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ネトラレ 1

今年最初の木枯らしが、襟寄せる季節の到来を告げる。
手が届きそうなほどに低くなった陽は、まさに釣瓶のごとく、名残惜しむ間もなく、足早に過ぎ去ろうとしていた。
冬の仕度に余念のない樹木たちは、色づいた衣を一葉、また一葉と脱ぎ捨て、ひらり、ひらりと音もなく舞い落とす。
身を竦ませる、冷たい北風を遮る室内に、叙情を解さないビジネス電話の、軽薄な呼び出し音が響いた。

「はいっ! こちらは美神除霊事務所でござる!」

三回目のコールで受話器を取ったシロは、文字通り元気ハツラツといった様相で電話に出る。
しかし、その名乗りに応える声はない。

「もしもし? もしもし?」

訝しむように二度、三度と問いかけるが、息を殺した背後で動く、かさかさとした小さな乾いた音の他は、返答は何もない。
露骨に不愉快そうな顔つきになったシロは、叩きつけたくなる気持ちを押さえ、過剰なまでにゆっくりと、静かに受話器を置いた。

「まーたイタズラ電話でござるよ!」

憤懣やる方ない、といった風情でシロは頬を膨らませ、肩をいからせる。
その背後から、キッチンにいて出遅れたキヌが声を掛けた。

「また? 困りますねえ」

「まったく、名前も名乗らずこそこそと嫌がらせをするなど、武士にあるまじき所業にござる!」

いや、相手はお侍さんじゃないから、とつっこみを入れたくなるのを堪えつつ、キヌが小首を傾げる。
タマモも雑誌をソファの上に放り出して、傍に寄ってきた。

「でも、なんだか最近多いですよね」

「ここんトコ毎日だもんね」

「まあ、世の中にはヒマな御仁もいる、ということでござろうか」

呆れたように手を振るシロに、タマモはちょっと悪戯っぽく茶化す。

「アンタ、またなんかやらかしたんじゃないの?」

「失礼な! 拙者がいったい何をやらかしたというのでござる?」

「まあまあ」

いつもの他愛のない喧嘩がはじまりそうなのを両手で制し、キヌはちらり、と横の方に目を見遣る。
どっしりとしたマホガニーのデスクに向かい、我関せず、といった風情で事務仕事を続けていた美神令子が、ペンを走らす手を止めて声を掛けた。

「別に気にしなくてもいいわよ。いいから、ほっときなさい」

ごく、あっさりと忠告する令子の言葉に、じゃれあっていたシロとタマモは動きを止め、きょとん、とした顔を向ける。
その反応をある程度予測していたのか、怪訝そうな視線を感じた令子が、慳貪な顔を上げた。

「……なによ?」

「い、いや、美神さんがそんなこと言うなんて意外で……ねえ?」

「こういう真似をされるのは美神どのは我慢ならぬ、地の果てまで相手を追い詰めるものだと勝手に思っておりました故」

年少の妖怪二人からの、ややもすれば失礼な評価に、令子は手にしたままのペンを放り投げて、大きく息を吐いた。

「アンタたちね、いったい私をどんな人間だと思ってるのよ」

「あはは……」

三人を俯瞰する格好で見る立ち位置に立つキヌは、力なく曖昧に笑って誤魔化す。
口にこそ出しては言わなかったものの、自分も同じようなことを疑問に思ったからだった。
幸い、令子は自分の表情には気付かず、二人を向いたまま椅子の背を鳴らして深く座り直す。

「だいたいね、こんな商売をやってれば、どうしたって謂れのない恨みや妬みのひとつやふたつは買うものよ。度が酷くなれば別だけど、嫌がらせの電話ごとき、いちいち相手にしてられないわ」

「そういうものなのでござるか?」

「アンタたちにはごく最近だろうけど、こんなのは前からしょっちゅうあったのよ」

ね、おキヌちゃん、と不意に相槌を求められて、キヌはほんの少し返答に窮する。
自分の拙い反応に、令子はほんの少し顔を曇らせるが、特に何も言わなかった。
首筋に汗が走るのを感じながら、キヌはシロやタマモが事務所に馴染む前、所長自らが電話に出ることも多かった頃の光景を思い浮かべる。

  電話のベルが鳴る。
  受話器を上げる。
  無言――

追憶の中の令子は、決まって電話の向こうに罵声を浴びせ、受話器を荒々しく叩きつけていた。
あまりにしつこいとき、あるいは、不幸にして令子の機嫌が悪いときなどは、金とつてにあかせて逆探知までしていたことも少なからずある。
その結果がどうなったか、キヌは未だに知らない。知りたくもない。

「――美神さんはオトナなのね」

言外に何かを含むようなタマモの口ぶりに、キヌは、はっとして現在に帰還する。
視界を元に戻すと、シロとタマモがデスクの縁に肘をついて、覗き込むように身を乗り出していた。
興味津々のコドモの兆発に、令子も易々と乗せられていた。

「どういう意味よ?」

「別に。ただ、最近、なんとなく余裕があるみたい、って思って」

「そうそう。何か、いいことでもあったのでござるか?」

「なんにもないわよ。ここんトコ、仕事もさっぱりだし」

「もしかして、カレシでも出来たとか?」

「ないない、ぜーんぜんない。そんなのがいたら紹介してほしいくらいよ」

タマモの更なる追求に、令子は手をひらひらさせて苦笑いする。
その、らしくない素振りが、シロの疑問を呼び起こす。
普段は、しょっちゅう意見が合わなくて喧嘩しているというのに、こういうときの息はぴったりだった。

「どうしてでござる? 美神どのほどの器量であれば、殿方なぞよりどりみどりでござろうに」

「そうですよねえ」

「な、なーに、おキヌちゃんまで! やーね、そんなのなんにもないったら!」

奇妙な方向に向かっていった矛先に便乗し、キヌまでもが興味深そうに顔を覗かせる。
いつの間にやら、シロとタマモが椅子まで用意し、長期戦の構えを見せている。
彼氏があろうとなかろうと、他人の色恋沙汰に心くすぐられるのは、いつの世も変わらぬ女の性だった。
それは重々承知していたつもりの令子でも、自分のこととなれば勝手も違う。
三方から矢継ぎ早に寄せられる攻勢を、時には門前で軽くあしらい、時には言葉に詰まりながらも交していく。

およそ一時間にもおよぶ激闘を、孤軍奮闘して辛くも凌ぎ切った令子は、文字通り身も心も疲れ果て、広いデスクの上に突っ伏している。
敵ながら天晴れな働きに、夕飯の仕度に席を立ったキヌは、今晩は令子の好きなものを作ってあげよう、と決める。
それでは、とキッチンに足を向けたキヌの耳に、令子のくぐもった呟きが漏れ聞こえた。

「――ったく、それもこれもみんな横島クンのせいよ。今度あったらタダじゃおかないんだから」

やつあたりとしか聞こえないその呟きに、キヌはふと足を止め、後ろを振り向いた。
声の主である令子は顔を伏せたまま、起き上がる気配もない。
シロとタマモははすでに興味なくしたのか、部屋の向こうでテレビに向かって座っている。
見れば、なにやらチャンネル争いをしているようであった。

キヌはほんの少しの間、じっと令子を見つめていたが、それ以上何の言葉も聞こえてこない。
耳に入るものといえば、音量を上げられたテレビから伝わる、どうでもいいような夕方のニュースだけだった。
やがて、踵を返し、キッチンの奥へと消えていったキヌには、再び令子が呟くのが聞こえなかった。

「バカ……」





夜中に降った雨に濡れる階段を、キヌは一歩ずつ、ゆっくりと踏み締める。
さすがに凍りつくにはまだ早いが、赤茶けて凹凸の減った階段は滑りやすく、塗装の剥げた手すりを掴むと、冷えきった金属から伝わる寒さが、手から、足の下から込み上げてくる。
二階建ての古ぼけたアパートの、最近近くに建った新築マンションのせいで、殊更に日当たりの悪くなった奥の部屋の前に立ち、ポケットから取り出した鍵を差し入れる。

「こんにちは」

晴れていても薄暗い玄関の向こう、誰もいないとわかっている部屋に声をかけ、後ろ手に粗末なドアを閉じる。
左手でまさぐる先に触れるスイッチを入れると、まだ取り替えていない蛍光灯が二度、三度と心もとなく瞬いて点いた。

「おじゃましまーす」

猫の額ほどの玄関でも靴の踵を揃え、申し訳程度の板の間を越えて、四畳半の部屋へと足を踏み入れる。
自分の部屋のような素振りで、壁にぶら下がるハンガーを一つ取り、いつもと同じ場所に脱いだコートを掛けた。
その隣には、時折着るようになった一張羅のスーツが、クリーニング屋の札が付いたまま、所在なげに肩を落としている。
かつて、この部屋に来るたびに目にしていた学生服は、とうの昔にその役割を終え、今では押入れの奥で、人ならぬ友人の台詞を借りれば「青春の記憶と共に」眠っていた。
そのことを思い起こされるたびに、何とも言えぬ寂しさがキヌの胸中に去来するのだった。

近頃、いつ来ても忠夫は留守にしていることが多い。
長らく見習いの身であったが、高校卒業と同時に正式なGSとなり、それなりに忙しい日々を送るようになっていた。
一応は以前と同じ美神所霊事務所の所属となっているが、自分たちと一緒の仕事を振られることはあまりなく、もっぱら忠夫一人で仕事をこなすことが多くなった。
どうやら、所長の令子は近い将来に忠夫を一人立ちさせることを考えているらしく、クライアントとの交渉事やら事後処理やらといった、今まで自分だけが行ってきた案件もある程度任せるようになっていた。
そして忠夫のほうもまた、令子の期待に添うべく日夜奔走しているのだった。

そのこと自体は、キヌも喜ばしいことのように感じていたし、ぜひ後押ししたいと思っている。
しかし、その余波でこうしてすれ違ってしまうことが多くなってしまったことを、不満に思っていないと言えば嘘になる。
ハンガーに掛かるスーツに恨めがましい目を向けてしまったとしても、仕方がないことだった。

「――さて、と」

諦めの息を吐き、気持ちを切り替えて狭い部屋を振りかえる。
以前よりはだいぶまともになったとはいえ、男の一人暮しなどたかが知れている。
コンビニの袋に突っ込まれた空弁当の容器や、清涼飲料水の空き缶を出際良く仕分け、色別に分かれた指定のゴミ袋にまとめていく。
次に、読みっぱなしのままあちこちに置かれている雑誌を拾い、部屋の片隅に積み重ねる。これだけでもずいぶんと部屋が広くなるものだ。
忠夫が毎週欠かさず買ってくるマンガ雑誌を纏め、古くなった中古車情報誌やらなにやらを集めて、ビニールのヒモで括る。
けれども、それらとは一緒に表に出すのが憚られるものもあった。

「まーた、こんなの買ってきて」

キヌは呆れた声を出しながら、枕元に置かれた雑誌をひとつ手に取って、ぱらぱらとめくる。
値段のわりには大してページ数のないグラビアには、あられもない姿態の若い女性たちが、情欲をそそらせる表情でこちらに顔を向けていた。
次々と現れる彼女たちのそれはエロスとは程遠く、男たちの下劣な情欲を満たすだけの大量生産品にすぎない。
然したる感慨もなく次々とめくっていたキヌの指が、とあるページではたと止まる。
ずいぶんと前に一世を風靡した映画のように、籐で編んだ椅子に腰かけ、大胆に足を組んでこちらを睨めつけている。
己の肉体をさらけ出して男に媚を売る仕事にも拘らず、強気で我の強そうな淫らな女は、どことなく令子に似ている、何故かそんな印象を抱かせた。
なんでだろう、と思い始めた矢先、コートのポケットに入れておいた携帯電話に、茫漠とした思考を妨げられた。

「もしもし」

相手も確かめずに出た電話の向こうから、軽やかな令子の声が聞こえてきた。

『もしもし、おキヌちゃん? 今、横島クンのとこ?』

まるで見透かされていたかのようなタイミングに、キヌは軽く動揺する。

「は、はい、そうですけど」

『悪いんだけど、すぐに戻ってきてくれない? 今夜、急な仕事が入っちゃったのよ』

「はい、構いませんけど……でも、めずらしいですね。美神さんが予約もなしにお仕事を受けるなんて」

他人の都合で動かされるのを嫌う令子は、あまり急いで仕事をするのを好まない。
悪霊という不確かなモノを相手にする以上、充分な下準備が必要ということもあるが、自分の仕事を安く売らないための駆け引きでもあった。
たとえ依頼人がどんなに高名であっても、またどんなに権力があろうとも己を通してきた。
無論、中には多少の例外、たとえば大金を積まれたときなど、もあるにはあるが。

『まあ、私にもいろいろあってね。ちょっと断わりづらいのよ』

「もしかして、隊長さんですか?」

断わりづらい、という令子の言葉に、キヌは令子の母親、美智恵のことを思い浮かべる。
Gメンには所属しているとはいえ、現在の美智恵は単なる非常勤顧問でしかないのだが、キヌは今も昔の特捜部時代の役職名で呼んでいる。
いくつになっても令子は美智恵に頭が上がらないのだが、電話の向こうで軽く否定する声が返ってきた。

『うーん、ママじゃないんだけどね。まあ、そんなとこ』

「そう、ですか。わかりました」

『悪いわね』

らしくもなく歯切れの悪い令子の話ぶりが気になったが、キヌはなるべく早く戻る旨を伝え、電話を切った。

「やれやれ。これじゃお布団は干せそうにないですよね」

部屋の真ん中で冷たく伸びている布団を眺め、キヌは肩を落とす。
今さら多少の陽に当てたとしても、年季の入ったせんべい布団が膨らむはずもないのだが、それでも多少は寝心地は良くなったに違いない。

「昔は綿打ちなんかをしたものなんですけどねえ」

遠い昔、キヌもよく手伝わされたものだが、今となっては綿弓を持っている家庭を見つける方が困難だった。
何もかもが便利になって、物が溢れる時代になったというのに、どこか失ったような気がしてならない。
ともあれ、忠夫に心地良い布団の感触を楽しんでもらうのは、またの機会にお預けとするより仕方がなさそうだった。

「じゃ、片付けて帰りますか」

キヌは今日はここまで、と区切りをつけて部屋の辺りを見渡す。
まだ、いろいろと手を入れたいところもずいぶんとあるが、これでも来たときよりはだいぶマシになった。
これならきっと、忠夫も安心してくれるに違いない。

最後に、布団の脇に開いたまま放り出してしまったグラビアを片付けようと手を伸ばしたとき、藤椅子に座る裸の令子と視線が合った。
紙の反りの具合か、はたまた光の加減のいたずらか、ただの印刷物のはずの令子の顔が気になった。
それはちょうど、勝ち誇ったときの令子の表情にそっくりだった。

「まさか、ね……」

わけもなく苛立ちを覚えたキヌは、掌を返して雑誌を閉じ、乱暴に本棚の中へと押し込んだ。
ご無沙汰しておりました、【GTY+のレディースコミック】赤蛇です(笑)
今年はどうも書けなくて悩んでいたのですが、リハビリがてら小品を始めてみます。
大丈夫だとは思うのですが、このタイトルで、この注意書きで、なおかつ作者が私であるにもかかわらず、不用意に読んでダメージを負われても責任は持てませんよw

[mente]

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