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【夏企画】蚊帳の内外

「横島さん!海に行きましょうよ……今から!」
 そう呼びかけた彼女は、はっきり言って舐めていた。
「喜んでお供させて頂きます!」
 そう応えた彼もまた、都会暮らしの長さ故に知る由もなかった。

 分刻みで運行する都会の慌しさとは全く違った単線ローカル線のダイヤは―― 特に、土日・休日の運行状況ともなると―― 一本乗り過ごしてしまったら、その次の便がやってくるのは二時間後という運行になってしまうこともままあるという事を。

 薄暮の中、去り行くディーゼル列車の赤いランプを呆然と眺めつつ、大荷物を両手に抱えたまま肩を落とす横島に対し、おキヌはというと、改札前に佇んでいた老齢と言ってもいい駅員と二、三、言葉を交わした後、勤めて明るい口調で横島に声を掛ける。

「今聞いたんですけど―― この近くに温泉があるみたいですし……き、き、き、きょ、今日は、と、とととととと泊まって行きまショウヨ?」
 しかし、緊張からだろうか―― 明るく振る舞おうとしていたその声は、途中から思い切り裏返ってしまっていた。


 【蚊帳の内外うちそと


「そう―― じゃあ、仕方ないわね。
 まぁ、こっちの方もようやく一段落ついたことだし、アンタもおキヌちゃんもこのところ根を詰めていたから、いい機会だと思ってしっかり骨休めしときなさい。休める時にしっかり休むのも一流のGSには必要なんだからね」
 受話器から聞こえてきたのは、予想に反しての労いの声。
 今更ながらに信頼されていた事に気付かされ、横島は胸中に小さな痛みを感じる。

 ―― よし、謝ろう!なんだか知らんが、謝ってしまえば全てが丸く収まる……ような気がする。
 意を決し、息を吸い込む。

「言っとくけど……おキヌちゃんに変な事しようものなら……アンタ、殺すからね?」
「ハイ、モチロンデストモ」
 口を開こうとした矢先、先手を取られて出てきた言葉は当初の予定とは違う服従の言葉。
 骨の瑞まで染み付いた―― いや、最早魂に刻み込まれたといってもいい服従本能に、自分自身のことながら愕然としつつ跪いた横島の耳に、「じゃあ、明日は二人とも休みにしておくから、今日のところはゆっくり休んどきなさい」という美神の声は届きはしたものの、右から左へと抜けて虚空に解け消えるだけであった。

「宅配便の手続き終わりましたよ……って、横島さん、一体何を?」
「い……いや、なんでも―― ちょっと、自分の人生について見つめなおしてたところなんだけど……ね」
 向き直りながらの返答の最後は、言葉にならなかった。
 
 白シャツに、やややれた・・・薄藍色の麻のベストを併せたトップ、ピンストライプを複雑に組み合わせた柄のゆったりとしたコットン地のミニという装いは、朝のそれと変わりない。

 ごく単純に露出度で言えば、つい一時間程前まで纏っていた新しい水着―― 空色のビキニに薄いベージュのザックリとした木綿地に二輪の向日葵をあしらったパレオ―― の方が明らかに上に違いない。

 しかし、一言で言えば、艶、というのが適当であろうか。
 言葉では言い表し難い、だが間違いなく生まれ出でた“違い”が、横島にとって見慣れているはずのおキヌの立ち姿にも息を呑むほどの迫力を与え、続く言葉を喪わせていた。

 蛹から蝶になるかの如く、女性はとある一瞬を経て突然“化け”る―― とはよく言うが、その言葉はある種間違いであり、とある一瞬を越えたときから、一瞬一瞬―― それこそ呼吸一つ、拍動一つを経るだけでも成長を見せ続けるのではないのだろうか。
 今のおキヌに存在する、そう思わせるだけの不思議な説得力を感じ、横島は頬を染めつつただただ感嘆の呟きを漏らす。
「あ―― やっぱいいなぁ。うん。
 なんていうか―――― おキヌちゃんがすげー綺麗だってことに今更気づいたっていうかなんて言うか……」

「よ……横島さん、いきなり何をいうんですかっ?!おだてても何も出ませんよっ!」
「いやぁ―― 出たよ、元気が。うん、間違いなく出たっ!!」

 それまでのダウナー気味のテンションから一転、即座にアッパー気味にテンションを引き上げ、半ば強引におキヌのスーツケースを抱える横島に苦笑し、おキヌは横島の後について歩き出す。


 だが―― 両者ともに手足は揃っていたという事実に、気付く余裕などあろうはずはなかった。


 * * *

 か……ぽぉん。

 桶の音がその空間を小さく揺るがすなか、横島は自らの変調に戸惑いを見せていた。
 いや、変調というには自然の流れに沿ったものなのかも知れないが、それでもなお、なんと言うか―― のっぴきならない状態であることに違いはない。

 突き出しとして出された叩き牛蒡の胡麻和えに始まり、アスパラガスの牛肉巻きにナスとオクラのカレー粉炒め、冬瓜と鴨の中華仕立てスープ。
 鯛の薄造りと平目の昆布締めにイカの活け造りというお造りの次にはナスとキュウリのワインビネガー漬けと鰻巻き―― 鰻を芯地に据えた玉子焼き―― の八寸に、豆腐に山芋と黒胡麻を併せて蒸し上げた葛掛け豆腐。
 活け造りの際に出る下足を抹茶塩のシンプルな風味で楽しむ唐揚げの後に供された焼き物の車海老の塩釜焼きと小ぶりだが身の締まった鮑のバター焼きの濃厚な旨みを洗い流し、続く手毬寿司の旨みを引き立てる酢の物には、季節外れではあるものの、典雅な香りを付加するカボスの果汁を使ったであろうことが窺えるタコとキュウリとワカメの酢味噌和え。
 そして、最後を締めるデザートは日本酒で煮上げた無花果いちじくのコンポート―― 季節の食材を駆使しつつ、見る者が見れば、要所要所に精力を増強する食材が使われている事が判る、ある意味料理長の陰謀とも言うべき献立である。

 旨いことは旨かった。
 だが、“陰謀”に気付くことないまま全ての料理を平らげた横島は、二十歳前の若さもあるとはいえ、恐らくは人生最大級の変調を見せるに至っていた。
 がっついてると思われたくない事もあり、食後間もなく逃げるように大浴場へと向かったまではいい。
 泉質が濁り湯であった事で、周囲にその変化を気付かれる事もなかったことも幸いだった。

 こうやって白灰色がかった温泉に浸かるだけで身体―― 主に半身に漲る力を抑え込み、やり過ごすための最大の味方となる時間が味方についてくれるのは、横島にとって正直有り難いことであった。

 だが、妄想―― 言い換えるならば想像力こそが武器の一つである横島にとって、そうやって落ち着くまでの時間が存在するという事は、肉体的には最大級の味方がついたとともに、精神的には最大の敵と対峙したということにもなる。

「本当に……本ッ当に俺でいいのか?」
 厭な訳ではない。
 むしろ、嬉しくもあり、光栄なことでもある。
 しかし、彼女の想いに応えるだけの資格が自らにあるのか否か―― 真っ直ぐに自らの想いをぶつけて来たおキヌに対し、応えたいという想いは間違いなく存在しているというのに、その想いを塗り潰さんとする勢いで不安が押し寄せてくるのだ。

 不安に押し潰されそうになる中、ふと気付く。

「……そう言えば―― おキヌちゃんにだけは手を出そうとしなかったんだよなー」
 考えてみれば奇妙な事ではある。

 日頃から敢行する美神へのセクハラといい、雰囲気に流されそうになった『結婚事件』といい、あまりに強引過ぎるアプローチのために結局は『当分禁止』と釘を刺されるに至ったルシオラの時といい、チャンスがあれば―― いや、チャンスがあろうとなかろうと迫っていた。

 だが、幽霊だった頃には『身体があれば』と思っていたのに、いざおキヌが肉体を取り戻し、蘇生を果たしたその後には、どさくさにまぎれて抱き締めはしたものの、他の女性に対してのような積極的なアプローチをする事はなかった。

 いや、意識的に避けていたのだろう。
 恐らくは、おキヌの精一杯の勇気を振り絞っての告白を『こーなったら、もー』の一言で台無しにしてしまって以来。

 喪うことを恐れて。

 壊してしまう事に恐怖を抱くが故に。

 何より、いざという時には単なる欲望なのかもしれない行為すらも、その想いの強さが故に容易に受け入れてしまうであろう彼女に対しての、言い知れぬ危うさを感じて。


 しかし、彼女の想いに改めて気付かされ、それに応えようとしたからには、なかったかのようにはぐらかし、避けることは出来ない。
 事ここに至った以上、逃げずに向き合う以外にないということは、横島も理解しているのだ。

 だからこそ、横島は煩悶する。

 ―― いいじゃないか。おキヌちゃんも待ってるんだから。
 耳元で囁く声がする。

 ―― そんな事なんて言ってはいないじゃないか!
 反論する声もする。

 欲望と理性という相反する感情がせめぎ合い、悪魔と天使に扮したマイクロサイズの横島が頭の回りをグルグルと飛び交う幻すらも見えてしまう。

 ―― それに昔から言うじゃないか。『据え膳食わぬは男の恥』って。
 ―― そ、それもそうだな。

「アホか、俺は――――っ?!」

 己の中の天使と悪魔があっさり手を結んだその様に、思わずツッコミを入れると、横島は己の周りを周回する幻影を打ち払うかのように頭を浴槽脇の壁に叩きつける。

 なんかもうグデグデであった。

 だが、その状況であっても、壁で仕切られた隣の浴場から響く「きゃー!藤の間のお客さんがーッ!!」「早く旦那さんに知らせてッ!!」という切羽詰った声を横島が拾ったのは、果たして煩悩から来るものばかりであったのだろうか?

 答えは判然とはしない。
 しかし、少なくとも、着るものもさて置いてタオル一丁で飛び出した横島が、その格好と血みどろの額のまま女湯の更衣室へと飛び込んだがために、逆上のぼせたのであろうか、目を回したままソファに座らされているおキヌの周囲で甲斐甲斐しく立ち回る仲居の二種類の新たな悲鳴を生み出したことは、己を省みぬが故に起きた悲喜劇である事に、なんら疑い様はなかった。




「ごめんなさい、横島さん。迷惑かけちゃって」申し訳なさそうに呟くおキヌの額には、熱冷まし用の冷却シール。
「気にしなくていいよ。それより大したことなくて、本当に良かったよ」
 背中におキヌの体重を感じつつ、浴衣姿の横島は笑顔で応じると、目の前に迫る階段に備えて身構える。
「よ、横島さん―― 大丈夫ですから。ここまででいいですから」
「いいからいいから。病人は黙って言う事を聞くものだよ?」
 身じろぐおキヌに笑って返すと、力強く、一歩一歩踏み締めて登る。
 背中から不服そうな「むー」という声が聞こえたが、程なくして不満の響きはしがみつく感触に変わった。

 背中越しに伝わってくる柔らかな感触に負けそうになる。

 しかし、負けそうになる自分を精一杯の理性を奮い立たせることで抑え込むと、横島は搾り出すように声を出す。
「あのさ……色々考えたんだけど―― やっぱり、勢いだけで“そーいうこと”になっちゃうのは、俺も違うと思うんだ。
 いや、おキヌちゃんが嫌いって訳じゃないよ。むしろおキヌちゃんに好きだって言ってもらった事で、俺の中でおキヌちゃんがどれだけ大きな存在だったのかにやっと気付いたっていうかなんていうか―― 俺だって、おキヌちゃんのこと好きだし」
 全てが劇的に変わる一言は、喉の奥から飛び出すように放たれた。
 階段は既に終わっていた。
 だが、階段を昇るとき以上の力を込めて言い切ったその言葉こそが、自分自身の顔を耳まで真っ赤に染めているという事は、横島自身にも理解出来た。

「よ…横島さん」
 肩越しに聞こえるおキヌの声―― 嬉しさと戸惑いとが綯い交ぜになった声を受け、続けた声には決意の力。
「俺、頑張るから。上手く言えないけど……頑張るからさ。
 だから―― 俺達のペースで歩いていこうよ……これからも一緒に、さ」

「……はい」
 肩を抱く手に力を込めて、おキヌは頷く。

 輝かしい未来を切り拓くかのように、横島は襖を開き―――― 二人ともそこで固まった。



 蚊帳の内には枕は二つ。
 しかし、敷かれた布団はただ一組。
 余計な気遣いか、それともこれも陰謀か。


 蚊帳の外には真っ赤な顔をした二人。

 一筋の汗が頬を伝う間に、為されたものは天使と悪魔の緊急会議。
「えっと……おキヌちゃん―――― やっぱり、夜って……長いよね」
「は……はひっ?!そ、そう……ですよネ」
 両者ともに、和平合意が為された模様。

「ふ、ふつつかものですがお願いします」
 混乱からか、やや壊れ気味。
「こ、こちらこそ……締まっていこー」
 しかしこちらはもっと壊れ気味。

 ―――― 東の空半ばに輝く半月は、蚊帳の中に目を光らせる事は出来なかった。

 
 * * *


 ―― 参ったな。

 終点である東京駅に辿り着いたというのに、居眠りをしている客がいる。
 車掌である彼には、もとより起こす以外に選択肢はない。

 しかし、肘掛の上で繋がれた手はそっと握られ、その頭で互いを支えあうかのように寄り添いながら、寝息を立てているその二人の様を見ていると、起こすのも少々憚られる。


「もぉ……横島さんの、バカ」
「ご、ゴメン…おキヌちゃん」
 その見る夢は、同じか否か。

「―― 後にするか」
 彼が目を細めたのは、晩夏の陽射しが眩しかったからばかりではなかった。
 という訳で、連続投稿です。
 ちょいと暴走気味ですが、ご勘弁下さいませ。

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