春宵一刻値千金―――
花は香り、月はおぼろな春の夜の一時は、まことに趣が深く千金にも換えがたい。
横島の携帯に着信があったのは、そんな春の夜のことだった。
安アパートの一室でぼんやりとTVを眺めていた横島は、着信音をたてた携帯にその手を伸ばす。
ディスプレイに表示されていたのは、あと1時間ちょっとで日も変わろうとする時刻と見慣れぬ通話相手のナンバー。
若干嫌な予感がしたものの、春の夜風に誘われるように横島は通話ボタンを押した。
「あ、横島クンかい? 唐巣だけど」
喧噪と歌声が混ざった雑音の中、唐巣神父のすがるような声が響いた。
どこか呂律が回っていないその声に、横島は彼が付き合わされたアルコールの量を想像する。
昼間行われた冥子と政樹の結婚式。神父役を引き受けさせられた唐巣は、可哀想なことにずっと宴会に付き合う運命となっていた。
「なんか、騒がしいッスね。ひょっとしてまだ三次会ッスか?」
「ははは、ソレは今さっき終わってね。これから四次会のカラオケに突入するんだ」
「頑張って下さい。白組の健闘を祈ってます」
三次会につれていって貰えなかったことを拗ねているらしく、横島は素っ気なく会話を終わらせようとする。
冥子と政樹の披露宴二次会終了後、横島たち未成年組は先に帰宅する流れとなっていた。
彼が大人しくそれに従ったのは、主役である冥子が美神とエミを独占していたためと、三次会が冥子のごく親しい友人だけで行われたからだった。
「ちょ、待って! まだ用件を伝えて・・・・・・!!」
「なんスか? コッチは舞踏会に参加できないシンデレラの心境なんスから、楽しい近況報告だけなら勘弁して下さいよ」
心底慌てたような声に、横島は美神や冥子たちに振り回される唐巣の姿を想像し苦笑を浮かべていた。
「いや、主役の白雪姫はそろそろオネムの時間みたいだし、王子様も目覚めのキスは帰ってからしたいだろう。それに、僕も明日の晩からどうしても外せない出張があってね・・・・・・」
振り回された唐巣も相当飲まされたのだろう。
普段だったら言わない台詞に、横島は益々苦笑を深めた。
「で、そろそろお開きにしたいと?」
「ああ、だから美神クンを迎えに来て貰えないかな? こんな時間に悪いんだが・・・・・・その、かなり勢いがついちゃってね」
「あー、披露宴、二次会と、とばしてましたからね。普段はそんな事めったに無いんですが」
「冥子君が幸せになる嬉しさ半分、寂しさ半分って感じなんだろうね。爪研ぎ柱不在も・・・っと」
飲んだアルコールが口をすべらせたのか、唐巣は横島を呼びだす本意を覗かせそうになる。
慌てて口を噤んだのだが、爪研ぎ柱に彼の魂胆はしっかり伝わってしまった。
「んじゃ、カラオケ頑張って下さい。中森明菜とアン・ルイスとレベッカを全曲歌いきる頃には酔いも覚めるでしょうし」
「わーっ! 切らないで、例えが悪かった!!」
「遅いッスよ。なんでわざわざ引っ掻かれに行かなきゃならないんスか!? 第一、迎えに行くにしても足が無いですし」
彼に美神の輸送手段が無いことは唐巣も十分承知している。
だが彼は、それを考慮してもなお、横島が美神を連れ帰るのに一番適任と思っていた。
だからこそ唐巣はわざわざピートに連絡を取り、横島の携帯番号を聞き出している。
「神父ッ! ナニやってんのよ!」
遠くの方から美神の唐巣を呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら部屋が空いたらしい。
彼女が近寄ってこないうちに、唐巣は魔法の言葉を口にする。
「んー、カボチャの馬車に迎えに来る気がないのなら仕方ないな、シンデレラはバイパーで送ってもらうことにするか・・・・・・」
唐巣が呟いた西条の愛車。
その魔法の言葉は12時の鐘が鳴る前に、横島忠夫を指定されたカラオケボックスまで辿り着かせていた。
―――――― still crazy for you ――――――
「あ、横島クンじゃないか! 良くココが分かったね。ひょっとして美神クンを迎えに来たのかな?」
練馬で開業したら儲かったのではないかと思える程の演技力で、唐巣はカラオケボックスを覗き込んだ横島を見つけ中に招き入れる。
「はは、悪い虫が付くと脅迫する人がいるもんで」
美神の歌う中森明菜の1/2の神話に迎えられ、横島は部屋に充満する彼女の歌う歌詞そのものの空気を読み取っていた。
室内にはうつらうつらと船を漕ぐ冥子と、彼女にもたれかかられながらパラパラと曲本をめくる政樹、途中まで張り合っていたものの撃沈寸前のエミの姿があった。
―――いいかげんにしてー♪
美神の熱唱に「そりゃコッチの台詞ッス」と内心突っ込みつつも、横島は彼女の機嫌を損ねないようにパチパチと拍手を送る。
救世主を見るような唐巣の視線も悪い気はしなかった。
「という事だから、そろそろお開きに・・・・・・・・・」
プルルルルルル・・・・・・
唐巣がお開きを提案しかけた時、ちょうどバッチリのタイミングでフロントからの電話が入る。
どうやら唐巣は部屋を1時間しか押さえなかったらしい。
横島を呼んだタイミングといい、中々の策士ぶりだったが内線電話の位置までは計算外だったのだろう。
歌い終わったばかりの美神は近くで鳴ったソレに手を伸ばすと、青ざめた唐巣などお構いなしでフロントからの終了の知らせに応対する。
「はぁ? 1時間経ったぁ!? チッ、誰よ! んなしみったれたコースにしたのは、変更は出来るんでしょうね?」
案の定、時間無制限のオールナイトコースに突入の流れ。
次のリクエストが流れ始め、その曲を入れたエミはフラフラと立ち上がりモニター付近に歩み寄る。
しかし、彼女は歌い出そうとはせずに、ドアの入り口付近を指さし横島に話しかけた。
「落とし物よ・・・・・・大切なモノじゃないの?」
「え? マジッスか」
エミからの指摘にドアを振り返ると、横島は中腰になって床を見回す。
彼の背後ではフロントに時間の延長を申し込んでいる絶好調の美神。
狙い通りの一直線の位置取りに、エミはしてやったりとばかりの笑みを浮かべた。
「そうそう、時間無制限のコース。あと、育ち盛りが一名増えたから、ドリンクとなんか食べるもの・・・・・・キャッ」
美神の臀部に放たれたエミの前蹴りは、強かに彼女をよろけさせ横島の背中に着地させる。
突如背中に生じた温かで柔らかな重みに驚きつつも、横島は美神を転ばせないようにしっかりとおんぶの姿勢をとった。
「ナニすんのよエミッ!」
慌てて振り返り悪態をつこうとするも、何故か降りようとはしない美神。
相手をする気は更々無いとばかりにそっぽを向いたエミは、手に持ったマイクで冥子に話しかける。
「冥子ッ、令子がお帰りよ!」
「んにゃ?」
大音量で話しかけられ、うつらうつらしていた冥子がビクリと顔をもちあげた。
彼女は横島に背負われた美神の姿に花のような笑顔を向けると、政樹の手をとりヒラヒラと振りながらおやすみの挨拶を口にする。
「レーコちゃんおやすみ〜、今日はありがとね〜」
「お、おやすみなさい・・・」
幸せいっぱいの笑顔に毒気を抜かれたように、美神は右手に持ちっぱなしだったブランデーの瓶をヒラヒラと振り返す。
それなりにいい酒らしいが、その扱いは山の手のいいちこと形容するのが相応しい。
美神が呟いた別れの挨拶らしき言葉を耳にしたエミは、すばやく横島に撤収の指示をだした。
「という訳で横島はダッシュ! 戻って来ないように、落とすんじゃないわよ!」
「ういっス! 失礼します!!」
エミの仕切りに従い、横島は足早に出口を目指そうとする。
彼の進行を妨げまいと、唐巣は咄嗟に扉を開けた。
「コラッ! 横島ッ! アンタ、何であんな女の言うことを聞くのよッ!!」
「痛ッ! ビンはやめましょう、ビンは!!」
手に持ったブランデーの瓶でグリグリされ、横島はたまらず苦痛の声をあげる。
本気で殴らないのは美神なりの良心らしい。
「エミッ! 覚えてらっしゃい! それと、賭のこと忘れんじゃ無いわよッ!!」
捨て台詞にしか聞こえない別れの言葉を残し、美神と横島はカラオケボックスを後にする。
一番大量に飲んでいたにも関わらず、まだまだ勢いが衰えないその姿に、エミは軽く追い払うような手の動きを見せた。
「さて、令子は別として、先にゲストが帰らないとお開きに・・・・・・・・・って、本格的に寝ちゃいそうね」
後ろを振り返ったエミは、再びうつらうつらし始めた冥子に口元を緩める。
美神に付き合い、慣れない酒を飲んだ彼女は既に限界を迎えているらしい。
背中をさしだした政樹に甘えるようにおぶさると、冥子はそのまま夢の中へと入っていった。
「今日は本当にありがとうございました」
「おめでとう。末永くお幸せにね」
「後はやっておくから、今日はここでお別れなワケ」
スースーと寝息をたてた冥子の代わりに、政樹はぺこりと頭をさげてから部屋を後にした。
明日、新婚旅行に出発する二人を見送ってから、唐巣とエミは四次会の清算にとりかかる。
唐巣は美神が落としっ放しの内線電話を拾い上げると、メニュー物色中と勘違いしている店員に延長中止を伝えてから、受話器を壁のホルダーに戻した。
「ふぅ・・・何とか終了。小笠原君もお疲れさま」
心底疲れたような溜息を吐き出した唐巣はヤレヤレとばかりに椅子に腰掛け、既に飲み終わっているアイスティーの氷を一つだけ口に含む。
アルコールで鈍った頭が、冷たい氷によって幾分シャープさを取り戻し始めた。
「つられて飲み過ぎてしまった。明日は完全に二日酔いだな・・・・・・君も相当飲んでいたようだが?」
「嫌な予感がしてたから、明日は仕事を開けてあるワケ」
「はは、羨ましい。じゃあ、明日はゆっくりと寝られる訳だ」
「ええ、目覚めのキスも無いでしょうし・・・・・・」
唐巣に聞こえるか聞こえないかの呟き。
家族を持たないエミは、昼間の結婚式を見ながら言いようのない疎外感を感じてしまっている。
冥子の結婚を祝福する気持ちに嘘偽りは無い。しかし、誘われるまま最後まで祝いの席に付き合ったのは、別な理由によるところも大きい。
エミは疎外感を感じている自分を、美神と冥子には気付かれたく無かった。
「え? 今なんて?」
「何でも無いワケ! カボチャの馬車に喜んで乗るどっかのイケイケとは違うってコト!!」
素っ気なく答えフロントを目指すエミの姿に、唐巣は眼鏡を外すと目の疲れを癒すように目頭を押さえる。
彼の目にはほんの一瞬、彼女の姿がイバラの蔓に絡め取られているように見えていた。
クシュン
「風邪っスか? 美神さん」
春とはいえ、深夜になれば肌寒さを感じる。
己の背中でクシャミをした美神に、横島は小走りだった歩調を緩め、ゆっくりとした歩みに切り替える。
生じた慣性が彼の背中にささやかなご褒美をもたらした。
「違うわよ! エミのヤツが噂話でもしてるんでしょ・・・」
速度を緩めたが、美神は自分の背から降りようとはしない。
横島はあえてその件には触れず、先程美神がエミに言った賭のことを口にする。
彼も背中の温かさを自分から手放す気にはなれなかった。
「そーいえば、さっき賭がどうとか言ってましたね。何スか一体?」
「何でもないわ。単なる意地の張り合い・・・・・・ったく、千円なんて自信無さ過ぎよ」
後半の言葉はエミと自分、どちらに対して言ったものか?
売り言葉に買い言葉で成立した、冥子に続き結婚するのはどちらが先かという賭は、その賭け金にお互いの自信のなさを露呈させていた。
「アタシもエミも、家族ってものにどうしても身構えちゃうからね・・・・・・って、あーッ、辛気くさいッ! 折角冥子のめでたい日だってのに!」
意図せずこぼしてしまった僅かばかりの本音を、美神は慌てたように空騒ぎで誤魔化す。
自分から進んで楽しもうと、若干空回り気味の飲み方をしたのは確かだが、今、口がすべった原因は酔いばかりでは無かった。
「ところでアンタ、どこに向かってんのよ?」
「ん? 公園通りですけど。桜も綺麗だし、それに・・・・・・」
「却下! 全然飲み足りないんだから、もう一件行くわよっ!!」
美神は手綱を握るように横島のバンダナを引っ張る。
首をガクガクと揺すられ、横島は悲鳴のような声をあげた。
「ダーッ! 無茶言わんで下さい」
「ナニよ? 未成年だからなんてふざけたコト言うんじゃないでしょうね!」
「いくら何でも飲み過ぎッスよ! 明日、外せない仕事があるって言ってたのに、トラブったらどうするんスかっ!」
「そん時はアンタがフォローしてくれるんでしょ・・・・・・」
ポツリと溢れた美神の呟き。
その呟きに、横島は苦笑と似て非なる笑顔を浮かべた。
「・・・・・・ったく都合のいい時だけおだてたってダメっスよ!」
どこか上機嫌な横島の受け答えに、美神もその口元を緩める。
しかし、彼女は極力それを悟られないよう、彼のバンダナを公園通りの方へと向けた。
「じゃぁ、いいわよ。アタシにはコレがあるし・・・・・・花見酒と洒落込むとするわ!」
横島の耳元でチャポンと音を立てたのは、カラオケボックスから持ち出してしまったブランデー。
呆れたような笑みを浮かべてから、横島は公園の外周に沿うように植えられた桜並木を目指し進んでいく。
正に千金に値する春の夜の一時。
余計な言葉はいらなかった。
横島の背に揺られながら、自然に溢れ出す美神の鼻歌。
そのスローテンポなメロディに包まれながら、いつしか二人は桜並木に辿り着いていた。
見上げる夜空には、街灯に照らされた五分咲きの桜。
背中で彼女の体温と歌声を受け止めながら、横島は無言のままゆっくりとその下を歩いていく。
彼がポツリと美神に話しかけたのは、鼻歌の終わりを感じたからだった。
「いい曲っスね」
「さっきのカラオケで、神父が歌っていてね・・・・・・耳に残っちゃった」
「曲名はなんていうんスか?」
再びその曲を口ずさもうとした美神は、横島の問いに沈黙する。
背負っている横島は、彼女が頬を赤らめたことに気がつかない。
「忘れちゃった・・・・・・」
美神が漏らしたクスリとした笑いに首を傾げる横島。
しかし、美神が行ったささやかな隠し事は、植え込みの向こうから聞こえてきた空気の読めない声に明かされてしまう。
植え込みの影には人工幽霊の憑依したコブラが駐車していた。
『still crazy for you って曲ですよ。横島さん』
「げッ! 人工幽霊。アンタなんでココにッ!!」
『なんでって、横島さんが公園近くで待っていろと・・・・・・・・・』
心底驚いた様子の美神があげた素っ頓狂な声。
その声に含まれるお呼びでないというニュアンスは、折角迎えに来た彼の心を微かに凹ませていた。
「アパート出るときに、迎えに来いって連絡しといたんスよ。しかし、変な曲名っスね、クレイジー何とかって」
『はは・・・・・・そんな変でもないですよ』
一気に酔いが覚めたような美神の表情。
ささやかな悪戯を思いついた人工幽霊は、ネットの海を漂いその曲の試聴版を入手する。
『曲を聴けば分かるんじゃないですか・・・・・・』
カーラジオから流れ出した、先程鼻歌で歌ったメロディに美神は慌てたような顔をした。
「はッ、走れッ! 横島ッ!!」
「へ? 折角足が来たのに、何で走らにゃならんのですかッ!」
「うるさいッ! そこに道があるからよッ!!」
カーラジオからの曲を聴かせまいと、美神は彼の耳を押さえつけ強くバンダナを握りしめる。
右手に持ったブランデーの瓶が、彼のこめかみ付近にグリグリと押しつけられた。
「んな、無茶苦茶な。痛ッ、ビンはヤメてって!」
「四の五の言わず、今は走りなさいッ! いつかまた歌ってあげるから・・・行けッ! 横島ッ!! 」
美神が瓶で指し示した方向に堪らず走り出す横島。
そんな二人の姿に、人工幽霊はしてやったりとばかりの調子良さで語りかける。
その声が既に遠く離れた二人に届くとは彼自身思っていない。
彼が口にしたのはある種の決め台詞だった。
『お呼びでない? お呼びでないですね。オーナー・・・・・・・・・コリャまた失礼いたしましたっと!』
彼は自分でつけたオチに満足すると、派手なエンジン音を立てながら独り事務所に帰ることにした。
二人とは正反対の方向にターンを決めると、彼はいつにないハイスピードで走り出す。
不思議なほどいい気分だった。
『still crazy for you・・・・・・あなたに夢中ってところでしょうか? 横島さん、いつか聞かせてもらえるといいですね』
彼が最後に漏らした呟きは、誰の耳にも届かないまま桜咲く夜空へと消えていく。
どこまでも意地っ張りなオーナーは、今すぐに聞かせるつもりはないらしい。
今はそれで十分だと人工幽霊は思っていた。
―――――― still crazy for you ――――――
終
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