「忠夫さーん!」
白いシャツとグレイのパンツにストールをかけたおキヌが手を振っている。ピンヒールでなくパンプスを履いている姿は久しぶりだと仕事明けの横島が、少々よれたスーツを気にもせず大きく手を振り返す。
待ち合わせはいつも魔法料理『魔鈴』だ。通りを一つ奥に入ると目に入るモスグリーンの屋根、整然と並べられた客席には色とりどりの花や緑が溢れている。最近朝から日中はカフェタイムとなっていて、晴れた日にはオープンカフェの席はすぐに埋まる。
それでも横島とおキヌの二人が座りはぐれた事がないのは、昔なじみの店主魔鈴が密かに結界を用いた必ず空く席を用意してくれているからなのだが、申し訳ないと想いながらも二人は素直にその厚意に甘えていた。
おキヌはアールグレイをポットで注文した。二人でテーブルを囲む際には、必ず頼むようにしている。いつだったか、張り詰めた気を落ち着かせてくれると見聞きしてからの事だ。横島はおキヌの気遣いを知ってか知らずか、注文していたクラブハウスサンドを早速頬張っている。飲み物を注文していないあたり、おキヌがどうせ頼むのだからと考えていたのかも知れない。
おキヌはおキヌで、サラダ以外には食べ物は何も注文していない。メインディッシュを頼んでも、結局それを片付けるのは横島の分担になるので、自分が食べる分以外は注文しなくなっていた。紅茶がテーブルに届くとおキヌはそれぞれのカップに注ぎ分けた。
少し紅茶の香りを楽しんで、横島が頬張ったモノが胃に収まるのを見やってからおキヌは組んだ手に顎を乗せた。左手の薬指には白銀の指輪が控えめに秋の陽射しを受けていた。
「……聞きましたよ。また無茶をしたんですって?」
開口一番、おキヌは横島に文句を付けた。共同作戦を張った神父から連絡が無ければ、昨晩の事も分からなかった。
それ故余計、普段言ってやりたかった分まで存分に浴びせてやるつもりだった。GS(ゴーストスイーパー)の仕事は命をすら落とす危険と隣合わせなのだからと。長く実戦で慣らした二人の間で今更と思わないではないが、おキヌはあえて言いたかった。言ってあげたかった。
だが横島は心から申し訳なさそうに −実際そうなのだろうが− 頭を下げて詫びるのだった。いつもいつも横島自身の失敗に端を発するものばかりではないのだが、それでもこの仕事に限っては念には念を入れすぎるという事は無いのだから。
「……ごめん」
しみじみ、そんな態で横島が言う。おキヌの助けを借りていれば良かった、と。
もう。おキヌは余計腹立たしく、そして寂しい。
横島が今謝る理由も、横島が自分を現場から遠ざけようとする訳も除霊に関する限り出来るだけ頼み事をしない理由も分かっていたから、余計薬指がむずがゆく、今朝またちゃんと顔を逢わせられた嬉しさも街に溶けて薄れていく気がした。
自分を気遣う夫に素直になれない妻。
単純な構図だと割り切れればとても楽なのだろう。
「あたしだって、まだ引退した訳じゃないんですから。必要なら、呼んでくださいね」
「……そうだね、うん。今度から、改めるよ」
一瞬、おキヌはあっけにとられる。この所幾度となく悶着したのも、詰まるところ横島の頑固さによるモノが大きかったからなのだが、こうもあっさり望んでいた言葉を引き出せるなどとは考えてもいなかった。
全く変な感じで、だがその違和感だけを残しておキヌは振り上げた拳を引っ込めざるを得なかった。横島がそうすると言っているのだ、きっとそうするに違いないのだから。
「ん……」
納めどころを探してつまずいて、所在なさげに呟くのが精一杯だった。自分が相手を責めていたはずなのに、いつの間にか自分自身が責められている様な罪悪感に囚われている。
それもこれも、ピンヒールからパンプスに履き替えた事ですべて説明がつく話だし、間が悪いと言うならこれほど間が悪いこともないだろう。
それを承知で言質を引き出しておこうとか釘を刺しておこうとか、自分に似合わない策略めいたものを行おうとした揺り戻しなのかもしれないと、だけど横島には気取られないように密やかに自重の言葉を呟いた。
妻の様子が少しおかしい事に気づきはしたが、横島は出来るだけ反省したように、興味深そうにおキヌの話を聞くフリをしていた。
感情を露わにした時のおキヌは愛らしい。
紅茶を口につけながら横島は改めて、おキヌと同じように心密かに思う。最近特に好奇心旺盛で、興味があると絵画の個展でもコンサートでもスポーツの試合でも飛んでいってしまう妻は、確かに以前とは変わったのかも知れなかった。
もちろん家事をおろそかにすることは無いし、むしろそちらを優先して空いた時間に楽しんでいると形容した方が正しいが、もしかすると元々がそうなのであって彼女が生き返ってからその傾向がより強まっただけなのかもしれない。
だからこそ、とのジリジリした想いがこびりついて離れなかった。だがGSとして名が売れるにつれ、自分自身で裁量できる範疇を越えた依頼が多くなった。
文珠ですべて解決するだろうと口さがない連中は言った物だが、文珠は実のところ、そこまで万能な物ではない。結局自分の霊力の限界を超える事は出来ないし、発動させるにしても相手があるからには必ず決まるというものでもない。
最善の策として都度都度昔なじみと共同作戦を張ってきたが、やはりおキヌのネクロマンサーとしての能力は貴重かつ重要で有用性を実感せずにはいられなかったし、逆説的ではあるがおキヌを守るために自分自身を守らねばならない義務が横島にはあった。
「頼りにしてる」
「……しっかりしてくださいね」
おキヌは更に言葉を続けようとして、一瞬間をおき、ごまかす仕草でアールグレイを両手で口に添えた。横島はかまわず皿の上で所在なげにしていたクラブハウスサンドを大口で頬張り、ふと空を見上げた。林立するビルの谷間からわずかに開けた隙間には、鰯雲をぬうようにして飛行機雲が伸びていた。
一息ついておキヌは目をつむり、他の客達の声に耳を傾けた。この店の騒がしさは、誰それが大きな声を出しているといったもので立て込んでいたからではなく、穏やかな談笑が一つになって全体の騒がしさになっていて賑やかしく好ましい。別に何を話していると判別出来る訳でも無いのだが、そのざわめきに耳を傾けるのが心地よかった。横島はそんなおキヌを、何を言うでもなくじっと見つめて、葉風に身を任せていた。
「今日は、お仕事無かったんですっけ?」
「受けてた依頼は全部片付けたし、申請書の類も残ってないしね。この所立て込んでいたから、少し休むのもいいだろ」
「じゃ、ゆっくりデート出来ますね」
「デートかあ。……そだな、んじゃとりあえずホテ」
「間はないんですか間はっ!?」
駆けつけ三杯とでも言いたげな調子の夫を、言葉をかぶせておキヌは諫めた。こんな調子で相変わらずおキヌに飛びかかってはムードが無いだの空気を読んでくださいだのと頭をこづかれてばかりで、横島は実のところいささか情けない。おキヌは強くなったと周囲は口をそろえるが、横島にはそんな感傷などどこ吹く風。
結婚して数年が経ったとはいえ、変わらずGSの仕事で忙しくすれ違いも多かった二人には、未だ新鮮な驚きや発見もたくさんあった。
あんなに長く一緒にいるのにと言われるし、実際そうなのだろうが、見つかるモノは見つかるのだからしょうがないと横島は言い訳じみた答えを反芻するしかない。余計それが冷やかしや呆れを買うのだが、横島は付き合っていられないとばかり放っておくのが最近の常になっている。
「ほんとにあなた、お調子者ですよね」
おキヌは仕方ないんだから、と愚痴りながらも横島のカップに紅茶を注ぎ足す。悪びれた様子も無い夫が美味しそうに紅茶を飲む様を、今度はおキヌが見つめていた。ただそれだけなのだが、おキヌには妙に嬉しく愉しいと思えた。久方ぶりの休日に、こうやって口げんかするのも悪くはない。
なにしろ相手は横島だ、きっと退屈はしないだろう。伝えてあげたいこともある。どうしようかと考えを巡らせている間に、サンシャインビルが身に鮮やかな光を纏い始めた。
二人は店を出た後、国道沿いを照り返しの陽射しがかすかに汗を浮かばせるくらいな時間、歩いていた。道すがら馴染みの店の味が最近少し変わっただとか、この裏手に良い小物店がオープンしたとか、街路樹の色づきが目立ちはじめただとか、やや離れた目的地までの散歩を楽しんでいる。
事務所や『魔鈴』がある池袋からほど近い穏やかな学園街にはいくつか大きい公園があって、特に大きな池の畔を夫妻はよく訪れていた。この時間帯にはまだまだ息づかいの荒い街の喧噪を、木立が包んだ池は打ち消してくれる。湿り気を帯びた甘い空気は葉の香りを乗せてあたりを漂い、水辺のベンチに二人を誘った。
「やっぱり、ここはいいな」
「そうですね」
おキヌが卒業した六道女学園はこの池からわずかに離れた距離にある。ここの空気に触れる度、事務所に向かう道すがら横島とあたりを歩いた事を思い出す。
魔理や弓との思い出、閑静な住宅街の中にぽつんと立つパン屋、自転車で駆け抜けた坂道。二人でいる間だけ昔と今が混じり合った、妙に濃密な時間が流れている様なおかしな感覚と一緒に、少し元気になる。
あの時二人で座ったベンチに、今またこうして腰を下ろしていられる。ゆったり、しかしすぐに過ぎる時間をもっと一つ一つしっかり味わいたいとおキヌは感じるのだが、櫛が髪をすくようにはらりとすり抜けていってしまう。
わざとに眉を持ち上げてしかめ面をしても、それはきっと変わらないだろう。だけど、それが正しいことなのだろうとも思う。
「……あんときは、バカな事したなあ」
「ふふ。忠夫さん、汗だくでしたもんね」
それが出来たからと言って何があるわけでない。ただおキヌを自転車に乗せて坂道を登り切りたかっただけで、それでいて自分には大切な区切りだった。
到達した坂の上で、二人して笑ったあの日。遠くなった日々を確かめる為にここに来ているわけではないが、それでも横島はここに来ることを好んだ。
ふと、二人の前を学生達が駈けていく。おキヌもその制服に身を包んだことのある、六道女学園の生徒達だ。急いでいるせいなのか、それとも衣替えが早かったのか、皆一様に汗をかいている。だが流れる汗を気にもせず、ほら頑張ってと友人を引っ張っては締め切りを告げるチャイムが鳴り響く前になんとか校門に滑り込もうとしていた。横目で見やるおキヌに気付きもせずかしましい彼女たちがようやく通り過ぎると、また静寂が戻る。
「な、おキヌちゃん」
「なんですか?」
公園の出口を仰ぎ、横島が呟く。
「……帰ったら制服プ」
「絶対しませんからねっ!!」
「んじゃ今からそこの暗が」
「却下ー!!!」
本当に感情表現が豊かになったと、般若の形相で睨み付けるおキヌを横島は必死にごまかしながらも愉快だと感じていた。彼女の怒りはしばらく尾を引いたが、やがておキヌがバカなんだからと耳元でささやいたと同じに、華奢な背中に手を回して抱き留めた。
静かに、キスをした。特別長くもなかったし、特別激しくもなかった。自然と口をつけ、自然と離した。
不意に、光が目をくらませる。池の水面は実は随分とごつごつしていて、波同士がぶつかっては消えていく度に陽射しを弾いていた。いくらか風でなびく度に複雑に姿を変え、強く反射した光がそれだった。目を細めそらした視線の先には段々の杭があり、上にまるでどこかの名物の様に鳥たちが数十羽も並んでひなたぼっこをしていた。
皆目を閉じほんとうに気持ちが良さそうに佇んでいて、足下のごちそうすらまるで気にしていない。時折飛来する仲間が場所を求めて窮屈そうに身を寄せるのだが、なんとか折り合いを付けて仲良く一本の杭に乗っかるのだ。
「……俺たち、高校生だったんだよな」
「どうしたんですか、らしくもない」
自伝を書くには早すぎるんじゃないですか、とおキヌが冗談を言う。横島は苦笑いして、ベンチに背を投げ出した。
「あんまり真面目な学生じゃなかったな」
「あんまり、じゃなくて全力で不真面目だったんじゃ?」
「ひでぇ。おキヌちゃんは真面目だったかもしれないけどさ」
「あたしは皆勤賞ですから」
あの頃と変わらずに、楽しそうだな。朗らかに笑う様に、横島はおキヌの笑顔は美点、美質の一つだと改めて想った。こんなにも近しくて、長い間一緒に過ごして、それでもこんな風に想うのは一体何でだろうと問いかけようとして止めた。
そんなことを当人に聞くのもおかしな話だし、なにより答えを期待する方が間違っているだろう。
好きで、好きで、大好きで。
夜ごとの寝室。ぴったり重なり合うおキヌの身体の感触と柔らかさを全身で感じてはいても、伝わりきっているのか覚束ない想い。
何かを確かに共有できていると確信できる瞬間、そしてやはり自分は全く世の中から断絶していると思わされる時間。
結局こう思うのも、自分たちが別々の人間だからだ。別々の二人がいて、とても大事だった一人が過ぎ去っていって、また二人になった。それだけの事なのだ。
「な。今度、大阪に行ってみようか」
「どうしたんです、突然」
笑いはぎこちなかったのか、おキヌは訝しげな顔をした。見つめ合った格好になったまま、ややあって彼女が手を横島の頬に当てた。横島もまた手を重ねる。おキヌの手はひんやりとして、でもすぐに暖かさが馴染んだ。
ジレンマなのだろうか、とも考えた。一緒にいたい、強く想えば想うほど現実は剥離していく。離れていく。別におキヌの方を振り向かなくとも、彼女が何をしているのかわかるくらいなのに。彼女の手が、こんなにも暖かい。
「行ったこと無かったろ。今は親父もお袋も東京住まいだけど、俺が生まれ育ったのは大阪だし」
「昔なじみにでも会いたいんですか?」
「……そうかもしれない」
答えながらも、横島は果たしてそうなのだろうかと自問した。結婚式の際に友人一同とは顔合わせはしているし、自分が育った街をおキヌと一緒に歩いたところでどれほどの時間が流れるというのだろう。この池に通うのも、あくまでおキヌと −妻と− 一緒に過ごした思い出があるからだ。だから、時間の密度が違うのだ。そう思う。
「……大丈夫ですよ。やんちゃ坊主の、あたしの知らない横島さんも、今きっとここにいますから」
おキヌが目元をほころばせ朗らかに笑った。遠すぎたりはしない、と。
もちろん300年前のあたしも、幽霊時代の、生き返ってからのあたしも今ここにいますよ、と。
事も無げに言うおキヌに、横島は頬を緩めた。おそらくは自分とおキヌ以外には分からないだろう、一瞬の機微をすくい取ってくれた嬉しさに。焦ることはないのだ。今はこれでいい。少なくとも今は、これで十分だと。
「……ありがと」
「どういたしまして」
日が一層強く水面を照らす。さざめき煌めいて、強くなっていく暑さと空の青さをより印象深くした。置物の鳥たちは、気持ちよさそうに狭苦しそうに杭の上にとまっている。
会話がとぎれた後、二人じっと沸き立つ土の香りや水のにおいを運ぶ風、それを包む木漏れ日に身を任せていた。胸のポケットから横島がほとんど無意識にタバコを取り出そうとして、咎めるようにしておキヌがその手を止めた。そして、おキヌはそのまま横島の手を取って自分の腹に添えた。あっけに取られ疑問符を貼り付けたままの横島に、おキヌは告げた。
「これからを一緒に過ごしてくれる新しい命も、ね」
あ、と息をのんだ。
わずかにほこりっぽいベンチに、二人の体はぴったりと収まっていた。
おキヌの笑顔とそれだけの言葉が、横島には紛れもなく最上の替えがたい確かなものだった。木々がちゃかしてざわめく。吹き抜ける風に紛れた陽射しは心地よく、鰯雲は愉しそうに空をたゆっていた。
Please don't use this texts&images without permission of とーり.