広大な敷地に広がる、大名屋敷にも似た勇壮な和風建築物。
その一室、ゆらゆらと揺らめく行燈の灯が、障子紙に影を貼り付けていた。
蝋燭の焔がゆらゆらと揺れる度にその姿を歪ませる影とは反対に、静かに鎮座しているのは白襦袢を着た一人の女であった。
年の頃は二十歳を幾許か過ぎたほどであろうか。
整った顔立ちに、赤味がかった短い髪。襦袢より覗く絹のような肌は、薄暗い室内にあっても雪のように輝く。
薄っすらと微笑みすら浮かべているその容貌は、少女のあどけなさと女性の温もりを内包している。
唯一つ、他の女と異なる事といえば、その頭に存在を誇示する二本の角。それが、女を人外たらしめる外見上の特徴であった。
古来より、角を持つ存在といえば鬼。然し乍ら、女は鬼女などではなかった。
何故なら、人を惑わす妖艶な色香も、肉を喰らう鋭い牙も爪も、女からは見て取れない。
その容貌は肉に飢えた獣のそれではなく、微笑を湛える天女の様ですらある。
だが、人を惑わし、欺き、その懐へと入り込むのが鬼である。
その笑みも、何処か惹き付ける少女と女性の魅力が混ざり合った容貌も、人に取り入る術であるやも知れない。
そんな女に、襖の外より声がかかった。
「小竜姫、起きてるでちゅか?」
あどけない少女の声だった。鈴を鳴らしたような、空間に残る綺麗に澄んだ声である。そしてその声に、女も応える。
「……いいですよ、入ってきなさい」
こちらは、喩えるなら風鈴の音のようだった。決して耳障りではない、気に留めなければ霧散してしまうような、優しい声音。
おずおずと襖が開く。外からの風によって、行燈の灯が大きく揺れる。
その灯が照らし出したのは、黄色い寝間着に身を包んだ少女の姿であった。
年の頃は十代半ばであろうか。
淡い碧の髪に、吸い込まれそうな大きな瞳。未だに少女のあどけなさを残したその容貌も、数年も経てば可憐なものへと変貌することは容易に想像がつく。
ただ、こちらの少女も人間の少女とは異なる部位があった。頭部より生え出た、二本の触角である。
「一人では眠れませんか、パピリオ」
その声に、少女は恥ずかしげに女の傍へと寄り添った。
女の名は小竜姫。誇り高き竜神の一柱であり、ここ妙神山の管理人を任された、音に聞こえし武術の達人であった。
少女の名はパピリオ。運命に逆らった魔神アシュタロスの娘であり、蝶の眷族を操る魔族である。
「まだ、此処には慣れませんか?」
小竜姫の言葉にパピリオは首を振る。その顔は不安に苛まれた孤児ではなく、まるで遠足を楽しみにしている幼児のようであった。
「明日は、ヨコシマが来る日でちゅ。楽しみで、寝てなんかいられないでちゅ」
その言葉に、小竜姫は薄く微笑む。先程一人で浮かべていた柔らかい微笑だった。
小竜姫は虚空に視線を泳がせながら、ヨコシマと呼ばれた人物の事を想いながら言葉を紡ぐ。
「私と同じですね」
パピリオは目を丸くしながら小竜姫を見上げた。
心底驚いたようだった。
それも仕方のないことで、この小竜姫という竜神は、殊更に男女の機微には疎く、また想っていたとしても言葉に出すことなど滅多に無い。
その未だ男を知らない生娘の如く純情な小竜姫が、まるで恋人に会うのが待ち遠しいかの様な口調でその思いを吐露した事に驚きを隠せないのだ。
「……小竜姫がそんな事言うなんて、明日は雨でも降るんでちゅかね」
「あら、そんなに不思議ですか?」
そういって、また小竜姫は薄く微笑む。
パピリオは益々目を丸くした。どうにも、今宵の小竜姫の様子は普段とは異なる事に気が付いたのだ。
「不思議というか、おかしいでちゅ。何時もの小竜姫はそんな事言わないでちゅ」
「そうですね……他の人の前では、こんな事言いませんから」
その言葉に、パピリオはムッとした様に小竜姫を睨み付ける。
その視線に困惑したのは小竜姫だった。先程まで明日の事で浮付いていたパピリオが、突然拗ねた様に自分を睨んできているのだ。
一体何が気に障ったのだろうかと、先程の自分の言葉を反芻するが、皆目見当がつかない。
「あの、パピリオ? 一体どうしたのですか?」
「他の人の前では、という事は、私の前でなら言っても構わないって事でちゅよね?」
「ええ、そうですけど……」
小竜姫の戸惑いながらの言葉に、パピリオは益々不機嫌になっていた。
困ったのは小竜姫の方だ。一体自分の言葉の何がパピリオの機嫌を損ねているのかが分からない。
戸惑い続けている小竜姫に、パピリオは顔を背けながら呟いた。
「小竜姫は、私の事子供扱いしてるでちゅ」
今度は小竜姫が目を丸くする番だった。
何故自分の言葉がそう受け取られたのか理解が出来ないからだ。
「パピリオ、私は貴女のことを子供扱いしていませんよ?」
「嘘でちゅ」
予想外の強い語気に、小竜姫は言葉に詰まった。咄嗟に言葉が出てこないのだ。
そんな様子を察してか、パピリオは続ける。
「私の事を子供扱いしてるから、他の人の前では言えないことが言えるんでちゅ。
そりゃそうでちゅよね。子供相手になら、恥ずかしいなんて思わないでちゅものね」
パピリオは拗ねた風で、小竜姫から顔を逸らした。
その様子に、彼女は己の失敗を悟る。
言葉が足りずに、パピリオに変な誤解を生ませてしまったのだ。
「パピリオ、違いますよ」
反応は無い。しかし、彼女は続けた。
パピリオが本気で拗ねている訳ではないと分かっているからだ。
もしパピリオが本気で拗ねているなら、今頃この部屋を飛び出しているだろう。
「私が他の人の前では、と言ったのは、貴方が子供だからじゃありません」
「――じゃあ、何ででちゅか?」
「貴女と私が、同じだからです」
小竜姫は依然拗ねているパピリオの頭を、そっと撫で付ける。
パピリオの頭を撫でながら言葉を紡ぐその頬は、蝋燭の明かりか、はたまた別の要因か、薄っすらと赤味が差していた。
「パピリオは、横島さんの事が好きですよね?」
返って来たのは沈黙。ただ、小竜姫は言葉を続けなかった。
何かを待つ様に、じっとパピリオの頭を撫で続けている。
どれ程経っただろうか。パピリオの薄く綺麗な唇が言葉を紡いだ。
「――好きでちゅよ」
何時の間にか、パピリオは再び小竜姫を見上げていた。
その瞳には、部屋にやって来た当初の浮付いた色も、おどけの色も感じられない。
ただ、碧の原の様に綺麗に澄んでいた。
「ルシオラちゃんの恋人だとか、私のペットだったとかじゃない……ヨコシマが――ヨコシマだから好きなんでちゅ」
その言葉に、小竜姫は三度微笑む。
頭を撫で続けていた手を、すっと離す。
「私も、好きなんです」
小竜姫はパピリオの目を見詰めながら、自分の想いを紡いでゆく。
「最初は、違ったんですよ? いきなり私に迫ってくるから、何て失礼な人だろうって、そう思ってたんです。
修行の時も、今までに見た事の無い影法師を出すわ、それがまた横島さんの言う事を聞かないわで……。
どちらかと言えば、好意なんて抱ける人じゃなかったんですよ」
小竜姫は当時の事を思い出したのか、クスリと笑った。
「でも、何時からでしょうね――。
殿下を――天竜童子様を助けて頂いた辺りからかしら……。
何だか、あっという間に大きくなってしまって。今までは、ちょっと煩悩の多い普通の青年だったのに……。
気が付いたら、老師様の修行を受けて、人間唯一の文珠使いに成長して――」
そこで、小竜姫は言い辛そうに口を閉ざした。
視線は、パピリオに向いたままだ。
しかし、視線の先のパピリオに変化は無く、静かな表情で小竜姫を見つめている。
いや、少しだけ反応があった。彼女が何故言葉を詰まらせたのか、次に何を言わんとしているのかを察したのか、時折二本の触角が弱々しく動いていた。
「――アシュタロスを、倒すまでになりました」
ピクリと、触角に合わせてパピリオの体が震えた。
魔神アシュタロス。魔界を支配する魔王の一柱であり、過去と未来を見通すもの。
運命に逆らい、そして運命に流された哀しき魔神。
そして、小竜姫の前に座すパピリオの創造主。
彼女の父であったヒト。
小竜姫は自嘲気味に微笑んだ。
「実らない想いだと思っていました」
「ルシオラちゃん、でちゅね」
「……ええ」
二人の間に、重苦しい空気が漂う。
「横島さんの隣には、彼女がいましたから。でも、それでも良かったんです。
横島さんが幸せそうに笑っていてさえくれれば、私は幸せでした。
でも、彼女は――居なくなってしまった」
ルシオラは、パピリオの姉だった。
アシュタロスに創られた三姉妹の長姉。
蛍の化身であり、幻術を得意とした彼女は、アシュタロスの悲願を達成するため、人間界に赴いていた。
そこで、横島忠夫と出会ったのだ。
敵と味方と言う、現代のロミオとジュリエットを演じた二人は、純粋に愛し合った。
二人の蜜月は、短い間にその命を燃やす蛍の一生に近いのかもしれない。
その舞台は悲劇で幕を閉じる。
アシュタロスを討ち滅ぼすその真っ只中、ルシオラはその命と引き換えに横島を救ったのだ。
そして、彼は残された。
「――酷い女ですよね。彼の隣が空いた途端に、その場所が欲しくて堪らなくなったんです。
彼の周りには魅力的な女性が沢山いますから、何時誰に獲られるのか、怖くて堪らないんです。
私は――」
何時の間にか、小竜姫は涙を流していた。
その頭を抱きかかえた、パピリオの腕の中で。
パピリオは、泣きじゃくる迷子をあやすように、彼女の背中を優しく撫でた。
「いいんでちゅよ、小竜姫。気にしなくてもいいんでちゅ」
パピリオは視線を虚空に彷徨わせる。
その瞳は、ここにいない誰かを見ている様だった。
「ルシオラちゃんの事を気にかけてくれるのは嬉しいでちゅけど、それを気に病む事なんて無いでちゅ。
ルシオラちゃんは幸せだったんでちゅ。ヨコシマと会えて、短かったけど、一緒に過ごせて。
一杯笑って、一杯怒って、幸せだったんでちゅ。
それにね、小竜姫」
パピリオは未だに顔を伏せている小龍姫の頭を撫でた。
「ルシオラちゃんは、あんなにいい男を置いて居なくなったんでちゅ。
遠慮なんてする必要は無いでちゅよ。
私たちはこのチャンスをものにして、いつか、いつかルシオラちゃんに会えたら言ってやればいいんでちゅ」
パピリオの言葉に、小竜姫は顔を上げた。
そこには、いつも妙神山の中を駆け回っている、茶目っ気に溢れた普段のパピリオの顔があった。
「悔しかったら、奪ってみなちゃい、ってね」
暫く呆けた様にパピリオを見上げていた小竜姫だったが、自然とその口元に笑みが浮かんできた。
そして、控えめな笑い声。
何時の間にかパピリオの笑声も交じり合ったそれは、暫くの間、陰鬱だった室内を明るく照らしていた。
笑声が止み、小竜姫の頬から涙の痕が消えた頃、室内には何時も通りの二人が座っていた。
困った顔をした小竜姫と、悪戯小僧の様な無邪気な笑みを浮かべたパピリオ。
「はあ……恥ずかしい所を見せてしまいましたね」
頬を染めながら呟く小竜姫に、パピリオが答える。
「そうでちゅね。いい年して泣くなんて、情けないでちゅ。
いいでちゅか、小竜姫。涙は女の武器でちゅよ? あんまり使いすぎると、効果が薄れるでちゅ」
そう言いながら微笑むパピリオに、小竜姫は肩を落とした。
「一体、何処でそんな事を覚えてくるんですか……」
小竜姫は半ば諦めの思いが浮かんだ瞳でパピリオを見つめる。
そこには、先程自分を慰めた面影は微塵も残っていない。
その事を考えると、益々自分の肩が下がっていく様な気がする小龍姫だった。
「どっちが大人なのか、分からなくなりますね」
「フン、私はもう大人でちゅよ。それに、さっき小竜姫が言ったでちゅ。私の事は子ども扱いしてないって」
「それは――」
言いかけて、小竜姫は口を紡ぐ。
彼女にしてみればパピリオの体格や性格の成熟度合いではなく、同じ男に想いを寄せる一人の女として、パピリオに『少女ではない』と言ったつもりだったのだが、今更違うと言う事も出来なかった。
もしそう言おうものなら、また彼女が拗ねるであろう事が容易に想像が付くからだ。
彼女は深い溜息を吐いた。
結局の所、今更何を言おうと先程の醜態が無くなる訳ではないのだ。
それに、二人とも同じ男を好きになった女同士である。
人間ではない二人の事を考えれば、そこに女、少女の明確な区切りがある訳ではない。
言うなれば――。
「そうですね。私たちは、恋敵ですものね」
「でちゅ!」
二人の寝息が聞こえる頃、夜空には、綺麗な満月が懸かっていた。
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