「……おキヌちゃ…」
「…………」
「おキヌ、ちゃん…」
「横島さん、大好き」
「……!」
「大好き…」
抱きしめられて、横島の手が迷う。表情は呆然としたままだ。
「彼女じゃ……ないんだよね…?」
「ええ違います」
「片思いだって…さっき…」
「そうです。ずっと私の片思い」
「君の…?」
「そうですよ。そう言ったじゃありませんか」
「…聞いてない」
「言いましたよ。幽霊の時も、今も同じです」
横島は視線を左右に泳がせた。
「どこまで…どこまでほんとなの…君の話…」
「全部本当です」
「信じられないよ。なんで君が僕に片思いなわけ?」
「だって私幽霊だったし。でも、そうじゃなくたって」
ぎゅっと抱きついたまま、おキヌは目を閉じた。
「私、私、かなわないから…」
「……」
横島は、おキヌの背の後ろで両手を交差させた。背に触れようとして、できず、手を下ろし、小さな声でつぶやいた。
「僕…消えたくないな」
「……」
「消えたくない。もう少しここにいたいよ。…君が待ってるのが…」
泣きそうに声がかすれる。
「僕じゃないとしても…。…消えたくない…」
「消えたりしませんよ!」
顔をあげて、おキヌは言った。
「でも…君…君が言うの…僕じゃないだろう…?」
「いいえ、あなたです」
おキヌは彼の手をとった。
「あなたも横島さんです。まちがいなく」
「……」
「最初はね、そう、別人みたいだと思ったの…でも」
「……」
「さっきわかりました。あなたもいるわ。あなたも横島さんよ」
「……」
「だから…」
おキヌは彼の右手を両手で包んだ。
「思い出して。私たちのこと」
「……」
「怖がらないで。何もなくなったりしません。あなたもいます」
横島は包まれた手を見た。
「信じていいの…?」
「信じてください」
「……」
横島は顔を上げた。
「わかった。信じるよ」
自分の右手を包むおキヌの両手を、さらに左手で包む。
「君がそう呼ぶなら、僕は横島だ」
「……」
薄闇の中で、おキヌはもう一度彼に歩み寄り、抱きしめた。横島が抱きしめ返す。
「横島さん」
胸に額を寄せたまま、おキヌが彼の名を呼んだ。
「なあに」
「お願いがあります」
「…なんなりと」
「水道の修理をしてください」
横島は一瞬固まった。
「は?」
「水道の修理です」
おキヌは顔を上げ、説明した。
「浴室の水道です。壊れて水が止まらないんです」腕の中、首を傾ける。「直してもらえますか」
「え?ええ?えーっと」
「…いやですか?」
「そんなことないけど…」
「じゃあお願いします。工具箱は持ってきました。あそこです」
「……」
「…どうしたんですか」
「あ、いや、あの。えーとそれ、今すぐじゃないとだめかな?」
「はい」
「いそぎなの?」
「はい。いそいでます」
「そ、そう…」
「…いやですか?」
「そ、そんなことないよ。お安い御用だけど…」
「では今すぐお願いします。場所分かりますよね」
「う、うん…」
横島はしかたなく手を解くと、テーブルに歩み寄り、工具箱ををかかえた。おキヌが部屋のドアを開ける。
廊下は、暗かった部屋とは違い、ほの明るかった。部屋から出ようとする横島に、おキヌは呼びかけた。
「横島さん」
「何」
「私を信じますか」
「…うん」
「ここを出たら振り返らないでください。何があっても」
「……」
「後戻りしないで。バスルーム、ちょっと物音とかするかもしれないけど、気にしないで。そのまま浴槽のとこに行ってください」
「…」
「まっすぐに」
心の声が導くままに。
「止まらずにそのまま。振り返らないで。…お願いします」
「…わかった」
工具箱を提げ、横島は階段を下りてゆく。おキヌはその背を見送って、心で手を合わせた。
(…横島さん……ごめんなさい…)
ごおんおん。
かすかに聞こえるうなりは、この事務所の給湯器が稼動している音だ。
この音が聞こえるということは、事務所の台所か、洗面所か、浴室か、そのどこかで、誰かがお湯を使っていることを意味する。さっき、横島に水道の修理を急がせたのはこのためだ。
時が来たとわかったから…。
(美神さん…ごめんなさい…)
おキヌは階段を降りる。階下で、かちゃ、とバスルームのドアが開く音がする。横島が着いたのだ。おキヌは階段を降りる足を早めながら、耳をすませた。
浴室のドアの向こうの水音。
かすかに誰かが、動く気配。
やがて、
「み、美神さーーーーーーーーーんっっ!!ぼかぁーもおっっ!!」
(!!横島さん……!)
その雄叫びにかぶせて、美神の驚愕の声が聞こえる。
「記憶が戻ったの?!」
(ああ……)
それに続く凄まじい物音、横島の叫び、美神の怒声、何かが殴り飛ばされて壁に激突するような音、ヒールで踏まれた豚のような悲鳴、建物全てを揺るがす地響き、
(横島さん…!ごめんなさいっ…!でもでもっ…!)
がん、ぐわごらがしゃーんっ、工具箱の中身が、床にぶちまけられるような音、そして一拍置いて、かろん、と洗面器が床に落ちるような音がして、
(……)
…そして全ては、静かになった。
(………横島さん……)
しゅうううううぅうううぅぅうぅぅ。
電気椅子に拘束された横島が湯気を立てている。
あれから…横島はすぐ復活した。浴室で再び、ちちしりふともも、と吠え、美神にここへひっぱってこられた。しばき倒してもけり倒しても、何がそうさせるのか一瞬で復活し、ちちを触らせろ裸を見せろとわめき立てるため、業を煮やした美神は、電気椅子に彼を蹴倒し、縄でぐるぐる巻きにし、目盛りを最強にして10分ほど電流を流した。
それでもその間ずっと、暴れていたのだが…
「やっと静かになったわね…」
「ちょ、ちょっと美神さんっ…!」
おキヌが抗議する。
「ちょっとこれはあんまり…。横島さん、死んじゃったんじゃ…」
「そんなタマじゃないでしょ」
「だって動きませんよ?!コゲてるしっ」
「このくらい毎回じゃない。すぐ起きるわよ」
おキヌはおそるおそる椅子に歩み寄った。
「よ、横島さん、横島さん。大丈夫ですか。しっかり…」
「……」
「横島さん、横島さんっ。み、美神さん、全然反応がありませんよ。ぴくりとも…」
「……」
「びょ、病院に…連れていったほうが…」
「……」
美神はぼりぼりと頭をかき、めんどうくさそうに椅子の方へよっていった。
「横島クン」
耳元で呼んでみる。横島は動かない。美神は肩をすくめた。
「へんじがない。ただのしかばねのようだ」
「ちょっとおおおっっ!!」
おキヌは叫んだ。
「ひどいじゃないですかっ!せっかく、せっかく横島さん記憶を取り戻したのにっ。そんな…」
「冗談よ。息はしてるわ」美神は両手のひらを上へむけた。「そのうち目を覚ますわよ」
「それにしたって…」
おキヌの目に涙が浮かぶ。
「せっかく、せっかく帰ってきたのにっ…」
おキヌは横島のえりをゆさぶった。
「横島さん、横島さん、おキヌです。しっかりしてください。あああごめんなさい、ごめんなさいっ。かんにんです、仕方なかったんです。ほかに方法が思いつかなくて…私…」
美神は横目でおキヌを見やった。
「横島さんっっ!」
泣きながらすがるおキヌの様子に、美神はため息をつき、椅子の正面に歩み寄った。
「横島クン…」
「……」
「もういいでしょ。起きなさい」
「……」
「ほら、おキヌちゃん心配してるわ。いいかげん正気に戻んなさい。これに懲りて、あんたも今後は…」
突然、横島は顔を上げた。
横にいたおキヌは瞬きし、泣き止んで彼を見あげた。
美神も瞬きする。見つめる横島の顔は、猫のように無心だった。見開かれた彼の目はまっすぐ美神に、美神の胸の谷間にあてられて――
「ちちーーーーーっっ!!」
「うわあぁっっ?!!」
びよ、と飛び上がった電気椅子に、美神は押し倒された。正確には、椅子と、それにくくりつけられた横島に覆いかぶさられ、彼と床との間にできた隙間に挟まってしまった。
椅子は背もたれが重量の支えになっている。美神は挟まっただけで別に下敷きになったわけではなかったのだが、あまりのことにとっさに反応できない。
「な、な、な…」
おキヌも呆然としている。横島だけが嬉しそうに、首を伸ばして美神の胸に頬を埋めた。
「あー、これやー…」
「だあああっ!!」
「これやー、これなんやー。俺のやー。帰ってきたんやー!!」
「な、ちょ、横島く」
「あああ…記憶のとーり…」
「ふざけんなあああぁぁっっっ!!!!」
電気椅子を吹き飛ばす勢いで、美神は起きあがった。実際椅子は横島ごと吹き飛んで、ばいんっ、と壁にぶち当たった。物理法則を無視しているが、美神の怒りのオーラが、物理法則に勝ったらしい。
「こーのーケダモノがああああぁぁぁああっっっ!!」
リモコンに飛びかかり、スイッチを押す。
「うぎゃーーーーーーーーーーーっっ!!」
スパークする電流が、明るく輝いた。
「ああああっ、ここは誰?!ボクはどこっ?!」
電気椅子で、横島が叫んでいる。
本日3度目の光景だ…。人工幽霊一号もあきれているだろう。もういい加減疲れた美神は、肩で息をしている。
「思い出すにはハダカを見たいっ!!美神さんっ!!美神さんっっ!!」
「おキヌちゃん…」
美神はおキヌを横目で睨んだ。
「…本っ当にこっちの方がいいの?!」
「え、えーっと」
美神は腰に手を当てて、つめよった。
「バスルームに横島クンを手引きしたの、あなたでしょ?」
「あ、えと」
「責任とってくれるんでしょうね??!」
「あ、あははは」
やっぱりばれてた。おキヌの顔から汗がふき出す。
「ここはどこっ?!ボクは誰っ?!」
(横島さん…)
『君がそう呼ぶなら、僕は…』
「あああああっ、もう一度、もう一度そのちちの感触が記憶のとーりか確認をーーーーっっっ!!」
……………………。
『あなたもいます。消えたりしないわ』
ああは言ったが、ほんとにそうか。自信がなくなってきたおキヌは汗を拭いた。
(い、いますよね。たぶんいると思う…。…いるといいな)
祈るしかない。おキヌはもう一度汗を拭き…
「美神さーーーーーーーーーーーーーんっっっ!!!」
事務所に響き渡る雄叫びに、そっと息をついた。
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