「それで、一体エミさんはナニを怒ってたんでせうか?」
ご機嫌が一転した彼女に、おそるおそる問い掛ける。
…顔に当たる柔かな感触を、断腸の思いで意識から逸らそうとしながら。 まぁ、思いっきり顔に出まくっているのだが。
「ホント、おたくって…」
一瞬ぼけっとした端正な顔が、すぐに年相応のくすくす笑いに取って代わる。
衝動的な笑いの後、人差し指を頬に当てちょっと宙を見据えて考え込んだエミは、ゆっくりと口を開いた。
「そうね、例えばおたくと私が立場が逆だとして…
もし、おたくの知らない忠夫がやった事を理由に、私がおたくを嫌いまくったとしたら。
その時、どう思う?」
「そんな理不尽な…」
ちょっぴり想像して、どよーんとした声で横島は答えた。
普段が普段だけに嫌われるのは慣れているが、それでもそれが嬉しい筈なんて無い。
「そうよね。
今のおたくは今のおたくなんであって、私の記憶の中にしか居ないおたくじゃないもの」
「えっ?
ええっと、俺が俺で俺じゃなくて…?」
なまじ時間移動などと言う異常事態そのものにすら、すっかり慣らされていた横島である。
却ってその所為で、それから引き起こされる状況をロクに考えていなかったのだ。
「おたくの記憶の中の私も、そりゃあ確かに『小笠原エミ』なのかも知れないけど…
でもそれは、今ここに居る『私』じゃあないワケ。
忠夫は、理解してないのに判っていたのかしらね? こっちの私たちが、おたくの知ってる私たちじゃないって事を」
一通りを聞き出し理解した上で思い返して見ると、エミにはこれまで横島が向こう通りの付き合い方で自分たちに対応していた訳でもなさそうだと、そう感じていた。
まぁ知り合いの全てが知っているより若いのだから自ずと変わろうものだが、それを考えに入れてもの話だ。
そんな考え々々口にされた言葉に、ようやく横島も理解し始めた。
それでもその言葉自体には、そうなのかな?、と自問せざる得ない彼だった。
自分は、こっちへ来てから出会った馴染みの人たちと、どう言う気持ちで向き合っていたのだろうか、と。
それこそ、横島がまるで考えもしていなかった事なのだから。
「それに、もう、戻れないんだとしたら…
おたくは私たちと、このまま『ここ』で生きていくしかないんだもの」
「……!?」
更に逃避していた思考へと戻されて、余計に胸の内での自問が続く。
未だに抱き締められていると言う事実すら、すっかり意識から失せてしまっているくらいに。
「俺… ホントに判ってたんすかね?
だって、エミさんはエミさんで、美神さんも神父も母さんたちだって、美神さんや神父や母さんたちで」
混乱が見て取れる様子に、包み込むような笑みを浮かべて彼女は答えた。
「こうしてる今の私と、おたくの知ってた私って、全く同じだと思う?」
「あぁ、そっかぁ…
ハハ… そう、っすよね…」
そう言われてしまえば、確かにそうだ、と横島は思った。
性格とか嗜好とかそう言う根っこの部分では、前のエミも今のエミもエミだとも言える。
だが、かつての彼女は、頼っても頼られる様な相手じゃなかった。 しかし今のエミは、一面 守りたいとすら思った、心理的には年下の少女である。
深い付き合いじゃなかったから、知らない事の方が多かったあの『エミ』。
深い付き合いになっていて、こちらでは美神よりも身近な存在になっている今の『エミ』。
同一人物の二人は、けれど自分の中では確かに別人だった。
気付いてしまったソレはまた、美神にも、そしてそれ以外の人たち全てにも当て嵌まる事である。
「ねぇ? おたく、さぁ…」
「はい?」
「もし、もしも戻れてたら…
その時は、今の私たちの事、全部 無かった事にするつもりだったワケ?」
これまた全く考えもしてこなかった質問に、再びその思考が止まる。
やがて出てきたのは、ある意味ヨコシマな答。
「ああ…
そりゃあ、ダメっすよね。 せっかくこーやって無防備に抱き着いてくれるエミさんがいっ…てぇ」
バッと手を放して立ち上がると、そのままエミは彼の頭に拳を落とした。
「おたく、ね…」
プンプンと怒りながら、逸らした顔はしかしそれでも嬉色が浮かんでいる。
今の彼女を切り捨てられないと取れる言葉は、それだけでも充分にエミを嬉しがらせるに足りる事だった。
しかしそんな彼女とは逆に、横島は肩を落とし俯くと膝を抱えて座り込む。
「俺… でも、今の状態が、いつもの続きなんだと思ってたんすよ。
過去だの異世界だのどんなに違うトコ行っても、いつも通りに元のトコに戻って来るんだって、そう思ってた。 俺一人じゃ戻れなくても、きっと誰かが何とかしてくれるって…」
小さくなった様にすら感じられる彼の隣、肩が触れ合うくらい近くへとエミは再び腰を下ろした。
そうして彼の言葉を待つ。
「でも、それじゃダメなんだって、気付かなきゃいけなかったんすよね。
起きちまった事は戻らないんだって、俺は知ってた筈なんだから」
そう言って横島は、柔らかく見えないナニカを包み握るように、上へと開いていた掌を動かした。
「おたく…」
エミは再び、彼の小さな身体をギュッと抱き寄せた。
「ちょ、エミさ…」
「暫くこうしてなさい。
私を悩ませた罰なんだから、逃げるのも変な動きをするのも許さないワケ。 いいわね?」
理不尽な言葉に、しかしそれでも力が抜ける。
そんな横島に、彼女は ふふっと微笑んだ。
「おたくは、さ…
死んだ両親以外で、最初に出来た私の味方だった」
いや、ちょっと違うか、と口の中だけで自嘲する。
打算込みだったとしても、それ以前から伸ばされた手は有った筈なのだ。 子供であったが故に反駁し、また逆に利用してやろうと息巻いていただけで。
それでも、そんな彼女が受け入れずに居られなかった存在としては、『最初の』と言う言葉に偽りは無い。 状況が状況だった事もあるが、それでもあの出逢いは今のエミにとって大きな意味を持つモノだった。
「だから、私も忠夫の味方で居る。
その事はちゃんと覚えとくワケ」
照れ臭げに言い切ると、エミは抱き締める腕に力を篭めた。
少し肌寒い空気に晒されながら、二人は暫くの間そのまま座り込む。
満天の星空の下、一つの影を形作ったまま、ずっと。
・
・
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「あら? おはようございます、横島さん。
ずいぶん早いんですね」
差し込む朝日に半ボケの頭を起されて、当て所無く食堂に顔を出すなり掛けられた言葉。
それは、小竜姫からのものだった。
「あ、おはようございます。
今日はちょっとあって、まぁ…」
苦笑いで誤魔化す。
本来なら、出来るだけいつまでも寝ていたいクチの横島だ。
そんな彼が、こんな早い時間から起き出してきたのは言うまでもない。 猿神に聞かされて帰還の途方もない困難さと、昨夜のエミとの会話で気付かされた現状とで、柄にも無い事に眠りが浅くて短かくなったからだ。
「小竜姫さまこそ、すごく早くないっすか?」
「私は朝のお勤めもありますから」
修験者や僧侶じみた節制を、自らに課している彼女である。
それに、朝を始め食事の仕度は彼女の担当なので、朝は早いのが当然なのだ。
なんとなく二人して卓を挟んで腰を下ろす。
「小竜姫さま、お茶が… って、あんたも居たの?」
そこへ、お盆を手にした美神が、台所から現われた。
彼女はそのまま小竜姫の横に座ると、3つの湯呑みに急須からお茶を注ぐ。
何だかんだでしっかり6人分用意していた様だ。 お盆の上には、伏せた湯呑みがやはり3つ鎮座している。
…鬼門たちの事は、ナチュラルに忘れているらしい。
「あ、どもっす」
手ずからお茶を淹れる彼女をぼうっと見ていたから、ちょっと反応が遅れる。
おキヌが来てからは、お茶酌みを始めとした雑用は彼女の担当だった。 また、それ以前や居なかった間は、横島がしていたのだ。
だから、気が向いた時にしか見れない美神のそんな姿は、彼にとって結構レアなモノだったのである。
ずずっと啜ると身体の奥が暖かくなり、だんだんと頭がはっきりして来る。
目の前の二人を眺めながら、昨夜のエミの言葉を思い返した。
美神たちもまた、彼の知っている、そして彼を知っている『彼女たち』ではないのだ。
「ん? なによ?」
「えっ? いや、その、相変わらず二人とも美人だなぁ、と」
下手な誤魔化しに、小竜姫はニコニコと、美神はフンと顔を反らして、それでも嬉しそうな顔をした。
小竜姫にとっては、横島は謎な所もあるが見掛け通りの子供。 美神にしても、ちょっと羽目を外し過ぎているエロガキとは言え、まぁ同じ師を仰ぐ弟子同士である。
二人共に彼への大きな隔意は無く、また共に若い女性であるだけに、自身の容姿を誉められればけして悪い気のしよう筈が無い。
「なーに ませたコト言ってんのよ。
ちょっと気を使ってやれば、すぐ調子に乗って…」
ボソっと美神が零した言葉に、横島は首を傾げた。
そんな彼を笑って見遣ると、小竜姫が補足する様に言葉を続ける。
「なにやら昨夜の鬱屈は晴れたみたいですね。
老師の下から戻られてから ずっと固い表情をしていましたから、美神さんも唐巣さんも気にされてたんですよ」
「ちょ、小竜姫さま。 別に私はコイツの事なんか…」
ふてくされた様な抗議を、小竜姫は大人の余裕で軽く往(い)なす。
「あら、けど、今朝だって…」
「そ、それは…」
「えっと…」
美神の容易に見せた幼い動揺に、少し感動しながら横島は思わず口を挟んだ。
「いい? エミにしてもアンタにしても、変に沈んだ顔されてたら張り合いってもんが無いのよ。
それだけなんだからね、他に別の意図とかなんて全然 無いわよ。 判ったわね?」
「は、はあ…」
クスクスと言う小竜姫の小さな笑い声に、美神が更に顔を赤くして台所へと逃げ出して行く。
あっけにとられて見ていた横島の中で、僅かにズレて不安定だったナニカが、ストンと収まるべき所に落ち着いた。
・
・
・
その頃。
この日 場内にいた一行の中で最後に起き出したエミは、顔を洗おうと歩き出した廊下で、朝のお祈りを済ませた神父と出くわしていた。
「うん」
「なんですか?」
自身へ視線を向けての彼の呟きに、エミは不審げに問い掛ける。
「いや、エミ君も今日は機嫌が良くなっているようだね」
そう言われても、寝足りていない頭は明快に働いていない。
小首を傾げる彼女に、柔らかく笑うと神父は更に言葉を続けた。
「昨夜、食事の頃から何やら不機嫌そうだったからね。 忠夫君もらしからぬ様子だったし、だから彼と何かあったのかと心配してたんだよ。
しかし、どうやらもう解決したのだろう? さっきちらりと見掛けた彼の様子と言い、今の君の険の取れた顔と言い、共に打って変わって明るくなっている様だし。
だから、そうならば良かったと思ってね」
そう言って、うんうんと笑顔で頷く。
「彼の大聖さまへの相談事 絡み、だったのだろう?
私が力になれなかったのは、まぁこればかりは残念だが… とにかく、良い結果に落ち付けたのなら何よりだよ」
言いながらちょっと寂しそうに笑う彼を見て、あぁこの人もだった、と改めて思う。
自分へも横島へも、神父は本当に親身になって気遣ってくれる。 少々度の過ぎた人の良さこそ、こればかりは困ったものだと思わなくもないけれど、それでも彼もまたエミにとって大切な味方の一人だった。
こくりと頷くと、続けて彼女は補足する様に言葉を繋いだ。
「きっと…
きっと神父には、いつか忠夫から話すと思います」
「そうかい?
ならば、その日を楽しみにしていよう」
エミに気を使わせたと見てなのか、頷く彼の笑顔はいつもの明るいモノに戻っていた。
「と、そろそろ食堂に向かわないといけないね。
小竜姫さまが、もう仕度を済ませてしまわれているかも知れないし」
「あ、はい」
言うなり踵を返した彼の後ろを、エミもすぐに追い掛けた。
まだまだ数日は、このお山での修行も続くのだ。
至らないなりにも、やれる事はやっておかないと。 今の彼女自身では、まだ些細な事しか出来ないだろうけれど。
それでもここで得た糧は、あの年上の弟分と一緒に歩み続ける為には必要になろうから。
そんな事を考えながら、エミは食堂へと足を進めた。
こどもチャレンジ (終)
妙神山とか言う所から帰って来た、その日の晩。
食事を終えた団欒の席で、彼女たちの息子は真剣な顔で口を開いた。
「あのさ…
俺、母さんたちに言わなきゃなんない事があるんだ」
漸くか。
そう夫と顔を見合わせると、百合子も居住まいを正す。
これから息子が言おうとしている事は、きっと大事な事だろうから。
抱え込んでいたものに区切りが付いたのだろう事は、戻ってきた時から判っていたのだ。
その顔を見れば すぐに判った。 だって、何より大事な息子の事なのだ。
だから、それがどんな話だとしても親として受け入れる。
おそらくは、予想も付かない突飛な話だろう。
だが何が出て来ようが、それでも真摯に受け止める。 これからも変わらぬ親子で在り続ける為に。
そんな内心の覚悟を面に出さず、二人は息子が続きを口にするのを黙って待った。
「実は、さ…
俺…」
【おわり】
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