初めて彼女の変化に気付いたのは、いつだったか。
どう変わったのかと訊かれても、上手く言葉が見つからない。
だけど確かに、今までと何かが違う。
そんな思いを抱きながら、横島は真夏の暑さで滲む汗を拭っていた。
事務所の中は冷房が効いており、汗がすーっと引いていく。
生き返ったような心地で吹き出し口の真下に立っていると、キャミソールにホットパンツという、彼女にしては珍しいラフな格好のおキヌが、冷えたスイカと麦茶を持ってきてくれた。
テーブルの向かいに座ったおキヌは、スイカを食べる横島をニコニコと眺めている。
「……俺の顔に何か付いてる?」
「ほら、スイカの種が付いてますよ」
口の端に付いていた黒い粒を取ろうと、おキヌが手を伸ばす。
するとキャミソールの胸元が見えて、嬉しいやら目のやり場に困るやら。令子が相手なら喜んで覗くところだが、おキヌ相手となるとそうもいかない。いかないのだが、
(ちょ、ちょっとだけなら……)
誘惑に負け、発展途中の膨らみに目をやっていると、呆れたような声が聞こえてきた。
「もう、どこ見てるんですか」
「うわったっ、ち、違うんだおキヌちゃん、これは――」
慌てて平謝りしようとしたのだが、当のおキヌは少し恥ずかしそうな顔をしているものの、胸元を隠すどころか体勢を変えようともしない。
「じっとしててくださいね……はい、取れました」
ポカンとしている横島の顔からスイカの種を取ると、おキヌは元通り椅子に腰掛けて横島を見つめていた。
「あの……ごめん。男として見ずにはいられなかったというか」
「ちょっと恥ずかしかったですけど、気にしなくていいですよ」
令子ほどではないにせよ、てっきり怒られるとばかり思っていた横島は、意外な答えに目を丸くする。だが、このままではいささかバツが悪い。
「そうだ、何かひとつ言うこと聞くからさ、それで勘弁してよ」
「いえ、別に私は――」
「じゃないと俺がヤなの」
真顔で言う横島を見て、おキヌはぷっと吹き出し、しばらく考えてから、
「それじゃあ今度の夏祭り、一緒に行きませんか?」
夏休みは除霊のシーズン真っ盛りであり、ここでバイトを始めてから、のんびりと祭りに出かけたような思い出がほとんど無い。断る理由もなく、むしろ大歓迎であると横島が首を縦に振ると、おキヌは本当に嬉しそうな顔をしていた。
「他には誰か連れて行くのかい? シロとかタマモとか」
赤い部分がすっかり無くなったスイカの皮を皿に戻しながら、横島が訊く。
「えっと、私と二人だけなんですけど……嫌、ですか?」
「とんでもない。ただ、珍しいなって思ってさ」
「それじゃ決まりですね、うふふっ」
小首を傾げて微笑むおキヌに、横島は思わずドキッとしてしまう。
近頃おキヌはこの笑顔を見せるようになり、その度に横島は胸の奥をギュッとされるような感覚を憶え、それを悟られまいと焦ることが多くなった。
――この感覚は何なのだろう?
そう考え始めてからというもの、横島は今まで気付かなかったことに気付くようになり、ことある事に反応してしまう自分に戸惑っていた。
「お祭り、楽しみにしてますから」
皿を片付けるおキヌの後ろ姿を見つめながら、横島は一気に麦茶を飲み干した。
夏祭り当日の夕方。
瑠璃紺の着物を着て、髪をアップにしたおキヌを見たとき、いつもとはまた違う雰囲気に、横島はまたもドキッとして唾を飲む。今日のおキヌはいつにも増して可愛く、綺麗だった。
(いつものおキヌちゃんも可愛いけど、今日はなんつーか……ちょっと色っぽいというか)
そして同時に、Tシャツとジーンズで相変わらずな自分の格好に「とほほ」とため息をつく。せめてもの救いは、久しぶりに新調したジーンズを履いていくことが出来た事くらいだろう。
「今日はめいっぱい遊びましょうね、横島さん」
「よっしゃ、お祭りタダちゃんの異名を取る俺の実力を見せてやるぜ!」
縁日の屋台は親子連れやカップルで賑わい、横島達もその中に混じって色々と巡り歩いた。射的ではスナイパー顔負けの腕前でぬいぐるみをゲットし、金魚すくいでは取りすぎた金魚を近くの子供に分けてあげたり――ひと通り歩き回った後は、りんご飴とかき氷を買い、プラスチックのベンチに並んで腰掛けた。
「あー楽しかった。横島さんってすごいんですねえ。何でも上手なんですもの」
「へへへ。親父もこういうのが得意でさ、ガキの頃に色々教えてもらったんだよ」
「おとうさん、かあ……いいですね、そういう思い出って」
おキヌは遠い目をして、暮れ始めの空を見上げた。実の両親の記憶がほとんど消えてしまっている彼女にとって、家族に対する憧れはどれほどか――おキヌの心中を察して、横島も口をつぐむ。
それからしばらくの沈黙が続いた後、
(……えっ?)
いつの間にかおキヌはぴったりと身体を寄せ、自分の腕を横島の腕に絡ませている。吐息が聞こえそうな距離で、おキヌは呟いた。
「でも、寂しくないですよ。今は家族も、お友達もたくさんいて……それにいつか、私もお母さんになれますよね」
気の利いた台詞のひとつも返してやりたかったが、自分の頭で考えた言葉では、どれも陳腐に思えて仕方がない。横島は自分の浅学さに辟易としていたが、おキヌにとっては、黙って話を聞いてくれたことが嬉しかったのである。
「横島さん」
「ん?」
「少し……こうしてていいですか?」
横島の肩に頬を寄せ、おキヌは目を閉じる。
その仕草が、とても。
とても――女らしく思えて。
昂ぶる胸の鼓動を、抑えることが出来ない。
身体越しに伝わってやしないかと心配しながら、横島は硬直したままじっとしていたが、ふわりと鼻腔をくすぐる匂いに気付いておキヌに目をやる。
(あれ、シャンプーの匂いが)
いつからそうだったのか、分からない。
けれど、確かに違う。
自分が知っている匂いと変わっていて、それは横島の好きな匂いによく似ていた。
(おキヌちゃん、もしかして……)
自分の好みに合わせてくれたのだろうか。
だとすれば、今まで感じていた彼女の変化は――思い当たると同時に、おキヌを心の中で強く意識している自分に横島は気が付いた。
おキヌの声が、仕草が、笑顔が――心に焼き付いて、胸の奥を熱く焦がしている。
「お、おキヌちゃん――」
言いかけて、冷たい雫が頬を濡らす。空を見れば、どんよりとした雲が縁日の上空を覆い隠し、大粒の雨を降らせ始めていた。
「うわ、こりゃまずいぞ、通り雨だ」
おキヌの手を引き、横島は神社の軒下まで避難する。
夕立の勢いはあっという間に強くなり、軒下には自分たちと同じように雨宿りしに来た人で溢れ、端の方に追いやられてしまう。
「もうちょっとこっちに来なよ。そこじゃ雨がかかっちまう」
「人が多くて……きゃっ!」
雨の中に押し出されそうになったおキヌを、横島は自分の胸元へ抱き寄せる。初め驚いた顔を見せたものの、おキヌは声を出したり抵抗することもなく、雨が止むまで腕の中でじっとしていた。
浴衣の布地越しに感じる、おキヌのぬくもりと柔らかさ。少し華奢で、守ってあげたくなるような感触。知らない誰かに触れさせまいと、横島の腕もつい強張る。
ほどなくして雨が通り過ぎ、人々は再開した縁日へと戻っていく。その中で、横島とおキヌは最後まで抱き合ったまま動かずにいた。
「おキヌちゃん、俺」
「横島さん……」
見つめ合う二人に、それ以上言葉はない。
腕に力を込めてさらに抱きしめたとき、おキヌの瞳は潤み、小さな肩は震えていた。
「おキヌちゃん?」
「ご、ごめんなさい、私――!」
おキヌは目を逸らし、横島を突き飛ばして人混みの中へ走り去ってしまう。横島はしばし呆然としていたが、やがて我に返り、おキヌの後を追いかけた。
夏祭りの会場からやや離れた、川沿いの土手で横島はおキヌに追いつき、息を切らしながら横島はおキヌに謝った。
「ご、ごめん。俺、ちょっと調子に乗りすぎて」
ところがおキヌは、ぶんぶんと首を左右に振る。
「違うの……違うんです横島さん。悪いのは私です。最後の最後で、私――」
彼女の瞳には、涙が浮かんでいる。
「私……横島さんが好き。ずっと、ずっと前から」
夕立の匂いが残る風の中で、おキヌは告白した。
「だけど、なかなかちゃんと伝えられなくて、それじゃダメだと思って……それで色々、努力してみたんです。いつもと違う服を着てみたり、こうしたら喜んでもらえるかな、って」
「おキヌちゃん……」
「でも、こんな風に誘ってるって事が分かったら、横島さん私のこと……キライになるんじゃないかって。そしたら急に怖くなって――!」
ポロポロと涙をこぼし、おキヌは泣きじゃくる。
「ご、ごめんなさい……私、私……ひぐ、えぐっ」
横島はそっとおキヌに近付き、彼女の顔に両手を添えて涙を拭いてやる。
「違うよおキヌちゃん。俺、気付いたんだ。おキヌちゃんがいつもと違って見えてたのは、全部俺のためにしてくれてたんだって事。それが分かったとき、すげえ嬉しかったよ。だから――」
真っ直ぐにおキヌの瞳を見て、横島は言う。
「俺はおキヌちゃんを嫌いになったりしないよ。絶対に」
そしてそっと、キスをした。
「よこ……しま……さん?」
「ありがとう、おキヌちゃん。なんか俺、大事なものもらった気がするよ」
「……はい!」
おキヌはもう、躊躇わない。
横島の胸に飛び込んで、もう一度キスをする。
それと同時に、暗くなった空に大輪の花が咲き乱れた。
「お、花火が始まったな。今日の花火は、なんだかすっげえ綺麗に見えると思うんだ」
「はい、横島さん……とっても、綺麗」
二人は寄り添ったまま、いつまでも花火を見上げ続ける。
真夏の夜空は、いつまでも夏色に輝いていた。
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