机の上には、書類の山。
それを半分くらい片づけたところで、皆本は、溜め息をつく。
「ふうーっ」
お見合い騒動に端を発した、バベルとパンドラの争い。
だが、あれは仕事だったわけではなく、皆本は、休暇をもらって帰省中だったのだ。
だから、職場に戻れば、当然のように仕事が溜まっているのだった。
そんな彼に、
「夜遅くまで、ご苦労様です」
柏木朧が声をかける。
彼女がまだ帰っていなかったとは知らなかったし、部屋に入ってきたのも気が付かなかった。
それだけ皆本は、仕事に集中していたのだろう。
「あ……。
ありがとうございます」
軽く頭を下げる皆本。
朧の両手のティーカップが、目にとまったのだ。二杯ということは、一つは皆本の分のはず。
「どうぞ」
と、勧められるがままに、口を付ける。
一口飲んだ途端、
「……うまい」
皆本の唇から、思わずストレートな感想がこぼれた。
純粋な感嘆の口調と表情だ。
気持ちが和らいだ皆本は、軽い冗談を続ける。
「さすが『柏木マジック』ですね」
誰が呼んだか、柏木マジック。
朧がいれる紅茶が、反バベル派の役人をも黙らせることから、そうした通称が生まれたのだった。
「あら、やだ。
皆本さんまで、そんなことを。
私は、ただ……」
「『真心をこめただけ』……ですか」
「うふふ。
まあ、そんなところですわ」
微笑みで誤摩化す朧。
彼女が役人に向ける感情と、皆本に向ける感情。それらが同じはずはない。
だから今回は『真心』ではなく、もう少し別の気持ちが入っているのだが……。
そこに考えが及ぶ皆本ではなかった。
バベルに帰ろう「皆本さん、大変でしたね」
ちょうど仕事もキリがいいところだったので、しばしのティータイムとなった。
話題は、いつしか、先日のお見合い騒動に。
そこで他人事のような感想を述べた朧を見て、皆本は苦笑する。
「柏木一尉だって参加してたじゃないですか」
「あら。
それにしても……
皆本さんも罪なオトコですわね」
「え?」
「お見合い相手の話ですわ」
アッサリ受け流して、話題を変える朧。
「むこうは、皆本さんが初恋だったんでしょう?
でも……お話を聞くかぎり、
皆本さん、その気持ちに
気づいてなかったみたいじゃありませんか」
全く、そのとおりである。
菜々子からも『皆本クン、ちっとも気づいてくれないんだもん。もう女の子にあんな思いさせちゃダメよ』と言われたくらいだった。
「いや……まあ、
子供の頃の話ですから」
と、言いわけする皆本。
一般に女性の方が男性よりも精神年齢が高いとも言われているのだ。小学生くらいならば、その差は顕著に現れるのだろう。
「ふふ……。
でも、鈍感なのもヒーローの条件ですからね」
そう言って、皆本に微笑みかける朧。
子供だったからではない。今だって皆本は、女性心理に長けたタイプではないのだ。
以前、『皆本さんはツンデレ好き』と吹き込まれた朧は、皆本の部屋で食事まで作って待っておきながらツーンとした態度を示したことがある。
だが皆本は、それを本気に受け取ってしまい、丸くなってガタガタ震えて『すいません。生まれてすいません』と繰り返すほどだった。
そんな一幕も思い出しながら、
「……皆本さん、こんな話を知っていますか?」
朧は、どこぞの大佐のようなセリフを口にする。
それは、彼女が若い頃に流行った漫画の内容だった。
「主人公は鈍感な男のコで……。
ヒロインがアパートの部屋に行って、
掃除をしてあげたり御飯作ってあげたりしても、
彼女の気持ちは、全く気づいてもらえないんです」
そのヒロインだけではない。
もう一人、ツンデレなヒロインも用意されていたが、そちらの気持ちにも、主人公は気が付かない。
いや、他の女性キャラクターだって――中には恋心かどうか定かではない者もいるが――、ほとんどが主人公を大好きなのに……。
「それでも主人公は、
自分のことを『モテない』と思い込んでるんです」
「ハハハ……。
そこまで極端だと、まさに漫画ですね」
笑って返す皆本。
なぜ朧がそんな話を持ち出したのか、理由も分からなかったが、特に追求しようという気持ちにもならなかった。
そこで、今度は彼の方から話題を変える。
「あ、ところで、見合いと言えば……」
お見合いオバサンの槍手が、朧に照準を合わせたらしいのだ。
あの場では『柏木さん、最近悪ノリが過ぎるからな。この際、放っておこう』と言ったものの、こうして朧と談笑していると、少し気が咎めてくる。
だから皆本は、その件を警告するのだった。
「あら。
大丈夫ですわ。
私……
お見合いする気なんてありませんから」
「でも、断るのも難しそうですよ?」
しかし、よくよく考えてみれば、心配する必要もないかもしれない。朧ならば、その辺、上手く立ち回ることだろう。
実際、今、朧の顔には余裕の笑みが浮かんでいる。
「ふふふ。
まだ結婚する気なんてありませんわ」
そう言って、なぜか朧は。
空になったカップを、机に預けて。
自らの両手を、皆本の左手の上に重ねていた。
「柏木一尉……?」
不思議に思う皆本。
よく見ると、朧の瞳に浮かぶ色が、いつもと違うような気がする。
彼の視界の中で、朧の唇が動く。
「皆本さん、私……」
言葉が紡ぎ出される唇。
しかし、皆本は、それを遮ってしまった。
「また……ですか。
……今度は何でしょうか?
あの、見てのとおり、
今は仕事が溜まっているので……」
「え?」
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皆本は、まだハッキリ覚えていた。
かつて、チルドレンの指揮官になる際。
渋る皆本に対して、朧が何をしたのか。
「あなたには寄り道かもしれないけど……
あのコたちには今、
あなたのような人の手が必要なんです」
そう言いながら、彼の手に、手を重ねてきたのだ。
左手の人差し指に、左手の小指を沿わせて。
親指と人差し指との間に、薬指を流しこんで。
親指を、中指と薬指とで挟み込んで。
同時に。
肘を右手でつかんで、豊かな両胸の間に押し付けて。
「一人はさびしくなかった?」
「そ、それは……
まあ……はい」
その瞬間。
バンッ!!
桐壺局長が現れたのだった。
「よし言った!!
『はい』つった!!
言質とったぞー!!
柏木クン、ご苦労ー!!」
「んな!?」
今となっては、現状を悔やむ気持ちなどない。
それでも、朧の色仕掛けがなかったら皆本指揮官が誕生しなかったことは、事実である……。
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「……他のことにまで
手が回る状態じゃないんです。
だから、柏木一尉、
急用でないならば、
後にしてもらえますか?」
どうやら朧は、また何か頼みたいらしい。
皆本は、そう思ったのだった。
お茶もごちそうになり、気分もリラックスさせてもらい、彼としては、断り辛い心境だ。そんな中での、精一杯の返答だった。
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一瞬の沈黙の後。
「あら……そうですわね」
朧は、そう言うしかなかった。
今の仕草をどう解釈されたのか、理解したからだ。
「それじゃ、これ以上
お仕事の邪魔しちゃいけないので、
そろそろ私、おいとましますわ」
立ち上がる朧。
お茶の時間は――魔法のような時間は――、もう終わったのだ。
だから、
「では今の話の続きは、また後ほど。
……もっともっと、ずっと後で」
口に出せるのは、ここまでだ。
そこから先は、心の中に留めてしまう。
(そう、もっともっと、ずっと後で。
皆本さんが、乙女心を理解した後で……)
そして朧は、いつもの笑顔で立ち去るのだった。
(『バベルに帰ろう』 完)
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