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ALIVE 4








ALIVE 4









8年前に住んでいたアパートは収入が大きくなり始めた頃に引き払った。
戸田久美子が勤めている病院は東京にあるのだが、草加市からはかなり交通の便が悪かった。
基本的に彼女の勤務形態は非常勤であり、またその体制も極端だ。
患者は当然の如く、こちらの都合に合わせてくれず、彼女がいつ呼び出されるかはわからない。
有り体にいえば、ある日は早朝、ある日は深夜と、その形態は様々だ。
もちろん病院も一応は大手であり、一枚岩ではないが、それでも戸田久美子の外科医としての
腕前は抜きん出ているのだ。
戸田久美子には良い環境で仕事をして欲しいというのが病院側の主張でもあった。
そういった事情があり、今のマンションに落ち着いた。
あれほど拒んだ東京にまた住む羽目になったのは彼女にとって皮肉としかいい様がなかった。
しかしもうそんな個人の事情が通じる状況と立場ではなかったし、単純にこれ以上通勤に
手間取らされるのもいい加減辟易していた。
結局、戸田久美子は自分も周りも得をするなら拒む必要も無いと考えたのだ。
今の住宅地は駅からも徒歩でも5分といった所で、さらにその駅から地下鉄で20分程度で
職場に行けるという、草加から通勤していた頃に比べ、格段に交通状況は改善された。

そしてそのマンションから出勤する事で彼女の日常は始まった。
空は曇っていて、パっと見傘が必要かと思わせる天気だったが
戸田久美子は天気予報ではこの後晴れると聞いていたので傘の携帯はやめる事にした。
彼女は荷物を多く持つのは嫌い、特に傘みたいなあからさまに手が塞がる物を持つのは
特に面倒くさいと感じている。天気予報を当てにして彼女は駅に向かった。

通勤途中の地下鉄の電車の中で、戸田久美子は今日見た夢の事を思い出していた。
なぜ今更あんな昔の事が夢枕に立つのだろうという気持ちだった。
確かに自分の人生を大きく変える、それこそ今の自分の原点ともいっていい顛末だ。
それでも彼女からすれば当に終わった事であり、当時からすればともかく今は思い出のひとつ
にしか過ぎない。

理解できないものをいくら考えたところで答えなどでる筈もない。
彼女はすぐに考えを中断させ、仕事の事に頭を切り替え、目を閉じ電車のシートにもたれかかった。
どうせ大した意味も無い、生きていればそういう事もあるだろう。
そう結論付けた。

そうしている間にすぐに電車は彼女を目的地の駅に運んだ。
家を出た時は曇り気味の天気だったが駅から出た今では雲ひとつない快晴だった。
どうやら天気予報と彼女の祈りは天に届いたようだ。
日が強く照っていて気温も高い。
もうすぐ9月になるとはいえまだ夏の匂いは消える気配はない。
戸田久美子はその眩しさに眉をひそめながらも
足はいつもの自分の第2の家とも言える場所へ向けた。
彼女はどうも夏という季節が好きになれなかった。
暑いのはともかくとして、肌にまとわりつく湿気はいかんともしがたいものがあるからだ。
最も冬の肌が痛むような寒さも同じいくらい嫌いなわけではあるが。


病院に着くと、すっかり夢の事など消えうせ、いつものように仕事に忙殺された。
今日も2件の手術があり、その内の1件は彼女ではないと処理できない問題だった。
また知名度がある病院らしく深夜でも急患が多く入ってくる。
昨日は定時に上がれたが、今日は深夜の担当に入ってる。
いつ帰れるかは基本的には決まってない。
そんな不定期な生活ももはや慣れっこではあるが。




そして時間はあっとういうまに過ぎ、今現在日付も変わり、深夜3時になろうとしている。

「フーさすがに疲れたわね。」
そう言いながら戸田久美子は休憩室にあるソファーにだらしなく寝そべった。

「先生、お疲れ様です。」
間もなく他の今日の当番の医者、彼女の後輩にあたる人間もやってきた。

「今お茶いれますね。」
そう言って給茶室に向かう男。
彼はまだ研修医であり、もっぱら雑用をやる事がほとんどだ。
気遣いは良くできる方であり、戸田久美子は結構助かっていると思っていた。
医者としての熱意も高く、中々の好人物と評価していた。

「はい、どうもお待たせしました。」
そういって彼は戸田久美子が寝そべっているソファーの前のテーブルに湯のみを置いた。

「ありがとう。悪いわね。」
そう言いながら、体を起こし入れたての熱いお茶を喉に入れた。
8年間の生活で人間界の味もそれなりに理解できるようになった。
もちろん糖分を含んでるいる方が好みではあるが。

「やっぱ疲れた時に飲むお茶が格別においしいわ。そう思わない?」
そんな他愛のないことを研修医に話しかけた。

「はは、そうなんですか。僕も早く体験したいですね。」
彼は戸田久美子のような長い時間は入っておらず今日も深夜のみのシフトだった。

「そうね。早く正規の医者になれるといいわね。」
彼の医師としてのポテンシャルは、まだ未知数で測りかねているというのが本音だ。
それは病院側でも同じのようであり、1番の実力者である戸田久美子の下につける
という一番手っ取り早い手段をとった。
その事については彼女はあまり乗り気ではなかった。
自分が理解するのと相手に理解させるのは全くの別物だ。
人にものを教えるというのは彼女にとって未知の領域だった。
いい加減な教育では当然、正規の医者に迎えられるなんて事はないだろう。
まだ彼は若いから、ここで失敗してもやり直しはきくだろう。
もちろん一番求められているのは彼の素養と努力だ。
それでも彼の将来の一部を握ってるのは確かで、そう考えると責任は結構重い。

戸田久美子は自分はあまり人にものを教えたり、道を示したりする役柄は向いてないと
思っていた。
それは今まで自分の為になる事でしか行動を起こさなかったからだ。
そして何より人に介入する事で、重荷になったり、逆に相手の重荷になったり
するのはごめんだった。

と同時にいつかこういう日が来るというのも薄々は感づいてはいた。
学生時代はともかく、社会人として仕事をし、どこかに属すというなら
人との接点は避けられない。
戸田久美子の能力なら人の上に立つのも自明の理だ。

それにこれは自分に命じられた仕事だ。
仕事として上から与えられたものはこなさないといけない。
反抗して上司に目をつけられるのは困るし、自分が放り出しても
誰かがやらなくてはいけないのだ。

そうあれこれ考えたところで結局はやらなくてはいけない。
それなりの立場になったのだから自由奔放に振舞うわけにもいかないのだ。
最も人間として暮らしてきた8年間、自由など感じた事はないのだが。



と複雑な彼女の胸中を彼が知る筈もなく、彼は雑談を始めた。
内容は他愛の無い話だった。
ひとしきり会話をした後、研修医は書類をまとめるとの事で、「では、失礼します」といい
休憩室を後にしようとした。その時に戸田久美子は声をかけた。
「田中君、君確か7時であがりよね?その時ついでに起こしてくれないかな?
 ちょっと仮眠とるからさ。」
と研修医田中・・・田中利一に頼んだ。

田中利一は微笑んだ後に
「はい、了解です。」
といいドアをあけ仕事に戻っていた。



田中利一が去った後に自分のいる位置と丁度対称にある壁にかかっている時計に目をやった。
午前3時27分を指していた。
「今からだと・・・3時間半は寝れるわね。」
この時間は彼女には非常に貴重な時間だ。
仮眠用の簡素な毛布を持ってきてソファーにまた寝転んだ。
そして目を閉じるとすぐに睡魔が彼女を襲った。
眠りに落ちるのに数分とかからなかった。















「・・・生。戸田先生。すい・・せん。起き・・ください。」
田中利一の声が途切れ途切れに頭の中に響く。
眠気のせいか、それを疎ましく思いながらも、すぐにああもう時間かと自分の置かれてる状況を
把握する。鈍いながらも徐々に体を起こし
あくびをしながら腕を天に伸ばし少しでも眠気をまぎわらそうとした。

「ふあー もう時間か。ありがとう起こしてくれて。」
戸田久美子は田中利一に礼をいいながら首を左右に振った。
その際にコキコキという擬音が田中利一の耳にも
ハッキリ聞こえた。

「お疲れ様。今日はとりあえずこれで上がりよね?」そう彼に尋ねる。

「ええ、そうです。先生、大丈夫ですか?大分お疲れのようですが?」
田中利一は彼女の体が何気に心配だった。と同時にこの人はサイボーグか何かではないか?
という疑問もあった。
もちろん後者は冗談めいた考えだが、彼女の働きぶりを考えると
そういった考えが出てもおかしくはない。

「ま、私たちは上の命令に従うまでね。
 それに慣れればこんな事も案外できたりするもんよ。」
彼の問いにそう諭すように答えた。

「へぇーやっぱ先生は凄いですね。」
さらっとそんな事を言える戸田久美子に彼は素直に感心した。
医者への熱意は高いものの、さすがに戸田久美子のようにやれる自信は彼にはなかった。
畏怖すると同時にやはり人間じゃないのかもと邪推してみたりもした。

「じゃ、私はそろそろいくわ。田中君は今日の深夜も入ってるから遅刻しないようにね。」
そう言いながら彼女は休憩室を出た。後ろからは、はいお疲れ様ですという声が響いた。



その後は主に書類やカルテ等に目を通した。いわば書類整理の類だ。
戸田久美子はこういった仕事もうまくこなせるが量が膨大なのでこちらも相当の精神力を使う。
もう手術が1件も控えてないのがせめてもの救いだった。



そしてようやく彼女にもひとときの安息の時間が訪れた。
あくまで「ひととき」であり、すぐに激動の時間に押し戻されるのだが。

「先生、お疲れ様です。」 「今日もお疲れです。」
出口に着くまでにすれ違う医師や看護婦にねぎらいの言葉をかけられる。
それは仕事をしている人間同士であれば当然のコミュニケーションであり、
戸田久美子もそんな習慣はもうすっかり身に染みている。
8年前はそんな「当たり前」とされていることですら驚いたりしたものだ。
「お疲れ様です。」と相槌を返しながら外に出た。


病院の外に出た瞬間に戸田久美子は顔をしかめた。
昨日ここに来たときよりもさらに高い気温が彼女を襲ったからだ。
湿気も当然上がっていて、彼女はより一層疲労感が増した。
そんな事を思いながらもようやく家に帰る事ができた。
といってもやる事は実に少なくて、シャワーを浴びインターネットで
目に付くニュースを簡単に確認して、後は寝るぐらいのものだ。
彼女は家に帰ったら大体こんな感じで過ごしている。もう何年も。
今日も今まであった多くの日となんら変わらない。
また次の出勤にそなえて寝ることにした。携帯電話の
目覚ましを5時間後にセットしベッドに潜り込む。

今の暮らしは彼女にとって何も不満はなかった。
激務ではあるが、女が1人で暮らしていくには十分すぎる程の給料。
今住んでいるマンションも一等地だ。
老後を考えて貯蓄もそれなりにしてある。



このまま自分は静かに老いていき、そして1人で静かに死んでいく。
それでいい。そう彼女は思った。












目覚ましの音を敏感に察知し、すぐに目を覚ました戸田久美子。
眠った時間が中途半端で若干機嫌が悪いのだが、ぶつける相手もいないので
洗面所に行き、冷水で無理矢理目をこじ開ける。
昔はこの時間がかなりしんどかった。
なにせ彼女はかなりの低血圧だったからだ。
それが今となっては息を吐いて吸うのと同じくらいの行為だ。
こういった人間の適応能力の高さに彼女は感心すると同時に感謝もしている。
そうしていつもの身支度をしてマンションを後にした。






地下鉄の中は時間も時間でありかなり閑散としていた。
朝の出勤時の騒々しさが嘘のような静けさである。
眠気もすっかり覚めた戸田久美子は特に考えることもなく
自分以外は誰もいない車両で窓から外を眺めていた。
といっても地下鉄の外から見る風景など真っ黒で何も面白くないし
もう腐るほどこの景色は目にしてるので何も思うところはない。




病院に着くとやはり、こちらも時間が時間だけに静まりかえっていた。
その様子は普通の人が見たら不気味に感じるだろう。
もう慣れたが戸田久美子も例に漏れず、最初の夜勤は人並みに怖かったものだ。
その時はそんな女らしい感情が自分にもあるのだなと感慨深かった。
カツーンカツーンと自分のハイヒールの音がいやにけたたましく響く。
前日の当直の時とは違い、休憩室までの道のりでは誰ともすれ違わなかった。


休憩室に入ると既に田中利一が白衣に着替え待機していた。
戸田久美子に気づいた彼は簡単に挨拶をした。
「あ、おはようございます先生。」

「ええ、おはよう。」
彼女もならって簡単に挨拶を返す。

「どう?深夜の勤務は慣れたかしら?」
自分のロッカーから白衣を取り出し(といっても看護婦が着るものではなく男性の医師
が着るようなタイプ)更衣室に向かいながらそんな問いを彼にぶつけてみた。

「いや〜仕事自体は慣れてきたんですが、やっぱ夜の病院って正直不気味ですよね。
 ことさらこれだけ大きい病院になると。」
やはり彼も怖いみたいだ。
最も夜の病院の雰囲気が好きだなんて人物には一度もお目にかかった事はないのだが。

「深夜の勤務は今日で何回目?」

「そうっすね。今日で3回目ですかね。」
戸田久美子の問いに少し間を置きつつそう答えた。

「そう。それじゃあまだ慣れろっていうのは酷だわね。」
クスッと少し含み笑いをしつつ彼にそう言った。

「ま、それもそのうち慣れるわよ。」
続けざまにそんな事も言った。

更衣室の中で着替えながらそんな話をしている刹那、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
「どうやらお仕事みたいね。今日は昨日みたいに暇じゃなさそうよ。」

田中利一にそう言い、彼の緊張を促した。
「そうみたいですね。」

「先に患者の様子を見てきて。私も着替えたらすぐ行くわ。」

「わかりました。」
田中利一は了承すると同時に休憩室を出た。
戸田久美子も着替える動作を速め、すぐにその場を後にした。









救急車のところまでたどり着くと、既に寝台に患者が寝かされて運ばれようとしていた。
田中利一のところに向かい、状況を彼に聞く事にした。

「先生、患者は女性で年齢はおそらく20前半から半ばぐらい。
 容態は栄養不足による衰弱と見て間違いなさそうです。
 外傷は救急車の医師の話だと見当たらないようです。
 病院に電話をしてくれた人の話ではどうやら路上に倒れてるのを
 発見して救急車を手配してくれたみたいです。」
淡々と田中利一は戸田久美子に状況を説明した。

「どのような経緯でそうなったかはわかりかねますがね。
 処置をよほど間違えなければ命に別状はなさそうですね。」
とさらに説明を加えた。

「そう。わかったわ。ありがとう。」
軽く礼をいうと同時にどうも戸田久美子は引っかかった。
20代前半と思われる女性がこんな時間にしかも栄養失調のような病で運ばれるなんて
自分が勤務してから初めてのケースだったからだ。
しかし世の中何が起こるかなんてわからず、患者としてきた人がいるなら
どんな人間であろうと対処しないといけない。

何はともあれ、とりあえず顔を確認する事にした。
そうしなければ始まらない。
そう思いその患者の様子を見るために救急車へと足を向けた。
運転してきた医師に簡単なねぎらいの言葉をかけ、その患者に近づき顔を確認した。

「なっ!?」

顔を確認したさい彼女は声を表に出してあからさまに動揺してしまった。
いつも冷静にいる彼女とギャップのあるその姿に周りの医師や田中利一は驚いた。

「どうしました?先生?何かありましたか?」
普段あまり感情を表に出さない戸田久美子が珍しく焦燥している。
何かあったのかと田中利一は気を揉んだ。
その彼の一言にようやく自分が普段見せている自分ではない事に気づき我に返った。

「あ、ええなんでもないわ。なんでもないのよ。」
同じ言葉を反芻させる事により落ち着きを取り戻そうとした。
自分でもここまで感情の起伏が激しくなってしまうとはと内心驚いていた。
だが冷静に考えればそれも無理がない話だ。

その患者の顔は8年前からもう見ていない、だが確実に見知った顔だったからだ。




その患者は


そう氷室キヌだった。













4話目です。
中繋ぎ的な話なのであまり動きがなく退屈かもしれません。

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