ブーニョ♪ ブーニョ♪ 脂肪の子♪
油の国からやぁてきた♪
ブーニョ♪ ブーニョ♪ 膨らんだ♪
まん丸♪ お腹の―――――
おキヌちゃん♪
――――――――― 腹の上のブニョ ―――――――――
東京の夏は今年も凶悪なまでの暑さだった。
「暑い・・・・・・何なんでござるかこの暑さはっ!!」
「ねえ、おキヌちゃん。もう少しクーラーを強めてもいいでしょう?」
元々暑さに弱い獣娘たちは、昼間の熱がこもる屋根裏部屋暮らしもあって、すっかり夏バテ気味となっている。
タマモはともかく元気がないシロというのも珍しいが、ここ数日の食欲減退を見る限り今年の夏は彼女にとっても厳しいものなのだろう。
「だめよタマモちゃん! 冷やしすぎは体に悪いんだから」
だらける二人を元気づけるように、おキヌがキッチンより顔を覗かせる。
彼女は夏バテ気味の二人の為に、栄養価の高い夕食を作ろうとしていた。
「暑いからといって、冷たいものばかり飲んだり、クーラーに頼ってばかりいると余計調子を崩しちゃうわよ!」
おキヌは煮炊きの熱でかいた汗を手拭いで抑えながら、リビングで寝ころぶシロの方へ手に何かの瓶を持ち向かっていく。
だらしなく舌を出しながら、フローリングにぺったりお腹をつけているシロの近くにしゃがみ込むと、彼女は手に持っていた瓶をシロに差しだした。
「シロちゃん、この瓶開けて! 暑いときこそしっかり栄養とらなくちゃ!!」
「うっ。バターでござるか・・・・・・」
「なんでそんな困った顔するの! シロちゃん油っぽい食べ物好きでしょ?」
「冬場なら大歓迎でござるが、今は流石に・・・・・・」
どこか歯切れの悪いシロに、おキヌはズイっと瓶に入ったバターを差しだした。
「ダメよ、シロちゃんらしくない。しっかり食べないと、明日、海で思いっきり遊べないわよ!」
「うっ、ソレだからこそあまり高カロリーな・・・・・・わ、分かったでござる。お願いだからシメサバ丸片手にその表情は!!」
刃物片手におどろ線を浮かべたおキヌに、シロは慌ててその身を起こす。
先程から無言のタマモに助けを求めるような視線を向けるが、タマモは関わり合いになるのも煩わしいとばかりに獣形態になると、最も涼しい隅の床にぺったりと腹部をくっつけていた。
「これを開けるでござるか? しかし、見なれないバターでござるな。瓶詰めとは珍しい・・・・・・」
シロは諦めに似た表情を浮かべつつ、おキヌの手から瓶入りのバターを受け取った。
「品不足でいつも使っているバターが全部売り切れていてね・・・・・・ソレも最後の一個だったの。どう、開きそう?」
「クッ・・・・・・確かに固いでござるな」
若干ヌル付くのか、シロは持ちにくそうに何度も瓶を持ち替える。
顔を真っ赤にした何度目かのチャレンジの後、シロは降参とばかりに息を吐き、だらしなく床にへたり込んでしまった。
「ぷはっ! ダメでござる。暑くて力が出ないでござるよ」
「そう、じゃあ、仕方ないわね。えいっ! 最後の手段ッ!!」
おキヌの取った行動に、シロだけでなくタマモまで驚きに目を丸くする。
彼女は持っていたシメサバ丸の背の部分で、瓶の蓋を何度となく叩いたのだった。
「なぁに!? 騒がしい」
キンキンと鳴った金属音に、美神が何事かと事務所から顔を覗かせた。
その顔がげんなりとしているように見えるのは、彼女も夏バテ真っ盛りらしい。
そうでなければかき入れ時に臨時休業し、横島がねだるまま海行きの計画など立てはしないだろう。
「み、美神殿、おキヌ殿があまりの暑さに乱心をっ!」
「違うわよ! 開きづらい瓶はこうやると開くようになるの! 蓋が凹んじゃうからあんまりやりたくないんだけど」
「な、何でそんな事で!? 瓶を壊すのでござるか?」
おキヌの取った行動を理解出来ないシロはまだ困惑の表情を緩めない。
中身を出すのに瓶を叩き壊すなど、5歳の子供でもやらないと彼女は思っていた。
「ああやって、空気が入る隙間を作ってるのよ。陰圧を無くすのと、あとはこびり付いた摩擦を緩和したってとこかしら・・・・・・」
「う・・・・・・よくは分からないけど、ずいぶんと科学的なことをしてるのでござるな」
シロは尊敬にも似た目で瓶を包丁の背で叩くおキヌを見上げていた。
「科学的ねぇ・・・・・・」
美神はシロの物言いに呆れたように笑う。
確かに、のび太母のTV修復術程度には科学的だろう。
調子の悪いものは叩いて直す―――お腹の調子が悪いときは正露丸を飲むに等しい生活の知恵だった。
「でも、危なっかしいことは確かだから怪我には気をつけてね。折角、明日海に行くんだし」
「分かりました。明日思いっきり遊べるように、栄養満点の夕食作っちゃいますね!」
美神はおキヌの返事に困ったように笑うと、事務所のドアをバタリと閉め、休みを捻出するための書類整理を再開する。
事前に水着を新調したりと、彼女も何だかんだ海行きを楽しみにしているらしい。
そんな美神にクスリと笑ってから、おキヌはカンカンと瓶を叩きながらキッチンへと戻っていった。
「さてと・・・もう、いいかしら」
シメサバ丸をまな板の上に置いてから、おキヌは渾身の力を込めて瓶の蓋をひねり始める。
キッチンの熱気に上気した頬が更に赤くなった。
「ん、ん・・・・・・ンッ!!」
呼吸を止めての数秒間の格闘。
勝負の行方は、ピシッっという異音と共におキヌに軍配が上がっていた。
「開いた! でも、ピシッって・・・・・・あー、やっちゃった」
開いた蓋を嬉しそうに眺めたのも一瞬、おキヌは叩いた時の衝撃で欠けてしまっていた瓶の縁を気まずそうに見つめる。
そこには割れて小さな破片となったガラスが、内部のバターによってかろうじて瓶本体にくっついていた。
「だ、大丈夫よね。細かく割れてないし、捨てるのも勿体ないから・・・・・・イタッ!」
破片をつまんだ指先にチクリとした痛みが生じた。
その部分に生じた血の玉に咄嗟に指先を口に含むと、おキヌは濃厚なバターの風味と血の味を舌先に感じる。
「もう、注意されたばかりなのに・・・・・・あれ、傷口がない? 確かに血が出てたのに・・・・・・ま、いいか。たいした怪我じゃないみたいだから」
傷口を確認しようと指先をまじまじと見つめたおキヌは、見つからない傷口にそれっきり興味を失う。
そして、注意深くバターからガラス片を取り除くと、夕食の準備に移っていった。
食卓の上に並んだ、栄養満点な料理の数々。
それを前にしたおキヌはどことなく不機嫌だった。
「もう、横島さんたら、いつもなら仕事が無くても夕食に顔を出すのに・・・・・・」
不機嫌の原因は横島の不在。
海行きを前日に控え、彼なりに支度があるのだろう。
どこにしまったか分からない海パンを捜索中のため、今日の訪問は無しにするとのことだった。
「まあ、仕方ないじゃない・・・・・・それじゃ、ごちそうさま」
「えっ! 美神さん、殆ど食べて無いじゃないですか。ビールのおつまみにちょっとつまんだだけで・・・・・・」
「ははっ、情けないけど夏バテでね。でも美味しかったわよ、横島クンが来てたらみんな食べちゃったんじゃない?」
美神は力なく笑うと食卓の上に視線を落とす。
グラハム・カーが作ったような、溶かしバターをふんだんに使った料理の数々。
そのどれもが美味しそうな光沢に包まれ、夏バテでない状態ならば食欲が湧くことだろう。
しかし、今の状況には色々な意味で重すぎた。
「拙者もごちそうさま・・・・・・」
「私も・・・・・・」
「あ、ちょっと、シロちゃんタマモちゃんも」
彼女に続くように、シロとタマモも食卓を立ちそそくさと自分の食器を片付け始める。
「もう、どうするのよこんなに残しちゃって! 本当にもったいない・・・・・・」
作った身としては残すのは忍びないのだろう。
若干ヤケ食い気味に自分の作った料理をパクつくおキヌに、美神は驚いたような顔をした。
「おキヌちゃん、大丈夫? そんなに食べちゃって・・・・・・」
「ん? 大丈夫ですよ! 私、夏バテなんかしてませんし、なんかさっきからお腹減っちゃって。それに明日は海に行くんだから、しっかり食べて体力つけなくちゃ!」
「だから心配してるんだけどね・・・・・・」
「え、何か言いました?」
「いや、何でもないわ・・・・・・。明日は早朝からドライバーやらなきゃならないし、今日はもう寝るわね。おやすみなさい」
美神はこう言って食卓から離れると、再びリビングでごろごろやりだしたシロとタマモにキツめの声をかける。
「・・・・・・アンタたちも早く寝るのよ! 寝坊したら置いていくからねっ!!」
この言葉がきっかけとなり、事務所の面々はいつもより早い時間に就寝する。
おキヌの身に起こっている異変に誰一人気づかないまま・・・・・・
ブニョ・・・・・・
その晩も寝苦しい熱帯夜だった。
寝返りをうったおキヌは、自分の体に生じている違和感に無意識にその手を伸ばす。
「むにゃ・・・・・・?」
ブニョブニョとした感覚。
手のひらに吸い付くような感覚と共に、微かに感じるくすぐったさ。
「柔らかい・・・何だろうこれ?」
夢現の中でおキヌは自分に生じた柔らかい膨らみをフニフニとさする。
彼女はバストアップの為に行っているマッサージ―――オキヌ・バスト・グローイングアップ・フエノメノン―――の時よりも、倍以上の質感をそこに感じていた。
「美神さんってこんななのかな・・・・・・手のひらいっぱいにブニョって・・・ブニョ?」
圧倒的な質感にオキヌは現実の世界に引き戻される。
飛び起き、パジャマの裾をまくり上げた彼女は、自分の腹部に生じたポッコリとした人面疽と目が合った。
「ひぃっ!」
俄には受け入れられない状況に、オキヌは慌ててパジャマの裾を元に戻す。
ライダー変身ベルトのような膨らみが、ポッコリとチェック柄のパジャマを押し上げていた。
サイズから言えば力と技のダブルタイフーンだろう。
「なな、なんなのよこれは・・・・・・」
オキヌはパジャマの上から自分の腹部に生じた膨らみを指先で恐る恐るつつく。
彼女の指先がずぶずぶと腹部にめり込むが、特に際だった反応は無かった。
気持ちを落ち着けるため深呼吸を二三度繰り返し、オキヌはそろそろとパジャマを持ち上げる。
いつもはちょこんとした可愛らしいおヘソが、ポッコリとした膨らみに押されへの字口のように横に広がっていた。
更にオキヌはパジャマを震える指先でたくし上げる。
悪い夢であって欲しいという彼女の願いも空しく、そこにはつぶらな瞳が嬉しそうにオキヌを見上げていた。
釣り馬鹿の宴会シーンをイメージしていただくとありがたい。
「ブニョ!」
横に広がったおヘソが大きく開き甲高い声を発する。
その声を聞いた瞬間、オキヌは言葉にならない悲鳴を上げそうになった。
「$%&#@○×□―――ッ!!!!」
「お静かに・・・」
突如背後に現れた男が、おキヌの口を塞ぎ悲鳴を抑える。
厳重な結界が張られている美神事務所が、謎の人物の侵入を易々と許していることにおキヌは戦慄した。
「私は家出した娘を捜しに来ただけです・・・・・・騒いではいけない。分かりましたか?」
背後から感じたのは圧倒的な霊圧。
しかし、男が言ったとおり、おキヌはその霊圧に自分への敵意を感じなかった。
おキヌの体から抵抗の意思が消えたのを理解したのか、男はおキヌの口を塞いでいた手を外し、彼女の目の前に回り込むと恭しく一礼する。
洗いざらしのジーンズに、ヘインズのTシャツ、その上からド派手なアロハを羽織った妙にアメリカナイズされた男だった。
「ブニョンヒルデ・・・私とあの方の娘」
それが人面疽の真の名らしかった。
男はおキヌの腹に向かい優しく語りかける。
おキヌは固唾を飲んでその光景を見守っていた。
「どうして、家を出ていったりしたんだい?」
父親の呼びかけに応えるように、おキヌのお腹がポッコリと膨らむ。
そしてその表面に浮き出た人面疽は、上目遣いでおキヌに笑いかけると大きな声でこう言い放った。
「ブニョ、おキヌちゃん、好きー」
「え!? コノ展開は・・・ま、まさか・・・・・・」
ようやく元ネタに気付いたおキヌは、自分の身に起こりつつある事態に戦慄する。
あの通りの展開ならば、ブニョと名乗った人面魚ならぬ人面疽はおキヌの予想通りの言葉を口にする筈だった。
そして、その予想はものの3秒と経たずに現実のものとなる。
「ブニョ、おキヌちゃんの脂肪になるー!」
「ああっ! やっぱりッ!!」
多分、男の名はジョージと言うのだろう。
予想通りの展開に、おキヌは目に涙を浮かべながら頭を抱える。
ブニョブニョと揺れる彼女のお腹が悲しいほどコミカルだった。
「うむ、ならば仕方ない。ブニョンヒルデ・・・・・・幸せにおなり」
「早っ! 物わかり良すぎっ!! アナタ父親なんでしょ? 娘さんを連れ帰ったりしないんですかっ!? と言うか連れて帰ってッ!!」
おキヌはいきなり話をまとめにかかった父親の胸ぐらを掴みガクガクと揺さぶる。
先程感じた霊圧のプレッシャーなど、すっかり頭の隅に追いやられていた。
「うわ、ちょっ! 落ち着いてっ!!」
「これが落ち着いていられますかっ! こんなお腹になるなんて、絶対に御免ですっ! 第一、何で私が取り憑かれるんですかッ!!」
「いや、でも、夏場にダイエットしない貴女なら娘も幸せになれるかと・・・。少し前から見させていただきましたが、他の方々がダイエットしているのに貴女は良く食べて・・・あれっ!?」
あまりの剣幕に事情を説明しようとした男は、目がテンになっているおキヌの前で二三度手のひらを振った。
「他の、方々が・・・ダイエット?」
「ええ、夏バテで体を動かさなくなったことは確かですが、他の方々の食欲減退は、ソレに合わせて摂取カロリーを低くしていただけだと・・・・・・みなさん男性の目が気になるのでしょう。油の精の我々としては悲しい事です・・・」
ここ最近の食欲減退の真相を知り、おキヌの体がワナワナと震える。
抜け駆けというか、自分一人だけ取り残されたような夏の準備。
思えばみんなが今のように食べなくなったのは、事務所総出の海行きが決まってからだった。
「そうとは知らず、私、みんなの分まで・・・・・・」
「勿体ない! って、みんなの分も食べてましたから・・・・・・主婦が太る典型的なパターンってやつですね。素晴らしい!」
途中まで言いかけたおキヌの言葉をブニョの父親が引き継ぐ。
「ううっ、家庭的とか、モノのない時代に生まれたという自分のキャラ設定が恨めしい・・・・・・って、ちがーうっ!!」
色々と思い当たる点があるだけに納得しそうになったが、自分の腹にあるのは紛う事なき人面疽である。
決して自分が身に蓄積した脂肪ではない。
若干ノリツッコミ気味におキヌは男の言葉を否定した。
「意味不明! 説得力がまるでありませんっ! 何でダイエットしない位の理由で、私がこんな目に合わなきゃならないんですかっ!!」
「だってタマモさんやシロさんがバターを舐めると別な話に・・・・・・うわっ、危なっ! よしましょうって! 何で部屋の中に包丁がッ!!」
「うふふふふ・・・・・・私が笑っているウチに正直に話しましょうね」
おどろ線を浮かべながら包丁片手に近づいて来るおキヌの姿は、さながらトンベリのような迫力だった。
たちまち男は部屋の隅に追いつめられ、大慌てで内緒にしていた事実を口にする。
「ま、待って。本当の事をいいます! このままでは世界は破滅してしまうんですッ!!」
「うわ・・・。世界の危機って・・・・・・」
伝統芸とも言える取って付けたような危機的状況。
何処をどうすれば自分の腹に付いた脂肪が世界を窮地に陥れるのか?
何の脈絡もなく語られた世界の危機に、おキヌは呆れたように口をあんぐりと開ける。
その一瞬の隙を逃さず、男は指先から黄色い溶かしバターのような液体を放出し、彼女の手からあっさり包丁を奪い取っていた。
「キャッ!」
「失礼。これからの道行きには不必要なものですから」
「道行き?」
「そう、世界を救うには貴女と横島君という少年の協力が必要なんです」
男が大きく右手を振ると、まるで摩擦など存在しないかのように窓が滑らかに開く。
先程おキヌから包丁を奪った溶かしバターの奔流が、更に大きなうねりとなって夜の街へと流れてゆく。
おキヌはその奔流に流されるように夜の街へと運ばれて行った。
「な、何で横島さんがっ! まさか、この姿のまま横島さんに会えと・・・絶対にイヤですっ!!」
「電柱にしがみつくとは何と古典的な・・・・・・いいじゃないですか減るもんじゃなし」
「増えたのが問題なんです!」
流されまいと必死に電柱にしがみつくおキヌ。
あり得ない角度に傾いた電柱が、その必死さを表していた。
彼女は絶対に今の腹を横島には見せたくないらしい。
「大丈夫。横島君なら娘と一体になった貴女も、今までと変わらず受け入れてくれますよ」
「だから、何で一体になるのが前提になるんですかっ!!」
「たまたま覗いた人間の世界―――君たちの生活が、娘には何よりも輝いて見えたのでしょう。特に君はピカピカに光って、呆れかえる程素敵だったそうです」
「ううっ、全然誉め言葉に感じないっ」
密かに混ぜ込まれた昭和ネタが理解できたのか、おキヌが泣き笑いのような顔をする。
分からない者は置いていくとばかりに、男は更に先を続けた。
「娘は君たちの仲間になりたいがあまり、油の精の力を全て持ち出してしまった。そして、力を吸収した娘の存在は世界に大穴を開けて・・・・・・もう、世界の至る所にその影響は出てしまっているのです!!」
「世界の危機って本当なんですかっ!?」
「そう、世界を救う方法はたった一つ。ブニョンヒルデをただの体脂肪にして、吸収した力を使えなくすること」
「ブニョ、おキヌちゃんの脂肪になるー!」
「なるって、そんな自分勝手に・・・・・・」
生来の人の良さからか、おキヌは困ったような表情を浮かべる。
男はもう一押しとばかりに、ブニョがおキヌの脂肪になる為の条件を口にした。
「安心してください。ブニョンヒルデが貴女の体脂肪になるには、貴女と貴女の思い人―――横島君の同意が不可欠なんです」
「私と横島さんの同意・・・?」
突如湧いた恋愛がらみの展開に、おキヌの表情に赤みが差す。
全身をみれば傾いた電柱にしがみついたポッコリお腹のパジャマ姿なのだが、恋愛補正の前ではその程度の状況は問題ではないらしい。
「貴女がブニョンヒルデを受け入れ、その貴女を横島さんが受け入れれば、娘は貴女の体脂肪となって貴女と共に生きていくことができるのです」
男は苦渋の表情を浮かべその続きを言い淀む。
腹の表面から覗うように見上げてくるブニョに、おキヌは言いしれぬプレッシャーを感じていた。
「ああっ・・・、微妙にキビしい選択っ!!」
横島に受け入れられるのは自分にとって確かに幸せな出来事である。
しかし、その代償がポッコリお腹で過ごす人生というのは如何なものか?
年頃の娘としては苦渋の選択をおキヌは迫られようとしていた。
「ブニョンヒルデ、おキヌさんは一歩を踏み出す勇気が無いようだ。お前の根性を分けてあげなさい」
「ブニョ、横島も好きー!」
「きゃっ! 何するのッ!!」
伸び上がったブニョによってめくれそうなパジャマの裾を、慌てて抑えたおキヌは電柱から手を離してしまう。
その隙をのがさずにブニョは横島のアパートに向かい猛ダッシュをかけた。
「ブニョ、ど根性―――っ!!」
「イヤーッ! まだ心の準備がーっ!!」
なかなか良い根性の持ち主らしく、父親の呼びかけに応えるようにブニョはおキヌの意志などお構いなしに一路横島のアパートを目指し始める。
大きくせり出したお腹に引っ張られるように、おキヌはバターの奔流の上をピョンピョンと跳びはねていった。
横島のアパート
部屋の中央に海行きの支度を広げた横島は、難しい表情で明日着る予定の海パンを眺めていた。
「うー、部屋中探したが、コレしか海パンが見つからん・・・」
目の前に広げたのは昨年度履いていたトランクス型の海パン。
何かトラウマを刺激したのか、横島はしばし畳の上で自己嫌悪にのたうち回ってから財布の中身と相談し始める。
夏休みに入ってからの長時間労働の御陰で、彼の財布の中身はいつになく余裕があった。
「新しいの買うか。この海パンにはロクな思い出がないし・・・・・・」
思い立ったが吉日とばかりに、横島は一張羅のジーンズを身につけ外出の準備にかかる。
既に時計は12時を指そうとしているが、徒歩30分以内にある深夜ディスカウントならば買い物は可能だった。
流し台の脇にある鏡を身ながら二三度髪をなでつけると、横島は玄関先に脱ぎっぱなしにしていたスニーカーを履こうと三和土に腰を下ろす。
「ど根性―――っ!」
「グハッ!!」
突如開いたドアから飛び込んできた人影。
その人物と衝突した瞬間、横島は柔らかな衝撃と濃厚なバターの香りを感じていた。
「痛たた・・・今のは一体?」
強かに打った後頭部に顔をしかめながら、横島は自分に馬乗りになった突然の闖入者に戸惑いの視線を向ける。
そこにおキヌの姿を認めた彼は驚きの声をあげていた。
「おキヌちゃん! 一体、こんな時間に・・・・・・うわっ! ナニそのお腹はっ!!」
「ブニョ、横島に会いに来たー」
「キモッ! 何でおキヌちゃんの腹に人面疽がッ!!」
「ああっ! 何の捻りもない自己紹介&真っ正面からの否定っ!!」
乱入の直後に行われた、なんの前フリもないブニョの自己紹介とソレに対する横島の反応に、おキヌは思わず頭を抱えていた。
彼女の脳裏には、世界の運命と自分の恋愛がガラガラと音をたてて崩れていくイメージが広がっていく。
しかし、そんな彼女の動揺などお構いなしに、自分に対して否定的な言葉を吐いた横島にブニョはぷうと頬を膨らました。
ピュ――――――っ!
「イヤーッ! 顔にはかけないで―――っ!!」
ブニョが吐き出した乳白色の液体が横島をべっとりと汚していく。
冷静な判断力があれば、その香りや質感から人面疽が吐き出した液体が高濃度の乳脂肪であることが分かるだろう。
だが馬乗りで身動きとれないところに白濁した液をかけられた横島は、髪や顔に絡みついた高粘度の液体に激しく動揺し、ただ呆然とするばかりだった。
「ううっ、なんか知らないけど穢された・・・・・・」
「ナニ、訳の分からないコト言ってるんですかっ!」
えぐえぐと泣きながらバンダナで顔を拭う横島を、彼の上からどいたおキヌが手を引いて起こしてやる。
その顔が若干赤らんでいるのは十分訳が分かっているのだろう。
気まずい雰囲気をぬぐい去るように、おキヌは一気に今まであった事を横島に説明し始めていた。
「それよりも聞いてください。大変なコトになっちゃったんです! 気がついたら私のお腹にブニョという脂肪の精が憑いてしまって・・・・・・」
かくがくしかじかと状況を説明するおキヌの腹がブニョブニョと揺れる。
横島は引きつった表情でじっとおキヌの話に耳を傾けていた。
「だからブニョちゃんが、私の体にならないと世界が大変な事に・・・・・・それでですね。その、あの、ブニョちゃんが、私の体になるには・・・、私と、えーっと、横島さんの・・・・・・」
「おキヌちゃん、ちょっと待って!」
「え! あ、はい、待ちます。いつまでも待ちます」
ブニョの脂肪化の条件としてデリケートな、横島との合意の部分を説明しようとしたおキヌは、その直前に挟まれた疑問にあっさりと道を譲る。
可愛い顔して割とやるキャラになるには、更なる修行が必要らしかった。
「そこまでして回避しなくてはならない世界の危機って、具体的には何なんだ?」
「え、そ、それは・・・・・・」
おキヌは困ったように背後のドアを振り返り、ブニョの父親に視線を向けた。
そういえばおキヌ自身、具体的な危機的状況がなんなのか知らされていなかった。
彼女はその事が話題になった際、横島との合意のあり方に思考のほぼ全てを費やしている。
「それは私がお答えしましょう! ブニョンヒルデが油の精の力を全て持ち出した結果、人類に恐るべき災いが起き始めているんです・・・・・・・・・・・・」
おキヌの視線を受け、ブニョの父親がおもむろに横島の前に移動した。
突如会話に割って入ってきた男に横島は怪訝な顔をする。
派手なアロハを着込み、無責任極まりない風貌の男を横島は本能的に警戒していた。
「おキヌちゃん、誰? この人・・・」
「ブニョちゃんのお父さんです、なんでも元人間の油の精とか・・・・・・」
「その災いとはっ!」
ここまで来る途中で耳にした、ブニョの両親についての裏設定をおキヌは説明しようとする。
しかし、その正直どうでもいい情報は、男が声高に叫んだ世界の危機によって止められていた。
「バターの生産力が落ち、市場に出回らなくなってしまったのだぁぁぁぁっ!!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
気まずいまでの沈黙だった。
声高に叫んだ男も、チラリと横目で横島とおキヌを見たっきり、二人の反応待ちの姿勢となっている。
凍り付いた時間に流石に不安になったのか、時計の秒針がきっちり三周した後、男は言い訳めいた様子で己の発言の解説を始めた。
「えーっと、そのですね。減ったバターの生産量を増やそうと牛の数を増やした場合、増えちゃうんですよ。牛から出るメタンガスが・・・・・・ほら、聞いたことあるでしょ温暖化。大変ッ! このままじゃ人類が死んじゃう・・・って」
ルナ先生と電波少年とを足してマイナス3をかけたようなネガティブシンキング。
取って付けた環境ネタにおキヌの額に青筋が浮かんだ。
彼女はゆっくりと流し台に歩み寄り、背後の横島に静かに語りかける。
「横島さん、包丁お借りしますね・・・」
おキヌは意外な程素早く包丁を装備すると、鬼気迫る表情で男に歩み寄る。
そのあまりの迫力に、男は顔を青ざめさせながら鉄製のドアに張り付いていた。
「ヒィっ! 包丁はやめましょう、包丁はっ!! それに何で灯籠がっ!?」
何故かおキヌの左手では灯籠のように、人魂が昔取った杵柄とばかりにチロチロと燃えている。
延焼を恐れ油膜による防御がとれなくなった男は、おキヌの接近に恐怖の表情を浮かべていた。
「うわっ! ちょっ、おキヌちゃん早まらないでっ!!」
「うふふふふっ・・・大丈夫。ちゃんと洗って返しますから」
「イヤ、そんなん返されたって困るから!」
文化包丁片手に男に歩み寄るおキヌを横島は慌てて羽交い締めにする。
「止めないでくださいっ! こんな時事ネタにもならないくだらない理由で、貴重な時間を潰されたみんなのうらみを・・・・・・」
どうあっても男に一撃死を与えたいのか、どこぞのヨゴレに大ダメージを与える台詞を口にしながら、おキヌは横島を引きずるようにして徐々に男に近づいていく。
このままでは大惨事は確実。
なかなか止まらない彼女の歩みを止めるため、横島は先程提示されかかった事態の収拾について口にした。
「おキヌちゃん、落ちついてって! ソイツがいないと、お腹に憑いたブニョってヤツのがこのままになるんだろッ!!」
その言葉におキヌの歩みがピタリと止まった。
我が身に降りかかった不幸に改めて気付き、おキヌはベソベソと泣き始めてしまう。
横島の同意があってこその話ではあったが、世界平和の為に、おキヌは大量の体脂肪を腹に抱える気になっていた。
だからこそ、先程、おキヌは勇気を絞り出し横島に告白しようとしている。
ここまで来る間に固めた覚悟が足下から崩れ、おキヌは堪らなく居たたまれない気持ちになっていた。
「わ、私、こんな馬鹿なことの為に・・・・・・」
「んーでも、いいんじゃないかな。そのブニョってヤツを体脂肪にしちまえば」
「え?」
羽交い締めの体制を少しだけ緩め、横島はおキヌを背後から抱きしめる。
彼女が握りしめていた包丁は、いつの間にか横島の手によって片付けられていた。
―――おキヌちゃんはどんな体型になってもおキヌちゃんだろ?
耳元で囁かれた言葉が、胸の中に温かく広がっていく。
横島はブニョの大きさを確かめるようにおキヌを振り向かせると、若干照れたようにおキヌに笑いかけた。
「俺、そんな体型のおキヌちゃんも全然アリだと思うな。だから・・・・・・水着、プレゼントさせてくれないかな。ブニョが隠れるくらいのサイズの水着を」
「う、嬉しい。本当にもの凄く嬉しいのに・・・・・・でも、素直に喜べない。私、もうずっとこんなポッコリお腹になっちゃうんですよ」
横島は合意の事実を知らない状態でも、自分の事を受け入れてくれていた。
その愛の告白にも似た言葉に、おキヌの目から先程とは異なる涙がポロポロとこぼれる。
後はおキヌが勇気を出すだけだった。
「馬鹿だなぁ・・・・・・」
横島は優しく笑いかけると真珠の様なおキヌの涙をそっと指先で拭ってやる。
そして彼は、おキヌが勇気を出せるよう、魔法の言葉を彼女の耳元にそっと囁くのだった。
輝く太陽に白い砂浜。
都心から高速道路で数時間走った海辺に美神たちは訪れていた。
「わ、私たちの寝ちゃった後に、そんな事があったなんて信じられないわね・・・・・・」
ジト目でおキヌを見ていた美神は、朝からずっと横島にべったりとくっついている彼女から視線を外す。
昨晩、無断外出したおキヌを送り届けて来たときから、横島とおキヌの距離が縮まったことを美神のみならずシロ、タマモも感じ取っている。
みんながそのことを追求しないのは、体型を犠牲にしたおキヌへの気遣いからだった。
おキヌが体型の分かり難いチュニックを着ていることからも、彼女から聞いた話は本当の事だろう。
それにしても納得できないことが色々な意味で多すぎた。
「確かに、夢みたいな話ですよね。でも、本当の事なんですよ! ”横島さん”に水着を買って貰った深夜ディスカウント店では、もうバターが沢山売られるようになってましたから」
おキヌは何かを含んだような笑顔を浮かべると、早起きして作っておいたお弁当をバスケットの中からレジャーシートの上に並べ始める。
バターをたっぷりと塗ったサンドイッチが美味しそうに、キラキラと太陽の光を反射していた。
「ははっ、御陰で痛い出費ッスよ! 俺の海パンなんて去年のままですから」
「裾を広げるな裾をッ!」
美神は手に持っていたビールの空き缶を横島に投げつける。
横島とおキヌが密着していることに、美神は言いようのない苛立ちを感じていた。
「ったく、食欲無くなっちゃうじゃない・・・・・・」
「えー、勿体ないじゃないですか。食べてくださいよ」
おキヌが語った一連の話の中で、おキヌが取り憑かれた理由は語られている。
自分たちに勧められるサンドイッチから気まずげに視線を外すと、美神たちは話を逸らすように横島のとった行動について口にした。
「しかし、アンタにしては男前な行動よね。そんな目にあったおキヌちゃんに水着をプレゼントするなんて・・・・・・」
「ホントね。世の中の男がみんなそうなら苦労は無いんだけど・・・・・・」
「そうでござる! それだけに拙者・・・・・・クッ」
ダイエットなど似合わないことをした御陰で、おキヌと横島の絆を深めてしまった事にシロは後悔の念を隠していない。
そんな感情を向けられた気まずさ故か、横島は奇妙な笑顔を浮かべるとそそくさとその場を離れていった。
「はは、誉めすぎッスよ・・・・・・あ、おキヌちゃん。俺、泳ぎに行くから」
「それじゃ、私もすぐに追いかけますね」
焼け付いた砂浜が熱いのか、つま先で跳びはねるように横島は海へと走っていく。
そんな横島を追いかけるため、おキヌは着ていたチュニックを脱ごうと裾をまくり上げた。
「おキヌちゃん! そのお腹っ!!」
まくり上げたチュニックが彼女の腹に達した瞬間、美神が素っ頓狂な声をあげた。
シロとタマモも驚きの表情を隠せない。
おキヌの腹部に脂肪の出っ張りはなく、控えめなおヘソがちょこんとあるだけだった。
「全然ブニョって無いじゃないっ!!」
「さっきの話は嘘だったのでござるかっ!!」
「え、嘘じゃないわよ・・・、ブニョちゃんは実は今・・・・・・」
おキヌは驚いた様子の三人にニッコリ笑うと、残りを一気に脱ぎ捨てる。
新品のビキニに包まれた美神以上の胸の膨らみが、引っかかっていた服から解放されぶるんと揺れた。
「実は今、胸にいるんです・・・・・・それじゃ私も泳いできますね。熱ッ!」
横島がおキヌに囁いた魔法の言葉。
どうやらブニョが体脂肪化する場所は、別段腹に限ったものでは無いらしい。
おキヌは唖然とした美神たちをその場に残し、焼けた砂浜を横島を追いかけ跳びはねながら走っていく。
跳びはねる度に弾む彼女の胸に、すれ違う男たちは足の熱さも忘れ呆然と立ち尽くしていた。
「横島さん! お待たせしました!!」
おキヌはそのまま走り続けると、波打ち際で待っていた横島の腕へとしがみつく。
豊かになった彼女の胸が、横島の腕に押されブニョっとひしゃげた。
「でも本当に良いんですかね。こんなオチで・・・・・・」
彼女は寄せる波の冷たさに一息つくと、横島を見上げ心配そうに呟く。
横島の振り返った先には、呆然と立ち尽くす美神と、勿体ない、勿体ないと口にしながら、争うように弁当をパクつくシロタマの姿。
そんな光景に横島はたった一言だけ言い放つ。
それはどんなオチよりも説得力に溢れた台詞だった。
―――――― 腹の上のブニョ ――――――
終わり
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