青い空と、白い雲。
夏にしては涼しい、心地良い風が耳元を通り過ぎていく。
「あはははは! もっと早くー! もっともっとー!」
「いや、これ以上は危な――」
「あははははははははっ! ごーごー!」
「聞いてないし……えーい、行ってやらあ! 振り落とされるなよ!」
回る二つの銀輪。くるりくるり。
ごつごつした背中。汗のにおい。
いつもより高い、彼の体温。
自転車を漕いでいる時。
彼女を後ろに乗せている時。
いつも「おかあさん」みたいな彼が、少しだけオトコノコの顔になる。
彼女はそれが、嫌いじゃなかった。
■ 夏曜日の空は ■
自分の重さでおじぎして、それでも太陽に向かおうとするひまわりの咲いた坂道を、二人乗りの自転車が滑るように駆け下りていく。
前髪を跳ね上げる風。背中に流れ飛んで行く景色。
顔にぶつかる空気の感触に目を細めて、ただまっすぐに坂道を駆け下りていく。
こんなところ、車は通らない。
「はぁ、はぁ……ここらで休憩するぞ」
「おー」
坂道を下りきったところで、彼が自転車を止めた。後ろから彼女がピョンと飛び降りる。
彼は荷物から清涼飲料のボトルを取り出すと、貪るようにあおった。
「ほら、お前も水分とっとけ」
「ん、ありがと」
投げ渡されたペットボトル。早速、口をつける。
コクコクと何回か喉を鳴らしたところで、ぼんやりとこちらを眺めてる彼のまなざしに気がついた。
くちびるのあたりに感じる視線が、なぜだか不思議とくすぐったくて、なんとなく顔を空に向ける。
「あ」
「どうした?」
「ひこうきぐも」
見上げた空に、雲と雲との間を縫うようにして、一本の白い線。
「ああ、ホントだな」
「キレイ、だね……」
彼女が、彼の少し汗ばんだ手を取った。
瞳を合わせて、はにかむように笑って、手を握る。
握ったまま、ふたりでまた空を見上げた。
白いひこうきぐもは、どこまでもどこまでものびている。
「ねえねえ、あの雲の向こうには、空飛ぶお城があるんだよね」
「アニメの見すぎだ。主任に影響されるのも大概にしとけよ」
「むー」
夢がないぞー、と彼女は呟いた。
それを聞いた彼が、彼女の髪を撫でて微笑う。
「行ってみたいのか?」
「ん?」
「雲の向こうだよ」
「なんで?」
「だってお前なら、本当に行こうと思えば、さ」
彼女には、それができるから。
その身に翼をすら与えうる彼女のチカラになら、それが可能だから。
「……行かないよ」
でも、彼女は。
「行きたいなんて、思わない」
思いがけないほど、はっきりと。
「へえ、どうしてだ?」
「わかんない?」
「わからん」
こつん、と。彼女は、彼の肩に額をぶつけた。
「でも、教えてあげない」
――だって、独り旅なんてツマンナイじゃない。
彼女の体が傾いて、傍らの肩にもたれかかる。
奏で続けられる風音の中、無言のまま繋いだ手が、ぎゅっ……と、強く握りしめられた。
陽光を透かした大気の中に、ふたりの零した吐息が、ゆっくりと融けていく。
夏休み。外はよいお天気。
隣にはお弁当作りも得意な彼がいて。
宿題はまだまだ残っているけれど。
これはもう、遊びに行くしかないでしょう?
ほら、出かけようよ。
いつものように、ふたりで。
いつもの通りの、ふたりで。
「そろそろ行くぞ。後ろ乗れ」
「うんっ」
自転車に跨った彼が、手を差し出す。彼女はしっかりとその手を掴んだ。
飛び乗るようにして後ろに立ち、彼の肩に手をかけると、自転車はまた滑るように走り出す。
風が吹いて、ふたりの髪を揺らしていった。日差しの香りがする風には、確かな夏の匂い。何度も何度も、巡ってくるたびに心を躍らせる夏の匂い。去年と同じ、けれど確かに違う匂い。
ふたりで、手をつないで見上げた、あの空の匂いだ。
「なあー!」
吹き行く風は、夏の空を紡ぎ上げる。
それは、蒼く、遠く、高く。
果てなく広がる蒼穹は、褪せることなどない永遠の蒼。
「なぁにー!」
その抜けるような青空に、白いひこうきぐもはどこまでもどこまでものびている。
「帰り道、わかるかー!」
霞んで見える空と大地の境目の、きっとその向こうまで。
「わかんないー!」
白いひこうきぐもは、どこまでもどこまでものびている。
「ま、なんとかなるかー!」
「なるなるー!」
風に吹かれたおじぎのひまわりが、笑うように揺れていた。
笑うように、揺れていた。
回る二つの銀輪。くるりくるり。
ごつごつした背中。汗のにおい。
いつもより高い、彼の体温。
自転車を漕いでいる時。
彼女を後ろに乗せている時。
いつも「おかあさん」みたいな彼が、少しだけオトコノコの顔になる。
彼女はそれが、嫌いじゃなかった。
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