春の早朝は未だに冬の面影を残す。
まだ手のかじかむこの時間帯に、少女が窓を物憂げに見遣っていた。
吐いた息が、わずかに円状の霞を描いて消える。
その直後。日輪が、少女の黄の髪にスポットライトを当てた。
それを受けて、たわわに膨らんだ髪は金と間違わんばかりの光沢を放つ。
少女がもう一度息を吐く。
光の効果だろうか。先ほどより存在を主張する霞が現れ、そして消えた。
「溜息なんかついてどうしたんだ、タマモ?」
「!」
背後から、少年が淡い声を掛ける。
バンダナを巻いた頭をボサボサと掻き、半端な欠伸を一つ漏らしながら。
「んっと……なんだ、横島か」
「心配してやったというに、その返事はないだろう。ほらほら、お兄さんに話してみな」
タマモと呼ばれた少女は一瞬ピンと背を伸ばしたが、相手が分かると力を抜いた。
「んー、ちょっとね」
「なんだよ。だいたい物思いにふける、なんて柄じゃないだろうに」
失礼ね、と横に来た少年を肘で小突く。
「……昨日の除霊でなんかあったのか」
「そ」
味気ない返事が戻ってきた。
横島と呼ばれた少年が、天井を見上げ、昨日を思い起こす。
「え〜と、無理心中の奴か? それとも保育所と子供の霊か?」
「保育所のほうよ」
言われて、横島はまた記憶を遡る。
閉鎖された保育所が幼な子の霊を受け入れている、と言う話だった。
行けばその数は四十と六の大所帯。
誰一人として悪霊と化していないのは幸いだったが、このまま放置できない。
横島その他が霊をあやしている内に、護符を張り、結界を張り、最後は笛で眠りについてもらった。
横島は首を捻る。何か落ち込むようなことがあっただろうか。
問題らしき問題と言えば、雇い主が子供は嫌だと喚いていた位だが……タマモは関係あるまい。
「全く見当がつかん。てか俺らは幽霊とはいえ子供の世話をしてただけ、だよな」
「そうよ」
空気のような返事が流れた。横島は話を続ける。
「その道のプロから見ればわからん。が、少なくとも俺はミスなんざないと思うんだが」
「別に仕事を、とちった訳じゃないの」
「じゃなんでまた、ヘコんでるんだ」
はふ、と溜息がまた一つ漏れた。
それから僅かばかりの時間が流れたが、少女は重い口を開いた。
「自己紹介のときね、妖狐のタマモですって言ったのよ。そしたらね、妖怪の姉ちゃん、化け物の姉ちゃんって」
「子供の言った事だろ、気にする程か?」
「うん、でもまた今度妖狐って言ったら、妖怪を連想されるのかなって考えちゃってね。
もうちょっとオブラートな言い方……そうね。
うちの同居人みたいに、犬神族とかそういった別の呼び名があればいいのになぁ、と」
タマモはさらに何か言おうとしたが、言葉に詰まってただ唸った。
「てことはなんだ。妖狐、以外の名称が欲しいと」
「そうなるのかな」
「よ〜し、ならこのアイデアマンの忠ちゃんに任せなさい」
そう言いながら、己の左手で右の掌を殴った。小気味いい音が一発響く。
「アンタって、博識だったっけ?」
「勿の論よ!」
横島が大きく胸を張った。
タマモが目だけを横島の方に向ける。
「今日からお前はっ! キツネ女と名乗るがいい!」
タマモは大きく崩れて、肘が隣の物体に刺さった。
「何よそのセンスの欠片もない名前は!
しかも妖怪キツネ女とか違和感なさ過ぎるでしょうが!」
腹を抱えて痙攣する横島に、タマモが噛み付かんばかりに吼えた。
「わ、悪かった悪かった! だからって腹に肘鉄を入れるこたぁ……」
「何? 狐火がいい?」
「な、なんでもないッス!」
横島は脳内で、頭を抱えてしゃがみ込む自分を認識した。
まずい。安請け合いをした後に気づいたが、かなり難しいじゃねえか。
妖狐、狐、きつ……あかん。他にどんな言葉があるっちゅうねん。
しかし横島、ピンと閃く。
「そうか。日本っぽい名前がいけないんだ。外国語を使えば、妖怪っぽく聞こえないじゃねえか。
タマモ、お前って正式名称は……九尾の狐だったよな?」
「正式名称ってアンタ。まぁ、そう呼ばれる事もあるわ」
「九の尻尾の狐……うん、なんとかいけそうだ。
よしタマモ、今日からお前はっ! ナインシッポコーンと名乗るがいいっ!!」
ゲンコツ乱打、雨アラレ。
「百歩譲ってシッポは見なかった事にするわ。
だけどコーンて何よコーンって! 私はトウモロコシの新種かっ!」
「被ったか! ならばクォーンと」
「脳みそ百八十度ずれてるのかアンタわぁーっ! ああもう、期待した私が馬鹿だった!!」
つんざく声に、電信柱の雀が全部まとめて彼方へ逃げた。
「ま、待て! そこまで言われたらこちらにも意地がある。
一日だ! 一日だけ猶予をくれ! 必ずいい名前を見つけてやる!」
横島は一人でそう宣言すると、派手な音を立てて外へ駆け出していった。
「……何で名前考えるのに、いちいち外に飛び出していくのよ」
タマモの呟きは、心地よいはずの春の風にちょん切られた。
経つこと一時間。
「と、まぁこういうわけなんスけど。なんかいい知恵はないでしょうか」
横島の向かった先は質素な教会だった。
黒髪の中年男性と金髪の少年の間に入り、これまでの経緯を話している。
「うーん。外国の言葉を用いるのはいい考えだと思うんですけどねぇ。
ナインテール・フォックスかぁ。……私なんかは違和感ありませんよ」
「え」
横島がビクッっと反応する。
「どうかしたのかね?」
「あ、いや、ちょっとスペルを間違えていたみたいです、ははは」
乾いた笑いが堂内に響いた。
「横島さん、倒置して見たらどうでしょうか。フォックス・ナインテールとか、フォックス・ナインブラッシュとか」
「おお、それいただきっ!」
金髪の少年……ピートの会話から使えそうな単語を、横島はすかさずメモした。
「妖狐の伝説は中国にも存在しますから、そちらの言葉も検討してはは如何でしょうか。例えば……」
「おお、よくわからんがそれもいけそうだっ!」
横島が、がりがりとシャープペンシルを走らせる。
「おいおいピート君、流石に一度聞いてピンと来る名前じゃないとだめだよ。
しかし、その事も考慮すると語彙は非常に限られるね。いや、難しいよ。
どうするんだい、横島君……横島君?」
既に横島の姿は敷地内に残存しない。
「こんな感じでいろんな人に聞き回って来るッス!
神父、ピート! 本日はありがとうございました!!」
「お、おい、横島君!」
神父と呼ばれた男性の静止も及ばず。横島は土煙を上げて行ってしまった。
「先生、なんだか不吉な予感がするのですが」
「奇遇だねぇ。私も同じ感想を持ったところだよ」
二人は開いたままの扉の先を眺めて、溜息をついた。
そして来たる次の日。
「なんだって外に呼び出すんだ」
「んー?」
横島はタマモに引かれて、玄関横手の小スペースに運ばれた。
「場合によっては、無かった事にしようと思って♪」
喋る口調から、なんとなく肉食動物の風味がする。
横島は、聞かなかったことにしようと決めた。
「で、一日もかけて何してたのよアンタは」
「ん〜、いろいろとな。まったく、頭脳労働は骨が折れるぜ」
横島が頭脳労働!? 意外な答えに、聞いたほうが驚いた。
「へぇ。真面目に調べ物とかしてくれたんだ」
「おう!」
これは期待してもいいのだろうか。タマモの口の端に、僅かな笑みが零れる。
「で、何かいいのあった?」
「ふっふっふ。一晩かけて編み出したこの名前。聞いてもらうぞ!」
「へ、あみだした……ってアンタちょっと」
少女の言葉は強い口調に遮られた。
「今日からお前はっ! フォックショーン・タマモと名乗るが良い!」
「なんじゃそりゃあぁぁ!!」
勢いに任せて傍らの、親指ほどの太さの枝が二つに折れた。
「焼く? 焼いた後に埋めちゃうのがいいわよね、これは」
「ま、待て待て待て! ご立腹のようだが、ちゃんとこれには由来が!」
「どこをどう間違えたらこんな名前が湧いて出たのか、それだけは聞いてあげるわ」
煌々と照らす真紅の炎が横島の鼻っ面を焦がす。
「その、なんだ。昨日駆けずり回って、いろんな奴から名前を出してもらってだな! アンギャアアアア!!」
野生の第六感が何かを警告し、思わずタマモの手がぶれた。
「おっと失礼……で?」
「鼻が焦げたじゃねえか! ……す、すんません! 何でもナイッス!」
あげた抗議は未だに盛った狐火の、渦の中に溶けた。
「で、でだな、二十ほど集めたが、流石に全部は入りきらんことが判明してな。俺が監修して」
「やっぱりアンタの独断かぁぁ!」
炎を纏ったまま、タマモのグーが炸裂した。
追撃を入れる前に、横島が両手で静止を求める。
「い、いやいやしかしだな! まさか全部羅列するわけにもいかんだろう!
だからこう、覚えやすいようにコンパクトに」
「インパクトが強すぎて一発で覚えられるわよ! 私の存在全てを犠牲にして!
どの面下げてこんな呼び名で大衆の前に出ればいいのよ……はっ!」
気づいた。気づいてしまった。
この男が犯したであろう、とんでもない事実に。
「ねぇアンタ。名前を出してもらったって、言ったわよね」
「お、おぅ! 最初は神父のところに行って、その次は」
脈絡なく、手首ほどある枝が豪快に砕けた。横島の口が「あ」のまま固まる。
「どうやって聞き出したのか、それだけお聞かせ願えるかしら」
「そ、そそそりゃあ、最初から全部話してだな。わー待て待て待て!!
似合わねぇ! とかおセンチでござる! とか笑った奴もいたけど、一応名前は」
爆音と共に木そのものが、もげた。
「アンタ……よりにもよってっ……!」
「タマモ、さん。ひょっとして俺何かやっちゃいけないことを、アチチー! チチ!!」
炎が風に煽られターンして、横島の尻を焼いた。
熱にかなわずはたはたと払うが……それどころではなくなった。彼は固まった。
見た。いや、合ってしまった。無機質な両の瞳と、中心にある魂までも射抜くような眼と。
「燃やす。埋める。無かった事にする。
燃やすっ。埋めるっ! 無かった事にぃぃ!!」
「よ、よせ! 落ち着いて、落ち着いて話をっ!」
この日、断末魔を想像させる悲痛な叫びが、一部地域で受信された。
同時に、この春一番の夏日が観測されたと言うが、関連の程は定かでない。
それから三日後のこと。
「先生。郵便受けが手紙で埋め尽くされていますが、どうしましょうか」
教え子の凶悪な事実報告に、神父の頬を冷や汗がつたる。
私は何を慌てているのだ。水道やら光熱の滞納で、日常茶飯事の事態ではないか。
なのにどうして……どうして数日前の出来事が、頭から離れないのか。
「ピ、ピート君。中身は何が書いてあるのかね」
声が上ずっているのは、結末が見えたが故か。
「何ゆえに横島の初期消火を、放棄為されたのですか。
お祟り申す。お祟り申す。お祟り申す……と延々と朱の文字で」
「ひぃぃ神よっ! 私に弁解の余地を与えたまえっ!!」
哀れな被害者がココにもいたのであった。
おそまつ様ですっ!
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