波は絶え間なく寄せ、返す。
穏やかに、変わることなく続く潮騒のリズムは、晩春とはいえ肌を刺す早朝の冴えた空気ですらも押しやれぬほどに強い眠気をもたらす。
打ち寄せる波の音と肌に染み込むような柔らかな陽射しに誘われたのだろう、大欠伸を漏らしたデニムの上下と赤いバンダナの青年は、右手に提げたコンビニの袋を左手で探ると、欠伸に遅れること数秒、再び開いた口の端から不満を漏らす。
「まったく、こんな早くに起こしやがって……」
「腹が減っては戦は出来ぬ、だ!第一、ジャンケンでこうなったんだ、文句を言うな」
不平に応じて返すのは、缶コーヒーのプルトップを引き上げたデニムの青年に比べるとやや矮躯の青年。
苦虫を三匹ばかり纏めて噛み潰したかのような口調で述べると、黒いトレーナーと、同じく黒ではあるものの、僅かに藍がかった生地で仕立てられたチノパンツを纏う青年はそのポケットをまさぐる。
微かな金属質な響きの後に、紫煙が一つ立ち昇っていた。
【静かの海】
「それにしても、折角の休みだってのに、何が悲しくて男四人で海なんて……」
波止場に腰掛けた今もなお、変わらずに不平を漏らすものの、事務所から帰宅したばかりの横島の前に現れ、「横島、海に行くぜ!」の一言だけで無理矢理に誘ってきた短躯の青年―― 雪之丞の呼びかけに応じたことに関しては、別段の後悔もない。
仲間としてともに戦った時から数年、有無を言わせぬ強引な物言いと行動に振り回されることにも慣れている。
そういう奴なのだ―― 簡潔に腑に落ちる、その肯定的な“諦め”もまた、いくら大人になろうとも、いつまでも『ガキ』でいられる―― そして、自分自身もまた『ガキ』に戻ることが出来るこの好漢とともに、仲間として戦ってきた数年の間に培われてきた。
何より、雪之丞をはじめとした、気の置けない仲間と過ごすことは楽しいことに変わりない。
渋る仲間を無理矢理車に押し込み、道連れとして連れ出したことも、年甲斐もなく騒ぎ、ふざけあった道中も、夕陽沈む波止場に並んで釣り糸を垂らしたひと時も、芳しくない釣果に舌打ちしつつ飛び込んだラーメン屋が意外に当たりだったことも、そのラーメン屋に漂う臭気に、仲間の一人が脱兎の如き逃げ足を発揮したことも、狭苦しい車中で精一杯に存在感を主張する大男の鼾に対し、絶妙のツープラトン攻撃を繰り出して沈黙させたことも―― そして、その大騒ぎの末に、肝心な睡眠時間をすり減らした結果、気だるい睡魔に苛まれ続けているこの現状をも含めた全てが、さながら少年時代に立ち返ったかのような、心地よい充実をもたらしてくれる。
「そうは言っても、ちゃんと一緒に過ごしてくれるようなヤツはいるのか?」
組んだ両手を頭上に掲げて伸びを打ち、凝り固まった節々を伸ばすとともに、隣に腰掛けた雪之丞は遠慮無しに問う。
その無遠慮な問いかけに、応じて返すのは、やや毒のある言葉。
「るせー。大体お前はこんなことやってる暇なんてないはずだろーが?
いつも弓さんを放って世界中飛び回ってるってんだから、たまに日本に帰ってる時くらいは一緒にいたらどうだ?」
微かな毒を含む横島のその言葉に、雪之丞は予測していた、と言わんばかりに、食傷を滲ませる渋面で返す。
「いいんだよ、かおりにはもう昨日の内に逢ってきたんだし」
「『かおり』……『かおり』だと?!
ちゃっかりヤることヤってるってアピールしてる心算か、このムッツリ野郎!!」
だが、この反応は予想外らしかった。
「うぉッ?!いきなり何しやがるてめぇッ!」
突然噴出した怒りで胸倉を掴む横島に、雪之丞も思わず語気を荒げる。
「俺んじゃー!いい女はみんな俺んじゃー!」
「妙な角度からスイッチ入れてるんじゃねぇッ!!」
静かな海に、男二人の怒鳴り声が響き渡っていた。
* * *
「……いい加減お前も美神のダンナかおキヌか、どっちか決めろってんだよ。あっちにフラフラ、こっちにフラフラしてるだけじゃ、結局どっちも傷つけるだけだぞ?」
「うるせー。そんなことくらい判ってるよ。判っちゃいるけど、そう簡単に割り切れるかよ」
「まったく……いつまで経っても、そういった優柔不断ぶりは変わりゃしねぇな」
苦りきった表情で、雪之丞は二本目に火を点ける。
「そう簡単に変われたら苦労はしねーよ」
コーヒーを一口含むと、横島はほぼ等量の体積をため息の形で吐き出す。
溜息とともにぼやく横島に、答えるのはさざめく波の声ばかり。
「……静かだな」
「……あー、静かだな」
果てなく広がる蒼穹に溶けこむように微かに響く波音の中、どちらからともなく、口を開く。
立ち上がり、伸びを打つ。
手にした缶を、脇に置く。
「……そろそろ、か」
雪之丞の呟きに併せるかのように、沖から運ばれてきた生温い風が、弛緩した空気を一変させる。
「横島さん!雪之丞!」
朝日を受けて東の空から飛来した、幼さをその表情に残した青年の声が、始まりの刻を告げる。
波の失せた水面に、立ち上がる水柱の向こうから顕れるのは、巨大な蛸状の頭部に配し、全身のそこかしこに触手を這わせる巨大な異形。
その双眸が獲物を探して虚ろに輝く。
だが、その行為は即ち五感を有することの証明!
「タイガー!一発派手な奴頼むぜ!」
「任せんシャーイ!」
声に応じて闇が拡がり―― 異形の視線を見当違いの方向に逸らす。
「行くぜ、横島!」鋭角的なフォルムの朱の鎧を身に纏い――。
「おう、雪之丞!」右手に生み出した光の刃と、左手に宿した『凍』の文字を刻まれた珠の二種の輝きに負けぬ輝きをその表情に宿し――。
背中を預け、ともに戦う戦友たちの絆を信じ、漢達は……不敵に笑った。
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