丑三つ時には遠すぎる
台所の窓の外から、うなるように風が通りぬける音が聞こえる。
それからほんのわずか遅れて、ガラス戸と屋根が軋む音が続く。
油ものはまずキッチンペーパーで拭き取ってから、二人暮しとは思えない膨大な量の皿を明は一気に洗い上げる。
風の強い今夜はいつもより家鳴りがうるさかった。
たまに地震がきたかのような音が響き、水音をかき消すことさえある。
今はまだそんな季節ではないが、台風でもきたら今年こそ吹き飛ばされてしまうのではないか――具体的には屋根瓦あたりが――
笛に似た寂しげな風の音と震えるガラスの音に、明は妙に落ち着かない気分にさせられた。
皿が乾きやすいよう熱めの湯ですすいだあと、額の汗を軽くぬぐう。
ずっと湯を使っていたためか台所一帯は特に温度が高い。
(まだ夏は始まったばかりってのにな……)
このべたつく不快さは一体どうしたことだろう。
続けて明日の朝食と弁当の仕込をやってしまおうかと考えたが、その蒸し暑さに休憩をとることにした。
居間の襖を開けると、初音は一瞬肩を強張らせた。
「何だ……明か」
「他に誰がいるんだよ」
初音はポテトチップスの袋をかかえテレビを見ていた。ちょうどCMに入ってしまったようで、何の番組だったのかは分からない。
先ほど夕飯をとったばかりのはずだが、下手に夜に腹をすかせて布団を歯形と涎だらけにされても困るので、明は黙っておくことにした。
「今日おすそわけ貰ったんだけど、食うか?」
「食うー!」
その代わり、掌ほどもある甘夏をひと抱え、テーブルの上に置く。ジャンクフードよりは良いだろう。
甘夏はすでに旬をすぎている。おそらく今年手に入る最後の木成りものだろう。
そのうちの一個を手に取り、初音に渡す。
初音はそれを受け取ると、じっともの言いたげに明を見つめてきた。
「……皮は自分でむくこと」
「ちぇー」
口をとがらせながらも初音はおとなしく従った。黄色い皮に爪をたてる。
爪はあっさり厚い皮を貫通し、指は勢いよく突き刺さった。
初音の周りは爽やかな甘夏の香気に包まれた。
明は自分の半分皮の剥けた甘夏を渡してやりたい衝動にかられたが、そこは堪えた。さっとテーブルを布巾で拭くに留める。
初音は気にした様子もなく、外側さえむけていればいいのか、中の皮はそのままにかぶりついていた。
「おいしー!」
部屋は柑橘の香りでいっぱいになる。
思わず手をとめて初音の様子を見守っていたが、明はようやく自分のぶんの皮むきを再開した。
明はきれいに果肉を取りだす作業に没頭していたが、いつの間にかCMが終わり番組は再開していたらしい。
みずみずしい果肉を口に運ぶ。
果実は大ぶりだが大味ではない。くどくない甘さと適度な酸味、少しだけ残る皮の苦味が口に広がった。
初夏の爽やかな甘味を惜しむように咀嚼しつつテレビの方を向くと、画面では血まみれの女が首を吊っていた。
まるで爽やかさに欠ける夏の風物詩だった。
新聞を確認すると、テレビ欄には予想通りの番組が紹介されていた。
夏休み直前スペシャルと銘打った子供向けの心霊企画ものである。
ストーリーテラーの男性が情感たっぷりに怪談を話し始め、その声をナレーションに再現ドラマを作っている。
もちろん紛い物だと分かってはいるのだが、それでも人が血まみれになっている映像は気分の良いものではない。
初音の方を見やると、口をぽかんと開け両手に甘夏を持ったままテレビに見入っていた。あまりの熱中ぶりに話しかけるのも憚られる。
流れ上、気が進まないながらも明もお粗末な心霊番組を見る羽目になる。
内容といえば、安く買いとった物件が曰くつきのもので、住人は心霊現象に悩まされるというもの。
その物件というのが、一体築何十年なのか疑問に思うくらいの今どき珍しい古きよき日本家屋なのだった。
明に予知能力はなかったが、激しく嫌な予感に襲われた。今すぐチャンネルを変えたい。
「初音……何か他の見ないか?」
「ダメ。今変えたら分かんなくなっちゃう」
そんなに結末が気になるものか。呆れつつ最後まで付き合うことになった。
昔その家で殺されたという怨霊に住人は祟り殺され、行方知れず扱いになる――という結末でその番組は終了した。
時計を見ると、八時少し前を指している。
休憩は終わりにしようと最後の甘夏を口に放り込み、明は腰を上げた。
「あっ明、どこ行くの!?」
何故かひどく狼狽した声をあげる初音。
「どこって別に、トイレだよ」
「初音も行く!!」
初音は勢いよく立ち上がると、その勢いのまま廊下を走りぬけた。
「…………」
置いていかれた明は唖然とその背中を見送っていたが、仕方なくもう一度腰を下ろす。
「……八時から何か面白いのやってねーかな?」
リモコンを片手に再び新聞を広げる。
実家に居たころに比べ、東京はテレビの局数が多いと改めて感心する。
こちらに来てからしばらくは局番の違いに慣れなかったものだが。
ほどなく廊下を勢いよく戻ってくる初音の足音がした。
「――何で明はそこに座ってるの!?」
「だって、お前がトイレ入るんだろ」
「明だってトイレ行きたいんでしょ!? 早くしないともれちゃうんでしょ!?」
「そこまで切羽つまってねーよ! ……俺はいいから、早く行って来い」
「廊下で待ってて、初音が出たらすぐに入ればいいよ!」
「あのなー……ちょっ、とっ! こら待てっ! 引っ張るな!」
すぐに出るから動かないでと念押しされ、トイレから離れすぎず近すぎず、絶妙の位置で明は立ち尽くしていた。
とりあえず、明は後悔していた。初音にあんな番組を見せるべきではなかった。
明が居間に戻ってきた時点で初音は既にテレビを見ていたのだから、明に落ち度はないはずだが、それでも気は重い。
はあ、と思わずため息をついたところで初音がトイレから出てくる。
入れ違いに明が入ろうとしたが、初音もぼんやりと立ったままで部屋に戻ろうとしない。
「どうした?」
「待ってる」
「いいよ。先戻ってろよ」
渋い顔をして首を振る初音。
明は一度口を開きかけたが、言葉をため息に変えると観念してトイレのドアを閉める。
嫌な予感は確信となり、むしろ想像以上に深刻なものらしいと明は頭を抱えた。
――危機は思った以上に早くやってきた。なにせ数分も経っていないのだから。
強引にチャンネルを歌番組に変えておき、古めかしいぜんまい時計が鐘の音を鳴らすと同時に、明は居間を出て行こうとする。
「風呂入れてくる。沸いたらすぐ入れよ」
いつもならここですぐに着替えを取りに行く初音だったが、今日に限って動こうとしない。
それどころか明のシャツのすそを掴んで離そうとしなかった。
「明」
「……駄目」
「まだ何も言ってない」
初音は口を尖らせる。明の方はなんとか初音の手をひきはがそうとするが、全く無駄な努力だった。
聞きたくなかったが聞かないわけにはいかない。
ろくな返事は返ってこないだろうと覚悟して口を開く。
「一緒に入ろうとか言うんだろ!? 駄目だからな!」
「へ?」
初音のシャツを掴む力が一瞬弱まった。事情が飲み込めないのか、きょとんとしている。
その一瞬の気まずい沈黙に――明は一瞬で耳まで赤くなった。
「明は初音と一緒に」
「違うごめん何でもないんだ忘れてくれ忘れて!」
初音の言葉を遮って叫んだ。ついでに手を外そうとしたがそちらは失敗した。
「――水場は、危ない」
「は?」
初音の呟いた言葉に、今度はこちらがついていけない。顔の熱さをまだ自覚しながらも明は問い返したが、返ってきたのは別の言葉だった。
「初音がお風呂入ってる間、明は近くで待ってて」
「い、いや、俺、他にやりたいことが――」
「そっか、明は初音と一緒に」
「だから違うんだってそれは忘れてくれよ頼むからっ!」
約十分間口論を続けたが、話はかみ合わず平行線をたどるばかりだった。
シャツのすそはすでにびろんびろんになっている。
結局、明が折れて先ほどと同じようにお互いが入ってる間、ドアのすぐ横で待機することになった。
(すげー暇だ……)
明は暇をもてあますのが苦手である。
この時間で明日の弁当の仕込みでもしておきたいところだ。それかせめて漫画でも持ってくれば良かった。
脱衣所の耐え切れない湿度と暑さに持ち込んだ扇風機の風を感じながら、明は天井を見上げた。
「ねー明ー」
「何だよ、ちゃんといるって」
「分かってるよ。明の匂いがするもん」
「…………」
ジャケットを丸めたバスタオルあたりにひっかけて影武者を立てる作戦はやる前からすでに失敗のようだった。
会話が途切れ、風呂場からの水音だけが響く。
意識を聴覚に向けないよう注意しながら、自分は体育すわりで何をやっているのか、明はますます分からなくなくなる。
腕時計を見るが先ほどからちっとも進んでいない。
「ねー明ー」
「今度は何だよ」
「暇だからしりとりしよう」
「しりとりって……あ、うん。いいぜ。その代わり、一回だけだからな」
「分かった。じゃあ初音から! 『明』! 明、次はラだよ!」
「ラーメン」
「…………へ?」
「そういうわけで、俺、負けたから。もう戻るから」
反動をつけてよいしょっと立ち上がる。
一瞬静かになったかと思うと、追いかけるように初音の声が脱衣所まで響いた。
「――メンマぁ!」
「あっ意外にしつこい!? マ……マ、マ、マンゴープリン!」
「リン……リン…………リン、ゴ!」
「ごー、ごー、ご、ごぼう天!」
「てん……天どっ……ッ、…………天ぷら!」
「――――ラーメン!!」
「あっそれ明さっき言ったやつ!?」
風呂場から、初音が立ち上がったのか一際大きな水音がした。
「だから俺の負けなんだろ。もー、いいかげん戻るぞ。初音?」
返事がない。拗ねたかなと思い、もう一度名前を呼ぶ。
「おい、初音」
やはり返事がない。
「……初音ッ!」
風呂のドア近くで叫ぶと、かすれた返事が聞こえた。
「なんか……立ったら、急にクラっとした。のぼせ、た……?」
慌ててドアに手をかける。だが右手は固まってしまって、扉を開くことは出来ない。
こんな時に先ほどの初音の言葉が幻聴となって響く。
『明は初音と一緒に――』
その言葉を振り切るように、明はドア越しに叫んだ。
右手は握り締めすぎて白くなっていたが、押さえつけられたように動かない。
「大丈夫か!? 立てるか!?」
「眩暈が……明、入ってきて大丈夫だから」
「でも、それは――」
「助けて」
「――――!!」
弾かれたように破りかねない勢いでドアを開ける。蝶番がいかれてしまった感覚が、右手に残った。
熱い湯気を顔に感じながら着衣のままで踏み込むと、そこには苦しげに息をしながら浴槽に前足をかけている初音の姿があった。
「だから、大丈夫って……うー、助けて……明……」
最後の力を振り絞ったのか、初音の姿は狼になってくれていた。
ご丁寧に体毛がお湯で濡れている幻覚さえ見せてくれる。
自分こそその場でへたりこみそうになりながらも、気力を振り絞って狼を浴槽から引っ張り出した。
(なんかもーこんなんばっかりだ……)
説明できないやり切れなさを感じながらも、明はタオルと一緒に初音を居間まで運んだ。
明が水を取りに行っている間に、初音は枕元に置いた着替えを着用していた。姿も人間に戻っている。
風呂場から移動して少し落ち着いたのか、顔は赤いものの目の焦点はしっかりとしていた。
コップに注いだ水を渡すと一気に飲み干した。
「慌てて飲むなよ」
「……っ、もう一杯!」
口の端から飲みきれない水が垂れてしまっている。初音は手で乱暴にぬぐうと、水を再び欲しがった。
ひとまず安心して、ペットボトルの水をもう一度コップに注いでやる。
「気分は良くなったか?」
「うん、ありがと……さっきは真っ白になって目が回ったけど、たぶん、もう、平気」
もう一杯水を飲み干すと、初音はその場へ横になりそのまま目をつぶってしまう。
「おい、このままここで寝るなよ。寝るなら自分の部屋に行け」
「ん――」
(大丈夫そうだな――)
明は小さな安堵の息をつき、立ち上がろうとする。
だが、カーゴパンツのすそを掴む手があった。危なくつんのめりそうになる。
「おわっ! バカ、危ねーだろっ!?」
「明、お風呂入るの?」
「そうだけど……ガス代もったいないし……」
「待って。初音も、行く」
「――あのなぁ」
同じく起き上がろうとする初音の肩を掴み、諭すように話しかける。
「お前は寝てろって。すぐあがるから」
「でも」
「いいから。だいたい、急に幽霊を怖がりだしてどうしたんだ? そんなにさっきの番組が――」
「別に、怖くないよ」
「…………え?」
全く予想外の返答だった。
しかし、当然のように話す初音の顔に強がりといったものは見られない。
任務で血痕等の追跡をすることも多く、能力で昂ぶっている時など初音自身が一種の残虐性を示すことすらある。
たしかに、血なまぐさい話が苦手とは思えなかったが――
「死体は平気。ホラー映画も怖くない。でも幽霊はダメなの」
「何で」
「ゾンビなら体がある。でも幽霊はない。……爪、通り抜けちゃうかも」
(……た、戦う気なんだ……コイツ……)
「怖い話をしたり考えたりするだけでも、幽霊って集まりやすいんだって。あと、水場も。
でも、テレビ、最後まで見たけど戦い方なんて教えてくれなかった。
あんな風に幽霊がこの家に出てきても、もしかしたら何もできないかもしれない」
初音はバスタオルをぎゅうと握り締める。
「明も、守れないかもしれない。でも……」
それ以上言葉は続かなかった。だが、それで十分だった。初音の言動にようやく合点する。
(それで……やたら一緒に居ようとしたのか)
まったく――考えもつかなかった。思わず苦笑する
こんな時に笑っていると知られたら自分こそ爪で攻撃されかねないので、思案するふりをして緩む口元に手をあてた。
さて、どうしよう。初音の顔はあまりにも真剣だ。
幽霊なんていないから大丈夫。そんなことを言ったところで、彼女はきっと納得しない。
不安をとりのぞきたい。そのために、何をすればいいだろう。
単純で、感情的で、一生懸命で、家に幽霊が現れたらどう戦うかなんて途方もないことを真摯に悩んでいる――この、バカで優しい幼なじみに、自分は何ができるだろう。
明は改めて座りなおし初音と目線を同じに高さにした。深刻な表情のまま顔をあげた初音の額を、人差し指で軽く叩く。
それは、明が得意とするあるポーズに似ていた。
「忘れたのか? 俺の能力は何だ?」
「……憑依」
「そうだ」
にやりと明は笑ってみせる。彼女を安心させるために。
「幽霊なんて、俺が意識を乗っ取ってやる」
だから、大丈夫――彼女の額にあてていた人差し指を、自分の額にあてた。
初音は額に手をやり、明の顔を見つめていたが、
「……うん、安心した」
そう言って微笑んだ。
彼女なりに緊張していたのか、倒れるように初音は眠ってしまった。手足を思い切り伸ばし、満足そうに目を閉じている。
「だから、ここで寝るなっつってんのに」
呆れつつ、ひとり呟く。
布団代わりにタオルをかけてやり、初音を起こさないようそっと襖を開け、明は居間を出て行った。
廊下は古く、歩く時はもちろん立ち止まっている時さえどこかで軋む音がする。相変わらずまとわりつくような蒸し暑さだったが、闇の中は寒々しくもあった。
暗闇に慣れない目で振り返れば、なるほど、何かがいてもおかしくないかもしれない。
だが、別に怖くはない。
幽霊の身体感覚を受信するにはどうすればいいか――
途方もないことを真剣に考えながら、そんな自分に再び苦笑しながら。明は風呂場へと歩いて行った。
午後八時半、丑三つ時には遠すぎるこの時刻。
相変わらず風は泣くような音をたてていたが、家鳴りは少しだけ、おとなしくなっていた。
終わり
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