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Angelica

 『おねえちゃんなんか、大っ嫌いっ!!』

 第一の言葉。初めに、彼女はその言葉に支配されていた。

 心にできた雪のような白い穴。空白。
 その日は雪のようではなく雨であった。雪のように冷たい雨。灰色の空から滴り落ちる天の涙。彼女の頬を濡らすそれが、本来の熱い涙を打ち消していた。人工的なアスファルトと混じり、独特の匂いが鼻腔に入り込む。
 当然のようにできた人ごみの中、張られた黄色いテープの向こう側。次第に大きくなる喧騒。やがてそれも反比例するかのように彼女の耳の奥にまでは届かなくなっていく。
 怒涛のように押し寄せる後悔の念。彼女を押しつぶすように、押し包むように。彼女の五感を奪い始める。
 時を遡れればいいのに。あの瞬間だけをもう一度やり直させてくれればいいのに。
 誰もが一度は覚えたことのある感情。真っ白になった頭の中に流れ込んでくる。

 『おねえちゃんなんか、大っ嫌いっ!!』

 胸の前で十字を切り、冷たく濡れたアスファルトに膝を立て、灰色の空を見上げる。
 罪? これは罪であるのか?
 彼女は何度も問いかけた。
 けれども、見上げた空から答えは返って来ない。
 代わるは胸のうちから湧き上がる言葉とは違う声。
 罪ではない? 罪でなければ、これは………。
 胸のうちから湧き上がる。これはきっと神の声。

 救われる。
 『―――そんなこと、考えるまでも無いじゃない』

 きっと。
 『―――そんなこと、考えるまでも無いじゃない』

 だって。
 『―――そんなこと、考えるまでも無いじゃない』

 だって。
 『―――そんなこと、考えるまでも無いじゃない』

 第二の言葉。次に、彼女はその言葉に支配された。
 第二の言葉。それが彼女を救ったのだ。

 雪のように白かった彼女の頬に赤みが差す。薄いピンク色の唇がかすかに動く。
 声をかけられても返事のなかった彼女。
 当然のようにできた人ごみの中、張られた黄色いテープの向こう側。野次馬と呼ばれる彼らは、そんな彼女の様子を茫然自失という言葉で簡単に片付けていた。











 『次のニュースです。今日午後5時頃。東京都○○区の路上で、女の子がうつぶせになって死んでいるのを近くを通りかかった男性が発見し、110番通報しました。遺体で見つかったのは近くに住む―――――』











 彼の姿を見かけ、おキヌは躊躇うことなく駆け寄っていく。
 歩道橋の上、偶然見つけたいつもの色あせたGジャン。人ごみの中、その背中を息急き追いかける自分を、「たしか、昔、こんなような歌がありましたよね?」と思い出し笑いする。
 近づいてくる彼の背中。時々頼りなく感じてしまうけど、大丈夫だよと語りかけてくれるような大きな背中。
 笑顔が止まらないままで彼の左腕にしがみつく。いつのまにか太くなった力強そうな腕。
 ほこりっぽくて、湿っぽいような、そんないつものGジャンの匂い。間違いない。
 彼がたとえ世界中のどこに居ようとも、どこを駆け抜けていようとも、必ずめぐり合える、と。彼女の胸のうちに秘めた大きな自信。
 同じ星の上ではあるけども、違う時代に生まれて。それでも、こうして出会えた二人の奇跡。
 ここで偶然見かけたことなんて………。

 「おかえりなさい、横島さんっ!」

 同じような顔の群れの人ごみの中。笑顔の花が一輪咲く。

 あの歌の詩がもう少し長ければ。
 そんな光景であった。










     ―――――――――――――――――――――――――――――――――――

                          『 Angelica 』

                   原作:Maria's Crisis 執筆:カシュエイ

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 人の通りも車の通りも多く見受けられる。いわゆる駅前通りであろうか。目の前に要塞のようにそびえ立つ有名百貨店。その裏側辺りにでも、私鉄なのかJRなのかは分からないが、電車の駅が近くにありそうな気配が感じられる。時間は16時30分を少し回ったところ。仕事帰りのスーツよりも学校帰りの学生服がこの界隈を占有している。
 おキヌがこの場所を歩いたのは初めてで、目的を持ってやって来たつもりではなかった。

 放課後、特に何の用もなかった。
 何となくいつもの通学路を大きく迂回した。
 人が多そうな所を選んで歩いていた。
 歩道橋から下を見下ろすと、そこを歩く彼を見つけた。

 彼女にとってみてしたら、物事がただそういう順番で並んだだけなのだ。

 霊感が引かれ合っちゃったのかも? そんなことも考えておキヌはほくそ笑む。

 「ああ、びっくりした」
 ひどい棒読み口調で横島が言う。その表情は少しは驚いているような、でもそれでいてあまり驚いていないような。おキヌにはよく分からなかった。
 「おキヌちゃん、一体こんな所で何やってるの?」

 「え? 何やってる………」
 彼女は自分が横島の腕にしがみついたままだったことを思い出し、慌てて体を離した。そして、コホンと一つ。
 「それより横島さんこそどうしたんですか? お仕事の帰りですか?」

 「うん、そうだよ。って、さっき自分でお帰りって言ってくれたじゃないか? それに昨日、美神さんとおキヌちゃんに話さなかったっけ? 今日から始まる仕事はこの辺で終わるから、何かお使いがあるならしてきますよって」

 「あ………」
 おキヌは言われた通りで、昨日のことを思い出して顔を赤くする。たしかにそういう話を聞かされていた。
 でも、失われた記憶を取り戻すかのように、彼の元へと導かれて行ったのは霊感を越えた何か運命のようなものではないのであろうか? 彼女はそう思い直す。

 「まあ、おキヌちゃんのそういう天然ボケにもだいぶ慣れてきたけどね」
 横島に笑顔でそう言われ、また思い直す。
 失われた記憶というか、まさに昨日の今日のお話ですものね、と。
 最近、日本文学とは程遠い恋愛小説ばかり読んでますものね、とも。

 顔は赤いが少し元気のなくなったおキヌに、横島は一つ苦笑い。
 「ねえ、おキヌちゃんさあ?」

 「はい?」

 「ちょっとお腹すいてない? なにか甘いものでも食べて帰ろうか? おごるよ」

 「え? え? え? で、でも………」
 赤くなった顔を更に赤らめ………。でも、やはり気になってしまうのは………。
 「横島さん、そんなお金………どこにあるんです?」

 へへへ、とその問いに待ってましたとばかりに笑う彼。そしてGパンのポケットをごぞごそとすると、しわくちゃになった一万円札を3枚ほど自慢げに取り出した。
 「最近、金持ちの依頼の仕事をすると、チップってやつなのかな? 振り込んだ依頼金の他に、こんな感じで現金でくれる人も居るんだよねえ。あ! もちろん美神さんには内緒だよ!」

 してやったりの表情で微笑む横島に、おキヌも笑顔を返す。そして、ちらりと見るのは先ほどまで抱きついていた彼の左腕。もう一度、その腕に自分の腕を絡めたい、その衝動に駆られ、ぐっと自制する。ならば、せめて手を握ろうか。でも、腕を組むのと、手を握るのとはどちらが大胆なのであるのか? どちらが女の子として、はしたない行為なのか?
 そう逡巡する彼女に気づく様子もなく、あっち行ってみようか、と歩き出す横島。
 大股で歩く彼の後を小走りで駆け寄り、自然に選択したのは、彼のGジャンのひじの部分を軽く指でつまむだけのものであった。彼には気づかれないように、そっと。

 「あれ?」
 歩き出して20秒もしないうちに横島が急に立ち止まった。大きく交互に踏み出されていく彼の汚れた靴を見ていたおキヌ。その動きを見切ったので、彼の背中にどしんとぶつかるようなお約束は回避できた。

 「どうしたんですか?」

 「おキヌちゃん、ほら、あの子。あれって六道女学院の制服だよね?」

 おキヌの着ている制服をちらりと見やり、視線を右前方斜め上へ向ける横島。おキヌもそれに倣う。
 一瞬、目をしかめた。オレンジ色の夕日の射光が全面ガラス張りのオフィスビルに乱反射している。もう夕方なんだな、と思いつつ、すぐ近くにある歩道橋の上に、その制服の彼女を見つけた。先ほどおキヌが居た歩道橋の一つ隣のそれであった。

 「あの子、1年D組の子だね。いつかの六道女学院のクラス対抗戦でおキヌちゃん達と戦った相手でしょ?」

 「ええ、そうですけど………。よく覚えてますね?」

 「ああ、なにせレベルが高かったからね。あの対抗戦に出てた女の子の名前と顔は全部覚えたよ」
 真剣な表情でうなずく横島。通常ならかなりの高確率で「キモい」と疎まがられる場面であるが、恋する乙女おキヌは単純に彼の記憶力と集中力に感心するばかりであった。

 「でも、あんなところで何をやってるんだろう? たしか、おうちはこの辺じゃなかったと思うんですけど………」
 彼女とはあの対抗戦の後、親しいとまでは言えないが、学校の廊下でばったり鉢合わせた時は軽く談笑するくらいの仲にはなっていた。そんな彼女が先ほどまでのおキヌと同様なのだろうか、歩道橋の上からどこか一点をじっと見つめていた。

 「ま、まさか飛び降りたりしないよね?」

 「え? さっきの私もそんな感じだったんですか?」

 「分かんないよ、見てないから。先に見つけて、声かけたのはおキヌちゃんの方でしょ?」

 「あ、そうでしたよね………」











 「見つけた」
 つぶやく彼女の唇は喜びに震えていた。

 「さあ、どうしようか?」
 一瞬曇る頭の中を、すぐにあの第二の言葉が響く。

 『―――そんなこと、考えるまでも無いじゃない』

 彼女に焦りはない。もう一度、『あの男』の背中を凝視しながら、自分の意識を目の奥から弾き飛ばすような感覚を掴む。
 目の前が霞みかかり、やがて『サオリ』がやってくる。

 サオリが彼女に見せる夢。
 全身を撫で回される不快感。はっかのたばこの臭い。冷たい雨の音。口の中ににじむ苦い味。首に巻きつく大きな手のひら。

 サオリと気持ちが交じり合い、やがて首の後ろの方につった時のような熱い痛みが走り、現実に戻る。

 間違いはなかった。彼女は見つけ出したのだ、『あの男』を。

 「そんなこと、考えるまでも無いじゃない」
 つぶやく彼女の唇は喜びに震えていた。











 「吉原さん?」

 おキヌが声をかけると、彼女はすぐに振り向く。一瞬、怒っているようにも、驚いているようにも見えたが、おキヌにはっきり見せた表情は満面の笑みだった。
 一瞬ではあるが彼女の見せた複雑な表情の変化に気になるよりも、まずは人違いではなかったことに対する安堵感の方がおキヌの中では大きかった。吉原と呼ばれた少女もそれを感じさせないような、それでいて歓迎するかのような上品な笑顔をおキヌに向けていた。
 特に校則で決められているわけではないが、おキヌと同じように黒いままの髪。ただ、長さはだいぶ差があって、彼女は首の辺りで切り揃えている。当然着ている制服は六道女学院の同じものであるが、彼女の胸には十字架のペンダントが下げられていた。その十字架について、わざわざ聞いたことは無い。以前のクラス対抗戦で彼女は教会の修道服を着て戦っていたので、おそらく実家は教会かなにやらの信仰のある家庭か。その程度におキヌは認識していた。

 「すごい偶然ね! どうしたの、おキヌちゃん? こんなところで?」

 「吉原さんこそ、こんなところでどうしたの? なんか、すごく真剣な顔で………」

 おキヌのその問いに答える前に、吉原は目ざとく彼女の後ろに立つ男の子の姿を見つける。

 「あれ? ひょっとしてデート中だったかしら? おキヌちゃんって、結構大人しそうな感じなのに、ちゃんと女の子してるのねっ!」
 口元をゆがめて意地悪く笑い、指先でおキヌの腕の辺りを突っつく。

 「ち、ちがいますよ。横島さんは今日はお仕事の帰りで………。そ、そんな、横島さんに対して失礼ですよ………」
 おキヌは両手を振って反論する。後ろで横島がどんな顔をしているのか。彼女は振り向けない。この場合は振り向いても問題ないような場面ではある気もしたが、恥ずかしくて振り向けなかった。ただ、彼に何か失礼のないように、いや、嫌われないように必死に言葉を選ぶ。が、上手く行かずしどろもどろに………。

 「ふふっ、おキヌちゃん、顔が真っ赤よ? じゃあ、お邪魔しちゃ悪いから、私、失礼するね!」
 笑顔で手を振ると、吉原は反対側の階段から歩道橋を駆け下りていった。

 「ご、ごめんなさい、横島さん………。あの子が失礼なことを言っちゃって………」
 恐る恐るするよりも、さらっと振り返ろう。コンマ一秒で決意すると、彼女は笑顔で振り返る。が、そこにあったのは横島の真剣な表情。
 「あ、あの………、怒ってます?」

 おキヌのその呼び掛けとほぼ同時。彼は歩道橋の手すりの上にバランスよく飛び乗ると、どこからともなくマイクを取り出す。

 「なんで俺のことを覚えとらんのやー!! 屋上でタキシード着て、トランペット吹いて、颯爽と参上までしたのに! ちなみに、その後、美神さんにそこから蹴落とされて、命まで失いかけたっていうのに!!」

 大声で叫ぶ横島に、歩道橋の下から大勢の視線が集まる。

 「よ、横島さん、落ち着いてください! ここ、高台になるから目立っちゃいますよーっ!」

 「悲しみのオン・ステージ!!」

 「意味不明なこと言わないでください! それより、なんか………、あの時のことは逆に覚えてもらってなかった方が良かったんじゃないかなって気もしますよ?」

 とにかく笑顔で、とにかく笑顔で、横島に接する。そうすることに何か理由があるのかどうなのか。彼女自身もよく分かっていない。ただ、ずっと昔から、彼がパニック状態になったらひたすらそうやってなだめてきたのだ。

 「おキヌちゃんさあ………?」

 さっきまでの情けない表情から一転して、急に真剣な表情に戻る横島。先ほどはこの表情からいきなり叫び出したのだ。おキヌは油断せずに身構える。

 「もう、ギャグは要りませんよ?」

 「いや、そうじゃなくてさ………」

 「?」

 彼の表情は複雑だ。特に真剣な表情に二面性がある。それをフェイクのようにして、美神にセクハラを仕掛けたり、先ほどのようにいきなりギャグに走ったり。そればかりかと気を抜くと、美神でさえも気がつけなかった点を指摘したり、大技を繰り出して周りを驚かせたりもする。

 「やっぱ、さっきの子………吉原さんだっけ? なんか、変だったよ」

 「そうですか? 普段からあんな感じですよ。見かけは大人しそうですけど、明るくて、よく笑う子なんです」

 「いや、なんて言うんだろう………。十字架下げてる霊能力者の独特の神々しさが無かったんだよねぇ………。なんか分からない? そういうの? 唐巣さんみたいな、ああいうの」

 う〜んと、少し視線を下にしながらおキヌは思考する。十字架を下げている知り合い。まず真っ先に浮かぶのはやはり唐巣神父。他にもクラスメートの何人かに吉原同様、『主の御名に命じて』云々という聖なる能力のようなものを操るタイプは居る。が、誰と誰を比べようとも、あるいは全員の共通点なども考えてはみたが、何も思い当たることはなかった。

 「さっぱりです」
 ちょっと小首を傾げながら言う。
 「気になるんで、詳しくお話を聞かせてください」

 「いや、俺の気のせいかもしれないし。まあ、仲の良いおキヌちゃんが普段通りって言うなら普段通りなんじゃないかなってね」

 後頭部の辺りをぼりぼりと掻きながら、雰囲気を変えるかのように大きく笑顔を作る。
 対して、おキヌはやや恥ずかしそうにうつむき、ちらちらと横島の顔とは別の方角に視線を向けている。
 予想していたものとは違う彼女のリアクション。横島も彼女に倣うかのように視線だけそちらの方角に向けてみた。すぐに目に付いたのはカラフルで派手な看板。雑誌なども読まず流行にもかなり遅れている彼でも知ってるような有名なケーキ屋が、近くのビルの中に住まっていたのだ。たしか、スイーツなんとかっていう食べ放題の店だっけかな、と彼は記憶の中を撫でる程度に整理する。

 「お話、聞かせください」

 横島が察してくれたことをその表情から読み取り、おキヌは今度は満面の笑顔を向ける。まっすぐにはっきりと。

 「あ、ああ………、ははっ。じゃあ、長くなりそうだから、そこのお店に入ろうか?」 

 まぶしいくらいの笑顔でうなずくと、おキヌは横島の手を取り、その店の方へ今にも走り出そうな勢いで歩き出す。

 甘いものが、ちょっとだけ彼女の勇気を後押ししてくれた。
 そんな瞬間であった。











 『次のニュースです。今日午後5時頃。東京都○○区の路上で、女の子がうつぶせになって死んでいるのを近くを通りかかった男性が発見し、110番通報しました。遺体で見つかったのは近くに住む会社員吉原浩司さんの次女で○○小学校一年生の吉原サオリちゃん6歳と分かり、警視庁では不審者の目撃情報などの―――――』











 何か変わった金属を、何か変わった金属の棒で叩けばこういう音になるのかしら? おなじみの踏切の警報機が鳴り響き、遮断機が下りるのを横目で見遣ると、彼女はなんとなくそんなことを思った。
 彼女の住んでいる近くではあまり見かけることのない踏切。またあまり聞くことのないその音にノスタルジックな気分を感じていた。
 この音はすごい。聞くだけで、胸の奥からぽろりと剥がれるように一片の緊張感をもたらしてくれる。そう、実際すぐ目の前を怪物が走り抜けるのだ。我々の力では到底抗うことのできないとてつもない馬力を伴って。
 彼女はもう手を伸ばせば触れることのできる、すぐ近くにある背中を見ながら想像する。その背中の主、『あの男』の目の前を電車が通過する。今、両手で強く突き飛ばしてしまえば………。
 だが、彼女はそれをしない。なぜなら想像の中のように、いや、それよりもっと悲惨な最期を彼に贈ることができるからだ。この想像よりも遥かにしのぐ。もっと陰惨な。
 『―――そんなこと、考えるまでも無いじゃない』
 灰色の頭の中。第二の言葉が響き渡る。

 胸の奥。『サオリ』が冷たく微笑む。











 目の前の遮断機が上がる。歩き出せば、ほんの数十メートルの距離の間に十数人の人たちと一斉にすれ違う。横断歩道みたいなもの。だから彼も何の感慨も持たず、大股で踏切を渡り切る。途中でちらりと腕時計を見ると、夜の10時半を回っていた。
 彼は苛立っていた。咥えていたメンソールのたばこを地面に叩きつけ、それを荒々しく踏みにじる。彼の苛立ちの理由は不明だ。通常の人にはありえない何かが彼の心にはびこっている。いや、ひょっとしたら誰の胸の中にもあるものなのかもしれない。ただ、それが彼の中では通常より大きいだけなのか。あるいは形が違うのかもしれない。あるいは色が、材質が、重さが、濃淡が………。
 しばらく歩き続けた後、急に立ち止まり、しびれを切らしたかのように、彼はぼさぼさの髪を右手で掻き毟ると、それをズボンのポケットの中に突っ込む。ポケットからメンソールのたばこを一本取り出し、口に咥え火を付けようとしたところで、女の声に呼び止められた。
 振り返るとどこの学校なのかは知らないが、制服姿の女子高校生が立っていた。笑顔で。もう時刻は夜の11時になろうとしている。こんな時間に女の子が一人で何を。訝しがる前に、彼女はその笑顔のままで彼に近寄る。
 彼の住む安アパートまではもうすぐであるが、元々この辺りには人家が少ない。人通りも皆無に等しい。時間ももう少しで真夜中と呼ばれる時間帯になろうとしている。
 彼の中で何かが動いた。激しく。
 同時に、その彼女の中でも何かが動いた。より激しく。











 彼は驚愕していた。いや、信じられなかった。目の前にあるモノが。だが右腕に走る激痛が、これが夢でも何でもないことを知らせている。
 目の前で静かに笑う少女。そして、その傍らに立つ化物、妖怪。彼女はそれを『サオリ』と呼んでいる。それは最初は小学生くらいの女の子の姿をしていた。その姿を彼は知っている。いや、思い出したのだ。五年前に自分が殺した少女。それが姿を変えた。服が裂け、皮膚が裂け、紫色の三メートル近くはあるであろう大きな体がそこから現れ、三日月のように大きく開いた口の中、無数の刃物のような鋭い牙を激しく噛み合わせ、真っ黒な瞳で彼を見下ろしているのだ。
 何かを言おうと口を開いた瞬間。圧倒的な力により後方のコンクリートの壁まで体を飛ばされた。右腕から壁にぶつかり、その場にへたり込む。

 「先に言っておくわね。あなたを殺すって。そんなこと考えるまでも無いけど」
 彼の前に近づき、静かにそう告げる。冷たい夜風が彼女のスカートの裾を軽く揺らす。
 「この子のこと覚えてる? そうね。思い出してくれてはいるみたいね。私のかわいい妹『サオリ』。あなたが五年前に殺した女の子よ」

 体中が震える。さっきまで痛んでいた右腕さえも麻痺してしまったかのように感覚を失いつつある。口の中で歯がガチガチと音を鳴らす。彼はよろよろと立ち上がると、走り出す。まともな速さで走れるわけが無い。ただ、本能がこの場から逃げることを選択させたのだ。

 「足はすごく元気みたいね。『サオリ』、彼の足を引きちぎっちゃって。ちゃんと足首だけを狙うのよ。少しずつやりかえしてあげましょうね」

 『サオリ』は大きくのどを鳴らすと、走り出す彼にめがけてその大きな腕を伸ばした。―――その時。

 『サオリ』の前に不思議な色をしたビー玉のような物が転がる。その玉に「防」という漢字が一文字が書かれていたが、それに気づくか否か、一瞬で大きな見えない壁のような物が立ちはだかり、『サオリ』の腕を弾き飛ばした。

 「誰!?」

 それが転がってきた方向を見ると、両腕を組み、自信満々に高笑いするGジャン姿。

 「―――『文珠王子』こと横島忠夫、推参!! 笑顔がかわいいって最近主婦層の間で………「横島さん、ごめんなさい!!」
 横島の台詞の途中、後ろから走ってきたおキヌが彼をどけて彼女の前に立つ。

 「あなた………おキヌちゃん!?」
 突然の思わぬ人物の登場に、吉原はわずかだが動揺する。

 全力で走ってきたのか、乱れた呼吸を整えながら、その真摯なまなざしを彼女に向ける。
 「吉原さん。………あなたは間違ってます」

 じっと見つめあう、おキヌと吉原。時間にして十秒ほどであったが、それが倍以上に感じられる。
 こうして二人で対峙する機会と言えば、普段は学校のどこか片隅でばったり鉢合わせた時。そんな時は二人でちょっとした話に花を咲かせるのだが、今回は二人に笑顔など無い。まるで知らない者同士であるかのように、お互いがお互いをじっと観察する。

 ふっと鼻で笑い、吉原が口を開く。
 「そんなこと考えるまでも無いのよ。これが『サオリ』にとって一番良いことなのよ。大体、あなたに何が分かるって言うの?」

 吉原は傍らに立つ『サオリ』の腕を優しくさする。妖怪と化したその姿ではあるが、彼女から見れば生前と変わらない愛くるしいままなのであろうか。それとも………。

 「事情はどうやらご存知のようね、客観的には。でも分からないでしょ? 家族を殺された者の気持ちを。妹を殺された姉の気持ちを」

 一方、『サオリ』はそんな小さな姉の存在をそれほど気にしないのか、できないのか。真っ黒な瞳で何も無い宙を凝視しているだけのように見える。

 「私の霊能力はすごく幼い頃から覚醒していて、家庭もこういう信仰のある家柄だったからそれを伸ばす教育も受けることができたの。ちょっとしたエリートでもあったのよ、私って」
 小さく笑う。それはいつもの、学校でおキヌに見せるいつもの笑顔であった。
 「でもね。妹が殺されて発見された時、違う能力も覚醒しちゃったの。もう分かるでしょ? ネクロマンサーよ。冷たい雨の中、裸のまま捨てられていた妹を見て考えたのよ。いっぱい考えたの。『サオリ』のことを。あの時の私が『サオリ』にしてあげられることを精一杯!」

 おキヌはただ黙って、彼女の話を聞く。隣に居る横島も身動き一つしない。恐らく、彼も真剣に聞き入っているのだろう。

 「ネクロマンサーって、霊の悲しみを理解して心の底から思いやることのできる人が取得できる能力なんでしょ? そう、私は『サオリ』のことを理解することができたの。あの子の悲しみを分かってあげることができたの! そう、分かったのよ。考えるまでのことじゃないのよ。復讐よ! あの男に『サオリ』と同じ思いを味あわせてあげるの! 妹がどれだけ残酷で悲惨な殺され方をしたのか、それを教えてあげることが大事なのよ!」

 「違う!!」
 おキヌが声を上げる。
 「違うのよ、吉原さん。違うの。そうじゃないの!」

 「何を言ってるの? おキヌちゃん、あなたはネクロマンサーでしょ? だったら分かるでしょ、この能力。私が今、実際にこうして『サオリ』と一緒に居ることを」

 「違うの。吉原さん、聞いて? あなたは………」

 「これ以上は時間の無駄だわ。あの男が逃げちゃう。怪我してるからそんなに遠くまでは行けないはずだけど。さあ、『サオリ』、行くわよ」

 『サオリ』は姉の体を軽々と持ち上げると、男が逃げた方角へ走り出そうとする。

 「待って、吉原さん!」
 あと追おうとするおキヌであるが、彼女の脚力を考えれば追いつけそうにない。腕力を考えても力ずくで止めることもできそうにない。
 「横島さん!」

 「よし、お二人さん、お急ぎのところ悪いけど、もうちょっと話に付き合ってもらうぜ!」

 おキヌの声を聞くや否や、彼はGジャンを脱ぎ捨て、左腕を高々とかざし、その腕を霊気を纏う刀に変化させる。狙うは『サオリ』の姉を抱えている右腕の肩の辺り。
 その気配に気づいた『サオリ』は、その巨体に似合わぬ俊敏な動きで横島の「ハンズ・オブ・グローリー」をかわした。

 「私の妹に手を出さないで!」
 『サオリ』の体から離れると、吉原は横島をにらみつける。
 「あなたの相手は私よ。『サオリ』、早くあの男を追って!」

 「せっかくのお誘いだけど、お断りさせてもらうぜ。ちょっと妹さんを止めないとマズいんでね!」
 吉原を相手せず、その脇を通り抜けようとする。たしかに、横島と吉原では実力差が雲泥である。同じ学生でGSの卵で、その中のエリートであっても、やはり数々の修羅場をくぐり抜けてきた彼とは実力では遠く及ばない。ただ、そこに隙が生じた。彼女は狙っていたのだ、この瞬間を。彼女の最強の技はこのネクロマンサーではない。

 左腕の霊波刀を振りかざし、『サオリ』の背中を射程圏に入れたところで、目の前に無数の紙が舞っていることに気づく。ヒラヒラと上空から大量のビラがバラ撒かれたかのように錯覚したが、それは彼の周囲のみの狭い範囲であった。そして、彼を囲っていたその無数の紙が彼の「ハンズ・オブ・グローリー」に一斉に群がる。まるで夜の外灯に集まる無数の蛾のように。

 「しまった! この技があったか………」

 『イージスの結界』。戦闘において決定打を与える技ではないが、相手の霊力を完全に無効にしてしまう、攻撃補助に回ればこれほど有効なものはない。横島も以前に彼女が使うこの技を目の前にしたことはあるが、『サオリ』との対決に意識が行き過ぎ、このことを失念していた。綺麗に言えばこの通りなのだが、実際は元々冷静に周りの状況を把握できるタイプでもなく、クラス対抗戦を観戦して得たものは戦う女子高校生達の顔と名前だけであった、という事実も起因されている。

 「あなたの霊力はすごいわ。でも、私の結界の前では全くの無力。私にとどめを刺す決定力は無いけど、今はこのままあなたをここに封じ込めるだけで十分よ」
 吉原はそう言い残し、『サオリ』を追いかけ走り出す。

 「横島さん!?」

 彼の元に駆け寄ろうとするおキヌを横島が目で制す。

 「近寄ったらダメだ。一緒に霊力を吸われちまう。俺は大丈夫。この結界の対応策は前に一文字さんに教わってる。おキヌちゃんは早くあの子の後を追ってくれ。だけど、気をつけて。俺が戻るまで絶対に戦ったらダメだ」

 一瞬躊躇したおキヌであったが、「はい!」と短くはっきり返事をすると、彼女もまた同じ方向に向かって走り出す。
 履き慣れない革靴で随分長い距離を走った為、彼女の足首が痛み始める。たまに立ち止まってしまうが、その足首をさすり、そしてまた歯を食いしばって走り出すのであった。











 彼女がそこに立った時には、『サオリ』はすでにその獲物を捕獲していた。男の胸倉を掴み、片腕でそのまま彼を吊り上げていた。

 「『サオリ』、いい子ね。ちゃんとお姉ちゃんの言うことが守れるのね」
 笑顔で『サオリ』に声をかける彼女。

 ―――だが、その時。

 『おねえちゃんなんか、大っ嫌いっ!!』

 一瞬、だが、鋭く。その言葉。第一の言葉が彼女の頭の中を横切る。
 彼女はうめき、頭を無意識に手で抑える。頭の中に切り傷ができたかのように、ヒリっとした痛みが走る。

 「違う。違う。違う。悪いのは全部その男でしょ。そんなこと考えるまでも無いじゃない!」
 苛立ちに満ちた視線で、吊り上げられた男をにらみつける。
 「さあ、『サオリ』。その人を降ろしてあげなさい。苦しそうでしょ? 優しくそっと降ろしてあげなさい?」

 『サオリ』は低くうなり声を上げると、姉の言う通りに従った。吊り上げていた男を近くのコンクリートの壁に投げつける。

 男は大きく悲痛な叫び声を上げると、そのまま倒れ込む。もう走って逃げる力は残っていない。

 「さっきは邪魔が入ってしまって申し訳なかったわ。大人しくさせてきたけど、またいつ邪魔に来るか分からない。だから、本当は三時間くらいかけてゆっくり死んでもらおうと思ってたけど、ちょっと短縮するわ。一時間に………」

 彼女のその言葉に大きく目を見開くと、彼は痛む体に鞭を打ち、体を起こすと、その場で正座をし、深々と彼女に頭を下げ始める。おでこを冷たいコンクリートに擦り付けながら。
 「頼む! この通りです! どうか、どうか殺さないでください!」

 痛々しいまでのその姿。情けないまでに裏返ったその声。
 五年間、苦しみと悲しみと憎しみを抱え続けながら追いかけたのが、目の前のその男。
 彼のその態度に、その言葉に、彼女の中の一つだけ冷静にしていた部分が弾け飛んだ。

 「ふざけんじゃないわよ!!!」

 先ほどまで、冷ややかで、冷酷で。それでも笑顔でいた彼女の顔に、初めて怒りの表情が浮かび上がる。

 とっくに日付は変わり、辺りの空気は静寂に満ち足りている。そんな中、彼女の周りの空気だけは震えていた。激しく揺れていた。

 「ふざけないでよ。何言ってるのよ。あなたが!?」

 「すみません。すみません。すみません………」
 涙声で必死にその言葉を繰り返す。

 「あの時、サオリも同じことを思っていたのよ! わかんないの!? それをいまさら何言ってるのよ! あんな小さな子が! あんなに小さな子を………あなたは………」

 うつむく彼女。その目元を流れる夜の風が、わずかに薄く光る外灯に照らされ、一筋の輝きを伴う。彼女はぐっと、袖口で目の下をぬぐうと、彼に言い放った。
 「まだよ。まだまだよ。あの時のサオリの気持ち、もっとあなたに教えてあげなきゃ」

 ひいっと小さな悲鳴を上げ、男はよろよろと立ち上がり、歩くよりも遅い速度でこの場から逃げ出そうとする。だが、彼には走る力どころか、満足に立てる力も残っておらず、その場に倒れこみ、気を失った。

 「『サオリ』、さっき言ったでしょ? 足首をひきちぎれって。 どうして、お姉ちゃんの言うことが守れないの?」

 『おねえちゃんなんか、大っ嫌いっ!!』
 ふと、またあの第一の言葉が頭の中をかすめる。彼女は歯を食いしばり、その痛みを振り切る。

 「ほら、早くあの男の足首をひきちぎりなさい!」

 『サオリ』は無表情なその中に、わずかに戸惑いの感情を覗かせたが、すぐにその大きな腕を男に向けて伸ばす。倒れこんだ男の足に手が触れる。

 「そう、それで良いのよ、『サオリ』」
 先ほど見せた怒りは静まったか、吉原はいつもの笑顔を姿を変えた妹に見せる。そして、次の指示を送ろうとしたところで、彼女はその音に気がついた。
 小さな音だった。それがやがて大きくなる。ひょっとしたら、もう少し前から聞こえていたのかもしれない。小さすぎて聴覚に届かなかったのかもしれない。ただ、心のどこかには響いていた音。細くて鋭い、それでいて心が暖かくなるような優しい音色。笛の音。彼女は以前に聞いたことがある。その時は特に何の感慨も無かったが、この音を奏でられるのは世界でも有数の者しかいない。この場で、この状況で、彼女はその意味が分かったような気がした。
 吉原はそこで思考を止め、振り返る。そして、彼女を一瞥すると大きくため息を吐く。

 「おキヌちゃん、あなた、大人しそうな顔しているのに、本当にしつこいのね?」

 ネクロマンサーの笛から唇を離し、彼女はその問いに微笑んで返す。

 「私の師匠ならこんな時、きっとこう言うと思います」

 彼女の言う師匠とは違い、かっこいい決め台詞のような迫力は無いが。



 「極楽へ逝かせてあげるわ」



 それはおキヌらしく、優しく諭すように。

 「分かったわ。あなたとはお友達のままで居たかったけど………。これ以上邪魔するなら………。『サオリ』?」

 吉原は振り返り、『サオリ』に次なる指示を送ろうとする。だが、その『サオリ』は姉に対して何の反応も示さず、じっとその場でたたずむのみ。
 二人の間を流れるネクロマンサーの笛の音。
 再びおキヌに向き直り、忌々しげに言い放つ。

 「分かってるわよ。あなたの方がネクロマンサーとしては上だってことわね」

 動揺は隠せないでいた。おキヌに妹のコントロールを奪われた。かつて一緒にチームを組んでいたクラスメートの操るキョンシーをあっさりと取り上げ、自分のコントロール下に置いているのだ。敵わないことは分かっている。
 だが、おキヌはそんな戦闘的優位に感心を持たず、先ほどから繰り返し吉原に訴えかける。

 「違うのよ、吉原さん。違うの。あなたが使っている術はネクロマンサーのものではない。反魂の術に近いものなの。それは悪魔信仰のもので、あなたが信仰しているものと全く異なるもの。横島さんは気づいてました。私達の知っている十字架を下げている霊能力者と違って、あなたの放つ雰囲気は異質なものだって。本当はあなたも気づいてたんでしょ? でも、信仰が揺らぐからそれを自分では認めなかった」

 あの時、胸のうちから響いた声………。
 あれは本当は悪魔の声?
 自分を悔恨の渦から引き上げてくれた言葉。
 あれは本当は悪魔の言葉?

 『―――そんなこと、考えるまでも無いじゃない』

 「でまかせよ! 私は妹の………サオリの気持ちを、苦しみを、悔しさを理解してあげれた。彼女が望むものは一つなのよ。自分を殺した男に復讐すること。同じ苦しみを味あわせてあげること。それが違うとでも言うの!?」

 「じゃあ、あなたは妹さん以外の霊を鎮めたり、成仏させてあげたりすることができるんですか? 妹さん以外の霊の気持ちも分かってあげられるんですか?」

 「………」

 「あなたは妹さんの気持ちを何も理解してない。思いやってあげるどころか、逆に支配しているの。妹さんの魂を………亡くなった後になってまでも利用して、それで自分自身を満足させているの」

 「いい加減なことを言わないで! あなたに何が分かるって言うの!?」

 「分かりますよ」

 おキヌは悲しそうに、さびしそうに、奇妙な形をした笛を見やり。それを、すぐにでも壊れそうな何かに対してそうするかのように、優しく触れて。

 「―――私、ネクロマンサーですから」

 そう、目の前のネクロマンサーは自分から妹を取り上げた。それは少なくとも自分よりも妹を理解しているということ。不思議と悔しさという感情は起きなかった。むしろ、吉原の中ではほっとしたような安心感に包まれていた。

 「妹さんの気持ち、記憶、感情。私の中に全て伝わりました。吉原さん、あなたは本当はすごく後悔しているんじゃないんですか?」

 頭に響く第一の言葉。
 『おねえちゃんなんか、大っ嫌いっ!!』
 甦る第一の言葉。
 それは拒絶してはいけないものだったのかもしれない。
 その意味する全てを受け入れて………。

 「妹さん………、サオリちゃん、私に教えくれました。あの時―――」

 吉原は首を振り、おキヌのその言葉を途中で制した。

 「もういいわ、おキヌちゃん。もう分かってるみたいね。でも、私の心の中までは完全に見えてないでしょ? だから、私、話すわ。全部」

 彼女は制服のスカートの裾も気にせず、その場に足を投げ出して座り込む。そして、おキヌの方を見やり、にこりと笑う。おキヌもそれに応えて微笑むと、彼女の隣に、スカートの裾を気にしながら体育座りで腰を下ろす。
 真夜中と言えども、たとえ真昼間だったとしても、通りの真ん中で六道女学院の制服の女の子が座り込んでいるのは奇妙な光景ではある。人通りが少ない、いや、もう誰も居ないんだろう、と二人は思う。口にはしないし、意識しもしないし、それどころではないし。二人が見上げる夜空も静かで、曇りかかった黒い靄の中に黄色い月が見え隠れしている。

 「いつもの日常だったのよ。いつものことだったのよ。姉妹喧嘩なんて。理由だって些細なこと。いつもだったら夕食を食べ終わった頃には、二人で笑いながらテレビを見ている。そんなものだったのよ」
 ふうと大きくため息を吐き、彼女は続ける。

 お母さんに頼まれたお買い物の帰りに喧嘩してしまったこと。
 その時、『本当になんであんたはおねえちゃんの言うことが聞けないの!?』と怒鳴ってしまったこと。

 「『おねえちゃん、先に帰るからあんたは勝手にしなさい。あんたみたいな悪い子はもう帰って来なくていいんだから! どっか行っちゃいなさい!』って。そうしたら、あの子、私に向かってこう言ったわ。『おねえちゃんなんか、大っ嫌いっ!!』って。ねえ、信じられる? それがあの子の最後の言葉なのよ?」

 彼女を最初に支配していた妹の最後の言葉。

 「サイッテーじゃない、私って? あの子、そう言った後、どこかへ走って行っちゃって。でも、私は追いかけなくて。頭にきてたから。本当はあの子は私に追いかけて来てもらいたかったのに。私も本当はあの子を追いかけたかったのに………。
 家に帰って、しばらくしたら雨が降ってきて、そこでやっとあの子のことを追いかけようと思ったの。傘を持って迎いに行ってあげれば喜んでくれるかな、とか。なにかお菓子でも一緒に持って行ってあげれば、機嫌を直してくれるかな、とか。それで、傘とお菓子を持って、玄関のドアを開けたら、近所のおばさんがすごい顔で走って来て、それと後ろからもおまわりさんが二人くらい一緒に走って来て………。おばさん、言ったの。『サオリちゃんが、裸で道路に倒れている』って。
 私、走ったわ。もう走ったというか、自分の中の何かに走らされたというか………。場所なんか聞かなかったけど、すぐに分かったわ。救急車だか消防車だかパトカーだか、異常な雰囲気になってる所があったから。そこは黄色いテープが張られていて、周りに何人かの人たちがもう集まり始めていたわ。その中に青いビニールシートが置いてあって。すぐにそこにサオリが居ることは分かったの。
 ロープをくぐり抜けて、そのシートの所に着くまで、誰にも邪魔されなかった。ただ、誰かに『お姉ちゃん? お姉ちゃんなの?』って呼びかけられた気がしたけれど、そんなのに対応してる場合じゃなかった」

 話を区切り、もう一度ふうと大きくため息を吐く。おキヌはただ黙って聞いていた。彼女に続きを促すようではなく、ただ静かに隣に寄り添っていた。

 「そう、おキヌちゃんの言うとおり、後悔したのよ。ものすごく。もうずっと離れないのよ。『おねえちゃんなんか、大っ嫌いっ!!』って言葉が。その言葉が頭の中をかすめる度に痛むの。頭の中が。心の中が。
 私はすぐその場で祈ったわ。天に向かって。でもね、何も声が聞こえてこないの。誰の声もしないの。誰も救ってくれないの。私の信仰は間違っていたのかもしれない。そんな時だったわ。私の心の中から声が聞こえてきたの。サオリが殺されたのは私のせいじゃないって。私とサオリの日常を乱したあの男が悪いって。あの男が居なければ、こんなことにならなかったって。そんなこと考えるまでも無いでしょ?って。私は誓ったのよ。あの男に復讐するって。妹と同じ気持ちを味あわせてあげようって」

 吉原はおキヌの方を向き、今にも泣き出しそうな表情から声を絞り出す。

 「おキヌちゃん………。今度はあなたの番。私のどこが間違ってるのか、教えて?」

 やがて、堪えていた涙が彼女の頬を伝わり始める。

 「やっぱり、サオリは………、あの男よりも、私のことを恨んでいるの? なんであんなこと言ったの、って………。私………、どっかに行け、とか、帰って来なくていい、なんてひどいことを………」

 泣き崩れる吉原をおキヌは抱きとめると、彼女の両頬に手を沿え、こちらを向かせる。

 「違う。違うんですよ。サオリちゃん、誰も恨んでないんです」

 溢れる涙。真っ赤になった目と鼻先。さっきまでの冷たく徹していた彼女の仮面の下の素顔。おキヌは一言一言、噛み締めるように彼女に告げる。

 「サオリちゃん、あなたにごめんなさいって。大嫌いだなんて言っちゃってごめんなさいって。急なお別れで、さようならも言えなくてごめんなさいって。それと………」

 自分の目からも涙が零れそうになる。それをぐっと堪えて………。

 「お姉ちゃんのことが大好きって。これからもずっと優しいままのお姉ちゃんで居てくださいって………」

 今までの感情を押し流すように流れる涙。だが彼女はその言葉に意を決したかのようにそれを一つ袖口でぬぐうと、まだ震える両足で懸命に立ち上がり、異形の者へと姿を変えさせてしまった妹に走り寄り抱きつく。大きな胴体に両手を回し、腹部の辺りに顔をうずめる。
 静かな静寂。彼女は何か祈りを捧げるかのように、妹を抱きしめた姿勢のまま。『サオリ』も無表情のまま人形のようにその場に立ち尽くしている。
 やがて、胴体に回していた両手をほどき、妹の両手を取ると、おキヌの方に視線を向ける。何か目配せするような彼女の赤い目に、おキヌは黙ってうなずく。意図は分かっていた。妹を解放するのだ。
 おキヌはネクロマンサーの笛を再び唇にあて、あの時、一気に流れ込んできた妹サオリの気持ちを、一つ一つ思い返すように振り返りながら、それを奏でた。
 おキヌの奏でる旋律に合わせるかのように彼女は詞(ことば)を口にした。それは妹を解放する為の詩。それ以外のことはおキヌは何も知らない。



 『灰色の空の下、冷たい雨の中によみがえる、この苦しみを。
                             私の中で閉じ込めて、あなたは綺麗なままでいて』




 悪霊に近い霊気を纏っていた『サオリ』の体からまばやゆいばかりの光が発せられる。それはまるで大聖堂の扉が開かれ、そこから放たれる神々の輝き。溢れんばかりの神聖さに満ちた、全ての穢れを浄化するような。おキヌは目を閉じ、気を失いそうになるのを必死に耐え、サオリの気持ちを笛の音に乗せる。
 やがて、その音に合わせるかのように、光の中から賛美歌が聞こえ始める。大人数のソプラノだ。何の言葉なのかは分からない。ただ、心の中に直接響き渡る、その声量。
 これが信仰なのか、吉原が必死に押さえ込んできたその矛盾を正しい方向へと導く。その圧倒的な力。

 光が徐々に弱まり、おキヌが目を開けると、そこに三人の女性が立っていた。
 吉原は泣き出しそうな、それでいて満面の笑顔を浮かべていた。その対に小学生くらいの女の子が吉原そっくりの笑顔で立っていた。初めて見る顔だが、間違いなく彼女の妹サオリであるだろう。そして、妹の手を取り、横に立つ一人の美しい女性。おキヌは彼女が発するその霊気に覚えがあった。質などの諸々は異なるが、この人間離れした大きな力は、彼女が今まで与えられてきた経験の中で何度か直接触れてきたものだ。

 「………神様」 おキヌはそっとつぶやいた。

 姉妹の別れの場面になる。おキヌはそう思った。
 姉は妹を失った。こうして妹と笑い合えるのはこれが最後。
 妹はその命を失った。こうして言葉を紡ぐのもこれが最後。
 そんな二人をすぐ側で慈愛に満ちた微笑を浮かべ、優しく見守る女性。

 おキヌは自分の手で自分の体を強く抱きしめる。
 そして、何か考えようとした時、肩にそっと手を置かれた。そちらを見上げると、横島が立っていた。

 「がんばったね、おキヌちゃん」

 横島の優しい笑顔を見た途端、すがりつくように彼の胸に飛び込んだ。

 「横島さん………、私………」

 頬を彼の胸に当て、顔を上げず、目も伏せたまま、おキヌは声を絞り出す。

 「私………、私………、結局誰も助けてあげることができなかった。吉原さんも、サオリちゃんもお互いがお互いを失ってるんです。ああやって、幸せでいられるのも、ほんのわずかなんです。私、役立たずで………」

 「そうかな? 本当に何もできなかったのかな?」

 横島はおキヌの目の高さまで腰をかがめると、彼女の髪をそっと撫でる。

 「ほら、もうそろそろ二人のお別れの時だ。ちゃんと二人のことを見てあげよう。そして、あとで吉原さんといっぱいお話をしてみよう。それからもう一度、一緒に考えてみようか?」

 彼に促され、振り向くとサオリとその隣で手をつなぐ女性の姿の輪郭が薄くなってきている。成仏の瞬間だ。

 吉原にはもう思い出しか残らない。
 他に何がやって来て、何を得られるのだろうか。
 わからない。



 ―――けれど。

 『おねえちゃん、大っ好きっ!!』

 第三の言葉が無邪気に笑っていた。











 一ヵ月後―――。

 歩道橋の上、彼女が見つけるよりも早く、彼が先に手を振る。
 階段を上りきったところで、彼女は学生カバンを両手で後ろ手に持ち、笑顔で迎える。

 「お帰りなさい、横島さん。一ヶ月間、お疲れ様でしたっ!」

 今日で横島が任されていた仕事が片付いたのだ。壊れた蛇口から流れ出る水道水のように、次々と現れる悪霊をコツコツと少しずつ退治するという、彼ら二人の師匠なら絶対に引き受けないであろう地道な作業であった。

 「ありがとう、おキヌちゃん」

 彼は内心困っていた。彼女が今日が自分の仕事の最終日だということは調べれば簡単に分かる。だから、ここで待っていてくれてたのであろうが、その動機に問題があるのだ。おそらくは例のチップであろう。最終日にはチップがはずむということを予想して、またスイーツなんとかで食べましょう、と言ってくると予想していたのだ。もちろん、彼がそれを嫌がっているということは無い。おキヌにはいつも世話を焼いてもらっているし、なによりこんなかわいい女の子と一緒に、ああいうお店で向かい合って食事できるというのは、周りに対して優越感に浸れるのだ。
 そもそもの原因はそのチップが無いのだ。数週間前とは事情が異なってしまっているのだ。お金が無いが為に、女の子に好きなものをご馳走することすらできない。男して、横島は凹んでいた。

 「どうしたんですか、横島さん? 今日はちゃんと調べてから、ここで待っていたんですよ?」

 「い、いや、あのね、おキヌちゃん………」
 彼は開き直ることにした。
 「あのチップのことなんだけど………、実は美神さんにバレちゃって………、依頼人さんに『こいつは丁稚なんで、そういったものは直接渡さず、銀行口座に振り込んでおいて下さい。私から直接丁稚に渡しますから。ほほほっ』って。それだけならともかく、今までもらった分も残ってる分は取り上げられちゃったんだよねえ。おキヌちゃん、労働基準局って、どこにあるか知ってる?」

 「は………、はぁ………」

 「ってわけで、ごめん………。今日はこの間の店でご馳走してあげることできないんだ。もっと言うと、近くのスーパーで冷凍食品買いまくって、冷凍食品のフルコースを楽しむ予定もあったんだけど、またいつものカップラーメンオンリーコースになっちゃったりして。もうそれってコースじゃねえよ、なんて………。ホント、ごめん………」

 「またご馳走してくれるつもりでいてくれてたんですか?」

 「う、うん………。あれ? なんかおかしかった?」

 えへへ、と彼女は笑顔で横島の左手を両手で取ると、自分の方へ引っ張る。
 「横島さんって、優しいんだ」

 「うん? うん?」
 彼は訳がわからずと言った様子で、彼女にされるがまま引っ張られていく。

 「チップのこととか、お金が無いってこととか、全部美神さんから聞いてましたよ」
 歩道橋の下り階段まで引っ張ったところでその手を止め、おキヌはその階段を見ながらそう言った。

 「あれ………、そうなんだ? じゃあ、今日は………」

 ちょっと怒ったように顔を赤くしたおキヌであるが、すぐにいつもの笑顔に戻り、彼の方へ振り返る。
 「今日は私が作ったお料理を食べてもらおうかな、と思って………。最近の冷凍食品って、すごく美味しいですけど、まだまだ負けませんよ。美神さんが、横島さんの持ってたチップを私に預けてくれてて、それで何か良い食材を買ってきなさいって、言ってくれたんですよ」

 「あ、そうなんだ………」

 「未成年者はあまり大金を持つものではない、って美神さんが言ってました」

 「あの人特有の後で取ってつけたような理由な気もするけどね」

 「ほら、あまり細かいことは気にしないで行きましょ? お買い物、手伝ってくださいね?」
 そう言い終わるか終わらないかの瞬間、横島の左腕に手を絡ませると、一気に階段を駆け下りようとする。

 「わっ! わっ! おキヌちゃん、危ない、危ないよ! ストップ! ストップ!」

 「大丈夫です。危なくなったら、いつでも助けに来てくれますからっ!」

 まるで遊園地ではしゃぐ子供のように。
 いつもよりもずっと無邪気な表情で。

 「………ね? 『文珠王子』様?」

 長い髪をなびかせながら。
 それに絡まる彼女の柔らかい香りを感じながら。

 二人はそう笑いあった。





   完
「リベンジ」って、「復讐」っていう意味なんですよね。流行っても良い言葉なのでしょうか。

主題はおキヌちゃんの日常。その中に、恋・友情・仕事。まるで三種の神器なようなそれらを組み合わせ、更に「狂気」を含ませてみました。



   カシュエイ

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