2823

満月の夕べ

「天狗殿!」
 森の夜陰に響く太く、それでいて鋭い声が響く。
「拙者、人狼の里が犬塚タロと申す者!此度こたび、我が子のために天狗殿の霊薬を所望いたしたくまかりこした!」
 夜闇に浮かび上がるのは、壮年の男の姿。
 白装束に襷掛け、腰に大刀を提げた男は、その貌に険しさと悲壮感を滲ませて闇の一点を見やる。
 視線に呼応するかの如く、闇に隆起が生じ、「その意気や由」染み出すかのように一つの影が形を為す。
 長大な鼻を有する夜目にも判る朱色に染められた貌に、黒よりも闇に溶け込むかのような深い緑の―― 恐らくは草木で染めたのであろう―― 篠懸すずかけと呼ばれる麻の簡素な法衣を羽織った修験者然とした異形―― 天狗は、男へ重々しく問い掛ける。
「……されど、拙僧の霊薬を求めるに当たって、何が必要か―― お主は知っておるのか?」
 天狗にとって、判りきった返答が返る。
「委細承知の上にて!」
 返答とともに腰間から抜き放たれた大刀が、銀色の満月の光を受けて輝いた。
 獣の咆哮が―― 夜を裂いた。


 * * *


「―― 見事。
 約束じゃ。この霊薬、持っていくがいい」
 武僧の誇りからだろう、倒れ臥すことを拒否するかのように木立にもたれかかると、左の脇に深深と刻み込まれた傷もそのままに、天狗は懐に手をやりつつ、問う。
「一つ聞かせてもらえぬか?
 お主が今遣った剣―― なんと言う?」
 問われ、犬塚は応じる。
「―― 斬月。それがこの秘太刀の名です」
 満月の下、まんじりともせずに霊薬の瓶を受け取り、答える犬塚の右の目からは、真っ赤な鮮血が溢れ続けていた。


 【満月の夕べ】


 娘であるシロの病から一月が過ぎたその日、犬塚タロは里の墓地に向けて歩を進めていた。
 灯りのない山道ではあるが、澄んだ空気は月明かりを阻害することなく届けており、手に白菊と黄菊の束を持つだけの犬塚の足の妨げにはならない。
 否、たとえ新月であろうとも、人に数倍する感覚を有する人狼族である犬塚には夜の闇は何ら妨げになるものではないだろう。
 その中でも特に優れた感覚である嗅覚が、山中に微かに香る線香の香りを嗅ぎ付けた。
 だが、殊更にその歩みを緩めるでもなく、早めることもなく、淡々と山道を歩き続けた犬塚は僅かに開けた墓地に辿り着くと、一つの墓の前に佇む背姿に並ぶと、一声を掛ける。
「やはり来ていたか、犬飼」
「無論よ。しかし、毎年済まぬな」
「気にするな、俺とお主の仲ではないか」菊花を墓前に捧げ、線香に火を点けると、横顔に薄い笑みとともに返しつつ「それにしても……十五年、か」犬塚はかつての日々に思いを巡らせる。
 甘さと輝かしさ、そして苦さを含んだ若き日の記憶が、蘇ってきた。

 * * *

 目まぐるしい早さで進化を遂げる人界と断絶することで、昔ながらの生活とともに純度の高い血統を保ってきた人狼族の里の者は、総じて剣をよく遣う。
 ただでさえ身体能力、反射神経、超感覚―― 全てに於いて高い素質を誇る上、幼い頃より外界と隔絶されて育つことで剣と親しみ、時に友として共にある環境が生まれ、自然じねん、優れた遣い手となる下地は醸成されていく。
 その剣士揃いの里の中でも、犬飼ポチと犬塚タロの二名は特に抜きん出た剣腕を誇っていた。
 旋風つむじかぜが如き、息をも吐かせぬ手数と巧みな技で剣を振るう犬飼と、烈火の如き苛烈さを剣尖に乗せる豪剣の遣い手である犬塚―― 互いの剣の性質に違いはあれど、明確な違いを持つことが互いに刺激しあい、高めあうことに繋がり、いつしか二人を善き剣友として強固に結びつけるようになっていった。
 しかし、如何に善き剣友とはいえ、互いに譲れぬものもあった。
 それこそが秘太刀“斬月”―― 何代前の人狼の里の剣士が工夫した剣なのかは、今となっては定かではない。
 ただ、人狼族の里の中でもその代に一人だけしか受け継ぐ事を許されぬ、文字通りの秘太刀の名であるとされていることには違いはなかった。
 師である犬井リキより一人いちにん相伝のその技を受け継ぐ事、そして、来たるべき時に次代に伝える役目を受け継ぐ事を望み、練磨しあう日々は、確かに二人の若き人狼にとって充実したものではあった。
 だが、長きに渡り練磨しあうことによって、互角と称されるほどに卓絶した業の持ち主である二人にも、差は僅かだが、しかし確実に生じていた。
 二合、三合と打ち合ううちにその差は如実に現われる。
 裂帛れっぱくの気勢を込めた斬撃はいなされ、打ち合おうと試みる木剣は一方的に打ち据えられ、両の手に痺れにも似た痛みをもたらす。
 続けざまに振るわれた、早く、鋭く、そして重い打ち込みは、凌ぎきろうと受けに徹していた犬塚の手から木剣を弾き飛ばしてもなお止まらず、弧を描いた切っ先は額の寸分先で止まっていた。
「……参ったっ!」
 打ち合う音と踏み込みに伴って生じる足音以外、しわぶき一つ起きなかった道場に響いたその声が切っ掛けとなったのか、若者達の声が細波の如くに響き始める。
「おい……犬飼が犬塚からああも完璧に一本を取れたのは、初めてじゃないのか?」
「そうだな。俺もこの十年で初めて見たかも知れん」
「こりゃあ、犬井先生から斬月を受け継ぐのは犬飼で決まりだろうな」
 口々に囁きあう若侍達を「何を言っておる。斯様な無駄口を叩いておる暇があるなら剣を振れ!舌を動かすより腕を動かさぬか!」犬飼はたしなめるが、その声は明るい。
 それとは対照的に「お主も浮かれすぎだ。まったく……俺が祝言の支度で稽古出来ぬ間に腕を上げおって―― 友達甲斐のない奴め」憮然たる口調に明確な悔しさを乗せつつ犬塚は汗を拭う。
「何を言う!忙しさを理由に稽古を怠っていただけではないか。
 第一、お主からこうも綺麗に一本を取れることなどそうないことだからな。多少浮かれるぐらいは大目に見させろ」
「ああ、浮かれろ、浮かれろ!そうやって浮かれている間に、今度は俺が抜き返してやるぞ!」
「なんの、お主が今の俺を抜く頃には、俺はまだ強くなっておるさ―― 昔から言うだろう『父はなによりも強し』とな」
「ああ、確かに言うが、その後ろには『ただし、妻の尻には敷かれるばかりなり』と続くではないか」
 顔を見合わせ、ともに破顔する。
「もうすぐ、お主も父親になるのだな」
 道場の壁にもたれかかり、感慨深げに目を細めながら言う犬塚に、犬飼は応じて返す。
「なに、お主もすぐだ。
 お主も早くギン殿との間に子を設けろ。その時のやに下がったお主の顔を思い浮かべると、今から楽しみでならぬわ」
 犬飼の薄笑いが、磊落な笑いに変化する。
 幼い頃から慣れ親しんだはずのその豪胆な笑いに、犬塚はいつにない眩しさを感じていた。
 師である犬井から斬月を受け継ぐことで名実ともに里一番の剣士となり、『強い父親』としての姿を我が子に見せてやりたいと言う意志こそが、今の犬飼の強さの源であり、今こうしてその望みを叶えようとしている友の充実が好ましく、そして輝かしいものであると感じているが故の眩しさであった。

 ―― しかし、輝きはその時を切っ掛けにしたかのように奪われた。

「犬飼!犬飼ポチはおらぬか!?」
 その大声とともに道場に駆け込んできたのが、犬飼の隣に住まう犬山家の隠居であると言うことは理解出来た。
 しかし、犬飼の姿を見届けた犬山の隠居が発した続く言葉を理解することは、俄かには出来なかった。
「大変じゃ!ご妻女が……ハナ殿が倒れたぞ!」
 蒼白な貌で駆け出す犬飼に、犬塚もまた、足元から全てが崩れ落ちたかのような感覚を覚えるばかりであった。

 * * *

「ああ、十五年だ―― 十五年は……長かった」
 犬塚の言葉に応じて発せられた『長かった』と言う犬飼の言葉に微かな違和感を覚えたが、感傷はその違和感を容易く押し流す。
 犬塚にとっても、また、今は亡き妻ギンにとっても、犬飼とその亡妻ハナは年が近いこともあり、幼い頃から兄妹の如く交わった間柄であった。
 その連れ合いを喪った痛手は想像に難くない。
 まして、自らも妻を喪うという痛手を負っているのだ。痛手から立ち直るには、いくら刻を重ねても難しいものであることもまた、犬塚には理解出来ていた。
「確かに…長いな」
 未だ癒えぬ傷を自らと重ね合わせて呟く犬塚に、頷きが返る。
「その長い刻を経て、やっと掴めたのだ―― 俺は、生まれてくるはずだった子に何を捧げればいいのかが、な」頷きとともに返ってきたのは力ある言葉。
 だが、言葉に宿る力には、少なからぬ歪みがあった。
「いや、思い出したというべきだな―― 『父は強し』という言葉を証明する、という誓いを……」
 背筋を走る厭な感覚に、犬塚は怪訝な貌を犬飼に向ける。
 犬飼の瞳に宿る光は、半ば以上狂気に浸っているといっても過言ではなかった。
「犬飼……お主――」
 信じたくない。それを知ってしまえば全てが破綻する、という直感にも似た思いが、犬塚の問い掛ける言葉を途切れさせる。
 だが、その犬塚の思いをあえて引き裂くかのように、犬飼は狂気に満ちた返答で返していた。
「ああ……狼王になる―― それだけが、俺の渇きを満たし、生まれることすら叶わなんだ我が子に俺の強さを示すことが出来る唯一の道となる……そうは思わぬか?」
「馬鹿なことを申すな!斯様なことをしてどうなる!
 第一お主の強さは俺が一番よく知っておる!里一番の遣い手―― それで充分ではないか!」
「お主に何が判る!
 斬月を伝授され、斬月の秘太刀によって天狗の霊薬を授かることが出来、子の生命を救うことが出来たお主とは違う!」
 犬飼の口から飛び出したのは、決定的な一言であった。
「いや……判らぬ!斬月の伝授を許されず、それがために妻と子を喪い、生きる糧を喪った俺の気持ちなど、お主に判ることなどありえぬ!」
 十五年前、天狗の下に霊薬を求めに行き、辛うじて犬飼は勝ちを拾う事は出来たが、里に戻った頃には時既に遅く、母子もろともにその命は尽きていた。
 力及ばず喪った妻と、生まれる事すら適わなかった我が子への想いは募るばかりだったのであろう。
 斬月さえあれば、という妄念もあったに違いない。
 あの日より十五年、己の中の狂気と向き合わなければならなかった犬飼の毎日は地獄と同義であったに違いない。
 だからこそ、地獄と化したその胸中で行き場を喪ったことで膨れ上がり、醸成されていくそれらの想いが綯い交ぜになり、合わさった結果、狼王となるという結論に達したのだろう。
 諦める事さえ出来れば、転落は免れたかも知れない。
「判る!俺も……ギンを助けられなんだ!」
「だがお主は娘を―― シロを助けることが叶ったではないか!」
 だが、犬塚が霊薬を手に入れ、シロの生命が救われたその皮肉こそが、犬飼の転落を決定付けるものとなっていた。
「……十五年だぞ!俺の子は、生まれてさえいれば十五のはずだった!」
 剣とともに抜き放たれる犬飼の悲憤の叫びを、犬塚は剣を抜いて受け止める。
 鋭い抜き打ちを剣の腹で受け止めることが出来たのは、僥倖と言うより他になかった。
 だが、初太刀を受け止めることは出来たと言え、続けざまに放たれる十五年の妄執が培った犬飼の斬撃の数々は、受け、凌ぐ犬塚の太刀を掻い潜り、確実にその刀身に犬塚の血を吸わせ続けていく。
「さぁ、斬月を遣え!さもなくば、このまま斬り捨てるのみ!」
 打ち下ろす剣とともに、言葉を叩きつける犬飼に犬塚はその貌を歪める。
 斬月の正体を知らぬ犬飼は、斬月を無敵の秘剣と見ているのであろう。
 しかし、斬月は決して無敵の剣などではない。格上の相手を相手に死中に活を見出す―― いや、むしろ相打ちをも辞さぬ時にしか放てぬ捨て身の剣でしかない。
 その正体を明かす事で犬飼の誤解を解けば、この場での争いは避けられるかも知れない。
 しかし、秘中の秘とされてきた剣を受け継いだ剣士としての本能は、それを許さなかった。
 何より、緋色の月光が導く人狼としての衝動は、犬塚の理性すらも塗り潰そうと容赦なく降り注いでくるのだ。

 いつしか、その貌にはともに我知らず笑みが浮かんでいた。

 かくて、月下に剣士ケモノは斬り結ぶ。
 狂おしいまでの叫びを上げて。
 愛しさすらも感じさせ。
 その身に宿した技を振るい、恋焦がれた相手をもの・・にしようとでもしているのかという錯覚すらも漂わせつつ―― 。
 だが、いつ終わるとも知れぬ戦いにも、間違いなく終焉の時は来る。
 不意に空気が変わったことを察知し、身を翻して鍔迫り合いから間合いを外す犬飼。
 その距離は、およそ五間(十五メートル)。
 しかし、青眼から構え直した犬塚はその遠間を瞬く間に詰め、右八双から袈裟懸けに斬りつけていた。

 口伝にはある。
 “己ガ身ヲ弓張リノ月ヨリ放タレシ矢ト為シ―― ”

 全ての力を込めたかのように袈裟懸けに斬り下ろした剣をその勢いのままに左の腰に溜め、全身のバネを撓めた後に、解き放つ。
 空気を、いや空間を抉り取るかの如き勢いで放たれ、犬飼の胸元に突き立とうとする諸手突きは、月の光を受けて紅色の輝線を描いていた。
 八双からの斬り下ろしと続けざまに放たれた刺突剣は、どちらも刀で受けるを許さぬ威力を帯びている。
 剣戟の迅さを重んじていた犬飼の剣と違い、重さを重視してきた犬塚の剣である―― 受けてもなおその圧倒的な力で押し切られ、致命的な深手を与えることになるだろうことは、理解できていた。
 許されることはただ避けることのみ。
 しかし、突き技というものは、その高い殺傷能力と引き替えに外した場合には容易に死に体に陥るという欠点を内包している。
 なればこそ、犬飼は続けて放たれた刺殺剣を全力を以って躱す。
 切っ先を外した安堵が生じたその時、諸手突きが僅かに伸びた。

 口伝は続ける。
 “矢ノ軌跡ヨリ生ミ出サルル弧月、此レ斬月ガ極意也”

 諸手突きから左手を外し、片手突きに以降することで左掌に収まっていた柄尻を右掌に滑らせ、切っ先を伸ばすとともに、開いた左手を胴に巻きつけるかのように折り畳み、次に続く薙ぎ払う一撃とする。
 霊波の刃を纏った左手は円を描き、さながら中空に浮かぶ朱に輝く月とは違った、地上にある真白の月を思わせる弧を描く―― これこそが、斬月の太刀。
 刺突の隙をあえて見せて相手を誘うことにより、逆撃に転じようとする相手を斬り捨てる剣であり、紙一重で避ける事を可能とする達人であればあるほどその誘いに乗せられ、斬られるであろう秘剣である。
 だが、それを可能にするのは、人狼の中でも類い稀な突進力を持つ者であり、中でも死に体から即座に回復出来る『一歩』を踏み出すことが可能な強靭な下半身の持ち主のみである。
 その場に踏み止まり、瞬時に幾筋もの斬撃を見舞うという形で瞬発力を磨きぬいてきた犬飼のような遣い手には、到底遣う事が出来ぬ技であった。
 そして、犬飼のような遣い手に使えぬ理由はもう一つあった。
 この技は、あくまで前進を信条とする捨て身の技。
 いざと言う時には退き、下がる事も厭わぬという“勝負”を好む者には向かぬ技である。
 そして、“いざと言う時に退く者”への相性が悪いのは、遣い手のみではなく、対峙する者にも言えた。
 退きさえすれば、この技は容易に躱せ、さらに大きな隙を見せることになるのだ。
 犬飼がその“退くこと”が出来る者であることが、全てを決した。
 薙ぎ払う光の刃が行き過ぎ、犬飼の服を袖から胸元にかけてのみを切り裂く。

 それだけだった。

 一歩の差―― いや、一顰の差で捨て身の剣を躱された刹那、犬塚の貌に浮かぶのは諦観。
 友の諦観を瞳に映し、犬飼はその貌を苦痛に歪め……その苦痛を振り払うかのように叫ぶ。
「犬塚……いやさ、タロよ―――― 見たぞ、斬月!」
 最期のその時―― 犬塚が見たものは、紅に彩られた月光を弾く剣の閃き―― 道場で何度となく振るった八双からの斬り下ろす太刀と、微かな一滴がもたらす二つの光だった。
 それは、狂気に囚われた犬飼が友に対して流す、最後の理性の顕れだったのだろうか。
 その答えは、最早誰も知らぬ事。
 ただ、友を喪った獣の遠吠えだけが人狼の里に物悲しく響き続ける。

 遠吠えは、月に届けとばかりに高く、何時までも響いていた。
 月は、咆哮に応えることはなかった。
 という訳で、十五夜にあやかって二人の人狼を主役にしてみました。
 勝者なき戦い、というのも好きなのですが……楽しんで頂ければ幸いです。

P.S.…nielsen様、ひとまずはこの程度でお茶を濁しておきますが……もうすぐリクエストなさって頂いた『完全硬派武闘派SS』に本格的に取り掛かります。
 長編ということもあり、投稿開始は来年の春先になるかと思いますが、戦闘の占める比率はかなり高くなるとは思います……お楽しみ頂ければ幸いです。

[mente]

作品の感想を投稿、閲覧する -> [reply]