やや斜めに傾いた夏の陽射しは容赦なく降り注ぎ、二人の背を押す潮の香りを一層濃密なものに変える。
炎天下を潮風と蝉の音、そしてのんびりとした笛の音に後押しされるように、海沿いの舗道を小走りに駆けていた二つの足音が、軽快なリズムから慌しげなリズムに変わった。
ぷ…しゅう。
ディーゼル列車の白い車体が、息せき切って駆けきった二人を労うような音を立ててそのドアを閉じる。
「は……は……、間に……合ったぁ」
安堵の声とともに、木綿のTシャツにデニムパンツという砕けた格好をした青年は、両手に提げた大荷物を落とさない程度に脱力すると、倒れこむように対面式の座席に着く。
ディーゼル列車の車内には、青年、そして、青年と並んで走っていた、涼しげな風合いの木綿の白シャツと退色の進んだデニムを思わせる薄い色合いの麻のベストに併せたゆったりとしたコットンのミニという出で立ちに身を包んだ黒髪の少女の二人だけ。
汗に濡れた二人を、古びたエアコンによって申し訳程度に冷やされた風が出迎えていた。
【みかん色の夏休み】
「それにしても……ミカンと言ったら冬の果物だと思ってたけど、こっちの方じゃもうミカンが採れるんだなぁ」
青年―― 横島忠夫は『大荷物』の一角を為す大振りの紙袋に詰められた、おおよそ四十近くはあるであろうミカンを手にとると、感心したように呟きを漏らす。
「そうですねー。わたしもまだ夏だっていうのにあんな風に色づいているだなんて思ってもいませんでしたしねー」
呟きに応じながら、黒髪の少女―― 氷室キヌが指し示した向かいの席側の車窓の先を行き過ぎる段々畑では、緑の中にも微かな黄色に染められた箇所が点在しており、収穫の時期とともに、過ぎ行く夏と近づく秋の足音を主張している。
この緑と潮風溢れる田舎町で除霊の依頼を受け、それを解決した二人ではあったが、依頼者、そして被害を受けていた住人達からせめてもの土産として正規の報酬とは別に淡く黄色に色づいた早生のミカンや真っ赤に色濃く熟れた完熟トマト、そして、夏の暑さに負けぬ逞しさでその身に瑞々しさを蓄えたキュウリやナスにウリといった夏ならではの農産物にイカやアジの一夜干し等の海産物―― これらの土地の名産を半ば強引に渡されていた。
心尽くしを断るわけにもいかない上、どうしても抜け切れない生来の所帯じみた性質もあって、それらの土産全てを受け取りはした二人ではあったが、一人一人の感謝の形は微々たるものであれ、十数人分のそれが合わさったことによって、おキヌが携えていたスーツケースではとてもではないが収まり切れないほどの大荷物となっていた。
“塵も積もれば山となる”―― この言葉の正しさを、あわやという所で帰りの列車に乗り遅れそうになることで思い知った横島が、喉の渇きを潤すとともに僅かなりとも負担を軽くしようとミカンに手を伸ばすのも無理からぬことであった。
「はい。おキヌちゃん」
ごく自然に二つを手に取り、一つをおキヌに渡す。
皮を割ることによって拡がる清冽な香りが、車中を心地よく満たした。
小ぶりの房を一つ口に放り込む。
多少は色づいているとはいえ、未だ薄緑色が強いその皮の色からは想像もつかない甘味を持った果汁が口中に溢れ、早生であることもあり、少々高を括っていた向きもある二人はごく単純な驚きに目を丸くすると、顔を見合わせる。
「…うわ、こりゃあ」
「……美味しい!」
驚きに言葉を喪い、見つめ合うこと暫し―― 自然の恵みと人の手間、収穫時期を早める試行錯誤とが合わさることで産み出された、驚きを伴った“口福”により、どちらからとも知れずに笑みがこぼれる。
喉の渇きも手伝って、二つの果実は瞬く間に消え、姿を消した果実の代わりに訪れる充足感がレールと車輪とが織り成すリズムとともに心地よく二人を満たしていく。
―― コトトン。コトトン。
眠気を誘うそのリズムと充足感、何よりも、任された大仕事を無事にこなした達成感に導かれ、大欠伸を漏らした横島を「でも……夏は来年もくるけど、『夏休み』はもう終わりなんですねぇ」捉えかけた眠りの手から解き放ったのは唐突に飛び出したおキヌの一言。
「ああ、そう言えばおキヌちゃんも今年で卒業なんだよね」
一抹の寂寥を伴うおキヌの言葉に、横島は欠伸を殺しつつ応じると、続ける。
「夏休みは遊ぶためにあるってのに、今年は仕事、仕事で忙しくてろくに遊べなかったからね。よりによって、最後の夏休みだって言うのに仕事ばっかりだなんて……俺だったら我慢出来ないよ」
「あはは……確かにわたしも折角新調した水着を持ってきてたのに、結局ギリギリになっちゃって海にも行けませんでしたからねー。
ちょっともったいない、かな…なんて思いますけど……美神さんや横島さんのように一人前のGSになるためには、今のうちに少しでも多く経験を積んでおいた方がいいですから。
――
それに、仕事でもないと横島さんを独り占めなんて出来ませんし」
顔を朱に染めての呟き―― しかし、精一杯の勇気を振り絞っての微かな呟きは「水着……水着……美神さんの圧倒的な水着姿もいいけど、おキヌちゃんもちゃんと出る所は出てるしなぁ―― そう言えばシロもこのところ成長してきたし、タマモも……ち、違うッ!俺はロリコンやないんやーっ!」横島の霊力の源と言うべき無尽の妄想によって掻き消されていた。
「よ・こ・し・ま・さん?」
―― ぎぅちー。
人の話を聞かない悪い子に、こめかみに怒筋を浮かべてのささやかな自己主張。
「痛い痛い痛い痛い!ゴメン!ゴメン!ごめんなさい!」
“ささやか”と言い切るには少々キツいお灸を据えながらのおキヌの主張に、涙を滲ませてただひたすらに謝る横島だが、抓り上げられていた耳の痛みが不意に和らいだ事に気付くと、少し呆けたかのような表情を覗かせたおキヌの視線の先へと目を移す。
窓の外では、空と海とを染め尽くすみかん色。
とはいえ、単純な一色のみで染め抜いているだけではない。
空に浮かぶ雲と波間に浮かぶ大小の岩岩がかもし出す陰影と、潮風に揺れる松の枝が織り成し、時の流れとともに僅かずつその色合いを変化させる―― 自然の絵筆が描ききった微細なコントラストが、西に向いた海側の窓を去り行く夏と来訪を告げる秋との狭間を想起させる一枚絵として成立させていた。
「…………っ!」
天地が生み出した天然の造形美に、横島は思わず息を呑む。
「綺麗……ですよね」
車外、そして車中を容赦無く染めるオレンジ色に声を漏らし、再び視線を戻したおキヌが見たものは、うっすらと涙を浮かべる横島の眸。
痛恨を悟った。
おキヌとて、横島とルシオラとの思い出については知らないわけではなかった。
そして、軽々に踏み込むべきではない“思い出”であるということもまた知らないわけではない。
しかし、いつまでも“思い出”に囚われ続ける横島を見たくはなかった。
嫉妬なのかもしれない。いや、紛れもなく嫉妬なのだろう。
だが、想いを寄せる相手が何時までも足踏みしている様を見ることは、おキヌにとっては心中に巣食う嫉妬を認める事よりもなお耐え難い苦痛であった。
この状況を変える最良の方法は“踏み込む”ことであることは、彼女もまた理解している。
否――
踏み込まなければ、いつまで経っても変わらない―― そのことは十分過ぎるほどに承知していた。
踏み込む事―― いや、変わる事に躊躇する気持ちは強い。
何時までも想いを遂げず、この心地よい関係を続けたい―― そう願う気持ちも、間違いなく存在する。
だが、どこかで終止符を打たなければならない。
何時までも続く関係を崩してでも、歩き出さなければ始まらない。
どうなろうとも、その現実から目を逸らさない!
意は決した。
だがしかし、決意を以ってしてもなお畏れにも似た不安は消えない。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされている事が理解出来る。
諦めが決意を覆い尽くし、駆逐しようとするその時。
―――― 頑張れ!
耳元で、かすかな声が聞こえたような気がした。
もしかすると、それは遥か刻の彼方に別れた友の声だったかも知れない。
或いは、過去に佇む恋敵の声だったかも知れない。
しかし、それが気のせいであろうとなかろうと、その“声”こそが踏み込む事を恐れた彼女の背を力強く押す一欠片の勇気となったことは紛れも無い事実。
声に背を押されて触れた唇からは、つい先程口にしたミカンの味が伝わってきた。
永遠にも感じるその刻は、何秒だっただろうか?
突然訪れた驚きに目を見開く横島に対して、吐息混じりの笑顔が一つ。
「あはは……やっと、見てくれましたね?」
双眸に滲む涙は、果たして如何なる感情からくるものなのか。
それは彼女自身にも判らない。
ただ、「『こーなったら、もー』なんて言ってたのに結局見てくれませんでしたしね」感情のままに迸る言葉は「ずっと、ずぅっと好きだったのに」数年来抑えていたが故に「初めて会ったときも、二度目の『はじめまして』のときもそうだったんですよ?」堰を切ったかのように止め処ないものであることには違いなかった。
「えっと……俺で―― 」
「その横島さんだから、いいんです」
二度目の口付けは、遮るように為された。
* * *
人は過去には勝つことは出来ない。
しかし、“今”を生きている者であればこそ、更なる思い出を刻み込む事が出来る。
未来へ歩む事も出来る。
残り少ないこの夏休みを、未来への色あせぬ思い出として刻み込むために――
「横島さん!海に行きましょうよ……今から!」
「い……今からっ?!」
「……見てもらいたいんだけどなぁ、新しい水着」
彼女は満面の笑みで歩き出す。
「喜んでお供させて頂きます」
その笑顔に抗し切れるはずもなく、彼は再び大荷物を手に立ち上がる。
―――― 夏はまだ、終わらない。
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