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もう恋なんてしない、と彼女はいった

もう恋なんてしない、と彼女はいった。


朝、というには少々遅い頃合に、いつものように浮かぬ顔をしたタマモが席につきながら、挨拶代わりにため息を漏らす。

「また、ダメになったのでござるか」

シロは二人分の朝食をつくる手を休めることなく、呆れも通り越した声を返す。
思春期なのか発情期なのかは定かでないが、恋多き狐の少女が同じ事を呟くのは、今年になって何度目だろうか、そんなことが脳裏に浮かぶ。

「ふん! あんな人なんて、こっちから願い下げよ!」

いつになく強気の言葉が零れるが、シロにも、そしてタマモにも、それが嘘だということはわかっていた。
昨夜、日付が代わり去った後に、見るも無残に酔いつぶれて帰ってきたタマモをベッドまで運んだのは、他ならぬシロその人だった。
背後のテーブルからはうめきとも、泣き声ともとれる気配が漂っているのを思うと、まだ少し未練があるようだが、その願いが叶うはずもない。

振り向かぬままにフライパンを火にかけてベーコンを並べ、ボウルに割り入れた卵にハーブとチェダーチーズを混ぜる。
こんがりと焼くベーコンの隣に、卵専用の小ぶりなフライパンを並べ、バターを溶かし、一気に流し込んでオムレツを焼く。
キッチンに卵とベーコン、トーストの焼ける幸せな匂いが漂いだすと、タマモがまたひとつ力なくうめいた。

シロは二度のうめき声で火を止め、冷蔵庫を開けて、冷えたミルクをグラスに注ぎ、上にいつも置かれている薬の小瓶と一緒にテーブルに置く。
タマモはズキズキと痛むこめかみを押さえつつ身を起こし、小さな瓶から青い三角を二つ振り出し、冷たいミルクで喉の奥へと流し込む。
そんな飲み方では効くものも効かないのは知っているし、そもそも薬なぞ効くはずもないのも知っている。
それでも、何も飲まないで今を耐えることなど、出来はしなかった。

空になったグラスがシロの背に向けられると同時に、ポップアップトースターからきつね色に焼けた食パンが二枚、やたら元気良く飛び出した。





「シロ、やっと運命の人に出会えたわ!」

外から帰ってくるなり、顔を赤くして高らかに宣言するタマモをよそに、シロは皿を拭く手を休めないまま、些かげんなりとした風情で聞き返す。

「またでござるか? どうせまた、街を歩いていて、ちょっと道でも聞かれただけでござろう? あるいはお主がふらついてぶつかりでもしたか」

「今度こそ本当に本当だってば!」

興奮冷めやらぬタマモは、いかに劇的な出会いだったか、運命の出会いだったかを力説する。
話の半分も聞かないうちに、結末の見えたような気がしたシロは、黙って冷蔵庫から紙パックを取り出し、磨いたばかりのグラスに注ぐ。
よく冷えたアイスティーのおかげで、曇り一つないグラスの表面に、たちまちのうちに水滴が浮いた。

「きっと、あの人とは前世で再会を誓った間柄なのよ。絶対そうだわ」

そう言い切ったタマモはグラスを受け取ると、見事に一息で飲み干した。
小気味よい音を立てて置かれた空のグラスを見つめ、シロはぽつりと呟いた。

「その方がお主の前世で恋人同士だったとは、拙者にはとても思えぬのでござるが……」

あくまでも本人からの話、それも朧気な記憶を頼りにした想像でしかないのだが、当時の玉藻前の相手と今のタマモの相手が一致するはずがない、と確信を持って言える。
だが、当のタマモはシロの忠告に耳を傾けることなどせず、次に逢うときの事で頭が一杯だった。
シロはもうひとつ息を吐き、グラスを濯ぎ、テーブルの上を拭いた。





破局は意外に早く訪れた。

左目の下にきれいな青痣をつけて帰ってきたタマモの顔を見れば、何があったかはすぐにわかる。
つまりは、そういう相手と付き合っている女だった、というわけだ。
事の成り行きを手に取るように理解しながらも、シロはほっと安堵の息を漏らした。

「……ったく、どうしてお主はそう、相手を見る目がないのでござる?」

着替える気力もなく、ぐったりとソファに横になり、こちらに背を向けているタマモに話しかける。
今朝は一段と張りのあったはずのナインテールも、しょぼくれて頭を垂らしていた。

「まあ、お主にはそんな痣ぐらいはたいしたことないのでござろうが……」

顔は女の命、とは言っても、傾国の美女、金毛白面九尾と謳われた大妖の生まれ変わりであるタマモに、そんな傷の残るはずがない。
だが、目には見えなくとも、奥深いところには着実に小さな傷が溜まっているのだった。
それを知っていればこそ、小言とわかっていても言わずにはいられなかった。

「だいたい、彼氏のいるおなごを誘ってどうするのでござる? お主と同じようなおなごならともかく、話をややこしくするだけではござらぬか」

今頃は面倒な事態に陥っているであろう相手に同情しつつ、くどくどと説教を述べてはみるが、言っても詮無いこともまた十二分に承知しているシロだった。
結構な長さでの付き合いになるタマモだが、はじめからこうだったわけではない。
季節を巡り、年を経て、心揺れ動く多感な時期に入った頃は、あまりそんな素振りを見せようとはしなかったが、身近な異性に好意を抱いていたこともあった。
もっとも、それは仄かな愛情から大きく育つ前に終止符を打つこととなった。
これまた身近な存在だった女性との結婚、という出来事によってである。
もっとも、そのときは心より祝う気持ちに偽りはなかったし、己の淡い恋心に別れを告げることも出来ていた。

ところが、もう一人の女性の存在によって、道は違った方向へと進むこととなる。
残されたその女性がどんなつもりであったのか、ただの気まぐれか、はたまた自棄になったのかは最早知るすべもないが、その女性の誘いにタマモが応じてしまったのだ。
互いを慰め、憂さ晴らしに興じるうちに、知らぬうちに深い場所へ堕ちてくのに、そう長い時間を必要とはしなかった。

しかし、今はその女性はタマモの傍にいない。
ある日、突然に姿を見せなくなった女性に自分は捨てられたんだ、と思い込んだタマモは、殊更に肌のぬくもりを求め、花から花へと移り渡るようになった。
一連の真相を知るシロは、その女性が決してタマモを捨てたのではないことを知ってはいるが、それを知らしめることは絶対に出来なかった。
そのことが、今もなおシロを責め続ける。





悲痛な叫び声のように、電話が鳴り響いた。
最初の一拍で目を覚ましたシロが、意味もなく時計に目をやれば、まもなく丑三つの刻が終わりかけていた。
即座にその電話が誰からのものか理解したシロは、その事に怯え、わずかに起きるのを躊躇っていた。
しかし、容赦なく叫び続ける電話の音に、脅されるままに階下へと降りていくのだった。

「……もしもし」

『――シロ! お願い、助けて!』

受話器の奥で必死に助けを求めるタマモの声に、シロは堪えようのない吐き気に襲われた。

ここ数日のあいだ、タマモは家に帰ってこなかった。
同じようなことは前にも何度かあったし、そのことで別段心配する必要もない。
ただ、タマモの新たな出会いと、順調に育まれている恋の行方に、例えようのない不安を感じているのだった。

錯乱しかけていたタマモからなんとか聞き出したホテルを探し出し、人目に付かぬように注意を払いながら中へ入る。
比較的新しいシティホテルの上層階に昇り、音も立てずに部屋の中へと侵入する。
薄暗く照明を落とされたままの部屋には、予想通り、隅で怯えてうずくまっているタマモの姿と、裸のままベッドに横たわる見知らぬ女性の姿があった。

「――タマモ」

脱ぎ捨てられていたバスローブを肩に掛けてやりながら、そっと名前を呼んだ。
そのとき始めてシロに気づいたタマモは、せっかくのバスローブがずり落ちるのも気づかぬまま、シロにしがみ付いて泣きじゃくる。
何があった、とは聞くまでもなかった。





一時間ほどもかかっただろうか、ようやくに落ちついたタマモを先に帰らせてから、シロはあらためて女性の元へと近づいた。

「……ああ!」

やっぱり、という思いが言葉にならず、意味不明な音となって流れていく。
恐れていたとおり、全裸で横たわる見知らぬ女性の姿は、消し去ったあの女性の姿にとても良く似ていた。
終わってからずいぶんと経つというのに、濃密な情事の匂いが、なおも色濃く残っている。

しばらくの間、シロは立ちすくんだまま、身動き一つしない女性の姿を見つめていた。
女性は、とっくの前にすでに事切れている。
救いを求めるとするならば、女性の表情には苦しんだ様子は微塵もなく、絶頂のままに安らかに逝ったと思われることぐらいだろうか。

「――赦してくだされ」

やがて、覚悟を決めたシロは手を合わせ、そっと女性の身体の下に手を入れた。
人狼の身には苦ではないはずの人の重みが、ずしりと両の手に圧し掛かる。
そのままバスルームへと運び、静かにそっと横たえた。

一瞬、あの日のこと、初めて人に牙を立てた日のことが思い起こされ、あわててトイレに掛け込んだ。
涙と共に胃の中のものを全て吐き出したシロは、青い顔をして部屋に戻る。
ベッドの上に、吐瀉物に汚れた自分の服を脱ぎ散らかし、女性と同じく一糸纏わぬ姿になる。
シロの透き通る白い肌に、精霊石のペンダントが妖しい光りを放っていた。

今の季節は朝が早い。
ホテルの分厚いカーテンを開けるまでもなく、もうまもなく夜が明けるのが感じられた。
朝を迎えれば、精霊石なくして人の姿を保ってはいられない。
そして、これから行うことは人としての自分、人と共に生き、暮らし、ともすれば恋をする自分にはあるまじき所業。
狼として、恐るべき野獣としての所業に他ならない。

「――赦してくだされ」

もう一度だけ、誰に言うでもなく赦しを請うと、シロは首に掛けたペンダントを外し、己の内に在る獣を目覚めさせた。





昼と兼用になってしまった朝食の席で、タマモが心配そうに小声で問いかける。

「――ね、大丈夫だった?」

気乗りのしないサラダをフォークで突ついていたシロは、ほんの少しだけ反応が遅れたが、すぐに切り替えて言葉を返す。

「あ、ああ、大丈夫でござる。もう心配はいらないでござるよ」

「ホント!? よかったぁ〜〜」

いつも頼りになるシロに太鼓判を押され、タマモは喜びの声を上げた。

「でも、彼女のことはもう、あきらめなされ。これ以上はダメでござるよ」

「そ、そんなぁ……」

「あの御仁にとって、お主は刺激が強すぎたのでござろうな」

なおもタマモは残念そうな顔をしたが、やがてきっぱりとあきらめると言った。
困ったときにはいつもシロが助けてくれたし、いつだってシロは正しかったからだ。
すでに気持ちを切り替えたタマモは、打って変わって明るい表情となり、またも新しい恋を掴むことを宣言する。
同居人のあまりの早さにシロは呆れ、ほんの少し揶揄すると、タマモがちょっと拗ねて、やがて笑い出す。
二人の、いつも繰り返す朝がやってきたのだった。

「――ね、そういえばさ」

ちょっといたずらっぽい目をしたタマモが、サラダの奥から覗き込んできた。

「アンタはどうなの? しないの?」

「しないの、って何がでござる?」

「恋よ!」

フォークに刺さったプチトマトをマイクの様に突き出されて戸惑うシロだったが、少し目線を落として小さく笑った。


もう恋なんてしない、と彼女はいった。
見てしまった方、ゴメンなさい。

akiさんの「天井桟敷の人々」&「爽やかハートフルな話で」という要望に応えるべく、私の頭が作り出してしまったのがコチラです。
……我ながらどうしてかと不思議に思うんですけどね、実際のハナシ。

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