことになるんだろうけどね」
さばさばした横島さんの態度に、不思議と少し腹が立った。なぜ腹を立てるのか、自分を省み、苦笑いした。キッチンの寒さが冷ましてくれた体の火照りは、徐々にその熱を取り戻している。
あの子に、昔の自分を重ね見ているからだろうか。だからこそ、こんな横島さんに腹が立つのかもしれない。
「はい」
不意に横島さんが籠ごと蜜柑を差し出す。山盛りの蜜柑には、所々細かな傷が見える。あたしは小さめの物を一つ、つまんだ。
「大家さんがくれてさ。知り合いが作ってるらしいんだけど、出荷できないとかなんとか言ってた」
「いただきますね」
横島さんらしくない要領の良さだと思った。だけど、意識しているのでもないのだろう。早速横島さんも蜜柑を口にしている。
私は少し、わたついた。化かされる直前、子狐に噛まれ包帯が巻かれた指ではむきづらいのだ。かといって横島さんに蜜柑をむいてくれる甲斐性もないのが、そう言う人だと分かっていてもちょっと寂しい。こそこそ手元を見、皮をむく。
勢い私も蜜柑を一房、口に入れた。広がる甘い酸っぱさが、鼻に抜ける。
「美味しいですね」
「見た目形がどうだって、味はそんな変わんないのに。勿体ないよね」
まーその、なんだ。上手く説明出来ないんだけどさ。横島さんは続けた。
「アイツ、おキヌちゃん言うように、悪いヤツじゃないみたいだし。周りがどうだろうと、縁があったらまた会えると思うんだよ」
「縁があったら、か……」
なぜかと腑に落ちて、いずれの出会いを確信出来る言葉。私たちを結びつけてくれた、縁という不可思議。やっぱり横島さんは、横島さんだ。不器用でいて、でもあけすけで。
「あ、これ子供ですよ」
「ホントだ」
嬉しくて、ついたわいないことを言う。
「おキヌちゃんって優しいよね。指だってまだ痛いだろうに」
「え、あ、その。ちょっとあの子が心配だっただけで」
「ま、薬くれたからチャラ……なのかな。傷薬じゃないけど」
「あ。そう言えば、そろそろかな? ちょっと見てみます」
誤魔化すように、キッチンに立つ。
時間はちょうどいいくらいなはずだけど。そっと蓋を開けて覗き見た。ふつふつ沸き立つお湯の中に、木の実が色づき浮いている。うん、良い感じ。ガス台から土鍋を上げて、茶こしと受け皿をセットする。
「そぉ、っと……」
少しずつ煎れた薬を流し込むと、ほわと湯気と香りが立ち上っていく。ちょっとだけ鼻を刺激する香ばしい匂い、とても良い香り。でも、どうして薬の匂いはすぐに薬だと分かるような匂いなんだろう。もしかして薬って分からないと駄目だからだろうか。
もしそうだとすると随分優しい木の実だな、なんて。
美神さんに聞かれたら一言おバカねって言われそうな考えを止めどなく巡らせながら、魚の名前がびっしり入った湯飲みにお玉で小分けする。
こんなのどこから買ってきたんだろう。これ、横島さんの趣味じゃないよね。
「はい。飲んでおけば、とりあえず風邪は悪化しないと思います。結構暖まりますから」
「そっか。じゃ、ありがたく」
こたつに戻って、二人してずずずと飲み下した。良薬は口に苦しって昔からよく言うけど、やっぱりこの薬はとても苦い。一気に飲んでしまった横島さんは、珍しくしかめっ面をしている。
それが可笑しくて笑った私を、横島さんは恨めしげに見つめていた。
「昔は薬って、全部こんな感じだったの? 」
「そうですね。こんな感じだったと思います。でも、薬を飲める事も、少なかったんですけどね」
今よりずっと、貧しい時代でしたから。微かな記憶を辿るのが寂しそうに見えたのだろうか、横島さんはゆっくりと返事をくれた。
「……あいつもそんな時代から抜け出てきたんだよな」
「言い伝え通りなら、平安の昔に恋をして、でも結局は追い立てられて。殺生石に封印されて、ですから」
「俺ら、いいことしたんだよな」
「そう思うから、彼女助けたんでしょう?」
「だね」
「でも、横島さんって、そんな人たちに縁がありますよね。シロちゃんも、グーラーさんも、あの子狐も」
「そうかな」
こくんと最後まで薬を飲みきると、なんでだか口が勝手に動いた。
「そうですよ。みんな、復活したり世間に出てきたりしたときに、出合った人ばっかりですよ」
もう、とこたつの中でこつんと足を蹴った。でも、今度はあまり冷たくはないからか、横島さんはなんともなさそうだった。
いつの間にか、また少しもやもやしていた。なんでって、私はそのみんなの最初なのだ。
「……鈍感」
「え、何……?」
「何で……もないです。ほら、苦かったから……蜜柑……食べましょ……」
「あれ……つーかおキヌちゃん……眠くない……?」
「ねむ……い……です……ね。……ごめんなさ……い。このお薬、飲ん……だら……すご……く、眠くなるんで……し……」
幾分除霊に手慣れてきたとはいえ、強力な睡魔に対抗するには日が浅すぎたよう。まぶたが閉じるをなんとか遮ろうとして、でもやっぱり無理で、そのまま意識と一緒に落ちていった。ああ、これで良かったのかも。でも何も無いのもやっぱり寂しいかな、なんてはしたないことを心のどこかで思いながら。
ちゅんちゅんちゅん。空気が澄み目映い光が舞い込み、寝ぼけ眼の街が物音を立て始めた頃合い。私はこたつに入ったままの姿で目を覚ました。
「……やだ、もう朝?」
薬を飲んで、それから。記憶はそこでぷっつり途絶えて、寝起きの私を戸惑わせる。不意に、カーテンの間をすり抜けた朝日が目に飛び込んだ。
「結局、泊まっちゃったのかあ……」
そうするしかなかったとは言え、実際泊まってしまうとなんてことはなかったなあ。まあ、おこたで寝てただけだけど。
「体も……うん、あんまり悪くもないみたい」
すっかり、というには少しだるい。こたつで寝てしまったせいかもしれないけど、帰ってシャワーを浴びて休めば、きっと治るだろう。横島さんにはお風呂が開くまで我慢してもらうしかないのかなあ。
「え? あ、やだ。そう言えば横島さんと一緒……」
大きな声を上げかけ、慌てて口を押さえた。そうだ、横島さんはと視線を走らせると。まだ向かい側ですうすう寝息を立てていた。
良かった。服はしわがはしって、髪はぼさぼさ、顔も洗ってない姿なんて、見られたくなかったから。でも。
「……こんなにぐっすり眠り込むなんて、なにかこー女として負けたよーな……」
寝顔を眺めて、呟く。いい顔しちゃって。薬のせいだとは分かっていても、ちょっとむしゃくしゃした私はお仕置きだと右頬をぷにぷについて、鼻をつまんだ。
すると横島さんは苦しそうなうめき声を上げた。許して美神さん、仕方なかったんやーだって。
ホントに、もう。この人は。
「横島さんが起きないうちに帰るかな……もう電車も動くだろうし」
時計は始発の時刻が間近だと指し示している。人工幽霊一号も心配してるだろうし、もしかすると美神さんも。なんにしても、いつまでもこの部屋にいる訳にはいかない。
そうと決めれば、ささと鏡を見、髪と服を整えて。おこたの上に書き置きを残し、最後に寝ている横島さんに静かに挨拶をして、家を出た。
表はぱあと青あかるく涼しくて、今日が良く晴れた一日になると教えてくれた。私の横を、新聞配達の自転車が通り過ぎていく。
「あの子、タマモって言ったけな。今度会ったら、お揚げのひとつも振る舞ってあげようかな」
青空に向かって伸びをする。雲の切れ間から輝くような朝日と長い9本の光の筋が見え、わずかに重い体から、気だるさが飛んでいく気がした。あの子も今、この青空を見ているのもしれない。そう思ったら、化かされた事ももしかして縁なのかな、と思えた。
「……うん、シャワー浴びて、お洗濯して。それから少し休んで……」
初めて一緒に、一晩過ごした横島さんにちょっといたずらも出来たし、ね。あの書き置きを見て、横島さんなんて言うかな。起き抜けにびっくりしてるだろう横島さんを想像して、少し笑った。
「さ。急がないと、電車間に合わないや!」
朝靄の残る街を、駅に向かって駆け出して行った。登り始めた太陽の光は、清潔な静寂を活力あるかしましさに変えていった。
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