セックスをしてしまうと、もう、どうにもならなくなってしまう。
それまでは忠夫のこと、令子のこと、嘘のこと、などをするどく追求しようと決意してきたというのに、忠夫の手が肌に触れ、少し荒れた指がなぞり、耳元で熱い息吹を感じてしまうと、すっかり蕩けさせられてしまう。
女の扱いにはまだ慣れていない、戸惑いがちの激しい動きに導かれ、幾度か頂に登り詰めてしまうと、あとは黙って堕ちるより他にない。
幾度となく訪れた部屋の鍵を掛けて帰るたびに、キヌは自分がどうしようもなく忠夫に惹かれていることを思い知らされる。
気がつけば、いつしか春が訪れていた。
キヌにとって、忠夫が初めての男だった、というわけではない。
今となっては遥かな遠い昔、御呂地村を領する藩主の館に、齢十五となる未婚の娘たちが集められる少し前、一度だけ、村の若い男に抱かれたことがあった。
数えでふたつ年上のその男を好いてはいたが、別に夫婦になろうとか、将来を誓い合った仲、というわけではない。
地脈に巣喰い、彼の地に大いなる災いをもたらした妖怪を封ずるべく、江戸より来た道士が娘たちに何を求めているか、近隣の村々において既に知らぬものはなかった。
誰もが口にこそしないが、自分に白羽の矢が立つやも知れぬ、そんな得体の知れない不安を抱えて、期日を迎えるまでの日々を鬱々と過ごしていた。
中には、処女でなければお役目に選ばれることはない、などという怪しげな噂にすがり、身近な男に抱かれることで逃れようとした娘も少なくないと聞く。
キヌは無論、そんな、邪な気持ちを抱いた男たちが流したに違いない、無責任な噂には踊らされることはなかったが、結果として同じことになった。
早くに両親を失い、身寄りのないキヌには、おそらく自分が人身御供に選ばれるであろう、確信にも近い予感があった。
あるいは、神託という意味での籤引きを、その場はうまく逃れられたやもしれぬ。
しかし、迂闊にも一番籤を引いてしまった女華姫をかばう藩主のように、恥も外聞も捨て、ありとあらゆる手を尽くして、結局は自分の手に握らされたに違いない。
そのことを思うと、麗しい花を咲かせることはなくとも、せめて固い蕾のままでは死にたくはない。
日頃よくしてくれる村人たちから、清楚だ、無欲だ、と誉めそやされることの多かったキヌの、精一杯の欲望だった。
「ふ…うっ…」
お湯の熱さに身体が馴染むまで、ほんの少しだけ我慢し、ゆったりと肩の力を抜いて湯船に背を預ける。
アルキメデスの原理のごとく、なみなみに張られたお湯が身体の体積分だけ押しのけられ、盛大な音を立てて流れ落ちる。
朦と立つ湯気は、半分開けられた窓から、すぐさま昼間の空に逃げ去ってしまう。
キヌは、昼間にこうしてお風呂に入るのが好きだった。
暖かくなってくると、令子などは手軽にシャワーで済ませることも多くなるのだが、キヌは真夏の盛りでも出来るだけシャワーで済ませることはしない。
溢れんばかりにお湯を張り、ふわりと腰が浮くぐらいに浸るのでないと、お風呂に入った気がしない、とも言っていた。
無駄に流れるお湯を見て、もったいない、とは思うけれども、せめてこれぐらいの贅沢は許されても良いとも思う。
「はあっ…あ…」
足を伸ばし、首筋から肩へ、乳房から脇腹へと手を滑らせると、滑る肌になんとも言えぬ心地良さを感じる。
忠夫に触れられるときとはまた違う、程よい虚脱を伴う淡い快感に、お湯がぬるく思えるまでのつかの間、独り静かに耽るのだった。
あの日、忠夫と令子の仲に疑念を抱いてからずっと、それが晴れたためしはない。
令子は相変わらず忠夫に厳しいし、忠夫もふざけてみせては折檻を食らうという、ある意味昔と変わらないやり取りを続けてはいる。
けれども、以前には気にならなかったはずのそのひとつひとつが、妙にキヌの心をざわめかせていた。
忠夫のセクハラまがいの発言にどつき倒すまでの一瞬、令子がちらり、と視線を自分に走らせる。
ちょうど、アニメに出てくる三悪トリオの予定調和か、お昼時にテレビで目にする上方漫才のお約束のようでいて、自分という観客を安堵させるためのものに思えて仕方がない。
一度そういう目で見てしまうと、二人のどうってことない会話や仕草の全てが、疑わしく、わざとらしく感じてしまう。
あまつさえ、二人の間に絡むシロやタマモ、さらには小竜姫やワルキューレたちにまで、あらぬ想像が及ぶ始末だった。
それなのに。
今も自分はここに居る。
令子たちと同じ屋根の下に暮らし、皆の食事を作り、家事を済ませ、時折一緒に仕事へと出掛けることもある。
時間の取れたときには忠夫の元へと通い、彼の帰りを待ちわびて、セックスをする。
一見、それまでと何も変わらないような日常が続いている。
変わることと言えば、もうしばらくすると、忠夫があのアパートから引っ越してしまうことぐらいか。
「引越しかぁ……」
力なくつぶやいたキヌは、お湯の中へと深く沈む。
「どうしようかなぁ……」
先日、件の高層マンション、不動産業界では霊的不良物件と言うらしいその場所に、除霊の下見を兼ねて忠夫と一緒に行ってみた。
池袋という大きなターミナル駅にも程近く、首都高に乗るにも便利で、それでいてオフィス街や商業地からは一歩外れているためか、静かな環境にある。
エレベーターは危険なので階段を上がるしかなかったが、途中の中層階でも本当に見晴らしが良く、一戸あたりの間取りは平均的なマンションならば二戸、あるいは三戸分も取れそうなぐらいに広々としていた。
これならば多少価格が高くても、おそらく買いたいと願う希望者は後を絶たないのに違いない。実際、問題が発覚するまでは問い合わせが殺到して、モデルルームも賑わっていたと聞く。
春の陽気に包まれた、爽やかな昼間だというのに、エントランスからフロアを抜け、非常階段から上層へと移動する間、薄ら寒い空気が絡み付いてくる。
なにか凶悪な悪霊や魔物が棲み憑いている、というわけではなく、恐ろしい姿や声、音などが聞こえてくるわけではない。合戦に敗れた落武者の類が出てくるわけでもない。
竣工してから半年も経たないはずなのに、山の中に何十年も打ち捨てられた廃墟のようなもの悲しい気配が、地の底から、そして建物の全体から涌き出てくるような印象だった。
なるほど、早く何とかしてほしい、と訴える不動産業者の懇願する表情にも納得がいくというもので、自然、その話し振りにも熱が入る。
『今日はご覧頂けませんが、最上階はワンフロア一戸だけでございまして、お部屋はもちろんバルコニーも本当に広く、きっと奥様にもご満足頂けるかと――』
必死になるあまり、ついいつもの営業トークが出てしまったのだろうその台詞に、キヌも忠夫も笑って混ぜ返すより他はない。
いくらなんでも除霊の現場、しかも今回のように難度の高い案件に、恋人だの配偶者だのを連れては来ない。
確かにGSという業界では夫婦で活躍しているケースも多々見られるが、仕事のときはあくまでもパートナーとしてであり、家庭を持ち込むことなど出来はしない。
それでも、死と隣り合わせの過酷な仕事の息が合う二人は、やはり家庭においてもぴったりと合う二人であることも確かだった。
「奥様、ねぇ……」
そう言われてももちろん悪い気はしないし、忠夫も戸惑いつつも否定はしない。
実際、自他ともに認める忠夫の恋人は、紛れもなく自分なのだし、少なくとも自分は忠夫と結婚を前提として付き合っているつもりだ。
自分が復活する契機となった死津喪比女の事件以来、何くれとなくお世話になっている義父母にも、特に大きな問題はないに違いない。
あるいは、何故か忠夫を毛嫌いしている義姉の早苗は反対するかもしれないが、彼女が反対してどうなるものでもないことは、おそらく彼女自身が一番理解しているに違いない。
余計なことかもしれないが、御呂地村のみならず県下でも決して小さくはない氷室神社を継ぐとすれば、自分がいないほうが都合が良いはずだった。
ならば、やはり忠夫と結婚することこそが、自分が幸せになれる最善の道のように思えるのだった。
しかし、キヌは今までそれを口に出すことに踏み切れないでいた。
別に忠夫はキヌとの結婚を退避しているわけではない。
よくある話のように、その気もないのに女に期待を抱かせ、弄んでいるというわけではない。
直接聞いたことはまだなかったが、おそらく自分が望めば直ぐにでも承諾するだろうと信じている。
けれども、他ならぬキヌ自身がそのことに踏み切れないでいた。
忠夫の心の奥底には、儚く消えた魔族の少女の幻影がその身を潜めている。
今はもう、その傷もすっかり癒えたはずなのに、不意に夕陽の化身が姿を見せるときがある。
そんなときの忠夫には触れてはいけない、そう思わされるのがたまらなく悔しかった。
忠夫の初めての相手、魔族の少女・ルシオラは、忠夫の子供として生まれ変わる可能性があるという。
それは人間としてなのか、はたまた魔族としてなのか、以前の記憶はあるのかなど、様々なことがわからないままにあるが、その可能性があるとだけで忠夫を縛り付けている。
あのとき、したり顔の令子が淘々として語る仮説、その場で聞いていたときにはわからなかったが、余計なことを言ったものだと今にして苦々しく思う。
仮に、ルシオラがそのままで蘇ったとしても、それは生まれてきてから考えればいいことだ。
そのときの彼女が、そして、忠夫がどういう選択をするかは正直わからない。
注がれる愛情は違ったものになるにしても、二人の子供として生きていくことを選ぶか、あるいは、母親を廃して恋人の座を奪還しようとするか。それとも、他の道を選ぶ可能性だって否定できない。
いずれにせよ、不確かな未来の可能性に降り回されて現在を危惧するなど、具の骨頂もいいところというものだった。
「この際だから、一緒に住んじゃおっかなぁ」
温くなったお湯をざぶり、と掻き回して手を伸ばす。
反対側に備え付けられたコックを開き、熱いお湯を注ぎ足す。
「ちょうどいいですもんねぇ」
ここにはいない誰かに相槌を求めて、数日間ずっと考えていることを口に出す。
実際、忠夫が入居するのに合わせて自分も引っ越していくのが自然な流れに思えるし、そうすればこの前から纏わり付いて離れない疑念を破る、良いきっかけになると思うのだった。
だけど、どうにもなかなか踏み切れないでいるままに、無駄な時間ばかりを過ごしている。
自分がいなくなったあとの美神除霊事務所がどうなるか、特に食生活面での惨状は想像に難くない。
自立した大人であるはずの令子はともかく、実際はまだまだ幼い二人の犬神を飢えさせたままに放置してよいのか、という懸念もある。
けれども、それは本当のことをカモフラージュしているに過ぎないのだということは、充分過ぎるほどにわかっていた。
「あ、また変わってる」
熱くなり過ぎる前に身を乗り出して、お湯を止めるとき、キヌは壁面のタイルの変化に目をとめる。
この屋敷そのものでもある人工幽霊一号だが、ちょっとした趣味、と呼べそうなものがあることに最近気がついた。
これもコーディネイトとでも言うのだろうか、知らないうちに部屋のごく一部の模様が変わっていることがあるのだった。
それは今みたいに、風呂場のタイルが何枚かだけ桜色のパネルになっていたり、キッチンの壁紙がほんの少しだけ明るくなっていたり。
ときには、リビングのカーテンを留めるフックの花が、僅かながら咲きかけていたりする。
一体どうやっているのかは想像も出来ないが、彼の、屋敷に性別があるのかどうかはわからないが、少なくとも渋鯖男爵の息子として登記されていたので彼でいいと思うが、その趣味の痕跡を見つけるのが、キヌの密かな楽しみともなっていた。
そのこともまた、足枷の一つとなっていた。
夕方の商店街は、大勢の買い物客で賑わっていた。
春分の頃を過ぎたばかりの今時分は、まだまだ充分に明るく、洗い晒しの髪に心地よい。
長風呂につかってさっぱりとした気持ちに、活気のある威勢の良い声が乗せられる。
「よおっ、おキヌちゃん! いい魚が入ったんだけど、どうだい!」
「おキヌちゃん、今からタイムセール始めるわよ!」
「えー、ちくわぶ、ちくわぶ、ちくわぶ、今日はちくわぶが安い、ちくわぶの大特売だよー!」
安さにつられて買い込んでも今晩のメニューに困ってしまうが、それでも通りを歩いているうちに、買い物袋の中身は二品、三品と増えていく。
やがて、次には袋が二つに分裂しようかという頃合に、キヌは不意に声を掛けられて立ち止まってしまう。
「やあ、おキヌちゃんじゃないか」
「西条さん? こんばんは」
「買い物の途中かい? ずいぶんとまあ、買い込んだね」
「ついつい買い過ぎちゃって…… でも、めずらしいですね、こんなところで西条さんに出会うなんて」
「いやあ、別に用はないんだけどね、ヒマだからちょっと近所をぶらぶらしていたところさ。おキヌちゃんは?」
「はい、これから横島さんのおうちへ行って晩ご飯を作るところなんです」
予想通りの答えを聞いた西条が、露骨に顔をしかめてみせる。
「横島君ねぇ…… いったい、彼のどこがそんなにいいのか、不思議でしかたがないんだけどね、僕は」
そんなことないです、と反論しようとしたキヌだったが、西条の次の台詞に言葉を飲み込んでしまう。
「令子ちゃんといい、魔鈴君といい、どうしてなんだか僕にはわからないよ、実際」
「えっ……」
西条の顔を見た瞬間、令子のことを言われるのは覚悟していた。
端から見て、自分が思っているのと同じように、あるいはそれ以上に令子は忠夫に惹かれているのだろう。
けれども、まさかここで更に別の女の名前が出て来るとは思わなかった。
しかし、言われてみれば確かに思い当たる節はある。
事務所に程近い魔鈴の店には、今でもたまに二人で出かけるときもある。
そんなときの彼女はきまって厨房から顔を出し、忠夫のテーブルへと足を運ぶ。
他の客の合間を縫って交される言葉は、取り立ててどうってことのない話題だが、その端々に、自分と来る以外にもわりと通って来ていることを窺わせた。
GSの仕事と兼業のためか、夜の八時に閉店という、飲食店にしては早過ぎる営業形態にもかかわらず、結構遅くまで話し込んでいたりする、そんな様子も感じられた。
それは、同業者としての研究心と情報収集、そして若干の好意が混じったもの、と解釈していたが、そうではないとしたらどうなのだろう。
事実、初対面のときでさえ、しがない年下の高校生とはいえ、男の一人暮らしのアパートに上がり込み、部屋の中を掃除し、持っていたアダルト雑誌やビデオなどを捨てさせようとしたではないか。
自分だったら、好きでもない初見の相手にそこまでしただろうか。あるいは、したかもしれないし、しなかったかもしれない。
「や、買い物の途中で邪魔をしちゃって悪かったね。それじゃ、僕はこれで」
つとに黙り込んでしまったキヌに不穏を感じたのか、西条は片手を上げて人ごみの中へ消えていく。
逃げるわけではない、ごく自然なそのあしらいに、妙にキヌは感心してしまうのだった。
とにかく、道の真ん中で買い物袋を下げたまま、立ち尽くしていてもしかたがない。
「――さあて、他に何か買うものは、っと」
急に重くなった買い物袋を手に、商店街から踏みきりを渡った向こう、忠夫のアパートへと足を運ぶのだった。
アパートにたどり着く頃にはさすがに陽も傾きかけ、気の早い街灯がぽつぽつと灯り始める。
あまり車の停まっていない月極駐車場の金網越しに、辺りで一際古ぼけたアパートの外観が見えてくる。
ゆくゆくは建替えの話もあるそうだが、忠夫が引っ越してしまった後は、もうここへ来ることもないのだろう。
すっかり見飽きてしまった風景も見納めが近いかと思うと、なんとなく寂しいものを感じてしまう。
「あれ? 電気がついてる」
二階の角部屋の、廊下側の窓に明かりが灯っているのが見えた。
「今日は遅いって言っていたのに…… もう終わったのかな?」
いつものように部屋に行くことを電話すると、今日は仕事で遅くなりそうだ、と言っていたのを思い出す。
何時になるかわからないから別にいいよ、とも言ってくれたが、なんとなく今日は忠夫の部屋で夜を過ごしたい気分だった。
カン、カン、カン、と、荷物の重さも感じさせない、軽快な音を立てて階段を登り、ドアの前で鍵を探す。
部屋の奥からはテレビの音が漏れ聞こえ、やはり帰ってきているのは間違いなさそうだった。
つい、嬉しくなったキヌが鍵を差し込もうとドアノブを握ったとき、無用心にも開いたままになっているのに気がついた。
「まったく、もう」
何度注意しても直らない悪いくせに、キヌは少し頬を膨らませてドアを開ける。
「こんにちはー」
手をしびれさせていた荷物を先に置き、中に背を向けてブーツの紐をほどく。
背後でのそりと身を起こす気配がし、近づく相手の顔を見ないままに文句のひとつも言ってみる。
「ダメですよ、ちゃんと鍵を掛けないと。誰かが入ってきちゃったらどうするんです?」
いつものように、ゴメンゴメン、と軽い返事が返ってくるものだとばかり思っていたキヌに、予想もしなかった声が返ってくる。
「よーお、誰かと思えばおキヌじゃねーか。邪魔してるぜ」
「ゆ、雪之丞さんっ!?」
「おっと! あぶねえなぁ」
慌てて振り向いたキヌが、脱ぎ掛けのブーツにバランスを崩し倒れかけるのを、雪之丞が手を添えて助ける。
そのおかげで、卵のパックを踏み潰してしまう惨事は避けられた。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、別にこれぐらい、どうってことないけどよ」
そんな慌てるなんてらしくねえな、などと勝手なことを言う雪之丞を見て、キヌは気恥ずかしさで顔を真っ赤にする。
てっきり彼だと思っていたら、全然別の男がいたりしたら、誰でも驚いても不思議はないだろう。
まして、幸いに雪之丞は気付いていないみたいだが、知らずに変なことを言ってしまったのだとしたら尚更だ。
「そ、それで、どうして雪之丞さんがいるんです? 横島さんは?」
「いや、横島の奴はまだ帰って来ていねえみたいだな。俺もな、ちょいとアイツに用事があるんだけどよ、なかなか連絡が取れなくてさ」
「ああ、それで……」
いくら親友とはいえ、それで勝手に他人の部屋に上がり込んでいる理由にはならないとも思うが、忠夫も雪之丞もそんなことを気にしないのは今更だし、なんとなく合点がいったのでそのままにしておいた。
「ずいぶん前から電話してるんだけどよ、一向に連絡をよこしやしねえ。アイツ、留守電聞いていねえんじゃねえか?」
別段怒っているわけでもない雪之丞の言葉に、キヌはぎくり、と息を呑んだ。
雪之丞の言う電話とは、あのとき、衝動的に令子の痕跡とともに消してしまったメッセージのことなのだろう。
タイミングの悪かったあのメッセージのことは忠夫は知らないし、自分も話してはいない。というよりも、そんなものがあったことを、今の今まで忘れ去っていた。
あれ以来、不自然に消えてしまったメッセージのことを忠夫は何も言わないし、聞いてもこない。
なにか聞かれれば、それをきっかけに忠夫を追及することも出来るし、自分の心底にわだかまるものを吐露することも出来る。
それなのに、忠夫は気がついているというのにもかかわらず、何もなかったかのように過ごしているのだった。
「ま、別にいいんだけどよ。ところでお前さんはどうしたよ? メシでも作りに来たってのか?」
「え、ええ、そんなところです」
「相変わらずマメだねえ、どうも。けどよ、いつ帰ってくるかわかんねえぜ?」
「ああ、それは昨日から言ってましたね」
「だったらよ、悪いんだけどよ……」
そらきた、とキヌは心の中で思った。
忠夫と三人でいるときに、雪之丞もそのままお呼ばれするのはいつものことだった。
「雪之丞さんも一緒にごはん食べていきますか?」
「悪いな。ここんトコ、ろくなモン食ってなくてよ」
相変わらずGSまがいの仕事をしては、その報酬で修行と旅に明け暮れるにとって、忠夫のこの部屋は定宿の一つと化していた。
普段どうやって生活しているのかは謎だったが、彼の言う通り、あまり良いものを食べているわけではないのだろう。
「それじゃ、さっそく準備しちゃいますね」
「おう、頼むぜ」
交渉が成立してしまえば、雪之丞はさっさと奥に引っ込んで、テレビの続きに舞い戻り、キヌは台所で三人分の夕食の準備に取り掛かる。
事情を知らない他人が見れば、キヌが雪之丞にご飯を作ってあげているとしか思えない光景だった。
冷めてもいいように唐揚げ用の鶏肉に、やや濃い目の下味を付け、ポテトサラダのためのじゃがいもを茹でているあいだ、手を止めないままでキヌが声を掛ける。
「そういえば雪之丞さーん」
「んー? なんだー?」
「弓さんはどうしたんです?」
キヌはさっきから気になっていた、彼の二つ目の定宿のことを口にする。
それに応える雪之丞の反応は、ある程度予想していた通りのものだった。
「あ、ああ、こないだ電話したんだけどよ、今はちょっと間が悪いというか、なんというか……」
「なーに? またケンカしたんですか?」
「そんなんじゃねーんだけどよー」
「しょうがないなぁ、まったく」
実は魔理を通じて弓から聞いていた事情を隠して、キヌは雪之丞に問い質す。
久しぶりに彼氏が日本に帰って来た早々、些細なことで犬も食わない大ゲンカをして仲違いしたくせに、その日の内に魔理に泣きついてきたのを聞いていたからだ。
弓や魔理とは、六道を卒業してからもずっと親交を暖めているが、一番手の掛かるのがこの二人なのだ。
「ダメですよ。弓さんはああ見えて結構傷つきやすいんですからね。もっとこう、やさしくしてあげないと」
「んなこたぁ、とっくにわかってるんだけどよ。うまくいかねえんだよ、これが」
「本当かなぁ」
互いに視線を合わせないまま、意義のあるような、不毛のような会話が続いていく。
どれだけ心配して声を掛けたところで、結局は他人の間柄のこと、自ずと出来ることには限界があるものだ。
いよいよ油を熱して唐揚げを揚げようかと火をつける寸前、不意にドアをコンコン、と叩く音が耳に入る。
誰だろう、とキヌが顔を上げたとき、よくあるタイミングだが電話まで鳴り出す始末だった。
一瞬、どちらに出ようかと迷ったが、電話の方は留守番電話になるのを思い出すと、ドアの向こうから良く知った人の声がした。
「すみません、横島さんいらっしゃいますか?」
それが隣に住む小鳩の声だとわかったとき、キヌはすぐにドアを開けた。
このようなとき、何はさておき、自分が出なければいけないとわかっていた。
「どうしたの、小鳩ちゃん?」
自分が出てくるのは別に珍しくもないだろうに、小鳩は軽い驚きを隠せないでいた。
キヌは密かに、自分の先制攻撃が決まったことに満足する。
「あ、おキヌさんですか。横島さんは?」
「うーん、今日は遅くなるって言ってて、まだ帰ってきてないの」
「あれ? でも、中に……」
半分開けたドア越しに、小鳩がひょい、と奥を覗き込む。
同じアパートに住んでいるのだから、どこに何があるのかは知っているも同然だった。
「ああ、あれは横島さんじゃなくて雪之丞さんですよ。横島さんが帰ってくるまで一緒に待っているの」
小鳩の視線につられてキヌも振り返ると、部屋の奥で雪之丞が電話を取って話しているのが見えた。
わざわざ他人の電話を取り次ぐほど気が利くぐらいなら、弓とケンカなどしないだろうから、自ずとその相手は知れてくる。
案の定、受話器を置いた雪之丞がこちらに近寄り、思った通りの用件を告げる。
「よお、今、横島の奴から電話だったんだけどよ、仕事が長引いてニ、三日帰ってこれねえんだと―――なんだ、小鳩じゃねえか」
律儀にも、こんばんは、と挨拶をする小鳩だったが、期待が外れて落胆しているのが目に見えた。
それをよそに、キヌは不満げな顔を雪之丞にしてみせる。
「えー、それなら私にも電話してくれればいいのに……」
「いや、お前にも電話したけど出ない、って言ってたぜ。来てないか?」
「えっ、うそ!?」
そう指摘されて、キヌは慌ててあちこちのポケットを探る。しかし、手に触れるものは小銭や鍵といった類のものばかりで、携帯電話の姿はどこにもない。
どこへやっちゃったんだろう、と記憶を探ると、昼間のシーンにたどり着く。
お風呂に入る前に、自分の部屋に戻って充電器に置いたまま、忘れてきてしまったのに違いない。
「忘れて来ちゃいました……」
自分の迂闊さに、小鳩にもまして落胆するキヌに苦笑いする雪之丞だが、とりあえず差し迫った案件だけ片付けようと提案する。
「まあ、しょうがねえさ。で、どうするよ? お前、帰るか?」
雪之丞の言葉に現実問題に向き直ったキヌが、困った顔で思案する。
忠夫が帰ってくると思うから準備していたのに、今更中断しても仕方がない。
今日一日だけなら唐揚げは揚げちゃってラップをし、サラダは冷蔵庫に入れておけばよかったが、ニ、三日も持つかとなると心配だった。
それに、ここまできて雪之丞になにも食べさせずに帰るというのも、あまりと言えばあまりな仕打ち、というような気もする。
かといって、忠夫と雪之丞という欠食児童を想定して作っていた量は相当なもので、半分は雪之丞に任せるとしても、とてもキヌ一人では消化しきれそうにもない。
切羽詰ったキヌは縋りつく思いで、無関係のはずの隣人に顔を向ける。
「そうだ、小鳩ちゃん。一緒にごはん食べていかない?」
「えっ?」
「おう、そうだな。お前も一緒に食っていけよ」
「えっ? えっ?」
「遠慮するなって。たまにはいいじゃねえか」
忠夫の部屋でキヌと雪之丞の二人に誘われるという、思いも寄らぬ成り行きに小鳩は戸惑ったままだったが、そのまま、ずるずると上がらされてしまう。
半ばヤケになったキヌに、まだ仕舞うには未練のあったコタツに座らされ、勢いよく揚げられた山盛りの唐揚げやサラダ、その他の小鉢を目の前に並べられる。
挙句の果てには、どちらが言い出したかは定かでないが、いつの間にやら酒が入り、かくして奇妙な宴会は深夜まで続くこととなった。
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