研究職なんて、いつ食いっぱぐれるか分からない職業だ。
企業に入社できたり、大きな大学の先生になれた場合は、将来も安泰かもしれない。だが、研究機関や小さな大学のラボの研究員などは、研究費が無くなった時点でスパッと解雇される立場である。
それでも、俺は研究を続けている。
最初は、「歴史に名が残るような大きな発見をしてやろう」という野心もあった。
いつしか、そんな意欲も失って、「どんな論文でも、発表すれば同じ分野の研究者には読んでもらえる。彼らの記憶には名前が残る。それでいいや」という程度に変わっていた。
ただし、この時点では、まだ『名前を残す』ことには執着していた。どうせ俺は結婚せずに一生を終える――子孫を残すことはない――と思うので、代わりに研究業績を我が子のようなものと認識していたのだ。
しかし、それも昔の話だ。今じゃ『名前を残したい』という気持ちすら無くなってしまった。
人間の歴史なんて、地球の長い生物の歴史から見れば、ほんの一瞬。その中で『名前を残す』ことに、どんな意味があろうか。
もう俺個人の人生の先も見えたような気がして、「いつ死んでもいいや」と感じていた。「いつ人類全体が滅んでも構わない」とすら考えていた。
それなのに……。
今この瞬間。
俺は、逃げ回っている。
ネズミの幽霊の大群に追われて、必死に逃げている。
初めて感じる、死の恐怖。
平和な日常の中では感じることがなかった、死の恐怖。
もう、日頃の厭世観など吹き飛んで。
ただ、「死にたくない」という一心で。
動物実験棟の廊下を、俺は走っていた。
あなたの隣に霊は居る(後編)
「ハッ……ハッ……」
息を切らすという言葉は、こういう状態を指し示すのだろう。
そんなことを考えながら、俺は走っていた。
余裕がない状況なのに――いや余裕がない状況だからこそであろうか――、どうでもいいことが頭に浮かんでくるのだった。
「ハッハッ……ハッ……」
俺が今、息苦しい理由の一つは、口と鼻とを覆っているマスクだ。
本当ならば実験ルームから出る際に脱ぎ捨てて、室内のゴミ箱に入れなきゃいけないのだが。
マスクもガウンもヘアーキャップも、まだ装着したままになっていた。
ちゃんと外したのは、血に汚れたゴム手袋のみ。
そんな状態で、俺は走っていた。
そう、脱がなきゃいけない物も脱げないほど、俺は余裕がなかったんだ。
なにしろ、俺を追いかけてるのは、よくわからないもの……幽霊なのだから。
ゾクッ。
首筋に不快な感覚を覚えて、俺は振り返った。
ユラユラと半透明で、視覚的には見えにくいのに、でも圧倒的な存在感。
ネズミたちの霊だ。
それが、もう、すぐ背後に迫っていたのだ……!
「ぎゃあーッ!!」
悲鳴と同時に、俺は加速する。
今までだって最大限の速度で走っていたはずなのに、なぜか、俺はスピードを上げることが出来たのだった。
___________
ズンッ!!
風もないのに、強風に背中を押されるような感じがする。
これがいわゆる『霊圧』とか『霊的プレッシャー』といったものなのだろう。
(……って、新しく何かを
実感できるのは嬉しいけど。
でも……
そんな場合じゃないんだよ、今は!)
心の中で自分にツッコミを入れながら、俺は、出口を目指して走っていた。
動物実験棟から出たところで、それだけで助かるというわけではない。それは頭では理解しているが、もう理屈云々ではなかったんだ。
逃げなかったら、無人の廊下でネズミの悪霊の群れに襲われて死ぬだけだ。そんな最期はゴメンだから、俺は、走る。
(あと十メートル……)
ドアまでの距離なんて目測できやしないが、自分に言い聞かせるために、適当な数値を挙げてみた。
(あと……五メートル……!)
これが寝ている間に見ている夢ならば、走っても走っても前へ進まないなんてこともあるかもしれない。
でも、これは夢や幻ではない。悪夢のような現実。
出口との距離は、少しずつ縮まっていた。
……悪霊の手に撫でられるような感覚を、時々、背中に感じながらも。
___________
そして、ついに。
「……やたっ!」
精一杯のばした手が、ドアノブに届きそうになった時。
バンッ!!
俺が開けるまでもなく、扉は開いた。
___________
「霊能ウイルスの研究を
しているアラキさんね?
……話は聞いているわ」
そこに立っていたのは、まさに救いの女神だった。救いの女神と、その従者だった。
いや、実際には『女神』なんかじゃなくて、『人間』なのだろう。
でも、彼女――ドアを開けた二人組のうちの女性の方――には、独特の神々しいオーラがあったのだ。その威圧感は霊にも通用するようで、俺だけでなく、俺の背後の悪霊団も動きを止めていた。
「『話は聞いてる』だけじゃなくて
お金も、もうキチッともらっている。
美神さんとしては、それが一番大事……」
傍らの男――救いの女神の従者――が、場違いな軽い口調でつぶやく。
それにゲンコツでツッコミを入れてから、女性が、名乗りを上げた。彼女は、俺の後ろの幽霊たちを見据えている。
「人工的に霊能力を強化されたせいで
こんなになっちゃったんだろうけど……。
でも放っておくわけにはいかないのよ!
このゴーストスイーパー美神令子が
……極楽へ行かせてやるわっ!!」
___________
キンッ!
彼女の手の中で、細い棒状の武器――後で知ったが神通棍という名称らしい――が、適度な長さにのびた。
まるで、それが戦闘開始の合図であったかのように。
『キイッ!!』
ネズミの幽霊たちが、俺を追い越して、彼女――美神と名乗った女性――に襲いかかる。
だが、悪霊たちの敵は、美神一人ではなかった。
「ほら、横島クンも!」
「ういっス……!」
傍らの男――横島と呼ばれた男――も、霊と戦う武器を手にしていたのだ。
それは、生身の腕に直接つながっているようにも見える、光の剣。後で聞いた話によると、霊波刀という名称のシロモノだった。
「えいっ!」
「うりゃうりゃーッ!」
『ギィ……ギャァッ!?』
二人のゴーストスイーパーと悪霊たちとの戦い。
もはや存在も無視されている俺は、目の前で繰り広げられるバトルを、一人の野次馬として傍観するのであった。
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美神という女性は、ひと昔前に流行したゴージャスなボディコン姿で、一方、横島という男は、いかにも安そうなジーンズの上下を着ている。
二人の外見から、俺は、横島は美神の弟子にすぎない――たいした戦力にならない――という印象を持ってしまったのだが、いやいやどうして。
横島は、美神に勝るとも劣らないくらい、強かった。
「おーじょーせいやあっ!」
彼が霊波刀を振るうたびに。
一つ、また一つ。
ネズミの悪霊は、その数を減らしていく。
いや、それだけではない。
ボシュッ……!
横島は、光る小さな玉を投げつけて悪霊の群れを一掃するなんて芸当まで、見せてくれたのだ。
だが、しかし。
「あとからあとから、まったく……」
「きりがないっスね」
一団が全滅しても、どこからか別のネズミの霊が出現。また悪霊軍団を形成してしまうのだった。
「……こりゃあ
ネクロマンサーの笛が必要っスよ!?」
「そうね、おキヌちゃんを
連れてくるべきだったわ。
おキヌちゃんが霊団に追われた時だって
それが決め手になったんだし……」
戦いながらも、二人は言葉を交わしている。
いや、それだけではない。時々、俺の方に向かってくる幽霊もいるのだが、横島が霊波刀を伸ばして、やっつけてくれていた。
「……おキヌちゃんの事件よりも
犬の事件の方を思い出しますね、俺は。
あれも相手がネズミだったから」
「犬の事件……?
ああ、マーロウのことね。
そうか、横島クンなんて
あのネズミに操られたんだから
……イヤな思い出よね」
「そうっスよ。
あいつネクロマンサーのくせに、
生きている俺のことを……」
どうやら、昔話をしているようだ。
何とも余裕な二人である。
……と思ったのだが、これはこれで、大きな意味があったらしい。
美神が、何かに気付いたような顔になったのだ。ハッとした表情のまま、彼女は、俺の方を向く。
「アラキさん……あんた、
霊能ウイルスを作ってたのよね!?」
さっきも美神は『霊能ウイルス』という言葉を使っていたが、霊能遺伝子を組み込んだ改造ウイルスを意味しているつもりなのだろう。
だから、俺は無言で頷いた。
「……で、それを
ネズミに注射したんでしょう?」
俺は、再び頷く。
「そのネズミは、もう全部殺しちゃったの?」
今度は、首を横に振る。
「……なるほどね。
そのネズミたち、
今どこにいるわけ?」
俺は、少し前まで作業していた部屋を――ネズミと話をしていた部屋を――指さした。
それを見て、美神が横島に目で合図する。
「横島クン?」
「そういうことっスか。
……わかりました!」
どうやら、二人は目と目で通じ合う仲らしい。
詳細を聞かずに、横島が、その実験ルームへ飛び込んでいく。
カッ!! シュウゥ……。
あの『光る玉』を使ったのだろう。
何物をも浄化するかのような光が、廊下まで漏れてきた。
同時に、俺たちの周囲の悪霊たちもスーッと消えていく。
そして……。
「……もうOKっス!」
ヒョイッと廊下に顔を出す横島。
彼の表情を見るまでもなく。
全て片付いたのだということが、俺にも理解できた。
___________
「……あちゃ〜〜」
そんな言葉が、つい口から出てしまう。
動物実験ルームに戻った俺の目に飛び込んできたのは、カゴの中のネズミたちの、死屍累々だったのだ。
「これ……全部あなたが?」
と尋ねる俺に対して、誇らしげな態度で頷く横島。
まだ俺がマスクもキャップ帽も付けたままなので、彼には、俺の表情が見えないのだろう。だから横島としては、元凶を倒したという意味で、良いことをしたつもりなのだ。
だが、俺としては……。
もちろん助かったという安堵はあったが、それだけではない。大きく落胆していた。実験が台無しになったからである。
(こいつらが……犯人だったわけか)
ネズミたちの五つのグループのうち、生理食塩水や普通のシベーラウイルスを接種されたグループは無傷だった。
一方、『強毒シベーラ-mGSGH9』と『弱毒シベーラ-mGSGH9』のグループは全滅しているのだ。みんな横島にやられてしまったらしい。
死んでしまったネズミたちの中には、俺の話につきあってくれたネズミ――あのとき俺の方を見ていたネズミ――も含まれていた。
(そうか……)
複雑な気持ちになる俺。
そんな俺の肩を、誰かがポンと叩く。
美神令子だ。
彼女は、いつのまにか、俺のすぐ後ろに歩み寄っていたのだ。
「……そう落ち込むこともないわよ。
命あってのモノダネなんだから。
これに懲りたなら……もう
こういう研究はやめることね」
美神は、少し遠くを眺めるような目をしている。
「そりゃあ、あんたたちに
悪気がないのはわかってるわ。
茂流田や須狩とは違うんでしょうけど……」
「悪意がない方が、かえってタチが悪い。
……そんなケースもありますからね」
と口を挟んだ横島に対して、フッと微笑んでから。
美神は、再び俺の方を向いた。
「人間が霊能力の遺伝子を扱うなんて
……そんなの100年早いのよ!」
何だか仰々しい言い方だが、そう言うだけの資格が美神にはあるのだった。
霊能遺伝子関連の霊障が多発するようになってから、『これは現在の人間には過ぎたる技術』という判断で、神さまが直々に調査をしているらしい。
そして美神の知り合いにも神族調査官がおり、そちらから依頼されて、ここへ来たのだ。未発表の俺たちの研究に関して美神が詳しく知っていたのも、『神の目』により見透かされた故だったのだ。
……だが、これらは全て、後になってから聞かされた話だ。
当時の俺には、美神の発言の真意は分からなかった。
それに、『100年早い』という言葉から、その場の話題は、もっとチンプンカンプンな方向に流れてしまっていた。
「むしろ……100年前に
すでにカオスのじーさんが
通り過ぎた道なんじゃないっスか?」
「そうねえ。
カオスが研究を全部ちゃんと公表してたら、
もっと科学も発達してたかもしれないわね」
「それが今じゃタダのボケ老人……。
もう本人も覚えてないことだらけっスからね」
もはや気楽な雑談タイムなのだ。
それだけは俺にも理解できた。
フッと肩の力が抜ける。
そして、俺は気が付いた。
(俺……
ガウンとかマスクとか、
まだ着たままだったな)
ちょうど実験室に戻ってきたのだ。それ用のゴミ箱は目の前にある。
そこに捨てようと思って、俺は、まず、息苦しいマスクと、長髪を覆っていたキャップ帽を脱ぎ捨てた。
……と、その時。
「ずっと前から愛してましたぁ〜〜ッ!!」
___________
「ビックリした……」
心臓が早鐘を打つ中で、俺は、か細い声を絞り出す。
ある意味では、悪霊事件そのものよりも、もっと驚いてしまった。
俺が素顔を見せたら、横島が突然、飛びかかってきたのだ……!
美神が引き剥がしてくれなかったら、この男にギュッと抱きしめられた状態が長々と続いたことだろう。考えただけでもゾッとする。
ポカッ!!
横島は、美神から鉄拳制裁を食らっているが、すぐに回復。
何事もなかったかのように、キリッとした表情で、俺に手を差し出した。
「紹介が遅れました。
ゴーストスイーパーの横島忠夫です。
アラキノリコさん……ですね?」
「は……はい……」
反射的に握手に応じてしまう俺。
だが、すぐに後悔した。
なんだか、手の握り方がイヤラシイのだ。異性とのスキンシップを悦んでいるのだと思えてしまう。
……これだから、男ってやつは!
___________
だから……俺は男が嫌いなんだ。
俺は女性として生まれてきたのに、今までカノジョがいた時期はあっても、カレシを作ったことは一度もない。つきあうのは、いつも女性だった。
いわゆる『レズ』で通してきたんだ。
たった今この横島という男に抱きつかれたときだって、変な不快感があったくらいだ。
別の言い方をするならば、それは……ビクッとするような感覚。
その『ビクッ』は、あくまでも不愉快な『ビクッ』であって。
べ、別に……。
「ちょっと気持ち良かったかも」だなんて。
「男も悪いもんじゃないかも」だなんて。
……お、思ってないんだからねっ!?
(『あなたの隣に霊は居る』 完)
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