その朝、キャロラインは2つの意味で目を覚ました。
―――――― 残像に口紅を ――――――
瞼を開き、先ず目についたのは男の胸板だった。
そのことで彼女は自分が長い夢から覚めたことを理解する。
ベッドの中、自分を抱きしめている男は深い寝息を立てていた。
キャロラインは身じろぎをしないよう注意しながら、視線を男の胸板から首筋、そして顔の方へと移動させる。
初対面だがそうは感じない東洋の優男。
その男の名前を思い出そうとするが、彼の想い出は自分の中に眠る少女が持っていってしまったらしい。
もどかしげな感情を抱えつつ男の顔を凝視しようとした彼女は、男の頬に涙の跡を認めすぐに視線を逸らした。
――― 涙。それじゃ、やっぱりあの子は・・・・・・
別れの晩。お互いを求め合った2人は泣きつかれたように眠りに落ちたのだろう。
キャロラインは己の頬に残る涙の跡に、その涙を流したのが自分でないことを実感する。
自分の中で眠るもう一人の存在を、彼女は疑う余地のない事実として認識していた。
消えゆく少女と最後まで供にいた男が流した涙。
恋愛ドラマは嫌いではないが、ジューヌベルグを寝物語に育った精神感応力者の自分には、不似合いな世界だと彼女は思っている。
そしてTV画面には感じないリアルな感覚―――男の体温と昨夜の名残とも言うべき匂いが、当たり前の反応としての拒絶を生み出していた。
「ん・・・・・・キャリー?」
強張った体の動きが伝わったのか、男の意識が急速に鮮明になる。
キャロラインは男と目を合わさないように背を向けると、意識して精神感応のチャンネルを閉じた。
男の腕を抜け出し、ベッド脇にきちんとたたまれていた衣類に手を伸ばす。
下着を着けている間、終始無言だった男は悪い人間では無いらしい。
彼は昨夜、優しく自分を扱ったのだろう。
それとなく調べた体に痛むところは無かった。
「ここ・・・・・・どこ?」
服を身につけた後、重く落ちた沈黙を振り払う様にキャロラインは口を開く。
横目で確認した男は、仰向けにベッドに横たわったまま身じろぎもしない。
数秒の沈黙の後、男は右腕で目を覆った姿勢を崩そうとせず、振り絞るようにして海辺のコテージの名を口にした。
大学からほど近くにある、彼女も以前に訪れた事がある施設。
見回した室内にどこか見覚えがあるのは、自分が過去に利用した記憶なのだろうと彼女は思うことにする。
超能力実験に参加してからの記憶は、まるでキャリーと呼ばれた少女が頑なに手放さないでいるかのように、彼女の脳裏に像を結ばさないでいた。
それだけに自分にその少女の面影を投影する男の存在は、知らないうちに肌を重ねたという事実以上にキャロラインの心に重さを感じさせる。
「それじゃ、私、帰るから・・・・・・」
現在地が分かれば帰るのも難しくはない。海沿いの国道を20分も歩けばバス通りだった。
キャロラインは男に別れを告げ家路を目指す。
まず帰ったらシャワーを浴びメールをチェックしよう。
そして修士論文の〆切を確認したあと再び眠りにつく。
再び目覚めたときには、自分は宇宙飛行士を目指すもとの日常へと戻れているはずだ。
そんなことを考えながら、キャロラインはこれ以上男と接点を持たないようドアへと向かっていく。
小銭を捜しポケットを探った彼女は、指先が見つけた物にその歩みを止めた。
ポケットに入っていたのは見覚えの無い未使用の口紅だった。
キャロラインは、それがもう一人の自分が購入したものであることを理解する。
「・・・・・・来たのは車かしら? もしそうならば家まで送ってくれない?」
気まずい空気を打ち払うように口にした一言に、男はようやくベッドから体を起こした。
男が身支度をする気配を背中に感じながら、キャロラインは次に言うべきことを思い浮かべる。
しかし、頭に浮かんだ安手のドラマで聞くような台詞は、ついに彼女の口から出ることは無かった。
「恋愛ドラマかと思ったら、アクションシーンもあったみたいね・・・・・・」
キャロラインが次に口を開いたのは、自分たちが来たらしき車を見たときだった。
無数に弾痕の空いた救急車が、男とキャリーが経験した尋常ではない出来事を容易く想像させている。
「大丈夫・・・・・・もう、危険はもうないと思います。全部終わったから」
「そう・・・・・・それならばいいわ」
周囲に意識を広げてみたが自分に向けられた悪意は感じなかった。
キャロラインはすぐに意識のチャンネルを閉じると、思い切ったように助手席へと体を滑り込ます。
「私の家は知ってるわよね?」
その言葉に拒絶の意味合いは無かった。
キャロラインは運転席へと乗り込んできた男に、遠回しに怒ってはいないことを伝える。
「何度か行かせて貰いました・・・・・・キャリーと一緒に」
「聞かせてくれないかしら? アナタとキャリーのこと・・・・・・」
誠実そうな見かけ通り、男はキャロラインへの説明責任を果たし始める。
運転席と助手席という直接目を合わさない距離感が、先程までの重苦しさを薄めていた。
キャロラインは静かに皆本光一と名乗った男の話に耳を傾ける。
日本から来た留学生が、生まれたばかりの無垢な人格に出会った物語を―――
キャリーと呼ばれた少女は急速に成長し、そして皆本を愛するようになる。
自分に残された時間が僅かしかないのを理解しているように。
事実、たった二ヶ月しかなかった彼女たちの物語は、皆本がどれだけゆっくり語ったとしてもすぐに終焉を迎えようとしていた。
キャリーがキャリーでいられた最後の日。
彼女は皆本の心にダイブする。
意識を失った彼女を連れ去ろうとする政府のエージェント、その者たちから2人を守る親友の賢木修二。
彼の後押しで2人は最後の時間を共に過ごそうとする。そして―――
「もういいわ。車を停めて」
自分の記憶と2人の物語がリンクする直前、キャロラインは皆本の話を打ち切った。
皆本は申し訳なさそうに口を噤むと、車を停車させ彼女の方へと視線を向ける。
キャロラインは皆本が口にしようとした謝罪の言葉を遮るように、バックミラーを自分の方へとねじ曲げた。
「ここで降りるわ。もう家まですぐだし、途中で買い物もしたいから・・・・・・」
彼女はそう呟くと、キャリーが使うことの無かった口紅を引き始める。
自分の奥深くで眠る少女が、初めて購入した化粧品。
多分照れくさく、最後まで使うことは無かったのだろう。
彼女は皆本の心に残るキャリーの残像に口紅を引いてやるつもりだった。
口紅の乗りに満足そうな笑顔を浮かべてから、キャロラインは助手席を後にする。
「昨日の事はアナタたちの想い出・・・・・・私は忘れるわ。というか覚えていないし、だけど・・・・・・」
ここで一旦言葉を切ったキャロラインは、車の窓越しにじっと皆本の顔を見つめた。
「コーイチ。アナタは忘れないで、キャリーもそれを望んでいると思う・・・・・・送ってくれてありがとうね。それじゃ、また―――」
軽く皆本に手を振ってから、キャロラインはその場を後にした。
彼女の能力が皆本の堪らない悲しみを感じとっても、彼女は振り返らず力強く歩き続ける。
皆本を抱きしめるのは、少なくとも自分ではないと彼女は思っていた。
キャロラインは己の中で眠るキャリーへと想いを馳せる。
彼女が見る夢が皆本の夢であることを祈りながら。
――――――― 残像に口紅を ――――――
終
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