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ブラドー島秘史

 新東京国際空港からレオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港までは空路で約13時間。旅客機のタラップを降りながら、ピエトロ・ド・ブラドーは久しぶりの故郷の日差しを、目を細めながら見上げた。

 ――イタリアの太陽は、日本の太陽に比べると大きく見えるなあ。

 緯度が少し違うぐらいでは太陽の大きさなど変わらないはずなのに、と彼は苦笑する。

 多分それは、イタリアと日本の気候の違いだろう。ただ温暖なだけでなく、湿気の多い日本とは違い地中海は温暖ながらカラリと乾いた季節が多い。水蒸気や雲といった熱気を籠もらせるフィルターが乏しい分、太陽の光も純度を保ったまま地表に照り注いでくる……だからなのだろうか。

「それとも、ここが故郷の空だから……なのかな」
 700年ほど生きてきたものの、こうも長い間地中海を離れた事がないから(せいぜい某探偵の事件に巻き込まれてイギリスへ行った事がある程度)、太陽一つを見ても郷愁にひたってしまうものなのだろうか。

「ちょっと兄さん、ボサッとしてないで早く降りなさいよ」
「あ、はい! す、すみません」
 後ろでイライラしていたイタリア人の女性に急かされて、ピエトロ・ド・ブラドーは慌ててタラップを降りた。



 ローマを本拠地に置く二つの有名サッカーチームの試合を前にした、ファン達の巻き起こす喧噪に満ちた市内の光景を横目に見ながら、今度は鉄道に乗り換えてのんびりと旅路を行く。ローマからナポリを通って南へ下り、本土の南端に近いレッジョ・カラブリアで列車を降りる。続いて連絡船に飛び乗って、目と鼻の先にあるシチリア島の東端・メッシーナに渡る。この辺りになると飛び交うイタリア語もギリシア語の影響の強い“シチリア語”と呼んで差し支えないものに変わる。イタリア半島の足の部分とシチリア島の方言は故郷の言葉によく似ている事から、ピートはこれを聞いただけで“ああ、もうすぐ故郷だ”と実感できるのだ。

 メッシーナから再び鉄道に乗り込んで西のパレルモへ移動。港に近い街の一角で宿を取り、連絡船の来る日まで数日滞在する。故郷とこの街をつなぐ船は、一週間に一度しか来ない。
「日本だったら、吸血鬼の能力で飛べばいいのにって言われるんだろうなあ……」
 宿の一室から海を眺めながら、ピートは苦笑する。しかし、誰もがどこかで何者かに追われているような印象のある日本と違って、イタリア人はこういうところでは大らかだ。まして、タイムスパンの長い吸血鬼の一族となればなおさらだろう。そもそも、純血のバンパイアならともかく、ハーフのピートの能力ではあまり遠くまで飛ぶ事はできないのもある。


 ともあれ、運搬船を兼ねた連絡船に飛び乗って、ピートはティレニア海に乗り出す。風向きの変わりやすい地中海も、現代のエンジンで動く船ならさして苦にもならない。



 ――やがて波の向こうから、吸血鬼一族の隠れ里・ブラドー島がその姿を見せはじめた。






   『ブラドー島秘史ヒストリア・インスラ・ブラディア』 Written By いりあす






「ああ、ピート坊っちゃん! お帰りなさいませ」
 桟橋から降りてきたピートを最初に出迎えてくれたのは、小さな漁港を切り盛りしてくれているバンパイア・ハーフの漁師だった。
「やあ、ただいま。調子はどうだい?」
「ああ、お陰様で今日も大漁ですよ。ここだけの話、伯爵様がおとなしくなってから魚がまた寄りつくようになって助かってます」
 この島も、地中海の隠れ里だけあって鳥や魚などには基本的には困らないのだ。しかし、この島の主である伯爵が絶好調になると、その魔力を恐れて彼らは島に寄りつかなくなってしまう。一年前にいわゆる“独立愚連隊”が伯爵の力を抑え込むまでは、この島はしばらくの間コウモリばかりが飛び交うイヤなムードの島になっていた。今はピートが彼を噛んで一時的に支配下に置いた事で、当時のまがまがしい気配は感じられない。

「あ、ピート様だ〜〜!」
「ピート様〜、お帰りなさ〜〜い!」
 村に通じる道を歩けば、目ざとく彼を見つけたバンパイア・ハーフの子供達が幾人か駆け寄ってくる。一見すれば小学生ぐらいに見えるが、実際は彼らに流れる血のゆえか、ピートが日本で机を並べて勉学にいそしむ友人達とさして変わらぬ年齢である。

「ああ、そうそう。途中でこの島のワインが店に並んでいるのを見たよ。売れ行きは、まずまず……といったところらしいね」
「売れてましたか? いや〜、嬉しいですねえ。2000年前の製法そのままですから、売れるかどうか心配で心配で」
「何だか、クラシックワインとか売り口上がついていたみたいだね。あとは色々と野菜の種を買い込んできたんだけど、うまくいくかな?」
 そう言って、もう一つの土産になる野菜の種の袋を手渡すピート。中身はトマトにイチゴに赤ピーマンに唐辛子と、赤いものづくしである。吸血鬼という種族は人の血を吸って生きている種族だが、赤いバラの花から精気を吸う事もできる。
 だが狭い島を離れて様々なところに触れ、唐巣神父の所で食費に苦労しながら気付いたのだが、赤ければある程度は吸血鬼の腹の足しになるのである。日本のマンガで吸血鬼が血の代わりにトマトジュースを愛飲するシーンを読んだ事があるが、あれは意外と的を射ていたらしい。ブラドー島でこれらの野菜がこれまで作られず、ヨーロッパの古い伝説でもこういうところが言及されないのは、これらの赤い食べ物は総じてアメリカ原産で、バンパイア達が人間社会に姿を現さなくなってから広まったものだからである。


「……それで、伯爵は?」
 ひとしきり土産を配り終えてから、真面目な表情に戻ってピートは尋ねる。
「はい、最近は城で静かにしておられます。エリス様も時々こちらの様子を見に来て下さいますので」
 最近姿を見せない遠縁の親戚の少女の名前が出たので、少し「おや?」という顔で城の方を見やる。島の西側にたたずむ古城は、そろそろ夕暮れに包まれようとしていた。


 実のところ、この古城の正式な由緒はピートもよく知らない。建築史の専門家がこの島を訪れればやれビザンティン様式だロマネスク様式だと評価をしてくれるのだろうが、彼が生まれる前にも生まれた後にも何度か修築した形跡があるので――もっとも1347年か48年にブラドーが疫病ペストの呪いをヨーロッパ中に振りまいた反動で寝込んでからは、この城は古びるに任されているのだが――この城がかつてはどんな姿をしていたのか知っているのはこの城の当主ぐらいのものなのだ。

 夜目の利く吸血鬼の住処であるため、照明器具が申し訳程度にしか設けられていない廊下を、窓から入り込んでくる僅かな外の光を頼りに歩く。とはいえ何百年と住んできた勝手知ったる我が家の事、たとえ真っ暗だろうと目を開けていられない閃光の中だろうと、そうそう道に迷うなんて事はないのだが。


 で、このオンボロ城の奥まった一角、吸血鬼が一番嫌う朝日を浴びる心配のない北西側の一室がブラドー伯爵の私室である。ピート自身は、実のところこの部屋をあまり訪れた事がない。彼の父親は長らくここに置かれた棺桶の中で寝ていたし、ピートもそれをいい事に島の人達との生活を専らにしていたので、親子の関係はお世辞にも親密とは言えなかった。
 ひょっとして、父がああいう事をしでかしたのは自分にも責任があるのか? とチラリと思わないでもない。こんな辛気くさい部屋で独り何十年何百年も過ごしていれば、そりゃ世界征服なんて妄想じみた事を夢見たくもなるだろう。

「…………ふう」

 いやいや、アレは元々ああいう性格だったはずだ、自分が親しく接したからといって世界征服の野望を捨てるタマではない。自分を産んで数年後にこの島を離れ、そしてついぞ戻る事のなかった母親……つまりブラドーの妻がずっと付き添っていれば話は違ったのかも知れないが、ああそう言えば父が母を眷属に引き入れなかったのも謎だよな。僕が産まれる前の彼の女性遍歴なんて知る由もないけど……


「おい、何をボサッとしている。用があるならさっさと入ってこい」
「え!?」

 扉の内側から声をかけられて、ピートは思索を唐突に中断させられた。しかし冷静になって考えれば、千年以上生きてきた吸血鬼の頭領が扉の外の気配に気づかないわけがない。内心でヤレヤレとため息をつきながら、ピートはノックを省いて立て付けの悪い扉を開けた。



 ぱぱっぱっぱ〜、ちゃ〜ららちゃ〜ら〜らちゃら〜♪
  ぱぱっぱっぱ〜、ちゃ〜ららちゃ〜ら〜らちゃら〜♪

 中に入ったピートが最初に知覚したのは、何故か和音の少なめなコンピューターサウンドと、薄暗い部屋の中で煌々と光を放っているテレビのブラウン管だった。
「……なんだ、お前か。まあ、適当に座れ」
 そして、そのテレビと向かい合って座っている父ことブラドー伯爵が、テレビとにらめっこしつつ手にしたコントローラーをカチャカチャといじりながら背中越しにそう告げた。
「島の子供達に遊んでもらおうと送ったはずなのに、なぜあなたが使っているんですか」
「城から外に出さぬように島民どもに言い含めたのはお前の方だろうが。おかげで退屈でかなわん」
 だから、こいつを借りている。ピートが以前に仕送りと一緒に届けさせた日本製の中古のTVゲームをプレイしながら、事実上隠居させられてヒマしているらしい伯爵はそう言った。TV画面の中では、鞭を手にしたバンパイアハンターが吸血鬼の住まう城を舞台に怪物達と戦いを繰り広げている。
 ……なんでこの人は、よりによってこのゲームをやっているんだ?
「ハマッてしまってな」
「……人のモノローグに勝手に答えないで下さい」
 もし息子がそう考えている事を予測していたのだとしたら、自分のプレイしているゲームがある意味自己矛盾している事は本人も分かっている事になるのだろうが、ピートもそこまで突っ込む気にはならなかった。




「――さて、お前が島を出て日本とやらにいってからまだ一年と少々しか経っていなかったと思うが。もう里心がついたか?」
 結局ラスボスの吸血鬼までキッチリ倒してからゲームを終えたブラドーは、古びたグラス二個と赤ワインのボトルを手に息子の側へと振り返った。
「……その逆です。この先、当分この島に戻らなくなるので、あいさつに立ち寄りました」
「ほう。日本という島国は、バンパイアが新しい根城にするのにふさわしい処なのか?」
 と、ブラドーはいかにもバンパイアらしい尋ね方をした。
「そうではありません。実は今度、オカルトGメンの日本支部に就職する事が内定したんです。小さな職場ですので、長期の休暇を取って里帰りしている暇はなくなるでしょうから、次にこの島に戻ってくるのはいつの事になるか……」
 だから、僕が帰ってこないのをいい事に勝手な事をするんじゃない。内心でそう付け足しながら、ピートは父と呼ぶほど親愛の情を抱けずにいる父親をジッと見据えた。

「……ピートよ。そのオカルトGメンとやらは、具体的にはどういう組織なのだ?」
 少し怪訝そうな表情で尋ねるブラドー。まあ、外の世界の事などロクに知らないはずのこの男なら無理もない。
「早い話が、オカルト関係の警察です。霊能力や魔術等に関する事件・事故・犯罪等を取り締まるのが仕事になります。
 無論、人の血を吸って回る危険な吸血鬼を退治する事も、ね」
 つまり、いざとなればあんたの敵に回る事になるんだと言外に告げるピートである。まあ流石に、イザとなったらお前を逮捕する仕事だというのだから面白い話ではあるまい。あるいは激高して襲いかかってくるかも知れないと、ピートは秘かに身構えた。


「…………なるほど、つまりは衛視や司直の類という事か」
 が、ブラドーの行動はピートの予想とは少し違っていた。怒りとも諦念ともつかぬ表情で、部屋の隅に視線をさまよわせるブラドー。単に埃をかぶっただけの薄汚れた空間を眺めているのではないのだと、ピートは何となくだが感じた。
「人間と共に天を仰ぐ事の無かった吸血鬼の一族が、人間社会の役人になる日が来るとはな。

 時代は変わった――――いや、昔に戻りつつあるのかも知れんな」
「…………?」
 独り言のように呟いたブラドーに、今度はピートがいぶかしげな表情に変わった。

「そういう事であれば、単にああそうかと送り出すのも無粋だな。ふむ、面白い」
 今度は独り得心したようにうんうんと頷き、伯爵はスッと席を立つ。そしてそのまま、ピートの入ってきた扉の方へと歩き始めた。
「親父……?」
「ついて来い。せっかくの一人息子の門出だ、餞別の一つぐらいはくれてやろうと言っている」
 そう言い捨てて、廊下へスタスタと出て行くブラドー。やや遅れて、ピートも慌ててその後を追った。


 この島に産まれて700年ばかりを過ごしてきたピートといえども、この島この城の全てを知悉しているわけではない。ブラドーの後を追うままに歩いているのも、そんな未知の空間だった。恐らくは城の地階なのだろうが、石積みの造りからして地上部分とは違っているように思える。
「この城にこんな場所があったなんて……」
「この島やこの城のどこに何があるか、全てを知っている者など居らんよ。以前お前が城に潜り込むために使った抜け道を、私が知らなかったようにな」
 だが、この場所の事は知っている。そんな風に言いたげに、彼は迷いのない歩調で城の地下を進んでゆく。
「この島は元をたどれば無人島でな。2200年ほど前にこの地中海を真っ二つに割る大戦乱が起きた折、一方の軍を率いていたハンニバルなる男がこの島に目をつけ、万一の時のための隠し砦を設けた」
 アルファベットともギリシア文字とも異なる言語で壁に何か彫り込まれているのを指で示しながら、ブラドーはそう説明する。
「戦争が終わり、打ち捨てられたこの島に海賊達が住み着き、さらに抜け道や砦、港を整備した。その海賊達がローマ人達に駆逐された後、我が一族の初代当主が同胞達を引き連れてこの島に移り住んだのだという。2000年以上前の話だ。
 その後も幾度かの改修が行われているからな、おかげでこの島の住人はいつどこで変な物を掘り出しても不思議には思うまいよ」
「初耳です」
「昔の栄華の話など、話す気にもならん。だが、お前が人間の社会に定住する決心をしたとなれば、話が少し違う」
 いくつかの隠し扉を通り抜けた末にブラドーが開けたのは、何やら物置のような一室だった。吸血鬼の魔力が働いているのか部屋そのものの造りはよく保存されているが、籠もった空気とカビ臭さ、そしてムワッと舞い立つ埃はピートの鼻を不快感で満たす。

「ゴホッ、ゴホッ……こ、ここは?」
「見ての通り、物置だ。ええと、アレは確か…………おお、あったあった」
 魔力で青白く照らされた部屋の中に置かれた、埃をかぶって何が何やらよく解らない物の中から、ブラドーは埃を意に介する様子も見せずに一つの品を取りだした。彼が取り出して明かりの下に示したのは、何やら細長い置物のような品である。
「一体なんですか、これは?」
「見て分からんか、旗だ」
「旗? これが?」
 埃をポンポンと払い落とすと、姿を見せたのは白っぽいブロンズで作られた古めかしい細工物である。一本の軸を中心として、背中合わせに翼を広げる鷲と蝙蝠の彫刻。そして二羽の脚の下には、『S.P.Q.R』と浮き彫りが刻まれた青銅の銅板がある。ピートの感覚では、旗にはとても見えない。
「お前は知らんかもしれんが、かつては旗とはそういう物だったのだ。底の方を見ろ、旗竿をはめ込むための穴が空けてあるだろう?」
「……確かに、旗標のようですね。これは一体……?」
「まあ、こんな所で話すのも何だ。戻るぞ」
 マントにまとわりついた埃をポンポンと払い落としながら、再びブラドーはピートを促して部屋を出て行った。


「こいつは、このブラドー家の初代当主であった私の親父の形見でな。つまり、お前の爺さんにあたる男だ」
 もっとも、お前が産まれる何百年も前におっ死んだがな、とブラドーは鼻で笑うように付け加える。二人の場所は、かつての親子喧嘩の後で一応調度と内装だけは小綺麗になっている謁見の間の一隅。
「お祖父さんの? しかし、この『S.P.Q.R』とは、確か」
「その通り、『ローマの元老院および市民セナートゥス・ポプルス・クェ・ロマーヌス』の略語だよ。私が産まれるずっと前、親父が吸血鬼一族の代表としてローマの元老院に席を得た時に贈られた物だ」
 『S.P.Q.R』については、ピートも勿論知っている。ローマの市街地を少し注意深く見渡しながら歩けば、どこかで必ず見つける事ができる。うっかりその標識に頭をぶつけてS.P.Q.Rの鏡文字のアザをつけてしまったうっかりさんも一人や二人はいるだろう。しかし、この時代錯誤親父からそのフレーズが出てくるとは、正直意外だった。

「本当ですか? その、吸血鬼一族の代表だったというのは」
「私がその目で見たわけではない。だが私が産まれる少し前にローマから追放された親父が、いささか愚痴っぽく思い出話をしてくれたものでな」
 一体どれだけのペースでその愚痴とやらを聞かされたのかは知らないが、ブラドーはヤレヤレと肩をすくめている。
「まあ、この際だ。ピエトロ……いや、ペトルス・・・・。このブラディウス家・・・・・・・の由来を少々お前に語っても、別に罰は当たるまい?」
 旗標を複雑そうな表情で眺めている息子に、彼はそう語りかけるのだった。






 全く違う言葉を話し、文字を書き残す事をせず、文明の何たるかを解せぬ人間達――――蛮族よりも、
 人間ではなくとも、同じ言葉を話し、書を読み、文明と文化を享受する事を知り、自分達により近い価値観を持った吸血鬼の一族の方が隣人として信ずるに値する。


 かつて、そんな風に考える人間達が少なからず存在する時代があったという。
 史書に取り立てて記される事はなく、それ故に吸血鬼達にしか伝わっていない、おとぎ話のような歴史があった。






 バンパイアという種族がこの地上に現れた根源は、当のバンパイア達にも定かではない。人間がその魔力で変じたり、その罪により死後転じたりするとも言われるが、元をたどれば歴史が始まるさらに以前――――神族や魔族、あるいはその血を引く者。つまり英雄達が人間達を統べ、導き、あるいは脅かしていた神話の時代から、魔と闇の側の血を受け継いだ種族ではないかと語られている。

 その中でもより神代の英雄達に迫る力を持っていたのが、当時数家存在していた最も古き吸血鬼の係累である。そのうちの一家が、彼らに従うバンパイア達――それは、歴史を経て力が薄まったり、血を吸われて新たに種族に引き入れられた者達だったり――を引き連れて、ドナウの北、ラテン語でダキアと呼ばれていた地を離れ、地中海へと移住した。何故昼なお暗い深き森の国を離れて、こんな陽光眩しい地中海を選んだのかは定かではない。ひょっとすると古い名家同士で諍いでもあったのかも知れないが、事情を知っている初代当主はその件について何も言い残してはいない。


 彼らが移住した当時の地中海は、この内海を二分して三度行われた大戦が終わった影響で、勝者であるローマ人達が悠々と海を行き交う時代になっていた。しかし戦乱の狭間に現れた海賊達も多く横行しており、バンパイア達がどさくさに紛れて船の一隻や二隻襲ってもそう簡単には取り締まれない時代だと思ったのかも知れない。
 しかし、人間達の歴史の移り変わりは、寿命の長い吸血鬼達の予想を上回っている。程なくして海賊達はローマ人の活躍によって姿を消していき、彼らが火事場泥棒のような事をする余地はなくなった。
 やがて、下手に人里に現れて血を吸って回るような事が出来なくなった各地のバンパイア達が、自ら『夜の花嫁』として引き入れた同族、あるいは人間との間にもうけた混血の子や孫を連れて当主の住まうこの小島に移住するようになった。

 そうして、この島はいつしか人の姿をした人ならざる吸血鬼達の島――バンパイア島インスラ・バンピュリアと呼ばれるようになっていた。


 そんな彼らの日々に変化をもたらしたのは、この島を訪れた人間達であった。






 ――――現代のポピュラーな紀元に換算すれば、紀元前49年頃の事。


「りょ、領主様! 大変、大変です!!」
 この島を統べるバンパイアの領主の居館が島の最も高いところに置かれていたのは今と変わらない。キリキアの海賊達の打ち捨てていった砦を修復してできたこの館に駆け込んできたのは、下の漁港に暮らしているバンパイア・ハーフの男だった。
「何だ、騒々しい。慌てふためいて益のある事など、この世にいくつもあるものか」
 その泡を食った叫び声に、暗い館の奥からのっそりと姿を現した男。彼こそが、この島のバンパイアの総元締め、ダキア周辺で用いられていたギリシア語風にいえば名前をアルカディオスという名前になる。ギリシア人は姓というものを持たないが、ごく稀にこの島の周辺を治めているローマ人達の前に姿を現す時は、ラテン語でアルカディウス・ブラディウスと名乗っていた。ブラディウスという姓は、彼ら一党がかつて住んでいた地方の古い古い名称、ブラディオンに由来している。

「それどころじゃありません! ぐ、軍隊です! 人間達の軍隊が攻めてきたんですよ!!」
「何?」
 攻めてきたとは、確かに穏やかではない。館から港や村を望む玄関側の、見晴らしのいい窓に彼は駆け寄った。幸いこの日は正午をとうに回っていて、太陽は玄関とは反対側の西から光を照らしている。昼は純血のバンパイア達が出歩かないためにまだ人通りの少ない島の光景の向こう側に、確かに人間達の船が二隻港に近づきつつあった。

「……なんだ、脅かすな。たかだか二隻で、この島をどうこうできるものでもなかろう」
「しかし、まだ昼間ですよ!? 日の出ているうちに襲われたらどうなるか……」
「その時は、雲でも霧でも起こして日の光を遮れば済む事だ。とにかく、今は彼らを刺激せず静かにしているよう皆に伝えろ」
 そう言って注進に来た村人を帰らせてから、アルカディオスは改めて二隻の船をよくよく眺める。今にも港の桟橋に着けようとしているその船の甲板に、キラリと光る物がいくつも並んでいるのが見えた。
「確かに、あれはローマの軍艦だな。少なくとも一隻は兵士を満載、漕ぎ手を除けば百人前後か。攻めてきたのでないとすれば、使者の類だろうか?」
 しかし、いかなローマ人とはいえこの吸血鬼島に使節を送る物好きがいるだろうか? そんな事を思い至るような人物は、今のローマの要人には一人しかいないはずだった。




 やがて、港に碇を降ろした船から、数人の人間達が桟橋に降りてくる。いずれもロリカに身を包み腰にはグラディウス、手にはスクトゥムピルムという勇ましい出で立ちのローマ兵達だった。彼らは息を呑んで見守るバンパイア達の秘かな視線に囲まれながらも村を横切って城へと通じる坂道を、表面上は堂々とした態度を崩さずに歩いてゆく。そして館の門の手前に立ち止まると、長と思われる兵士が一巻の巻物を取り出し、縦にバッと広げた。

ブラディウスの島インスラ・ブラディアの領主殿に申し上げる! これなるはローマの元老院議員および市民を代表して訪ねてきた、ローマの執政官とその一行である! 執政官は、領主殿との会見の場を持つ事を希望しておられる! 本日日没をもって本島に上陸する故、会見に応じられたし!」
 そう言い終えてから彼は丁重に巻物を巻き戻し、ピシリと敬礼した。随員の兵士達も、それに倣って敬礼する。
「ブラディウスより執政官殿へ、貴殿の意図は諒解した! 日没と共に港に出向く故、友好的な会談を期待するとお伝え願いたい!」
「ありがとうございます! 領主殿の友愛に感謝申し上げます!」
 窓越しにそう返事してやると、兵士達も一礼して元来た道を戻っていった。吸血鬼の長はその背中を眺めながら、
「やれやれ、あの男もよく私の事を覚えていたものだ」
 と苦笑した。


 夕刻。太陽は既に城の後ろに回り込んでいて、港と村は日陰に包まれている。そんな夕焼け空の下、港の近くには柵と篝火で囲まれた会談場が兵士達によってしつらえられ、いくつかのテーブルで会食の準備まで整えられていた。
「全く用意のいい事だな。ま、それ故にガリアであれほどの武名を上げる事ができたか」
 そんな事を独りごちながら、アルカディオスは港に面した村の広場に立っていた。

「お久しぶりです、ブラディウス!」
 その彼に歩み寄る、一人の人間の男性。年の頃は人間の年齢で50前後、軍装の上からマントをまとった姿は戦場で鍛え上げられた均整を保っている。飛び抜けて美男ではないが、不思議と男も女も惹きつけてしまうような容貌。気になる点といえば、額が後退気味である事ぐらいだろうか。
 その彼が、ズラリと並んだローマ兵達の敬礼に軽く答えながら、諸手をあげてブラディウスに歩み寄ってきた。
「おう、一別以来ざっと二十数年、初めて会ってから三十数年か。かつてスッラに追われて方々逃げ回っていたあのガイウス坊やが執政官とは、出世したものだ」
「いやいや、お恥ずかしい。その調子だと、盛名に数倍する勢いで悪名の方もお聞き及びのようで」
 額隠しの前髪をクシャクシャと掻きながら、往年のガイウス坊やは苦笑した。
「しかし私の方も、昔匿ってもらった事や海賊船で助けられた事の借りを返せる程度には手元に余裕ができましたのでね。本日は、そのお礼言上を兼ねて参上しました」
 そう言って中年になったガイウス執政官は、後ろで控えている兵士達に呼びかけた。
「よし兵士諸君、さっそく作業にかかってくれ。館の庭と村の外れの二ヶ所だ」
「「「「「はっ!!」」」」」

 彼の号令一下、兵士達は淀みのない動きで作業に取りかかっていった。彼らが手にしているのは、ある者は土嚢、ある者は作業用のシャベル、そしてある者はむっとするような芳香を放つ苗箱である。
「ほう、いい薔薇だ。これは何とも、食事代わりに枯らしてしまうには惜しい薔薇園になりそうだな」
「本場のロードスから取り寄せました。私が注文すると色々とまずいので、セルヴィリアに頼んで伝手を当たってもらいまして」
「何だ、お前まだあの女と交際していたのか? このハゲの女たらしめ」
 そのセルヴィリアの事も知っているのだろうか、ブラディウスは彼の背中をバンバンと叩いて大笑いした。


 日はとっぷりと暮れ、夜の村はバンパイア達がごく自然に出歩く時間帯である。その村の広場は、今日に限って島民と兵士達が肩を突き合わせて酒を酌み交わす宴会場に早変わりしていた。
「何と言うべきか……肝の据わった連中だな、あの兵士達は」
 一見自然に見えるが、その実人間の兵士とバンパイアの庶民が談笑するという異様な光景を眺めながら、ブラディウスは呆れたように笑う。
「ガリア・ブリタニア・ゲルマニアと10年転戦し続けた、生え抜きの男達ですからね。蛮族の奇襲や魔物の襲撃も幾度となく経験した身ゆえに、恐怖は知っていても恐慌は起こしません」
 その生え抜きの総元締めにあたるガイウスも、平気な顔をしてブラディウスの杯に赤葡萄酒を注いでいる。

「……さて。前置きはこのぐらいにしておいて、そろそろ本題に入りましょう」
 短いながらも盛大な宴が終わり、島民と兵士が三々五々引き上げてゆく姿を横目に見ながら、ガイウスは背筋を伸ばした。
「次の戦に手を貸せ、か? 悪いが、人間同士の戦争に肩入れするつもりはないぞ」
「いえ、戦の事ではありません。手をお貸し願いたいのは、戦の後の事です」
 そう言いながら彼は一本の書状を取り出し、ブラディウスの前に差し出した。ブラディウスはその書状を受け取ってスッと広げ、しばらくしてから眉を寄せた。
「……何と」
「連年の戦役と内戦で、ローマの元老院にいくつかの空席が出来ました。その空席の一つに貴方を迎え入れる旨、既に法制化も済ませております」
 そこには確かに、ブラディア島の住民全員にローマの市民権を認める事と、島の領主を元老院議員に指名する旨の公文が記されていた。
「おい、いいのか? これでも我々は人間に仇為す吸血鬼なのだぞ」
「しかし、こうして同じ言葉で語らい、薔薇の花を愛で、酒を酌み交わす。同じ文明に属している以上は同胞として共に生きる事も不可能ではないでしょう。あなた方の力や知恵を、むざむざと地中海の片隅で埋もれさせるのは世界の損失です」
「それほど大層なものかね、我々は?」
「種族の壁が気になるのであれば、いっそのこと私の家の姓を名乗るといい。アルカディウス・ユリウス・ブラディウスとなれば、ローマの貴族パトリキとしての押し出しも悪くはありますまい」
 彼は平然として、自分の一族の名前まで提供すると言っている。ユリウス一門といえば、ローマの建国者の先祖にまでその由来をたどる事のできる名門中の名門であるにもかかわらず、だ。

「一つ確かめておきたい。その考えは、本当に我々一族とお前達ローマ人全体の益のために言っているのだろうな? お前・・の利益のために私の力を利用しようとしているだけではあるまいな?」
 ブラディウスの眼が、全てを射抜かんばかりに鋭く光る。心すら縛り付けるようなその魔眼をガイウスは真正面から見返して、
「――無論、その両方・・・・です。
 貴方がたにとってもローマにとっても、それにこの私にとっても、お互いの共存は必要だ。私はそう確信しているし、同じ事をガリアやギリシア、それにユダヤやエジプトでも実現させるつもりでいます」
 と、嘘偽りを交えることなくそう言い切った。

「…………ふ、ふふ、ふ、ふふふふふふふふ」
「? やはり、お気に召しませんでしたか」
「いや、そうではない。普段からその調子ではっきりと言い切って回れば、支持者も増えれば敵もさぞかし多くなるのだろうな。ふ、ふはははは」
 自信たっぷりに自己の心情を語る彼の態度は、ブラディウスのような人外の年長者にとっては可笑しさを刺激されるものらしい。本当に可笑しくてたまらないといった表情で、彼は肩を揺すってひとしきり笑い続けた。
「まあ、敵が多いのは否定しませんよ。この一件が済んだら、また次の戦地に赴かねばなりませんので」
「ふふふ、ならば私ものらりくらりとした態度はとっておれんな。よかろう、敵か味方かと言うのであれば、お前を今ここで敵に回す事はするまい」
 そう言って彼は笑いを収め、ローマからの招聘状を懐にしまった。
「見ての通り、夜と雲の多い日にしか外を出歩けぬ身だ。毎回毎回とはいくまいが、たまにはローマに顔を出すのもよかろう」
「ありがたい。これで、貴方を推薦した私の顔も立つというものだ」
 彼はそう言って頭を下げ、後ろの従者から一本の旗を受け取り、ブラディウスの前に差し出した。
「これは、私からの贈り物です。どうぞ、館の隅にでも飾っておいて下さい」
「……ふむ。これを受け取れば、我々も名実共にお前達の同胞といういう事だな」
 『S.P.Q.R』の銅板の上で翼を広げる銀鷲と蝙蝠という意匠の、ローマ軍団旗を模した旗。牙もあらわにニヤリと笑ってから、ブラディウスはその旗を手に取った。
「しかし、困ったな。これだけの物を受け取った以上は、何か返礼をせねばならん」
「別に、この場で返礼を求めるつもりはありませんよ。その礼は、いずれローマで受け取るという事で」
「まあ、そう言うな。何か取ってくるゆえ、しばし待て」
 それだけ言い残して、彼は歩いている間も惜しいと言わんばかりに夜空に音もなく舞い上がり、居館へと戻っていった。


「……待たせたな、こいつは戦地への餞別だ。一応忠告しておくが、老いたりとはいえポンペイウスを侮るでないぞ」
 既に全ての荷物が船に仕舞われ、あとは抜錨して出航するだけという状態になっている二隻の船の傍ら。最後の一人として、ガイウスは桟橋の上で待っていた。その彼にブラディウスが手渡したのは、一本の長剣である。
「お心遣いに感謝します。ちょっと失礼…………最近の作ではありませんな、この剣」
 一礼してから彼はスラリと剣を抜き、しばし観察してから鞘にまた戻した。
「そいつはな、この島の頂に建てられた祠に奉納されていた代物だ。残っていた碑によると、元々はトロイア王家の英雄・ヘクトルの持ち物で、彼の死後アイネイアスが受け継いでいたのだが、彼がトロイアの遺臣を率いて諸国を流浪していた折に、一時の恋の相手であったカルタゴの女王・ディードーの許に残したいったのだという。
 ハンニバルが何のつもりでそんな剣を置いていったのかは知らんが、名剣には違いない。コイツにこめられたカルタゴ人の愛憎は、お前の責任で飲み下す事だな」
 お前はローマの第一人者として、権力から愛憎に至るまで全てを引き受けるつもりなのだろう? 皮肉ありげな視線が、そう言外に告げていた。
「忠言、痛み入ります。ではまた、ローマにてお会いしましょう」
「おう。凱旋式には呼んでもらうからな」
 お互いに酸いも甘いも噛み分けたような笑いと共に、二人はガッチリと握手を交わした。








 この数年後、吸血鬼の一族をローマ人として迎え入れた男――ガイウス・ユリウス・カエサルは、彼の独裁に反感を抱く保守的な共和主義者達によって暗殺される。しかし、彼の後継者達はブラディウスの元老院の席を取り消す事はなく、彼をローマの貴族の一人として遇し続けた。彼が一族の長から譲られたトロイアの英雄の剣は、彼の衣鉢を継いで皇帝の座に就いた男からブラディア島に返還されている。

 かくして、人間とバンパイア達が同じ文明圏の一員として共存する時代が訪れた。無論、故なくして人の血を吸うような事があれば彼らの法により裁きを受ける事になるが、逆にそういう事を含めて人間社会の法を守っていれば、謂われなき差別や迫害を受ける事はない。
 無論、個人個人で『うわ、なにコイツ?』的な目で見られる事は仕方がない。が、社会においてその人間を超越した能力を買われる事も少なくはなく、一兵士としてローマの平和パクス・ロマーナを守るために走り回ったバンパイア・ハーフの青年がいれば、その妖しい魅力故に男の求愛と女の羨望を一身に集めたバンパイアの女性もいた。
 長はローマの廟堂に名を連ねる。全ての会議に出席する事は能わず、執政官や総督などの官職にも就かなかったが、何百年生きたのか知れぬほどの人生経験に基づく知性は、若い世代の畏敬を集め続けた。

 歴代の皇帝達にも、彼との知遇を得た者は多かった。
 ある時は、元老院との不仲に嫌気がさして隠棲したティベリウスの話し相手となり、
 またある時は、若きネロと一緒に夜の街で下手な歌をがなり立てもした。
 マルクス・アウレリウスとギリシアの哲学について問答を楽しむ事もあれば、
 隠退したディオクレティアヌスの楽しみである家庭菜園作りを手伝ってやったりもしたものだ。




 ――――が、そんな共存の時代もやがて終わる。
 時間にして、せいぜい400年。長命を誇る吸血鬼には、一つの人生にすら満たない時間。
 しかし、人間の社会の方が変容するには、充分すぎる時間だった。






 ――――現代の西暦でいうところの、紀元392年頃。


「ブラディウス。貴方をローマの元老院から除名し、全ての吸血種達の市民権を剥奪する事が決せられました」

 こういう日が来る事は、かなり前から予想していた。
 しかし、これで自分達にとっての一つの理想は失われたのだと思えば、やはり心は重くなった。


 純血のバンパイアが忌む物は幾つかある。例えば日の光、例えばニンニクなどの香草。そしてもう一つ、神に祈るという行為もそれに含まれる。闇と魔にその根源を持つ彼ら夜の眷属にとって、神に祈りを捧げる行為や、聖堂のような祈りに満たされた空間は苦痛をもたらす存在なのだ。
 かつてローマが興隆を極めていた時代には、何を信じ何を崇め、あるいは何も拝まずともそれは個人の自由、人々の信じる神々を誤った存在と誹る事のみが悪しき事とされた。だが、今は違う。ローマの国教と定められた一つの宗教――――キリスト教に帰依しない事こそが、神と皇帝に逆らう事だとされるようになったのだ。

「やれやれ。ローマが未曾有の困難に直面しているというのに、我々を敵と見なすのかね? テオドシウスよ」
「……ご不満はごもっとも。しかしこれは、ローマの元老院と市民の総意に基づき決定した事です」
 現在のローマ皇帝であるテオドシウスが、やや腰の引けた態度でブラディウスに告げる。しかし、当のブラディウスの眼は、彼の後ろに向けられていた。
「元老院と市民の総意などではあるまい。お前の意志だろう、アンブロシウス?」
 皇帝テオドシウスの後ろに立つ二人の男。一人はローマ軍を率いて蛮族との戦いに頭角を現しつつあった、若き勇将スティリコ。そしてもう一人が、キリスト教をローマの国教とした立役者の一人、メディオラヌム司教アンブロシウスだった。

「私の意志ではありませんよ、ブラディウス。これは主の御意志なのです。聖書の文言を唱えようとせず、安息日のミサに加わらず、日の光を忌み、十字架に触れる事も叶わず、人の血をすする者達を、主イエス・キリストを信ずるべきローマ市民とは認めぬとの主の御意志なのですよ」
 ローマ帝国の領内に住む全ての自由民に対してローマ市民権が認められて、既に200年近く経過している。その市民権を剥奪するという事は、つまり我々バンパイア一族は人間とは明確に区別ないし差別されるべき種族なのだと、そういう意味なのだ。


「惜しいな。人間が何の神を讃え拝もうと、我々の知った事ではない…………が、かつての神々の神殿や彫刻を打ち壊し、かつて人々を楽しませた諸々の祭日が無くなり、オリンピアの競技会すらも聖火を消す。人間の社会という奴が、この先彩りの乏しい狭量なものに変わっていくのを想像すると、それが惜しくてたまらん」
「正しい神の教えに人が帰依した以上、偽りの教えに基づく誤った風習が消え去るのは当然の事です」
 かつてカエサルが自分の正しさを確信して自分をローマに招いたように、この聖職者は自分達をローマから追放する事が正しいと確信している。二人の間にどれだけの違いがあるのだろうか。相手の価値観より自分の価値観が相対的・・・に妥当だと考えている事と、自分の奉ずる教義が絶対的・・・に正しいと信じている事の一点のみか、それとも何から何まで異なるのだろうか。


 まあ、とにかく。こういうガチガチの聖職者は苦手だ。戦って勝つか負けるかの問題ではなく、歩み寄れば戦いにしかならないという点において。
 そして、400年間過ごしてきたローマという国が、こういうガチガチの聖職者の言いなりになってゆく姿は正直辛いものがあった。
 だから、この都を去る決意は早々に固まっていた。アンブロシウス司教の教会の権威を笠に着た態度には、多少の嫌みを感じただけである。

「……よかろう。かくの如き仕儀となれば、ローマの都も見納めのようだ」
 パラティヌスの丘に構えていたこの小さな屋敷も、引き払わなければならない。仮の宿としてはいささか長い間住んでいたが、日光を全て遮る事ができるというローマらしからぬ構造のみが目を引く小邸宅に過ぎない。置き去りにして惜しいと感じるのは、地下のワイナリーと裏庭の薔薇園程度だ。
「どちらへ行かれる、ブラディウス?」
「無論、故郷に戻るのだよ。去り際に、麗しのローマをゆっくり眺めておくのも悪くはあるまい」
 そう言いながら、彼は外へと続く廊下を歩いていった。外は正午を過ぎた頃、雲が薄い晩夏の空は今も昔も変わるところがない。
「日の出ているうちに御退去とは、また気の早い事ですなあ?」
「ああ、確かにまだ・・日は照っているようだな」
 だが、最後にこの頭の高い男に一泡吹かせてやるのも一興か。そう考えたブラディウスは、開いたままの門扉に足音も高く歩み寄りながら、

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜、――――――――――――、〜〜〜〜〜〜〜〜――――!!!」

 人間には決して聴き取る事のできない声域で、ローマ中に向けて何事かを呼びかけた。




 ザアアアアアアア………………

 奇怪な音が鳴り響き、パラティヌスの丘に日は翳った。
「何!?」
「こ、これは…………!!」
 そしてそのまま、日陰の空に悠然と舞い上がるブラディウス。一体何が起きたのかと彼を追って外に出てきたテオドシウス・スティリコ・アンブロシウスの三人は、想像を絶する光景に凍り付いた。

「それではさらばだ、ローマの市民諸君。いずれ時代の風向きが変われば、この永遠の都を訪ねる事もあろう」
 何百、何千、いや何万になるのか。数えきれぬほどの蝙蝠が空を飛び回り、太陽を覆い隠していた。そしてその蝙蝠でできた巨大な傘の下に、ブラディウスを始めとして十数人のバンパイア達が宙に浮かび、悠然と皇帝達を見下ろしている。
「いざ帰らん、我らが霧深き島へ! 最後に、この街の光景をよく目に焼き付けておけ!」
「「「「「ははっ!!」」」」」

 この街に住んでいた吸血鬼達が、もとの島へと帰ってゆく。その情景を目にして、皇帝は声もなく立ちつくし、武者は剣に手をかけたまま動けず、司教は地面にはいつくばって神に救いを求める。そんな今のローマ人達の姿を見下ろしながら、
「……さらばだ、人間達よ。お前達に、数多の神々・・の加護があらん事を」
 そんな言葉を呟きながら、元ローマ元老院議員アルカディウス・ユリウス・ブラディウスは七つの丘の都に背を向けた。






 地中海世界の全てを網羅する統一国家としてのローマ帝国は、この後100年を待たずして崩壊した。世界の中心と呼ばれたローマは蛮族による二度の略奪により荒廃し、最後の簒奪者が帝冠を放棄した事で西方の帝位は絶えた。かつてカエサルら名だたる武人達が征服した地は蛮族が割拠する戦乱の巷と化し、ティレニア海にひっそりと浮かぶ吸血鬼島の存在は忘れられていった。

 各地から引き揚げてきた同族と共にブラディア島でひっそりと暮らすブラディウスも、一つの文明が終わりゆく有様を観察するにとどめ、壊すのにも守るのにも手は貸さなかった。


 もとより小さな島の事、娯楽なども乏しい。そんな島に長々と暮らしていれば、子供の一人ももうけるのは必然だっただろう。

 短い間ではあったが『夜の花嫁』として同族に引き入れた女性が産み落とした男子に名付けた名前が、僅かながらこの頃の彼の心境を代弁していると言えるだろうか。
 後にブラドー伯爵と呼ばれ、中世ヨーロッパを幾度となく脅かす男になる男の幼少時の名は、ロマヌス・ユリウス・ブラディウス。ローマを追放された男が自分の息子にローマ人ロマヌスなどという名前をつけたあたりに、失われた時代への彼の哀惜を窺い知る事はできまいか。


 しかし、そんな間にも人間の世界は目まぐるしく変転している。なおもローマ皇帝の名を保っている東の皇帝により、地中海の統一戦争が勃発したとの風聞は、嫌でも彼の耳に入って来る。
 当初、彼はこの無益な戦役に手を貸すつもりはなかった。しかし、東方ではかつての一族の故地であるダキアでバンパイア達への迫害が続発しているという確度の高い情報に、息子を始めとする若く血気盛んな者達がまずいきり立った。
 彼らは言う、これは人間と我々吸血鬼の存続を賭けた闘争になったのだと。今こそ人間達を駆逐し、地上を我々のものとするべきだと。

 最初は彼らを宥めていたブラディウスも、イタリアに正体を隠して僅かに残っていたバンパイア・ハーフ達が異端狩りの余波の犠牲となり、ティレニア海が軍艦と海賊の行き交う平穏ならざる海と化す有様を目の当たりにして、ついに決断した。


 共存の時代は既に過ぎ去った。共に領域を侵さざる棲み分けの論法ですら、人間の都合であっさりと破られるものと化した。


 人間とバンパイアは、対立と抗争の時代に入ったのだ。






 ――――この時代に提唱されたキリスト紀元でいえば西暦543年、ローマ。


 幾度の戦役を経て、荒廃の度合いを深めつつある古都ローマ。かつては美しく活気に満ちていた夕暮れの下の街並みを、騎馬の一群が疾駆していた。馬が背に乗せているのは、全て甲冑に身を包んだ兵士達。雲間に浮かぶその姿は、異様なまでにきらびやかな光を放っていた。もし見る目のある物がよくよく彼らを観察すれば、騎兵隊の身にまとう武具が全て銀で造られている事に気づいたかも知れない。

「急げっ! 日が暮れ、吸血鬼達が本格的に動き出す前に捕捉するんだ!」
 騎兵隊の先頭を駆ける、ひときわ美々しい装いに身を包んだ壮年の男が後ろの兵達に呼びかける。それに応じたかのようにを速度を上げた騎兵達は、やがてローマ人の広場フォルム・ロマーヌムに差しかかったところで別な騎馬の一団と合流した。

「よく参られた、ベリサリウス将軍!」
「おう! お待たせしました、ナルセス将軍!」
 別隊の先頭で出迎える初老の指揮官の呼びかけに、合流した壮年の指揮官が力強く答えた。コンスタンティノポリスに鎮座する東のローマ皇帝・ユスティニアヌスの配下で一、二を争う名将を二人揃ってこのローマに派遣したという事実は、四方に敵を抱えたかの国にとってこの街が極めて重要な価値を持っている事を示している。すなわち、

「ベリサリウス! 退魔官エクソシスト達の報告によれば、吸血鬼一族の首領・ブラディウスは今カピトリヌスの丘の上にある神殿跡地にいるようだ。我々の部隊は市内の眷属を掃討する故、貴殿の部隊はカピトリヌスに突入し大将首を獲られよ!」
「承知した! 吸血鬼の魔の手が皇帝陛下にすら迫っているこの状況では、一族の長を討つしかあるまい! ナルセス将軍は、市民の安全の確保を頼む! アントニア、プロコピウス、皆私に続け!」
 そう言い残し、ベリサリウス将軍率いる対吸血鬼部隊はカピトリヌスの丘へ通じる坂道を駆け上がっていった。
「……やれやれ、相変わらず威勢のいい事よ」
 敵将が待ち受ける本拠に先頭切って乗り込んでゆくベリサリウスの姿に、ナルセスは呆れたように呟いた。あの勇敢かつ馬鹿正直な生き方が、皇帝の信頼と猜疑を等しく受けるという彼の微妙な立場を自ら生んでいるように思えてならない。
「万事中立・中庸がよいものを、あれでは吸血鬼との話し合いなど成立すまいに。まあよい、今は目の前の敵を討つのみよ」
 主義に固まりすぎている感のある東のローマの現況にふと不安を感じながらも、ナルセスは部下に下知を下し始めた。


 かつて多種多様な神々に捧げる神殿が建ち並んでいたローマの丘の一つ、カピトリヌス。しかしキリスト教徒がこの地中海を我が物顔で闊歩するようになって既に一世紀以上、かつての壮大なユピテル神殿は祭る者も詣でる者もなく荒れ果て、立ち並んだ神々の像もことごとく取り払われ、今は単なる空虚な空間と化している。
「この都も、人気が失せてきたものだ。かつて百万を超した住民は今や十万を割り、いずれ一万人にすら達しなくなるやも知れん」
 かつてこの丘で眺めた光景に比べ、めっきりと明かりの減った都。討伐隊の兵士達の掲げる松明のみがまるで寂れた街を誤魔化すように動き回る様を、ブラディウスは無表情に見下ろしていた。
「……いや、この調子では千人にすら満たぬ難民が身を寄せ合うだけの廃墟と化すかもしれんな。貴殿もそう思うだろう?」
 振り向きざま、彼は神殿内に僅かな兵と共に乗り込んできたベリサリウス将軍にそう呼びかけた。

「ローマの荒廃に関与しているという点では、貴方も同罪でしょう。自己のみを正当化しないでいただきたい、ブラディウス」
「否定はせぬ。だが、この調子でお前達が征服戦争などと下らぬ事を続ければ、遅かれ早かれそうなる」
 槍を構えて自分に相対するベリサリウス達を、ブラディウスはじっと見渡す。神殿の外の気配からすれば、神殿全体が兵士達に包囲されていると見て間違いはあるまい。

「ブラディウス殿、我々ローマ帝国に対する戦闘をすぐさま停止し、貴方の一族が領内各地で眷属に引き入れた市民達を解放していただきたい。さもなくば、貴方をここから生かして出すわけにはいかなくなる」
「そしてお前達東方人はローマ再興の美名の許にこの先も無益な戦乱を続けるつもりかね? お前達こそ早々にコンスタンティノポリスへ立ち戻り皇帝に伝えよ、『馬鹿も休み休み言え』とな。このような事を繰り返して、ただでさえ衰えゆく文明の崩壊を早めて何とするか!」
 ブラディウスの手から魔力が湧き上がり、その赤みがかった光が神殿内をまばゆく、しかし昏く染め上げてゆく。しかし東のローマが誇る勇将はひるまず、一歩前に進み出る。

「……そう、貴方の仰る通りだ。地中海を統べる統一されたローマが滅んで既に百年に達しようとしている今、もはや古き良き文明が闇と魔を切り拓いていた時代は終わろうとしているのです。なればこそ、例えば貴方達のような闇の住人に対抗するために、我々は新しい寄る辺の許に世界を今一度統一しなければならないのです」
 そう言いながら、彼は銀で造られた槍の穂先を注意深くブラディウスに向けた。
「信仰の時代の到来か。文明の時代の終焉を早めると知ってなお、正統なる信仰の名の下に異端や異教の徒を打ち拉ぎ、単一の信仰で世界を統べようと欲するのだな、お前達は」


 …………ああ、そうなのかも知れない。ローマの平和パクス・ロマーナという名の文明の終焉の兆しは、確かに数百年前から在ったのだ。
 人間達は文明の時代が終わるという予感を感じていたからこそ、キリストの教えという新たな時代への道を徐々に歩んでいったという事なのだろうか。

 だが、それは取りも直さず、信仰を同じくする者は等しく価値ある存在と見なされても、信仰を共にする事のない者達――そこには自分達のような異種族も含まれる――とは相容れる事のない世界の出現を意味する。自分達にしてみれば、そのような偏狭な時代の到来を認めるわけにはいかない。


「――――お前達があくまでキリストの大義に生きるとあらば、仕方があるまい。私がお前達の帝国を打ち砕き、その後に人間が文明を築き上げる以前――英雄が人の世を導いていた時代を再現するもよかろう」
 瞳が妖しく光る。銀の武器に身を固め、異端視される事の多い退魔官エクソシストによって清められた護符を身につけてなお、肌はおろか心の底まで凍てつかせるような悪寒が一同の背筋を走り抜けた。
「ならばかかって来い、ローマ人の末裔を名乗る者ども! 古き時代の生き証人として、貴様らの大義を試してやる!!」
 神殿内を吹き荒れた風に、東のローマ兵達は立ちすくんだ。その風は砂漠風シロッコのように激しく、しかし底冷えがするように冷たかった。ペルシア・ヴァンダル・ゴート、三つの敵国を向こうに回して一歩も退かなかった歴戦の戦士達も、これまでとは全く違う敵を目の前にして脚がすくんだ。

「……っ! 皆、私に続け! 神と皇帝に叛く吸血鬼を、今ここで討つのだ!!」
 恐怖を振り払うように、ベリサリウスが真っ先に動いた。槍を肩に担ぐように構え、ブラディウス目がけてまっすぐに走る。その姿を目の当たりにして、兵士達も弾かれたように動いた。槍兵は先頭をゆく将軍に続き、弓兵は銀の矢を吸血鬼に向けて弓の弦を絞る。
「ふ、勇気はよし。だが、ただ勇敢・敬虔なだけでは私は倒せん!」

 グワアアアアアッ
「うおっ!?」「ぬわっ!?」「があっ!?」
 気合いと共に、ただ魔力を解放しただけである。しかしその魔力の圧力だけでも、重装備の兵士達を吹き飛ばすには充分だった。
「ゆ、弓隊放て――――っ!!」
 辛うじて倒れずに踏みとどまった将軍の号令一下、今度は弓兵達が一斉に矢を放つ。純血のバンパイアですら命を奪う傷に至る、退魔の力を秘めた純銀の矢がブラディウスに殺到した。

 しかし、
「フン!」
 彼が身にまとっていた漆黒のマントをひと振るいすると、矢の殆どは叩き落とされてしまった。僅かに二本ばかりが肩に突き立ったが、漆黒の貴族は全く動じる様子もなく悠然としている。
「な――――に!?」
「見くびっていたか、我が力を。次はこちらから行くぞ、東方の民よ!!」
 紅い光が彼の身体から巻き起こり、直後に光の線と化して四方に飛び散るのを兵士達は目の当たりにした。


「な、なんという、力だ……!?」
 皇帝ユスティニアヌスより預かった特注の武具と幾多の戦場で鍛え上げられた身のこなしが、辛うじてベリサリウスを救った。しかし、神殿内にいた他の兵士達はことごとく魔力の奔流の前に打ち倒され、生きているのか死んでいるのかすら分からぬ状態にある。
「……ふむ、いささか愚直すぎる性のようだがその勇気と才幹は惜しい」
 そう言いながら、ブラディウスは傷ついたベリサリウスの二の腕を掴み、甲冑姿の彼を片手で目の前まで吊り上げた。
「そうだな。お前を我が魔力で縛り付け、愚かしき野望を抱いた皇帝に取って代わらせるのも手ではあるな」
 今だ戦意を失わぬその顔をのぞき込み、牙もあらわにブラディウスは笑う。だが敵もさるもの、目の前に迫った死に対して、ローマ人の勇将は嗤う事で返した。
「わ、笑わせるな……! 私はローマ復興のため陛下の剣となる事を誓った身、貴方の傀儡になど断じて成り下がりはしない……!」
「そうか。ならば死して我が眷属に成り下がるとよかろう」
 左右の牙が露わになる。血走った目をカッと見開き、ブラディウスは小癪な敵将の首筋を目がけてその牙を怪しく光らせた。だが、迫りくる頭を、ベリサリウスの片手が辛うじて寸前で押し止めた。
「ええい、往生際の悪い……!」
「ア、アントニア、プロコピウス……今だ――――!!」

「!?」
 目の前の男の血を吸おうとしてできた僅かな隙。その隙を突いて、円柱の影に隠れていた二人の武者――うち一人は女性だった――が、両側から挟み込むようにして矢を放った。周囲への注意が僅かに逸れていたブラディウスはその矢をかわす事ができず――


 ババ…ンッ!!

「ぐわああああああっ!?」
 刺さった瞬間に放たれた青白い閃光に、その身を灼かれていた。

「せ、精霊石の矢とは……抜かったわ…………!!」
 さしもの彼も、精霊石で造られた矢尻を二本同時にその身に受けては、ただで済むはずもなかった。手に捉えていた男を取り落とし、ブラディウスはよろめく。
「こ、このローマは古き文明を築いた者達の夢の跡なのだぞ……なぜ貴様達人間は、この都を灰燼に帰してまで世界の統一などに……!」
 その眼前で、素早く立ち上がったベリサリウスが銀の槍を拾い上げ、渾身の力でもう一度振り上げた。

「新たなるローマの、再興のために――――――!!」




「くそっ! 親父の奴が、要らぬ感傷に身を浸したりするから……!」
 宵闇に支配されようとしているイタリア半島の上空を、一つの人影が隼と見まがうばかりの速度で東から西へ飛んでいった。ブラディウスの嫡男であり、ローマ領内各地で人々の血を吸い、眷属を増やす事で東の帝国への叛乱を激化させていたこの男――後のブラドー伯爵は、先日まで活動場所としていたシリアから全力でイタリアへと馳せ戻っていた。コンスタンティノポリスの皇帝がローマに向けて対吸血鬼の精鋭部隊を急派したとの知らせが、彼に父の危機を直感させたのだ。
 やがて目に入ってくる往年の大都市ローマの姿も、彼の感傷に触れる事は一切無い。彼を見上げて何事か騒ぐ兵士や市民達には目もくれず、父らしき魔力の漂うカピトリヌスの丘へとひたすら、飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ――――

「ええい、どけ! 邪魔だ!」
「「「「「わ〜〜〜〜っ!?」」」」」
 神殿跡を取り囲む兵士達を見て、彼は事の成り行きを悟った。神殿の中に気を取られていた兵士達を蹴散らし、悲鳴に慌てて振り向いた女武者には目もくれず、神殿の中に最速で飛び込む。

 そして、そこで見たものは。

「な――――――――」

 銀の槍で心の臓を貫かれ、神殿の床に崩れ落ちる父の姿だった。


「き、貴様……!」
「お、お前は…………!?」
 倒れた数十人の兵士、立って武器を構えた一人の武将。彼らの前に立ちはだかるように、ブラドーは父をかばう位置に降り立つ。
「アルカディウス・ブラディウスが嫡男、ロマヌスだ! 貴様が東の皇帝が父の征討に送り込んだという、ベリサリウスとやらだな!」
 後の世では吸血鬼一族の頭領にふさわしき風格を備えるようになるブラドーも、この頃はまだ若かった。仰々しい名乗り文句を言う暇もなく、彼はすぐさま倒れ伏す父親を抱え上げた。

「この場は退いてやる! だが忘れるな、我々はすぐに戻ってくるからな!」
 それだけ言い捨て、すぐさま西の空へと飛び去っていった。神殿の方からはベリサリウスらの焦りの声と共に何百本もの銀の矢が飛んできたが、射上げる形になり威力の無い矢にはその身に当たるに任せ、彼はそのまま海岸からティレニア海の上へと向かっていった。


「親父、親父!! しっかりしてくれ!」
 東の空から昇り始めた月の光に照らされながら、彼は腕の中の父に呼びかける。しかし、最強のバンパイアとして地中海にその威を轟かせるべきブラディウスは、声もなく青白い顔を土気色に変えている。
「まずい……ほとんど致命傷を受けている……! 今すぐ手当てをしなければ助からない……!」
 しかし、ここはまだ海の上。ブラディア島に戻っている暇は恐らく無く、治療師の術法など心得ぬブラドーには、死にかけた吸血鬼を救う方法は一つしか心得がなかった。

 吸血鬼に活を入れる方法は、つまるところ血を吸わせる事にある。だが、瀕死の淵から引き上げるための血は普通の人間の血では駄目だ。生気に満ちた若い乙女でも足りるかどうか。最も確実なのは、強い魔力の持ち主の血をすすらせ、その魔力を取り込ませる事――――
 ――――そう。例えば、バンパイアの首領の息子の血のような。


「………………!」
 だが、ブラドーもその唯一の選択肢には一瞬の躊躇を隠せなかった。バンパイアが他の吸血鬼に血を吸われるという事は、そのバンパイアが今までに血を吸って支配下に置いてきた人間達、その新たな眷属が血を吸って生まれる眷属。その支配のピラミッドを、一瞬にして壊してしまう事に繋がる。ましてこれまでに何千何万という人間を支配下に置いてきたブラドーが他者に血を吸われるという事は、恐らく何十万……いや何百万もの眷属を解放する事に他ならない。
 それは、東の帝国を打倒し、ブラディウス一族によりイタリア、ひいては地中海世界全てを支配するという父の野望を打ち砕く事になってしまう。自分は一体何をするべきなのか、父の命と望みのどちらを優先すべきなのか。ブラドーは無言で煩悶し、

「……ええい! 生きてさえいれば、再挙の道はある!!」
 その末の結論として、自分の腕を父親の口の中に押し込み、牙を肉に突き立てさせた。




 こうして、ローマ再統一戦争の裏で静かに繰り広げられた人間とバンパイアの戦いは、人間達の勝利に終わった。しかしこのブラディウスの叛乱により地中海各地の戦乱はより一層の激化を続ける事につながり、ブラドーにより血を吸われた人間達もまた眷属として多くが死に、彼らによってより単純に命を奪われた人間はそれに数倍した。

 この十数年後、辛うじて地中海は東のローマ皇帝を中心とするアナスタシウスの教派によりほぼ統一され、形の上では統一された信仰による地中海世界の再制覇は果たされたと言える。しかしその代償として地中海各地は荒廃し、人口も激減。本来目指すべき新たなる繁栄は、むしろ逆に遠のいていった。


 この戦乱における吸血鬼達の暗躍は、官僚や歴史家達によって隠蔽される事になる。吸血鬼に血を吸われて眷属と化し、さらに死と恐怖を振りまいていった犠牲者達は伝染病ペストで命を奪われたと伝えられる事となり、それ故に島に戻った一族もそれ以上の追及を受ける事は免れた。皮肉な事に、ローマの再興に拘ったユスティニアヌスが、その大義を真っ向から否定したブラディウスの事を後世に残したくないという見栄を張った事が、吸血鬼達の数少ない棲家を救ったといえるかも知れない。






 …………だが。人間の世界は、吸血鬼達のそれよりも移ろいが早い。
 地中海世界の一角が富と武力を蓄えてバンパイアの隠れ里に暴力の嵐を持ち込んだ時、彼らはいまだ復興の途上にあり、首領の傷は完全には癒えていない状態だった。






 ――――西暦775年、この頃はブラドー島と呼ばれる事が増えた吸血鬼の島。


 朝日を背に襲いかかってきた彼らを、押し止める事はできなかった。百隻以上もの軍船で乗り込んできた数千の兵達の前では、たかだか数十人程度のバンパイア・ハーフ達の抗戦など、ものの相手にもならなかった。逃げ遅れたバンパイアの女子供や彼らを逃がそうと戦う男達が心臓を槍で突き刺され、日の光に焼かれてゆく。そんな光景に騎士達は喜びの声をあげ、新たなる殺戮を繰り広げようとしていた。


「なんという卑劣なことを……!」
 敵勢迫りくる中、日差しの中に出る事のかなわぬブラディウスの若君、ロマヌスは城内で歯をギリリと鳴らした。


 東のローマの覇権は結局一世紀を超える事はなく、その後地中海は三つの勢力が角逐する戦場となった。東方の砂漠地帯に勃興し、またたく間に地中海沿岸の半ばを制した新たな信仰の徒達、衰えたりとはいえ東地中海を中心にいまだ侮れぬ力を保っている東のローマ、そして北西地帯の中小国を統一しつつあるフランク人の王国。
 最も地中海に対して影響力の小さいフランク人の王が、ブラディウスに対して多大な貢納と共に辺境伯なる貴族の称号を贈りつけてから、せいぜい数十年しか経ていない。

 にも関わらず、新たな王がローマ教皇なる信仰者の最高位者のお墨付きを得るや否や、聖戦だの何だのと理屈をつけて剣を向ける。神の意志とやらを旗標にした彼らの厚顔さには、憤りを通り越して呆れるほかなかった。


「奴らは単に即物的なのだ。彼らが興味を持っているのは邪悪な・・・吸血鬼を滅ぼしたという名声と、この島に存在すると噂されている金銀財宝の類だけで、裏切りだの何だのという理屈は二の次に過ぎん」
 200年以上の休眠も、かつての戦いで失った魔力を完全に回復させるには至らなかったらしい。淡々とした父の声は、その底に深い諦観を淀ませているようにブラドーには思えた。
「逃げ込んできた者達は地下室に入ったか?」
「……ああ、残って戦おうという一部の跳ね上がりを除けば、全員隠し部屋に入れた」
 息子の答えに、彼はうむと一つ頷いた。この島には千年前にハンニバルが掘らせた武者隠しの通路を始め、多くの秘密の道や穴蔵が設けられている。港や村にいる者達も皆それらのトンネルを一つならず知っているから、逃げ遅れさえしなければかなりの人数が助かるはずだった。
「ならば、ついて来い。今フランクの騎士共と戦ったとて、こちらの分が悪い」
「あ、ああ……」
 城門の外からは、「出でよ、悪しき吸血鬼共の首領よ! 我らシャルルマーニュが十二人衆と、いざ尋常に立ち会え!!」などという怒号が聞こえてくる。その喊声を聞き流し、彼ら親子は漆黒のマントを翻して城の地下室へ通じる道へと歩きだしていった。
「……………………」
 玉座の間を出て行く道すがら、アルカディウス・ブラディウスはチラリと領主の席の傍らに目を向けた。そこには、800年前に人間の英雄から贈られた銀鷲と蝙蝠の旗標が立てかけられていた。


 城の地下一階にある倉庫のそのまたずっと下。人間の権力者がご機嫌取りのため寄越してきた進物のうち、例えば世界の姿を円とT字の図形のみで構成した、古代のプトレマイオス図を知っているブラディウスにすれば噴飯ものの『世界地図』のような、ガラクタに等しい品ばかりを放り込んだ倉を隠れ蓑として、古代人が兵士達を収容させるために設けた地下砦。壁にはところどころに島の西側の断崖に向けて掘られた明かりと空気取りの穴があけられていて、そこから僅かに差し込んでくる光がもうじき午後になる事を示している。
「皆、ここに集まっているな? この場所は古代の精密な絡繰りと我が魔力によって二重の隠蔽が施してある。ここに潜んでいれば、奴らは手出しはできまい」
 その地下砦の入り口に立ち、吸血鬼の首領は中に集まった同族達を見回した。
「だが親父、奴らをあのまま地上で好き勝手にさせておけば、いずれこの場所を探り当てられるかも知れんぞ」
「分かっている。ロマヌス、奥の部屋に古代の名剣が収めてある。アレを取ってきてくれ」
「? あ、ああ、分かった」
 この地下室に立てこもって騎士共の蹂躙をやり過ごすのかと思っていたブラドーは、やや意外に思いながらも父の示した部屋へと向かって走り出した。

「……こいつか? 確かに年代物の銘剣のようだが、これで戦うのか親父?」
 地下室の入り口の手前で古代トロイアの英雄の佩剣と伝わる長剣を受け取ったブラディウスは一瞬懐かしそうな顔をしたが、すぐさま顔を引き締めた。
「無いよりはマシだろう。ああそうだ、あっちの部屋には盾も置いてあったな。悪いが、それも探してきてくれんか」
「何だ、まだあるのか? 全く、そういう事は一度に言ってくれ」
 内心で「いよいよもって、この親父も年か?」と舌打ちしながら、もう一度ブラドーは踵を返して駆けだした。


 その後ろで、

 ズズ…………ン!

「なっ……!?」

 地下室への入り口にあたる巨大な岩の隠し扉が、小さいながらも重い地響きと共に閉じた。


「お、親父! 一体何のつもりだ!?」
 慌てて扉に駆け寄り、岩をガンガンと殴りつけるブラドー。しかし扉はビクともせず、ただ向こう側から父親の声が聞こえてくるのみだった。
「――悪いが、扉には魔力で封印を施しておいた。日没までは、その扉は絶対に開かん」
「どういう事だ親父! まさか、独りで人間共と戦うつもりか!?」
 必死で扉を押し開けようとするが、まだ若いブラドーの力では扉を閉ざす魔力を打ち消す事はできない。
「――奴らの狙いは、我々一族の首領の首を挙げる事だ。どちらが勝つにせよ、私の顔を見ずして奴らがこの島から去って行く事などありえまい」
「なら私も戦う! たとえ勝てずとも、我々の力で奴らに一矢……」
「ならん!!」
 力はいまだ完全には戻らず、時として老いたとすら思わせた男の一喝。次代の当主として力を増しつつあったブラドーでさえ、その声に背筋が硬直した。

「――――お前は生きよ。人間達が狂信に凝り固まった時代は、いつか必ず終わる! 我らバンパイア一族が世界の片隅に隠れ住まねばならぬ時代が終わるまで、お前は一族を守れ!」
「そんな! 駄目だ、駄目だ父上! 行かないでくれ!!」
「――――――さらばだ、息子よ。これから千年、いや二千年三千年……お前は最も古き吸血鬼で在り続けろ――――」

 声が遠ざかる。ブラディオンのアルカディオス、元老院議員アルカディウス・ユリウス・ブラディウス、ブラドー辺境伯アルカディオ・ジュリオ。様々な民の言葉で、少しずつ違う名で呼ばれてきた古き良き御世の最後の貴族パトリキが、その城を独り守るべく歩み去ってゆく。

「父上〜〜〜〜〜〜――――――っ!!!」

 齢300歳を少し回った後継者の悲鳴じみた叫びが、空しく地下室を満たした。




 日が陰った。外から漏れてくる光は紅く、夕暮れを迎えた事を示している。誰もが無言でひっそりとたたずむ中で、小さな地響きをたてて地下砦の入り口の岩盤が小さく動いた。

「――――――!」

 先ほどまで遠くから響いてきた物音も、既に無い。痛いまでの沈黙の中、ブラドーは弾かれたように駆けだし、封の解けた石扉をこじ開けた。
 そのまま無言で階段を駆け上がり、地上へと向かう。床に偽装した巨大な岩の落とし戸を下から力任せに押し開け、城の地上部分へと飛び出す。地上に気配はなく、誰何する声も無かった。


「あ、あ…………」

 城は廃墟と化していた。城の壁は鉄槌か何かで随所に穴が穿たれ、外の光が差し込んでいる。壁の穴の先には、800年間手入れされてきた薔薇園が無残な焼け野原と化している有様がのぞいていた。全ての扉はたたき壊され、床には剣や槍、あるいは矢が散乱している。同じく散らばるは瓦礫の山。その間には人間達が持ち去る途中で落としていったのか、いくつかの銀貨や宝石が石ころのように転がっている。日は既に水平線の彼方に没し、それらが陽光を反射する事はない。

「お、親、父…………」

 そして玉座の置かれた謁見の間には、二つの物が置き捨てられていた。一つは、父が我が家の印として飾っていた、銀鷲と蝙蝠の旗標。瓦礫の中で顧みられる事もなかったのか、へし折れた旗竿の先で銀色の鈍い光を保っていた。

 もう一つ、部屋の中央に打ち捨てられていた物。

 それは、いくつもの剣や槍を突き立てられ、

 地面に縫い止めるように置き去された、ボロボロの黒いマントだった。




「これが、これが……あなたが共存の日を夢見ていた人間どもの行いだというのか…………!」
 屍衣の上に立てられた墓標のようなその残骸の傍らに膝を落とし、ブラドーは絞り出すような声をあげた。その口からは、誰かの血をすすったわけでもないのに血がにじみ出し、地面に血の染みを落とした。

「……認めぬ、認めぬぞ! ここまで品下がった人間が世界を我が物顔でのし歩くなど、絶対に認めぬぞ……!!」
 西の空はまるで今だ夕陽の余光を保ち、まるで今日流された血のように紅く染まっている。

「思い知らせてやる、必ず思い知らせてやる……!
 
 貴様ら人間どもを必ずや足元にひざまづかせ、その卑小さを思い知らせてやるぞ――――――――…………!!!」


 目にした吸血鬼達を滅ぼし尽くし、奪えるだけの財貨を奪って立ち去っていった人間達。
 彼らの背中に突き刺されとばかりに、ブラドーの絶叫が地中海の空に響き渡った――――――










「…………とまあ、ここまでが私がこの一族の長になるまでの話だ。あとはお前も知っての通り、人間達との小競り合いの繰り返しだ」
 そこまで語り終えてから、ブラドーは傍らのグラスに注がれた薔薇水をグイッとあおった。
「誰の言葉かは知らんが、人間の世界には『賢者は歴史に学ぶ』という警句があるそうだな。お前が愚者でないのなら、一族に伝わる古い歴史を知っておいても無駄にはならんだろうよ」
「……僕がその歴史から何を学ぶかを、あなたは期待しているんです?」
 机の上の旗に視線を落としたまま、ピートは注意深く尋ねた。
「別に何も。私はただ、過去にこういう事があったと伝えただけだ。お前が歴史に何を学ぶかはお前の勝手だし、一つの歴史から得るものが一つと決まっているわけもない」

 いつか過去のように人間達に切り捨てられる日が来るから、彼らを信用するなと警告するのではない。
 あの過ちを決して繰り返さぬように、人間達との共存に全力を尽くせとしろと諭すのでもない。
 お前の考える通りに生きればよいと、この父は放り投げるように言っていた。

「分かりました。ブラドー家の継承者として、この旗は預からせていただきます」
「ああ、持っていけ。そいつは人間とバンパイアの共存の象徴のようなものだ、私が持つよりお前が持っていた方がいいだろう」
 そう言い、彼は二杯目の薔薇水を面白くもなさげな表情で飲み干していた。
「あなたは、この島を出ないつもりですか?」
「まあな。人間と一緒に生活するのは、あいつが最後で充分だ」
 あいつ・・・という代名詞が彼の妻にあたる女性、つまりピートの母親の事を指しているのは、二人の間の暗黙の了解である。


「……やはりまだ怒っているんですか、あの事を?」
「怒りはある。だが怒りを向ける相手はもうこの世には残ってはいない……だからこそ、くすぶるものは残らざるを得ない。

 …………全く、あれほどの佳い女を何故火刑にしなければならんというのか。

 我々のような人外にとって、崇める対象が十字架イエス六芒星ヤハウェかの違いなど、全くもってどうでもいい事だと言うのに、だ」

 その事は、ピートも昔の事ながらよく憶えている。この島を離れた後彼女がたどった非業の運命を知ったブラドーは怒り狂い、半ば自暴自棄になってヨーロッパ中に呪いを振りまいたのだ。


「いや、お前にとっては昔の事だ。もういい、そいつを持って新しい住処に戻るとよかろう。
 このままお前がこの城に残っていては、あれ・・との馴れ初めまでうっかり喋ってしまうかも知れんではないか」
 『夜の花嫁』に引き入れる事をせず、人間のままで手元に引き寄せた女性の事を思い出したのだろうか。ブラドーはやや苦渋と笑いの入り交じった顔をして、息子を追い払うような仕草で話を打ち切った。
「は、はい……では、これで」
 両親の恋愛談を尋ねる野暮を感じたのか、ピートは旗標を手に席を立ち、城の外へと通じる廊下へ歩き去る。

「この島の事は心配するな。エリスも気を遣ってくれているし、この文明の時代には暇つぶしの種には事欠かん」
 その背中に投げかけられる、まるで楽隠居のような言葉。最後にピートは振り返って一礼し、足音と共に廊下へと出ていった。






 城から下りてきたピートを、先ほどのバンパイア・ハーフの村民達が出迎えた。
「どうでしたか、伯爵様は? 城に押し込められて、不自由はしておられませんでしたか?」
「……いや、大丈夫。君たちも、彼がストレスを溜めないよう気を回してあげて下さい」
 この小さな島で、自分の留守を守ってくれるであろう同族達をピートは見回す。少しずつだが人間の社会に入り込んで生きてゆく事を選んだ彼らを見て、ピートはこの島がたどった歴史に今一度思いをはせる。

「……さあ、もう行かなくちゃ。日本に戻ったら、しなければいけない事が山ほどあるからね」
 歴史の続きは、自分達が書き記していかなければならない。できる事なら、これから先の一時代がバンパイア達にとって最良の時期だったと、遥かな未来の歴史に書き残されるように。






 夕暮れの下、ブラドー島を離れてゆく一隻の船。恐らくは人間の世界に戻ってゆく息子を乗せているであろうその船を、城の窓から静かに見下ろしている。
「全く、人間の世界の変化のなんと早い事だ。これでは、我々の方に変化する暇が与えられないではないか」

 英雄の時代の終わった後文明の時代が築かれ、文明の衰退により信仰の時代が訪れ、眠りから目覚めてみれば再び文明の時代に戻っている。彼のように千年以上生きる身から見れば、全く目まぐるしい事この上ない。
 この文明の時代がどれだけの間続くのかは、まるで見当のつかぬ事だ。この時代が終わった後、次は如何なる時代がやって来るのかも。

「――――だがまあ、そいつを見届けるのも私の責務のようなものか。
 よかろう、お前が人間と一緒に生きている間は、観察するだけに止めておいてやるよ」

 現代の表記で言えばロマーノ・ジュリオ・ド・ブラドー伯爵という名を持つ吸血鬼の長は、そう言って静かに笑うのだった。







 〜〜おしまい〜〜

 〜〜あとがき〜〜

 こちらの展開予測掲示板にSS書くのは本当に久しぶり(2年ぶりぐらい)のいりあすです。
 最近どんな本を読んだかおおよその想像はつくと思いますが、古代ローマを題材にした某歴史小説に影響されて書き殴ったSSがこれになります。

 ブラドー伯爵のファーストネームとセカンドネームは原作には出てきませんが、その部分を適当に想像していたらこのSSの題材になってしまったのが元々の発端だったりします。ブラドー父、つまりピートの爺さんの名前はさらにテキトーに、ドラキュラの逆読みをラテン語っぽく読み替えた名前にしましたw

 ラテン語の発音や表記法は可能な限り調べて書きましたが、専門の授業などを受けていたわけではありません。おかしな部分があったらドンドンツッコミを入れて下さいねww というよりここまで歴史マニア根性丸出しなSSの存在自体がツッコミどころ満載かも知れませんが。


 あと、本文中に入れる部分がありませんでしたが、作中小道具として登場する古代の剣は『ローランの歌』に登場する名剣デュランダルのつもりですのでどうぞよろしくお願いします。最近はネット上で歴史上の人名や年代を調べるのが楽になりましたので、興味のある方はどうぞ。


 追伸
 いりあすよりUGさんへ。すいません、姉妹サイトの方に投稿されたブラドーの過去話はまだ読んでなかったりします。あの長編に挑戦するつもりで書いたわけではありませんので、ご勘弁くださいorz

[mente]

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