TVの中でキツネが言った。
『ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら』
―――――― 手袋を買いに ――――――
美神は時々黙り込む。
みんなで食卓を囲む団欒の最中や、仕事帰りに車を運転している途中。
事務所に来たての頃、それが不思議で唐巣神父の教会まで彼女についていったことがあった。
ヒトに興味がある動物がそうするように、キツネの姿のまま頭にちょこんと乗っかって・・・・・・
あの時はすぐに横島たちが来て騒がしくなっちゃったけど、今は―――
人間社会のことを知るため、美神の事務所で暮らすようになってどれ程の時間が流れたのだろう。
今の私は美神が黙り込む理由を何となくわかるようになっている。
だけど、かける言葉を見つけられない私は、ただ黙ってあの時と同じように彼女の頭に乗っかるだけ。
美神の側らにはすやすやと寝息をたてる妹。
見る者がいなくなったTVから流れる幼児番組のアニメだけが、部屋を包もうとする静寂をかき消していた。
物思いに沈む美神の様子をうかがいながら、私はぼんやりとTVを眺めている。
画面の中では、巣穴で目覚めた仔ギツネが雪舞う表に飛び出ようとしていた。
『母ちゃん、眼に何か刺さった、ぬいてちょうだい早く早く!』
ショッキングな出だしに引き込まれた私は、画面の中の母ギツネと同じく心配の表情を浮かべそうになっていた。
しかし、彼女よりも早く仔ギツネの目に刺さったものに気づくと、気恥ずかしさを誤魔化すように鼻先から息を吐き出す。
子ギツネの目に刺さったのは雪の反射による眩しい光。
そして、それは殺生石から生じた私が、初めて目を開いたときに味わった錯覚だった。
私と子ギツネの違いは、目に刺さったような感覚がただの眩しさだと教えてくれる母親がいるかいなかったかだけのこと。
あの頃の私と同じように、眩しさに目が慣れた子ギツネはおっかなびっくり見慣れぬ景色のなかをしばらく歩き回り、枝から落ちる雪に驚き巣穴に逃げ帰るのだった。
『お母ちゃん、お手々が冷たい、お手々がちんちんする』
―――当たり前でしょ・・・・・・雪の中歩いたんだから
つい口にしそうになった言葉に、私は口元を歪める。
全く・・・・・・TVに反応するなんてバカ犬じゃあるまいし。
TVの中、母親に甘える仔ギツネの姿。
母ギツネは濡れて牡丹色になった仔ギツネ両手に、は――っと息を吹きかけてから、温かな手でやんわり包みこむ。
不思議なことに、母というものがいない私にも母性があるらしい。
手のかじかみがとれ、笑顔を浮かべた仔ギツネに口元がゆるむ。
そして、母ギツネが口にした今夜手袋を買いに行こうという言葉に、私は安堵にも似た気持ちを感じていた。
町の明かりを見た母ギツネが足を竦ませるまでは・・・・・・
『母ちゃん何してんの、早く行こうよ』
仔ギツネの急かすような声が響く。
TVの中では、母ギツネが人間に追われた過去を思い出し足を竦ませていた。
そのシーンを見た私の脳裏に、自衛隊に追いかけられた記憶がフラッシュバックする。
けたたましいヘリの音と獰猛な軍用犬の唸り声。
鉄と油と火薬のニオイが、軍靴の響きとともに私を包囲していく。
自分という存在を否定しようとする国家規模の意志。
人間に追われた過去を持つと言う母ギツネには、町に住む人々があの様に見えてしまっているのだろう。
どうしても足を踏み出せなくなった彼女は、仔ギツネの右手を取ると意識を集中しギュッと握りしめる。
姿を変えた自分の右手をしげしげと眺める仔ギツネに、母親は言い聞かすように語りかけた。
『それは人間の手だよ。いいかい坊や・・・・・・』
母親は町の中にある帽子屋の見つけ方を口にする。
既に店じまいしている帽子屋の雨戸を叩き、空いた隙間から人間の手だけを覗かせること。
そして、この手に合う手袋を欲しいと言うのだと教えると、仔ギツネの手にお金を握らせる。
絶対にキツネの手は見せてはダメだと何度も念を押しながら。
『人間はね、相手が狐だと解ると手袋を売ってくれないんだよ、それどころか、掴まえて檻の中へ入れちゃうんだよ、人間ってほんとに恐いものなんだよ』
『ふーん』
さほど深刻には受け止めていない返事。
人間を見たことはない仔ギツネに、母親の心配は完全には伝わらないのだろう。
心配そうな母ギツネに見送られながら、仔ギツネは町の灯を目あてに雪あかりの野原をよちよちと歩いて行く。
始めのうちは一つきりだった灯が二つになり三つになり、やがて十ほどに増えた頃には、仔ギツネの頭から母ギツネの注意は抜け落ちてしまったようだった。
町の家々は既に雨戸を固く閉ざし、通りを行く仔ギツネに気づく者は誰もいない。
しかし、高い窓からもれる明かりを見上げ、団欒の声に耳を傾ける仔ギツネの姿に、私は微かな不安を感じている。
多分、仔ギツネは母の忠告を聞かず、キツネの手を帽子屋に見せてしまうのだろう。
その時、店の主人はどんな反応をするのだろうか?
仔ギツネを待つであろう運命に、私は美神母娘との出会いを思い出している。
キツネの手を見せた私を気にした風もなく、平然とキツネうどんをすすり続けた母娘を―――
願わくば帽子屋の主人が良き人間でありますように。
とるに足らない幼児番組のアニメに、私はすっかり引き込まれていた。
結論から言えば物語はハッピーエンドを迎える。
帽子屋を見つけた仔ギツネは、母親に言われたように雨戸をノックし、そして開いた戸から漏れた明かりに驚きキツネの手を差し出してしまう。
店の主人は多少驚いたものの、可愛らしいキツネの手に合う手袋を渡してやる・・・・・・ただそれだけだった。
それなりに心温まるシーンだったが、お金を本物と確認してからの主人の行動に、私は乗っている頭の主を連想し笑いそうになっていた。
温かな手袋を手に意気揚々と帰る帰り道。
仔ギツネは窓から聞こえてくる人間の子守歌に母親を思い出す。
一目散に町の外れで帰りを待つ母ギツネの元へ飛んで行った仔ギツネは、無事を喜ぶ母親の胸に飛び込むのだった。
『母ちゃん、人間ってちっとも恐かないや』
手袋のはまった両手をパンパンと見せながら、仔ギツネは帽子屋での出来事を楽しそうに話し出した。
呆れ顔を浮かべた母ギツネの一言でこの物語は終わりを迎える。
『ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら』
この一言に、急に私は現実へと引き戻された。
母ギツネはまだ完全に人間を信じた訳ではないらしい。
彼女が過去に受けた仕打ちの記憶は、仔ギツネが手袋を買えたことで消えるのではないのか?
この物語を書いた作者が内包する悩みが、私の胸に染み込んで来るようだった。
多分作者は人間を信じられない時にこの物語を書いたのだろう。
善悪しかない二元論で人間を語れないことは私にも理解できる。
しかし、母ギツネでも仔ギツネでもある私は、この物語をハッピーエンドにしたかった。
―――本当に人間はいいものよ
私は胸の中でそう呟くと美神の頭から飛び降りる。
その後にする行動は既に決まっていた。
人間の姿に化け、彼女の手を握り少しだけその手を温める。
図太い根性で何処までも我が道を行く美神の、子供のように躊躇い震えている心を後押しする為に。
そして私は、独り凍えている美神にアパートのドアをノックしろと伝えるのだ。
手袋以上に温かいものを、彼女が手に入れられることを祈りながら。
―――――― 手袋を買いに ――――――
終
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