かつて実家に居たころは、冬の朝、ストーブの前という特等席を陣取ろうと初音と争ったものだ。
結局折れるのは俺で、初音はストーブの前に服を置き、暖まったところで悠々と着替えていた。
そして、東京の夏――
学校から帰ってきた初音がまずすることといえば、手洗いでも着替えでも水を飲むことでもなかった。
スカートを持ち上げ扇風機のスイッチを入れること。
すそを押さえながら風を受けると、スカートは気球船のようにふくらんだ。
「涼しーっ!」
初音は気持ちよさそうに感嘆の声をあげている。
(ズボンはスカートよりさらに暑いってのに……)
「……水、浴びてくる」
――陣取り合戦でさらに暑くなりそうだから。
分かりきった負け戦を放り出して、開襟シャツのボタンを適当に外しながら、俺はシャワーを浴びに行った。
【夏企画】扇風機で夏を乗り切るたった一つの冴えたやり方
都内に越してきて初めて迎える東京の夏。
正直、なめていた。
すげー暑い。日陰でも暑い、朝から暑い、夜になってもまだ暑い。
太陽はとうに沈んだというのに未だ引きずるこの暑さに、ヒートアイランド現象に、地球温暖化に、周りを囲むアスファルトに、エアコンのない我が家に――俺は深いため息をついた。
といっても、特務エスパーになってからB.A.B.E.L.より渡される給与は、俺の予想を遥か超えるものだった。
エアコンくらい、買えないことは、ない。
しかし、任務に比例して食費はこれまで以上にかかっているし、将来を考えて貯蓄もしておきたい。
何よりこの真夏の最中にエアコンを買うというのが――ワールドカップやオリンピックの直前にテレビを買うような行為と同じに思えて、躊躇してしまうのだ。
すなわち、もう少し待てば相当安くなる、と。
だが――この日東京は、日中の最高気温を記録更新した。
首を振り続ける扇風機のぬるい風を感じながら、俺は遠すぎる秋に思いを馳せていた。
「お風呂上がったよー」
口にソーダ味のアイスをくわえた初音が、居間へ戻ってきた。
扇風機の前に陣取ると、あるボタンを押し首が回らないようにしてしまう。
そして、制服と同じように寝巻き代わりのTシャツをめくりあげた。
「涼しーっ!」
「…………」
大きめのTシャツとはいえ、風を受け止めきれず裾がひらひらとはためいている。
先ほどから青い縞模様が見えていた。初音、それパンチラやない。パンツや。
あまりに丸見えのそれからそっと目をそらした。
「初音。今着てるTシャツ、俺のだよな?」
「明のだよ」
「…………」
「はー、涼しいなー」
「……何で、俺の着るんだ?」
「明、いっぱい同じの持ってるから」
「必要だからまとめ買いしてるんだよ!」
白の無地Tシャツ税込472円。
スタジャンなどの制服はB.A.B.E.Lから支給されるものの、インナーは自分で用意していた。
任務をこなすにあたり、どうしても服が破れたり、泥だらけになったり、(自分の)血で汚れたりすることが多い。
すぐにゴミ箱行きになるため、一シーズン保てば良しという気持ちで同じような服を安価で大量購入している。
「初音、このTシャツ気に入ってるの。これ、ちょうどいい」
「明らかにでかいだろ」
「お尻まで隠れる。これさえあれば……ズボン、いらない」
「いるだろ」
そもそも隠れてないから困ってるんだけどな……
ただその理由を言えばいいのだろうが、なんとなく言う気にはなれなかった。
初音は涼しいからと気に入っているようだが、正直なところ目のやり場に困る。
俺は、話題を変えることにした。
「初音、扇風機の首まわしてくれ。それに、ずっと風にあたってるのは良くないんだぞ」
「何で?」
「脱水症状起こすから」
「……何で?」
初音は素直に首をまわすボタンを押しつつも、納得のいかない顔をしている。
「風にあたるとどうして涼しく感じるかというと、風によって肌の水分が蒸発して、表面の温度が下がるからなんだ。
ただし、例えば扇風機をつけっ放しにしてずっと風をあてたまま眠っちゃったりすると、水分を持っていかれすぎて脱水症状を起こすこともある。扇風機に首をふる機能がついてるのも、これを防ぐためだな」
ちなみに気化熱っていうんだけどな、と付け足す。
「水が蒸発すると涼しいの?」
「まあ、そうだな。蒸発する時に熱を奪っていく。髪洗った後で頭に風をあてると、いつもより冷たく感じるだろ?」
「そっか……」
初音は感心したように呟いた。雫がたれそうになっていたアイスを一気に飲み込むとすっくと立ち上がる。
「――初音、すごいこと考えた」
ニヤァと口角をあげる。
なんにしろたぶんろくなことじゃないだろうなと思いながら、飛び出す初音の背中を見送る。
扇風機から送られる風は、相変わらず生温かった。
一分も経たないうちにベタベタと走る足音が近づいてきた。
見上げると、誇らしげな笑みを浮かべた初音が、襖の前で仁王立ちしている。
「えっ……!?」
彼女の勇姿に、あろうことかツッコミもとっさに浮かばない。
何か言いかけた口は半開きのまま、言葉が出てこない。目も離せない。
初音はTシャツを着たままもう一度シャワーを浴びてきたらしい。しとどに濡れていた。
先ほどはゆったりとして見えた大きめのTシャツも肌にはりつき、うっすらと肌の色を透けさせている。
――青ではなく。いや、これ、青どころじゃ、ないんだけど。
唖然としている俺に向かい、初音は力強く一つうなづくと扇風機の前に立った。
…ブ…ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥウウウン……
二人の間に言葉はなく、今まで気にならなかった古いモーターの回転音がいやに耳につく。
この静けさの中では、自分の呼吸する音すら耳障りに思える。しらず、息を詰めていた。
水を吸って重くなったTシャツはもちろんなびかない。初音の体に張り付いたまま。
髪の毛からぽたり、ぽたりと雫が落ち、それが再びTシャツを濡らした。
そのTシャツからさらに零れた雫が脚を伝い、そのまま畳の色を濃くしたかと思うとすぐに吸い込まれていった。
扇風機の首が、ちょうど半回転した。
「…………寒っ」
「このバカ――――ッ!!」
初音の呟きに俺は正気を取り戻した。
「寒いだろそりゃ! 女の子が体冷やすな! ほら、早く――」
「……扇風機はすごい。脱ぐ」
「ぬ……いやちょっと待てやっぱ脱ぐな! ああもう、廊下も畳もびしょ濡れじゃないか」
「そういえば、南極で小鹿が濡れた服のままでいちゃダメって言ってた。やっぱダメだ……」
「だから脱ぐな――――ッ!?」
「明、その服脱いで」
「えっ……でも、俺、小鹿主任みたいなこと……」
「いいからっ、早く――」
「………………」
「――――乾いた服、暖かい」
「お前が着るのかよ! あと俺のTシャツ雑巾にすんな! いいから畳拭かなくていいからますます濡れるから――!」
その日、俺の家の室内気温は、間違いなくこの夏の記録を更新したと思う。
そしてその騒がしさと暑さに――怒鳴りすぎた俺の顔は真っ赤だったと思うけれど、それもきっといいわけがたつだろう。
次の日、電気屋の思うまま最も今高値で売っているだろうエアコンを見に行ったけれど。
欲しいものを欲しい時に買う贅沢をできるくらいの金を、持っていたのだけれど。
何故だかなんとなく、買いそびれてしまった。
残暑厳しく、いつまでも続きそうな真夏日を厭いながら、いずれ来る秋を待ちわびながら。
東京の夏に慣れるにはもう少し時間がかかりそうだったが――扇風機一つで夏を乗り切る覚悟を決めた。
もし、お勧めの方法があれば、ぜひ教えて欲しい。
――――濡れたTシャツを着て扇風機にあたる以外の方法で!
終わり
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