キヌは随分女らしかった。
腰までかかる長い髪が自慢で、よく褒めてやった。
俺ら二人は仲が良かった。
好きあって一緒になったのだから当たり前だけど、とても仲が良かった。
最初会ったときに殺されかけたと言って、一体誰が信じたろうか。
底抜けに優しくて天然で意地っ張りで頑固でのんびり屋、そんな女の子だった。
大丈夫、死んでも生きられます。
そう言ったキヌが、早々と鬼籍に入る事はなかったんじゃないだろうか。
タクシーはちらと舞う雪を気にもせず、いつも通り道を飛ばしている。
−恋文−
俺たちのアパートは何事もなくそこにあった。
階段を上って鍵を開けリビングのドアをひらいても、変わりはない。
ちゃぶ台、フロアマットに座布団、CDラックも観葉植物もTVも箪笥も全部そのままだ。
抱えた白い包みの場所だけが無く、どうしたものかと見渡して結局いつもキヌが座っていた側にあるちゃぶ台の上に置いた。
カーテンをしていなかった窓から冷気だけが入り込んできていた。
「ちょっと寒いな。お茶でも飲む?」
白木の箱が答えるはずもないけれど、俺はキッチン脇にある食器の水切りから湯飲みを二つ出そうと手に取った。
この所ばたばたとしていたせいかいくらか汚れているのに気がつく。
仕方がないと洗っていると、手がすべり湯飲みを割ってしまう。
「……」
これはキヌお気に入りの湯飲みだった。
俺はそのまま、割れた湯飲みをじっと見た。
水を止めることもなく、割れた湯飲みを見ていた。
☆☆☆
「やだ、横島さん。それ、割っちゃったんですか……」
素手で片付けをしていた俺を、キヌは怪我するからと遮った。箒とちりとりで手際よく片付けたかと思えば、キヌが少しばかり恨めしい目線を俺に送ってきているのに気づいた。
たれ気味の目をつり上げて怒っているんだぞと頬を膨らませられれば、高校卒業を控えたとはいえ相変わらず貧乏な俺でも新しいのを買おうかと問いかけざるを得なかった。
これがずっと欲しかったんです、とマイセンだかウェッジウッドだか5000円もするカップを買わされた。
今月はまともに食えないなと献立を考えて(袋ラーメンの繰り返しだけども)いると、キヌが振り返り、ありがとうございますと嬉しそうにはにかんだ。
あの後キヌがしばらくおさんどんをしてくれなければきっと飢えていたのだろうが、キヌは全部わかっていてあんな高い物を買わせたのかもしれない。
事務所で作ってくれるだけでなくて、いくらかは外食もした。
そんなときは決まって、アパートの階段下でキヌは待っていた。
「横島さーん!」
にぎやかしく大きな声で呼びかけ、荷物を置く暇もくれず手を引っ張っていかれた。
外食するのは決まって事務所に二人しかいない日で、かといって肩肘張ったレストランに出向くでもない。
ごくありふれた定食屋さんか、せいぜい魔鈴さんの店くらいだったのを覚えている。
キヌは案外メニューを決めるのが早くて、俺はいつもあれこれ迷ってはキヌを待たせていた。
全く甲斐性無しだなと自重しながらも腹の虫はしっかり反乱を起こしていて、あわてる俺をキヌは楽しそうに見つめていた。
「ほーら、ちゃっちゃと決めちゃいませんと。おなかの虫が泣き止みませんよ?」
「ホント、どれにしよっかな……」
あの時、君は?と言いたかったのか。
それとも単なる言い間違いだったのか。キヌ、と呼び捨てにしてしまった。
俺はあたふた訂正しようとして、でもキヌは驚きながらも、もう一回と指を振った。
「さん、はい」
「え?」
「だから、もう一回。いっちにーの、さん。はいっ!」
仕方なしにキヌと呼んだ。
どもりそうになってしまうのを、息を何度も吸い込んでははいて、ようやく出た言葉に、キヌは頬を赤らめ、へへっと笑いながら
「はい、忠夫さん?」
と、そう答えた。
☆☆☆
「キヌ、植え込みのところを歩いてると転んだりしてあぶないよ」
「えっへっへー。だいじょうぶれっす!」
「全く、この酔っ払いさんは」
「ちょっと飲めばすぐ酔っちゃいますからー」
キヌが酒に弱いのは昔からだ。
ニューヨークに引越しするしないと話が上った際にも、お袋を問い詰めようと気付に一気飲みして倒れていた。
だけど飲みすぎなければいい酔い方をするキヌとの酒は楽しかったし、あの時は俺も随分出来上がっていたように思う。
夜空に雲は無く月が空を煌々と照らし、街明かりと一緒に俺らの足元を導いてくれていた。
先に進みすぎたキヌをいさめようとして、突然道路に倒れこんだキヌが目に入った。
俺のアパートに急いで運び込んだのだけど、細かいことは覚えていない。
「どこですか、ここ……」
そう言っておきながら、キヌはすぐに俺の部屋だと分かった様で口を閉ざした。
安堵したのか視線を戻してから、かけた布団に手を伸ばす。
植え込みに倒れた際に汚れてしまった服をとりあえず脱がせたのが分かったんだろう。
若干の戸惑いを見せながらも、俺の説明(言い訳と言っても良いけれど)にうなずいてつぶやいた。
「わかってますよ」
「……そっか。ちょっと休んだら、事務所まで送っていくよ。人工幽霊一号も心配してるだろ」
「ううん」
「……え?」
キヌの言葉に、何がと間抜けた問いを返す。
今日は泊まってくると告げていたのだという。
「こっちにきてください、忠夫さん」
恐ろしく真剣なキヌを、果たして俺は受け止められたのだろうか。
やがてゆっくり、そっと。
髪を撫で、華奢で細い体をかき抱いた。
やわらかくて暖かくて、壊さないようそっと、出来る限りの優しさを込めた。
二人してお互いを確かめ合って、やがて事が終わり。
どのくらい寝入ってしまっていたのだろうか、キヌの髪が鼻をくすぐってまどろみは霧散した。
「随分うとうとしてましたね」
「こんな安心して眠れたのは初めてかも」
お互い様かなと照れ笑いして、カーテンの隙間から覗いた空を見上げた。
雲ひとつ無い空に輝く月、キヌは今日を一生忘れないとつぶやいた。
☆☆☆
キヌの葬式から何日経っただろう。
周囲の弔辞に慣れてしまっても相変わらず天気ははかばかしくなかった。
つい習慣で窓際でタバコに火をつけ、苦笑いしてサッシに身を投げかけた。
染みていく寒さも、今はたいして気にならない。
うす曇の空では、太陽も良く見えはしない。
まだつけている指輪も鈍く浅い日差しを受けるだけだった。
「あれから、だったっけか」
お互いを知った日から程なく、俺はシルバーのリングを贈った。形ばかりの安物だったけれど、キヌが底抜けに喜んで笑ってくれたのをよく覚えている。
一緒にいる時間が増えて、俺は知らなかったキヌの色々な顔に気づいた。
笑った後、大概口を押さえること。
案外なんでも知りたがりなこと。
電話の気配に気づくこと。
一人の世界に入ってしまうと、なかなか戻ってこないこと。
いつまで経っても、着替えは見えないところですること。
意地っ張りではなくて、頑固なのだということ。
どこか江戸時代の記憶が残っているのか、俺が洗濯などしていると止めてくださいということ。
−−−そして、体の具合があまり良くないのだということ
幾度かキヌが倒れて、無茶をしないで貧血がひどいなら病院に行くようと何度も勧めた。
だけど決まって、休むからと答えては寝息を立てた。
俺は仕方ないなとため息をついて、決まり事の様に残っていた洗い物を済まそうと立ち上がり、キヌの手提げ鞄からのぞく内服薬に気づいた。
氷室のお義母さんが俺のアパートに現れたのは、それから少し経ってからの事だった。
ちょうどキヌが俺の部屋に泊まっていった日の朝で、誰がどこに行ったといわずとも居場所が分かるくらいの関係にはなっていたから、驚きはしたけれどお義母さんの顔をちゃんと見る事が出来た。
お義母さんは俺を一瞥すると服と部屋を整えるようにと告げ、10分後には険しい表情で俺達の前に鎮座していた。
「キヌを連れて帰る?」
言葉と現実がうまく頭の中でかみ合わなくて、しばらくお義母さんとキヌのやり取りに耳を傾けていた。
生き返った際の霊体蘇生が原因……もうあまり長くはないのだと……。
目の前が真っ暗になった。
自分でも驚くくらい、言葉通りに。
キヌとお義母さんの穏やかでも無いやり取りは、全部すり抜けてしまっていた。
うすうすは分かっていても気づかなかった、いや気づこうとしなかったのかもしれない。
「俺は……」
ここで離してしまえば、多分もう二度と会えない。
会わせてはもらえない。
そんな気がした。
それだけは嫌だった。
恥も外聞も臆面も無く。
俺は必死に、キヌをつなぎとめる為だけに言った。
「結婚させてください」
☆☆☆
ある日、美神さんやお義母さんが訪ねてきた。
美神さんはリビングの隅に倒れたままにしてある写真立てをなおそうとし、俺が止めた。
そのままにしていてください、と。キヌが最後にこの部屋で触ったものだから、そのままにしておくのだからと。
お義母さんはありがとうと言った。
娘を、いくらひと時とはいえ確かに私の娘だったあの子を大事に思ってくれて、本当にありがとう、と絞るような声で。
だけど、あなたまで一緒に死んだように止まっていることはないわ、と。
美神さんもまた、言わずとも同じ気持ちだったのだろう。
俺をじっと見つめていて、だけど言葉は続かず。
お義母さん達が帰ってしまった後、俺はやっぱり部屋で一人だった。
どんよりした低い曇り空が雪をちらつかせ始めた。
窓を開け、煙草に火をつけた。煙が立ち昇る。
渦を巻きすぎた勾玉のような、いくつもの薄い白濁が重なって、揺れる。
ふよふよ、ふよふよ……まるで人魂の様に。
キヌが幽霊だった頃そうしていたように、たゆたう。
壁ヌケして顔を出してきそうな程に、白い人魂は部屋を数瞬明るくして、消えた。
「……キヌはちゃんと、成仏したさ」
叶えられようもない淡い、そして願ってはいけない期待を言葉に出して霧散させる。
煙草を灰皿に押し付け立ち上がろうとした時、ふと食器棚の奥に何かあると気づいた。
硬質な物ばかりの棚にあって、それは柔らかい白さを主張していた。
「手紙……?」
見間違えようも無い、キヌの字だ。
俺は自分でも不思議なくらい落ち着いていて、いつもの場所に座り、読んだ。
☆☆☆
忠夫さんへ
この手紙を見つけてくれて、ありがとう。
読んでくれているということは、きっと今忠夫さんはひとりなんでしょうね。
きちんと食べるものを食べてちゃんと眠って、お仕事できてるのかちょっと心配です。
あなたが外にお買い物に出た隙を見計らって急いで書いているので、読みづらかったらごめんなさいね。
でも、あなたの字よりは読みやすいかも、って言ったら怒られるかな。
忠夫さん。
あの時。
あの時プロポーズしてくれて、本当に嬉しかったです。
ルシオラさんの事があってなお、そう言ってくれたあなたにどれだけ感謝したかしれません。
だけど、私は迷いました。
もしかしたらあなたも気づいていたかもしれないけれど、私の体はそう長くは持たないことが分かっていたからです。
だけど、あなたに辛い想いをさせると分かっていても、それでも私はあなたの側にいたかった。
弱くてずるいと分かってはいたけれど、あきらめる事が出来ませんでした。
自分に大丈夫だと言い聞かせればなんとかなるかも、なんて思いもしたのだけれど、それも出来ませんでした。
本当に、ごめんなさい。
大好きなあなたへ。
私から最後にお願いがあります。
結婚する前も、した後もたくさんわがままも言っちゃったけれど、もうひとつだけね。
私が死んだ後、あなたを好いてくれる人と、きっと、きっと結婚してください。
頼りがいがありそうでなさそうな、あなたを一人にしておくのは心配です。
あの御山で出会ってから、長いようでいて短い間だったけれど、私は本当に幸せでした。
あなたに出会えなければ、こうして生きていろんな物を見聞きすることも出来なかったから。
だから、どうか。どうか、忠夫さんは私の分も長生きをしてください。
今を、これからを、精一杯楽しんでください。
ありがとう。
愛してる。
いっぱい、幸せになってね。
手紙はそこで終わっていた。
「なんだよ、勝手なことばっか……何とか、言え、よ」
涙ににじむ手紙に怒鳴ってみても、答えは返ってはこなかった。
「俺だって……俺の方が、どれだけ幸せ……だったか……」
涙の端にキヌの姿が浮かんでいた。
朗らかな顔でしっかりと笑って、いくら涙を流しても変わらずそこにいた。
このとき初めて、俺はようやく一人になったんだと実感出来た。
☆☆☆
もうキヌを夢に見て、朝涙の跡に苦笑いすることもなくなった頃。
「あれ? おかしいな……」
事務所前に貼り付けておいた助手募集の張り紙がなくなっていた。
あれだけちゃんと貼り付けておいたのだ、まさか春の嵐に飛ばされていったのでもないだろう。
「しょうがない。もう一度貼り付けなおすか……」
「……島君、横島君!」
プリントアウトしようと事務所に入りなおそうとしたとき、後ろから声が聞こえた。
風がほのかに沈丁花の香りを運んできて、誘われるように振り返った。
見つめる俺に、微笑をたたえた美神さんが立っていた。
「久しぶり。元気してた?」
「……お久し振りです。ええ、元気にしてましたよ」
「……そっか。うん。なら、いいの」
言葉は多くなかった。
互いに視線を交し合うだけで、陽射しのあたるまま任せていた。
ずっと後ろで手を組んで、なにかもそもそしていたその人は、やがてゆっくりと口を開いた。
「あの、さ」
「なんでしょう?」
「また、一緒にやれない……かな?」
俺が募集してたのは助手ですよ、と苦笑いしたら美神さんが言った。
「あんたが助手やればいいじゃないの」
「時給250円じゃ嫌ですよ?」
「あんたね……」
ともかくも上がってくださいよと手招きをして、美神さんを迎え入れた。
お互い似たようなモンだろうけど、とりあえず座る場所くらいはあるだろうから。
「汚いところですけども」
「言われなくたって分かってるわよ」
階段を上りながら、好きなだけ言い合う。
ひどく懐かしくとても新鮮なやり取りに、俺は声をあげて笑った。
「さあ、どうぞ」
開いたドアからのぞいた陽射しは暖かく、埃だらけの事務所を照らしていた。
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