見渡す限り、灰地の空模様。
まるで自分の未来のようだと、美神令子は忌々しく思った。
気分を落とす元凶はつい先ほど。
唐突に母、美智恵に呼び出されたのがきっかけだった。
何せいきなりの事。
いったい、どんな用事と思いきや。
「ち、父の日……?」
「そうよ令子。アナタ今まで、娘らしい事は何一つしていないでしょ」
顔が引きつっているのが、自分でもわかった。
二十歳にもなって、そんなイベントを押し付けられようとは。
「ちょ、ちょっとやーよ。いまさら!」
「なにが今更よ。仲直りの印としては上々じゃない」
そう言われても困る。
そもそも、心を読む機能が搭載された鉄仮面に、何を与えろというのか。
唸る令子に、美智恵が釘を刺した。
「人任せにしちゃだめよ。ちゃんと、あなたが選びなさい」
「無理だってば。大体、そんなもの喜ぶタマじゃないでしょうが」
どうにかして、話をなかったことにしたい。
あの手この手と、脳内で考えるのだが。
甘かった。
「そういえば令子。こんなものが来てるんだけど」
ぴらりと投げ出されたのは、書式の整った、硬っ苦しい紙切れ。
不機嫌に目を通すと、いきなり第一行から痛烈なパンチが飛んできた。
美神除霊事務所。建築物の違法改造に関する指導要項について云々……。
相手の意図がピンときた。
同時に、血の気引いて体が傾くのを、辛うじて立て直す。
まさか、それだけの為に実の娘を脅しにかかるかっ。
青ざめた顔で相手を睨むと。
母、美智恵はこれ以上ないだろう微笑を浮かべていたーー。
「くっ、公私混同もいいところだわ!」
荒い口調で毒をまく。
しかし内心、実のところ。美神令子は焦っていた。
私からのプレゼント。
それを受け取った父、公彦はどんな反応をするか。
仮面の下の目じりが垂れ、口はにたりとだらしなく緩んで……。
あっ、ありえない。
なんかもう、世界をそのまま潰してもいいんじゃないかとすら思えてくる。
やらないといけない。
でも、ありえない……。
あああ、と、美神は髪の毛を掻きみしった。
思考は二択の迷路に突入し、全く解決のメドが立たない。
こうなったら、誰かの助力を借りるしかないだろう。
しかし、ここでまた大きな壁が立ち塞がった。
身の回りに、相談できる人物がいない。
おキヌちゃん? 義父ではないか。ああダメだ、私より配慮が難しい。
シロやタマモ、は論外だ。存在しない人の相談など。下手すれば嫌味にすら聞こえる。
エミ、冥子……って何考えているんだ。私の人生が終わるではないか。
女性陣は全滅した。
ここは最早、男性陣に聞くしかないのか。
そんなの嫌だと頭を抱える。
が、このまま放置はできない。冗談抜きで強制立ち入りも考えられる。
あの母ならやりかねない。
神父。年代ぴったりだけど……嫌だろうなぁ。なんとなく、敵心を持ってる気がするし。
西条さん。なんと言うか私が嫌だ。こんな醜態を見せられる相手ではない。
ピート。父は吸血鬼。参考対象として無理。
どんどんボツにした結果、恐ろしい結論に辿り着いた。
もう横島君しか、選択肢がない。
確か、彼には品のいい父がいたはずだ。手の早さも、息子に輪をかけた感じだったが。
しかしいくらなんでも、ううん……。
それから短針二つ分の時間を要して。
美神はようやく、訪ねる決心が固まった。
古びたアパートに、錆の音する階段。
最後に訪れたは、いつだったろうか。
コンコンと軽く、ノックをする。大分経って、ようやくダレきった声が返ってきた。
相変わらずだ。けれども、ここは我慢がベスト。
「横島君。ちょっといい」
美神が、丁寧な口調で呼びかけてみる。
すると、どうだろうか。
派手な足音をたなびかせて、ドアが開いた。
「どうしたんスか! 美神さんのほうから尋ねてくるなんて。
も、もしかして昨日、下着くすねたのがバレたとか」
こいつは、ドサクサに何をやっているのか。
感情に任せて、殴り飛ばしたくなるが。衝動を、ぐぐっと抑えた。
「……違うわ。ちょっと相談があってね。
あのさ横島君、父の日の事なんだけどね。正直、どうしたものか悩んでいるのよ」
一瞬、彼の動きが止まった。
やっぱり、この年で相談する話題じゃないわよね。
暗澹な気持ちに沈みかけていたのだが。
「な、な〜んだ。そんな事ですか。その手のは、俺の得意分野じゃないですか!」
「ほんと!?」
意外な所で頼りになるものだ。
ようやく、明かりが見えた気がしたが。
「ええ! 乳の日大好物ですっ! ほんじゃ遠慮なく、いっただきぃぃ〜〜いっ!?」
「果てろっ! 煩悩一直線っ!!」
捻りの効いた拳が、鼻っ面にカウンターで入った。
「うう。意味ありげな流し目使ってコレとか、ヒドイッスよ」
「やかましいっ、勝手に変な日を作りおって!」
横島が上を向いてフガフガと文句。及び鼻血を垂らした。
「父の日なんて、無難な物をあげればいいでしょうに」
「肝心のパパが、無難な人じゃないから困ってるのよ!」
うーん、と横島が唸った。
「そうっスか? ネクタイなんかあげたら、大概は喜ぶと思いますけど。
あ、俺の親父は例外ですよ。アンニャロー、このセンスじゃ女性が逃げるとかほざきやがって」
ネクタイ! その手があったか!
美神の肩が大きく震えた。こんなにあっけなく、解決案が出されようとは。
延々と悩んでいたのが、非常に情けなくなってきた。
これではあんまりなので、少し食い下がってみる。
「そんな簡単でいいのかな」
「え、ダメなんですか? 別に難しく構えなくても、いい気がしますけどね」
言われてみれば、確かにその通り。全くの正論だ。
一体、何を難しく考えて……そうか。
ようやく、気づいた。
行為自体は簡単なのだ。
変な感情を混ぜるから、複雑になっただけで。
心の葛藤も、こいつに打ち明けた途端に軽くなった。
つまらない事に巻き込んだと、小さな罪悪感すら芽生えてくる。
「ゴメンね横島君。ちょっと疲れてたみたいだわ。
……お詫びといっちゃなんだけど、一緒に買い物でも行かない?」
「えええ! これはひょっとして」
皆まで言わせず、もう一度。拳が嵌った。
「ま、まだ何にもしてないのに」
「視線の入射角! 足の踏み込み具合!」
「セクハラ・バスターですか、アンタは」
害虫は薬を使い続ければ、耐性が付くとか。
セクハラに耐性をもたれたっ!?
……しばらく、大人しくした方がいいかもしれない。
横島は板地にひっくり返ったまま、そんな事を考えた。
曇りの空は続いていたが、幸い雨には至らない。
歩けばムシムシと、不快な湿度が心を乱す。そんな気温の高い夕方。
されども、オープンカーを抜ける風は、しごく爽快だった。
それが美神に、どんな影響を与えたのだろうか。
「あんたも何か買ったら。少しなら奢るわよ」
「いっ! どうしたんスか今日は。まさか偽者!」
左手首が軽快に舞った。
「ご好意、ありがたく受け取ります……」
「よし!」
素直に返答したものの、さてさて、何を買ったものか。
横島は散々と悩んだが、中々に決まらない。
デパートの駐車場に到着してから、ようやく物が定まった。
「美神さん。お言葉に甘えて、千円ほどいいっスか」
「いいけど……何を買うの?」
「ふふふ、それは後でのお楽しみ!」
彼は人差し、中の指で紙幣を挟むと、一人で走って消えてしまった。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて声をかけるも、当人は既に店の中。
(ア、アイツめ! 何のために連れて来たと思っているのよ!)
残された美神が、車のサイドドアーを派手に殴った。
ネクタイの柄も、どうにか決まり。
丼筋一つ浮かべて駐車場に戻ると、既に横島が待っていた。
「アンタ、一体何買ったのよ」
私をほっちらかして、の下の句は辛うじて飲み込んだ。
「折角だからシロの奴にも、イベントに巻き込んでやろうと思いましてね」
横島が何かを見せつける。
しかし、駐車場は暗くて正確なところはわからない。
細長い包みと犬を文字どったシールが、どうにか見えた。
「え。でもシロは……」
「へへ、だからですよ」
怪訝な顔する美神に、承知と笑い返す横島。
「アイツ、偶には里に帰れっつっても、それがし修業中の一点張りですからね。
人間界には父親に贈り物する日がある。だから、お前も墓前に供えてこいと。
そういう方向でどうかなーと、思ったりなんかしちゃいましてね」
美神の瞳が、見開いた。
コイツが、こんな事考えるなんて。
しまりのない顔で言うものだから、説得力は今ひとつだ。
父親の顔には程遠いだろう。でも男の顔としたら、どうだろうか。
美神にマジメな顔で見られて、慌てたのだろう。
「いや、なんつーか、ほら。その間、散歩という名の拷問から開放されますし!
それにーー」
それに、といいつつ、彼が傍らに寄ってくる。
「美神さん意地を張るから、イベントの参加を誰かに察知されるの、嫌でしょ」
小声でボソっと耳打ちされた。
迷わず、肘をスライドさせる。
「ぐえっ!?」
「大きなお世話じゃ、ドアホゥ!」
薄暗い照明で助かる。
間違いなく自分は今、赤面しているだろう。
「うう、気を利かせたつもりやったのに」
「ええい、まだ言うか! せっかく……したのに」
え、と横島の口から声が洩れる。
しまった。思わず言葉が出た。
「なんでもない! さ、帰るわよ!」
「え、ちょっと美神さん!」
しつこい彼の問いかけは、無視してやった。
戻り道。夜の空気が、火照った体を冷ます。
空は、すっきり梅雨時の中休み。
しっとり辺りを照らす女神は、上弦から満月への変わり際。
己の全てを見せ付けようと、躍起になっていた。
次の日。
横島がシロを連れて、美神の元へやって来た。
昨夜の話だろうと、構えていると。
「昨日のアレ、シロにお願いしますよ」
いきなり全てを丸投げされた。
思わず眉が、斜めに傾く。
折角の良案。言いだしっぺが引っ込んでどうするのか。
「アレは、あんたが言うべきでしょうに」
「ええ〜〜。でもブツ持ってるのは美神さんだし〜〜」
なぬ。
ガバッとカバンを開けてみる。
あった。
半分取れかかった犬のシールが貼られた、細長い包みが。
どさくさに紛れて、カバンに混ぜたのだろう。
「あ〜〜、うん。ちょっと待ってね、シロ」
そう言い放つと、横島の耳を引っ張って外に出る。
「あんたが黒子に回ってど〜〜する〜〜っ!!」
「ひぃぃ、スンマセンッ! スンマセンッ!!」
主の顔を立てようとしたのか、はたまた単なるヘタレなのか。
ともあれ、彼がやってこそだろうに。
美神は丁寧にシールを剥ぎ取って、包みを押し付ける。
そしてそのまま、ていっと蹴りだした。
待つこと暫し。
扉の向こうでは、しどろもどろに彼が口を動かしていた。
もうちょっとマシに話せないものか。
頭の中で野次を飛ばしつつも、美神は声に聞き入っていた。
やがて、彼の声が止んだ。
戻らないと主張して聞かなかったシロも、納得したようだ。
だが、横島はここで全てをぶち壊す。
「こんなもんでどうっスか、美神さん〜〜!」
呼ばれた彼女は、前のめりで地に伏せた。
「あんた師匠でしょうがっ! いい加減しゃきっとせんかぁぁっ!!」
「い、いやでも。俺の師匠は美神さんですしっ」
今度は、なんのかんのと二人が揉め始めた。
その様子を見て、シロは思う。
ああ、これだから。
拙者はここに居たいと、ゴネるのでござろうなぁと。
ともあれ、自分の為に喧嘩はよくない。
「拙者、準備をして来まする! ありがとうでござるよ、二人ともっ」
お互いが、相手の顔を見合わせた。
シロはそれを確認すると、駆け足で屋根裏に上がっていった。
残された二方は居心地悪そうに、頬を掻いた。
「へぇ〜〜。それで今、シロちゃん貸し出し禁止なのね」
オカルトGメンの給仕室で。美智恵と公彦が話を聞いていた。
「ゴメンね、ママ。連絡忘れちゃってて。
……しっかし横島の奴。弟子の前ぐらい、少しはいい格好を見せなさいっての」
文句を言う令子に、まぁまぁと美智恵が嗜める。
「そう愚痴らないの。彼は彼なりに、あなたを立てようとしたみたいだし」
「それが余計だってのに。いつまで丁稚でいるつもりよ、あいつは」
顔を膨らませる令子。両親は目を合わせ、くくと笑った。
それが彼女の機嫌をますます悪くさせる。
「ちょっと、何でそこで笑うのよ!」
「いいじゃない、それぐらい。
……それより令子。あなたの方は、大丈夫でしょうね」
おいおい、催促するものじゃないだろうと公彦は言うが、美智恵の目は厳しい。
「勿論よ!」
私を誰だと思っているの。
美神令子は、自信に満ちた笑顔で答えた。
その頃。シロの故郷、人狼の里にて。
「ほう、父の日とな」
「はい! 美神殿と先生が、父上の墓前に供えてこいと」
嬉しそうなシロの様子に、長老もまた深い皺の下で笑みを浮かべた。
「しかし、それなら大切な物。ワシが受け取っても良いのか」
「問題ないでござるよ。ずっと置いていたら虫が湧く。
一夜供えた後は、知り合いにでもあげてくれと。先生が仰っていましたゆえに」
ふむ、と長老が大きく頷いた。
「……しかし、随分変わった形の帯じゃのぅ。太さが合っとらんではないか」
「何を申されますか! おそらく、流行の最先端でござるよ!」
小柄な長老の腰元。ブランド物のネクタイが硬結びにされ、奇声を上げた。
「れ〜〜い〜〜こ〜〜」
「ま、待って! これは……そう、これは何かの手違いよ!」
一体いつ、中のものが入れ替わったのであろうか。
それさえ分かれば、無事に切り抜けられる筈だ。
しかしまずは、放電しそうな母親を止めるのが先決。
さもなくば。
「ワンチャン、イヌチャンまっしぐら。ローストジャーキー特級品」
「ごめんなさいね公彦さん。こんな天邪鬼な娘に育ってしまって」
「んな事を言われても、育てられた覚えなんて……じゃない、本当にわざとじゃないんだって!」
間違いなく、油を注いでしまった。後半の言い訳は聞く耳持たず。
相手は、頭から蒸気を噴き出さんばかりの勢い。
本気で洒落になっていない。
「大口叩いた挙句にこの有様。覚悟はできているんでしょうね」
「ま、待ってママ、室内で神通棍はマズイ! そうは思わない?」
縋る令子に、美智恵がにっこり微笑んだ。
「ママねぇ、気づいてしまったの。……貴方を調教しないほうが、よっぽどマズイってっ!」
上段から振りかぶっての大斬撃。ポットが机ごと、芯から爆ぜた。
「ちょ、ちょっとタンマッ! タンマッ!!」
「待ちなさい令子っ! 今日という今日は許しませんっ!!」
周辺機器が、辺り近所に飛び交った。
公彦は思う。
この騒がしいのもまた、父親の醍醐味だろうかと。
眼前で始まった、母娘喧嘩を観戦しつつ。
ちびちびと、ドッグフードの咀嚼に決め込んだ。
お粗末さまです!
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