あっという間に、一月ほどの時間が流れた。
年をとると時間がたつのが早く感じるというが、そういうのとはまた別の感覚であったのは間違いない。
時間の密度が、全然違うのだ。今までは時間と言う箱の中に壊れてしまいそうなほどの出来事が詰まっていたはずなのに、それがいつの間にか殆ど空っぽになっていたのだ。
寂しいとか悲しいとかいうより、愕然とした。
ああ、そうか。俺とあいつは、比翼の鳥だったのだ。
一人一人では飛び立つことも叶わないのだ、そんな思いにとらわれた俺は、ただただ地を歩きながら、悲しみ、思い悩む日々を過ごしていた
そんなある日。
珍しい人から電話が掛かってきた。
電話の主は、強いウェーブのかかった長い黒髪の似合う褐色の美女である。
これが男からの電話だったら、間違いなく一秒かからず切っていただろう。
たとえ古い仲間であったとしても今は、話なんぞはしたくなかった。
仕事復帰の件であったり、無用な慰めであったりしたらなおさらのこと。
だが、絶世の美女からのお電話となると話は別だった。我ながらばかばかしい限りとは思うが、それでこその俺なのかもしれないと思う。
電話の内容は、少なからず俺を驚かせた。
二人きりで飲みに行かないか、と言うのだ。
以前の俺ならば、たとえ令子に半殺しの目に合わされると分かっていたとしても二つ返事で誘いを受けただろうが、この時の俺は、ちょっと飲みに出かけることすら億劫で、もったいないと思いつつも断ろうかと思っていた。
しかし、令子と同じぐらい古い付き合いの彼女の誘いを断りきることはできず、結局面倒くさいと思いながらも出かけることにしたのだ。
「額の傷、どうしたわけ?この前は気がつかなかったけど」
「いやぁ、令子に最後に殴られた時出来た傷なんすけどね」
エミさんの問いに、俺は薄笑いを浮かべつつ、額に出来た五センチほどの傷をそっとなでる。
都内でも最高級に属するホテルの最上階にある、スカイバー。
シックなデザインの店内に、客はちらほら。
ゆったりと流れる生演奏のジャズピアノは、決して会話を邪魔するものではなく、それでいてささくれ立った心を少しは和ませてくれる。
昔はこういうアダルトな雰囲気にはなかなか馴染めなかったものだが、今になってみるとこういう落ち着いたところで飲むのもたまにはいいうと思う。
「最後の最後まで、そんなバカなことしてたワケね」
額に出来た傷は、一月たっても消えることはなかった。
まるで令子の思いがそのまま傷として残っているようなそんな感じすら覚えている。
隠す気になれば十分隠せるんだが、俺はそれを良しとしなかった。
衰えを知らない美貌に苦笑を貼り付けながらも、グラスを傾けるエミさん。
琥珀色の液体が一気にのどの奥へと流し込まれていく。
ウイスキーのオン・ザ・ロック。
ほとんど氷も解けないうちに飲んでるから、殆どストレートと変わらないようなそれを、30分あまりで既に五杯は飲んている。
もうほとんど、自棄酒にといっていいほどの飲り方だ。
「飲りすぎっすよ、エミさん」
そんな姿を見せつけられたら俺じゃなくても心配になるに違いない。
「ふん、これぐらいどうってことないわけ。ま、あのバカ女みたいにはいかないけど」
俺の忠告を、エミさんは鼻で笑い飛ばして、お変わりを注文する。
少しばかり寂しげな、横顔。
体全体にうっすらと影のベールを纏っているような雰囲気。昔みたいにボディコンを身に着けることはなくなったが、フォーマルスーツでも十二分な色香があった。
ほんと目に毒なぐらいにな。
女連れの男ですら、時折エミさんの顔を遠巻きに覗き込んだりする。
普段のエミさんならそんな視線すら寄せ付けないほどの存在感があるのだが、今は大分、その存在感と言うか、威圧感と言うかが、揺らいでいた。
その分、男をひきつける色香がはっきりと感じられるのだ。
しかしこれだけ綺麗な人なのにまだ独身だってんだから、世の中間違っている気もするな。
散々エミさんに迫られていたピートのバカは結局、最後の最後まで結婚を拒んで、挙句の果てにはイギリスのオカルトGメンへ逃げるように転勤しちまった。
何で断ったんだかしらねぇけど、馬鹿なやつだよな、ほんと。
「ウワバミでしたからねぇ、令子は」
エミさんに釣られるように、俺もワインをあおる。
98年物のロゼ。
おれとしてはちょっとばかり奮発しちまったわけだが、一本うん十万の最高級スパークリングワインをものすげー勢いで空けてたあいつに言わせりゃ、所詮安酒だ。
そんなものばかり飲んで何時までも庶民感覚が抜けないのね、なんて、笑われていたことだろう。
「こんなときまで、あいつのことばっかりか。らしくねぇな」
とはいえけっこういいワインのはずなのに、いくら飲んでも水みたいな味しかしなかった。
酔った気もしない。しらふも同然ってほど、頭が冴えきっている。
いっそ泥酔しちまった方が気が楽なんだろうが、なかなか許しちゃもらえない。
「確かにらしくないわけ。昔のアンタならこんな良い女が目の前に居たらほっとかなかったでしょ? なんせ、結婚式の当日にでさえ口説いてきたものね、アンタ」
「口説いてきたって、ありゃ社交辞令みたいなもんでしょうが」
あの時は、エミさんも冥子ちゃんもかなり気合いの入ったドレス着てきててたもんだから、つい反射的に『どうです、この後二人きりでドライブでも』って言っちまって……次の瞬間純白の衣装が真っ赤になってな。
何があったかは……言うだけ野暮ってもんだろ?
シロのバカが、『紅白になっておめでたいでござる』、って言って、みんな大爆笑して、直後頭を抱えてうずくまって。
多分、俺らの未来を想像してしまったんだろうな。血まみれの薔薇の牢獄ってやつを。
少なくとも、ネタには苦労しない式だったのは確かだ。
俺がいて、令子がいて。久方ぶりに事務所のメンツがそろってのドンちゃん騒ぎ。
さしもの唐巣神父も顔を真っ青にしてたな。
あまりに哀れだったもので思わず式の後、発毛促進剤を送っちまったよ。
十年来のダチどもが雁首そろってやがった様は、令子のご友人席に比べてえらくむさ苦しかった。高校ん時からのダチどもはライスシャワーの代わりにパチンコ玉ぶんなげてきやがったんだ、横島の癖に生意気だって。
そのせいで、新郎新婦の初の共同作業が、新郎ご友人一同のタコ殴り大会になっちまった。
なにせ力加減をあやまって新婦にまでパチンコ玉浴びせちまったんだもの、そりゃ怒るわな。
まぁ……少なくともあれで身内の恥は掻き尽くしたとおもう。
二度と挙式なんかしねーって心に誓ったよ。
「でも、今日のエミさんも、あの時と同じぐらい綺麗だ」
俺は、ゆっくりと席を立ち、エミさんの隣へ座りなおす。
「……おたくぐらい頭と下半身がはっきり別れてる奴も珍しいワケ、ほんと」
エミさんは腰を半分ひいてはいたが、それだけだった。
彼女も寂しいのだろうか。
俺も彼女も、令子がいなくなったことによって心のどこかにぽっかりと穴が開いちまってるらしい。
特にエミさんは仕事柄か性格かは知らないけど、友達少ないからな……。
友人、なんて呼べる相手となるとそれこそ、令子と冥子ちゃんぐらいしかいないんじゃなかろうかって思う。
けっこう付き合いの長いタイガーの奴ですら、どこまでいっても奴隷、もとい弟子だった。
高校出て試験受かって独立決めるまでの4年間もさることながら、完全に独立した後もあいつはエミさんを弟子時代と同じように敬い立てていたからな。
フランクな話なんか殆ど出来ないんじゃないかな、今でも。あいつの嫁さんも似たり寄ったりだしな。
「結婚してもこの性格だけはどーしても直らなかったんですよ。で、どうですこのあと」
「その手、肩に置いたら殺すわけ」
ほんの出来心でそろそろと手を伸ばした俺に、必殺のガンを飛ばすエミさん。
その鋭さは令子と比較してもなんら遜色ない。
巨象をも一発でひるませるほどの眼力…なんていっちゃ失礼か。
「……冗談に聞こえないな、貴方が言うと」
「冗談は嫌いなわけ。呪い屋としての重みがなくなるからね」
「そう自分を卑下することもないんじゃないっすか、呪い屋、なんて」
「純然たる事実なわけ。私はGSである前に呪術師なのよ。たとえ悪事をやってる訳じゃなくとも、ね」
「はぁ、さいですか」
その後はしばらく、黙って酒をあおっていた。
一杯、二杯、三杯、四杯と、すきっ腹に流し込む。
あっという間にボトルの中身が空になっちまい、思わず苦笑いを浮かべる。人のこといえねぇよなぁ。
もう一本頼むかどうしようかってところで、俺はふと自分の頭を押さえる。
ちょっとした下心、もとい、いたずら心ってやつがむくむくと頭をもたげてきたのだ。
「つうぅぅ、ちと無茶しすぎたか……」
「どーしたわけ?」
エミさんが、グラスをあおる手を止めて、怪訝な顔をして俺をみる。
頭が痛い。勝ち割られる様にいたい、むしろかち割られている……
「いつつつつ……ちょっと頭痛が」
と、俺は必死で自己暗示をかけていた。
迫真の演技を引き出すためには必要なことなのだ。
「んぬうぅ」
ゆっくりと、カウンターにうつぶせになる。落ちそうになったワイングラスを、マスターがひょいっと避けた。
「ちょ、ちょっと、横島?」
「むううう……ぐああああ、やめろ!」
「はぁ?」
「やめろ令子ぉ!」
「はぁぁぁ?」
俺の発した固有名詞にエミさんは、半ば驚き、半ばあきれたような、複雑な顔をしている。
人間予想外の言葉を耳にすると、軽いパニックになるものだ。
超一流GSといえども。
仕事中でないうえにかなりのアルコールが入っているとなると、困惑の度合いはさらに深まる。
「ちょっと、アンタなにいってるのよ。いい加減にするわけ」
「いや違うんだっ、令子のやつが!令子の奴があの世から呪いを……くあっ! 」
われながら、ばかばかしい限りだとは思う。
しらふのつもりでも、実は相当酔いがまわっているのかもしれない。
ナンパ、もとい悪戯としてはいささか、というか、かなりたちが悪いのは百も承知している。
もしかしたらこんなときにまで、無意識のうちに令子の影を追っているのかも、と考えつつも、くだらない演技はやめない。
せっかくつかんだこのチャンスを逃すほど、俺は人間できてなかった。
令子が生きてたら殺されてたな、マジで。
「あの世から呪いってアンタ、そんなことあるわけ…けどこの痛がりよう嘘とは思えないし……救急車でも呼んだほうがいいかしら」
言っていることはともかく、俺の様子が尋常ではないとは思ってくれたらしい。
少しあわてるエミさん、凛とした彼女も素敵だが、こういう姿もなかなかかわいらしい。
「だ、大丈夫、少し休めば何とかするから、い、医者は。……それより、エミさん。悪いんすけどこの直ぐ下の階に部屋とってあるんで、そこまで…」
「連れて行けって?冗談じゃないわけ。ていうかなんで部屋とってあるわけ?」
「い、いや、今日はめい一杯飲むつもりだったんで……それに家のほうは、ちょっと」
「まぁ、気持ちは分かるけどね。バーテンさん、悪いけど直ぐにフロント呼んでくれる?こいつを部屋まで運んでやってほしいわけ」
「お客様、申し訳ありませんがちょうど休憩時間にはいておりまして、直ぐと言うわけには…」
エミさんに話し掛けられたバーテンは、渋面を浮かべつつ、断りを入れてきた。
「マジ?サービス悪いわねこのホテル。良くそんなのでやっていけるわね?」
明らかに色をなすエミさん、確かに普通は怒るパターンではあるが…、俺としたらありがたい限りです。
「大変申し訳ありません。あと15分、いや10分もすれば代わりのものが準備できますので……」
マスター…さすがいい仕事してくれるぜ。OK、後でチップ弾むからな。
エミさんに見えないようにサムズアップすると、マスターもウインクして応える。
ふっふっふ、このバーテンダーけっこう前から知り合いでなー。今までも似たような状況で何度か世話になってるのだ。
「それじゃ、しょうがないな。このまま大人しくしていれば痛みもそのうち引いてくると思うから……余計な気を使わせてすまない、エミさん」
当然この台詞は限界ぎりぎりを装って言う。ぬかりはない。
「まあ良いわ、このままほうっておくのもなんか寝覚め悪いし、部屋まで送ってあげるわけ。ただし、余計なことしたら呪い殺すわけ」
「まさか、そんなことできるわけないですよ……だた、今なら呪い殺されても良いか、なんて思いますけどね。貴方の手ならなお更」
「バカいってるんじゃないわけ…ほら、立てる?」
エミさんは、おそらくこいつも令子が死んで気弱になってるわけ、とか思ってたりするはずだ。
ほのかに染み入る同情心も、またアクセント。
ああ、俺って外道過ぎる……。
「ええ何とか…」
「……やれやれ、ゴキブリ並みの生命力、なんていわれてたあんたが、情けない限りなわけ」
私は横島に肩を貸してやりながら、心の中で深い、ふかーいため息を漏らした。
バカだわ、こいつ。
正直なところ、横島の正気を疑ったわけ。まさか死んだ嫁さんまで持ち出すとは……。
それとも間抜けなところを見せて母性本能でもくすぐろうって言うのかしら?
だとしたらなおさら馬鹿で間抜けすぎるわけ。
冗談はともかくとして。
バカを演じてるつもりなのか、それともやっぱりこういう奴なのか、そんなことは関係ないこと。
問題は、馬鹿やってるときですら、何か抜けてしまったような顔をしていることなわけ。
やる気というか、希望と言うか、生きていこうとする気迫そのものが抜けちゃってるのよね。
頭からつま先まで能天気でバカで明け透けでどスケベだったこいつを知っている分、見ていて痛々しいったらない。
でもこんなむちゃくちゃな奴が婚約から結婚にいたる一年半あまりで二桁近く浮気した男だって言うんだから、世の中なんか間違ってるわけ。
そういえばこいつの親父もすごかったわよね…二人の披露宴の時、奥さんの目を盗んでちゃっかり給仕の子落としてたし。
そのあと奥さんが殆ど物音すらたてず、ものの二、三秒で瞬殺したのを見たときは、流石の私もおっかなかったけどね。あの人霊力考慮しなければ私より数枚上手かも知れないわけ。
世の中って、けっこう広いって思い知ったわ。
それにしても重いわけ。
もうちょいしゃんとしろ、っていってやりたいけど、とりあえずもう少し我慢するか……。
ちぃっ!
このバカ、どさくさに紛れて余計なところに手を回してきたわけっ。
「いでっ!」
「あ、ごめん?大丈夫なわけ?」
「だ、大丈夫っすよ、何とか」
いらっとした私は、わざとふらついて、横島の頭を廊下の壁に叩きつけてやった。
あははは、今度はマジで痛がってるわけ。
ったく、怨むわよ、令子。私にこんなくだらない役回り押し付けるなんて。
最上階の直ぐ下の階。
夜景が最高だってのがもっぱらの評判である最高級スイートの一室を予約してある。
自分でスイートルームをとるなんて半年前までは考えられもしなかった。
仕事でもプライヴェートでも宿泊先は殆ど令子に管理されてたからな。
あいついわく、俺はおっちょこちょいだから放って置くとホテルの予約とか忘れるかもしれないしっ、てことだったが、実際のところは浮気防止の計略の一環だったのだろう。
チェックインとチェックアウトの時間も一秒たがわず知ってたし、女の子を連れ込んだことなんかも筒抜けだったし…。
ま、俺が悪いことは百も承知だし、そこまで思われてるんだと思えば、案外と諦めも……つくようだったらはなっから浮気しないわな。
「ほら部屋に着いたわけ……ほら鍵ぐらいは自分であけなさいよ」
いろいろと思い出してるうちに、部屋についていた。
「は、はぁ」
エミさんに促されて、俺は懐からカードキーを取り出す…、が、わざともたついて、軽くひざの力を抜く。
「おっと。本当に大丈夫なわけ? ほらキー貸して……まったく、何でこんな奴の世話やかなきゃいけないわけ」
でぃもーると。
エミさんは俺をあわてて抱えなおしてドアの向かい側の壁にもたれさせてくれる。
意外と世話焼きなエミさんの性格からして、後はこのままベッドまで運んでくれるはずだ。
部屋の中にさえ連れ込めれば後は情に訴えつつなし崩し的に……。くっくっく。
許せ令子。
お前のこと思う気持ちは変わらん。
決して変わらないが、それはそれこれはこれと言う奴なのだ。
あのエミさんとねんごろになるチャンスなんて今度二度と訪れやしないのだ。
分かってくれ令子。
そしてエミさんは、カードリーダにキーを通して、ドアを開けると、ひょいひょいと部屋の中へ。
どうしたんだろうか。
俺は、あまりに自然に部屋に入っていったことをちょっと不思議に思い、部屋の中を覗き込んでみた。
するとエミさんが頬を引きつらせつつ部屋から飛び出してきた。
『さぁて、忠夫。どういうことか説明してもらえるかしら?』
反射的にエミさんを引き寄せ俺がドアを閉めた。頭が痛い演技をしていたことなんて、一瞬のうちに吹っ飛んじまっていた。
「……見た?」
「……見ちまった」
深呼吸。
すーはーすーはー。
よし。少しは落ち着いた気がしなくもないと思いたい。
今度はゆっくりとドアを開ける。
直後、今度はすさまじい霊力の流れが巻き起こり、反射的に顔を庇った。
その、顔を庇い司会が狭まるのと同時に、椅子が吹っ飛んでくる。
さすがは令子、って感心してる場合じゃない。
ポルターガイストなんてレベルじゃないぞこりゃ。
相当怒ってる。当たり前のことだけれども。
「危ない!」
俺は咄嗟にエミさんをかばい、廊下に押し倒す。
壁に叩きつけられた椅子は見事に木っ端微塵になって、廊下に散らばった。
結果的に俺に組しかれる形になったエミさんの顔が、わずかに朱い。
意外とうぶなひとやな〜、あったかいしやわらかいし。
『ふうぅぅぅん、まさかとは思ったけどやっぱりそういう関係だったわけね?』
そこで、怒りに震える声に向け、顔を捻る。
ゆらゆらと人魂を漂わせ、春雷のごとき霊気を発している令子の姿。
い、いやぁ、会いたかったよ、うん、確かにあいたいと願ったよ。
だけどいくらなんでもこんなときに現れるか普通?
もうちょっと時と場合ってものを考えて出てきてくれたってよくねぇ?
「れ、令子、これはその」
俺はあわててエミさんから離れて、令子のほうへと向き直り、
「何よ令子、これからお楽しみだってのに邪魔するつもりなわけ?ねぇ、忠夫」
ほとんど反射的に言い訳をしようと口を動かしたのだが、あろうことかエミさんがその俺の顔を胸に掻き抱く。
「あ、あーたなんばしよっとかっ!」
ふんわり暖かい双丘にいささか興奮を覚えつつ、非難する俺。
ああ、こんな時じゃなきゃあなぁもう。
「なによ、オタクだって最初からそのつもりだったんでしょう? この私をたばかろうなんて一億年早いわけ」
エミさんは物凄くうれしそうにニヤニヤと笑いつつ仰る。
まるでこうなることを予測していたかのような意地の悪い顔。
心からこの状況を楽しんでいるようにしか見えない。
「いいから放してくださいって!勘弁してくれ〜」
『この宿六がぁ!私の四十九日も終わらないうちにいきなりよその女、しかもよりにもよってエミを口説くなんて…こんくされ外道がぁ!!』
令子の右手には神通棍、生前のイメージそのままに。もはや魂にまで愛用の武器のイメージが染み付いているらしい。
「れ、れ、れ、れいこっ、落ち着け、これは誤解だ、誤解なんだぁ!!」
俺はみっともないと思いながらも、エミさんを押しはがし、じりじりと後退る。
「問答は無用でしょ?こうなったら」
エミさんも流石にプロ、体よく安全圏へと逃れつつ、俺の背中を蹴飛ばし、令子のほうへ押し出してくれた。
「おにかあんたわ!」
『いいからさっさと地獄へいってこーい!!!』
「ほんぎゃぁぁぁぁぁあ!」
フルスイングだった。手加減なんて微塵もなしだ。
生前と変わらない、脳みそ飛び出るぐらいのすさまじい一撃をくらって、俺の意識は一瞬で刈り取られてしまった。
はぁ、死んだかな、いや、この程度じゃ死ねないか……。
「良かったわけ、これで?どうせだったらじっくり話したほうが良かったんじゃない?」
私は、燭台をテーブルの上におき、向かいの椅子に座ると、令子に語り掛ける。
奇跡のご対面も種を明かせば簡単そのもの。召霊術用の蝋燭ってわけ。
生前の令子に、もし死んだときは間を見て一度呼び出してほしいって、それとなく頼まれてたわけなのよ。
敵だった令子の頼みごとなんて聞いてやるつもりなかったけどね、最後の頼みぐらいは聞いてやってもいいかな、なんて思ったわけ。
べ、別に私が会いたかった、ってわけじゃないのよ、そこんところは誤解しないでほしいわけ。
令子がくたばって、ほんとに清々してるわけ。嘘じゃないわけ、……多分ね。
でも、ほんとにバカな女。
せっかくの貴重な時間をこんなことに費やすなんて。
「根回ししてやったこっちの身にもなってほしいわけ」
『アンタが余計な真似したからでしょうがっ!……でも、いいわ、こっちのほうが私らしいでしょ』
かえるのように伸びている馬鹿旦那を優しい微笑で見下ろす令子。
本当によかったわけ、令子?
口を付いて出そうになった言葉を飲み込む。
これは令子が決めたこと、協力すると決めた以上、余計なことは言わない、と決めていた。
「確かにそうね。ドツキ漫才してた方がオタクららしいわ。で、どうなの、死んだ感想は?」
われながら、妙なことを聞いたわけ。
普通もっといろいろ話したいことがあるだろうにね。
『未練なんか残らない、なんて思ってたけどね、正直ちょっとキツイ、かな』
「そりゃそうなわけ。新婚半年足らずであの世逝き、なんて、普通じゃなかなかありえないわよ」
『……そのことはまだいいのよ。少なくとも自分の気持ちはちゃんと伝えられたって自信はあるから、それに関しちゃ後悔はないの……けどさ、けど、あいつを一人にしちゃうのが、つらいのよね。ほんと辛いのよ、エミぃ』
淡々と喋りながら、今にも泣き崩れそうになる令子から少しだけ顔をそらした。こっちも釣られちゃいそうだったから。
けど、生きてる時はこんな顔絶対しなかったわね、少なくとも私の前では。
「そんなこといって、ほんとはあいつに甘えられないのが辛いんでしょ」
そんな令子に私はちゃちゃを入れた。
湿っぽくなりそうになる自分をうまくコントロールしながら。
「どーせ、うちにいる時なんかは恥ずかしいぐらい甘えまくってたんでしょ?甘えん坊のオタクのことだから」
湿っぽいのは、似合わないものね、私たちには。
『悪い?』
こぼれかけた涙をグイッとぬぐって、令子。少し自慢げに、それでいて悲しげに。
「のろけんじゃないわよ。ただ、相手があんな煩悩の権化みたいな奴だったわりに、うまくいってなんだなあってね。そういう意味じゃ、オタクも横島も結構幸せだったわけ。たとえ短い結婚生活だったとしても、ね」
『あんたに言われると痒いわよ、そういうこと。けど、ありがと。すこし、気が楽になったわ』
「それはよかったわ。オタクみたいなのに下手に未練もたれて悪霊になんかなられたらやり辛くってしょうがないわけ」
結局、憎まれ口ばっかりになるわね、令子と話してると。
ずっとそうだったわけ。ただ、この女は……少なくともずっと同じでいてくれた。
私の過去…殺し屋だったって事を知った後でも。
それだけは、礼を言わなくちゃいけないのかもしれないけど、今更なわけ。
『ところでアンタ、相変わらず一人身だったわよね?』
ここで令子が急に話題を変えてきた。来たな、って思った。
「人のお古は着ないわよ。ましてやオタクのお古なんてごめんだからね」
私はみなまで言わせず、切って捨てる。
自分が死んだとき、横島が一人っきりになるんじゃなっかって、それだけが心配なんだって漏らしていた。
私にまでそんな話をするぐらいだから、よほど切羽詰っていたのだろう。
せめて子供ぐらい残してあげられたらって、母親の美智恵さんに漏らしていたことも聞いた。
そこで転がっているバカの心にある傷は、多分この世の中で数えるほどしか経験したことがないだろう程、深い傷なわけ。
およそ、余人では耐え切れないほどの傷だってのは、私も良く知ってる。
関係者の一人だからね、一応。
今まではそれを令子がなだめすかして、時には脅しつけ、甘えさせながらうまくカバーしてきたのだ。
本人のあけすけで能天気な性格も幸いしてか、今までは何とかなってきたけれども。
令子は、その自分が死んでいなくなることで、傷をカバーするどころかさらに抉り返してしまうことが、耐えられなかったのかもしれない。
世界が滅んでも自分だけは生き残るって豪語してた女だもの。まさか自分のほうが先に逝く羽目になるなんて、予想だにしてなかったのだろうし。
けれど、いくら令子の頼みでも私じゃ、令子の代わりにはなれないし、なりたいとも思わない。
ほかの子たちもそう。令子の変わりにはなれない。
あの事務所の中で、横島忠夫に選んでもらえた美神令子の代わりにはなれない。
なれないからこそ、横島から離れていったわけ。
いずれは、何とかなるかもしれないけど、今はお互い辛いだけ。傷つけあうだけなワケ。
『な、なに勘違いしてるのよ。そうじゃなくってさ、負け犬女も哀れだなぁって思ってね。ピートの奴にも振られたし』
令子は、一瞬残念そうな顔をしたけれど、直ぐにいつもの調子に戻った。
「余計なお世話よ。けどね、私みたいなのもらってくれる男なんてそうそう現われやしないわけ。あんたが言うとおり、所詮は呪い屋、汚れ仕事に手を染めてる女だからね」
『だったら呪い屋なんてやめればいいじゃないの?』
「なんていわれても私にはこれしかないのよ、これしかね」
蝋燭はもう半ば以上融けていた。
残り数分で、令子の魂は再びヴァルハラへと帰っていくことになるのだと思うと、感慨深い……いや、ちょっとだけ、ちょっとだけ胸が痛いわけ。
たぶん。
令子のこと嫌いだったけど、嫌いじゃなかったから。
死んだ振りをしながら俺は、ずっと令子の姿を眺めていた。
相変わらずいい女だ。
手品の種も、ばれてしまえばたわいもない。
奇跡や偶然なんぞは、そうそうあるわけがないってことぐらい分かっていたはずなのに、どこかでその奇跡って奴にすがっていたのだといまさら気付かされる。
だけれども俺は、たった一つだけ、他の人には許されない奇跡の道具を持っている。
分不相応な、中途半端な奇跡の素を、だ。
右手に持つのは、二つの文珠だ。
こめる文字は『実』『体』の二文字。
効果は、おそらく数分と持たない。
召霊の蝋燭で、一時的に魂を霊界から呼び出しているだけだからな。
本当にこんなことしていいのか、と言う疑問が、頭をよぎる。
そこで令子と、目が合った。令子は少し寂しげに、それでもはっきりと頷いてくれた。
だからおれも頷き返し、文珠を発動した。
二つの文珠から放たれた淡い輝きが、令子の体をふわりと包みこむ。
炎のように揺らいでいた輪郭が、実体のようにはっきりとして来る。
エミさんは優しく微笑むと、そっと席をはずしてくれた。
「ごゆっくり。心配しなくても聞き耳なんか立てないわけ」
『ほんと、何でもありなんだから』
令子は、おそらく久しぶりに感じた実体感に吃驚しているのだろう。目をぱちくりさせた。
ちょっと実年齢より若いころをイメージしちまったのは、まあ、スケベ心のなせる業か。
いや違う。これは初めて出会った時の令子の姿だ。
思い出したよ、あの馬鹿馬鹿しい出会いからすべては始まったんだ。
「すまない、令子」
令子は、俺の言葉に、ゆっくりと首を横に振り、両手を俺の首に回す。
俺は令子の髪に顔をうずめる様にしながらきつく抱きしめた。
確かに感じる彼女の暖かさ。胸の膨らみも、甘いかおりも、優しい息遣いすらも感じる。
「すまない」
『ばーか。台詞が違うでしょ』
耳元でささやく令子。そうだな、俺が間違ってる。
「愛してる」
『うん』
「愛してるよ、令子」
『だったら、浮気なんかしないでよ?』
「すまんそれは無理」
『この宿六がっ……こんなときまで馬鹿正直に言うなっ』
「ごめん」
『また謝った。謝んないで。私も謝んない。謝んないから』
「うん」
『愛してるわ、バカでスケベでいい加減で、根性なしであけすけで…』
「悪口ばっかりかよ」
『でも、ここ一番じゃ頼りになった横島君を』
生きてるうちじゃ絶対聞けなかった台詞だろうな、こんなの。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ得した気分だった。
「俺も愛してる。わがままで傲慢で高飛車で守銭奴だったけど、……だれよりも輝いてた令子を」
『心にもないことを。ほんとは後悔してたんでしょ、こんなのといっしょになって。私はしたわよ。何でこんな浮気もんとってね』
「言うか、普通そういうこと」
『……この際だからね、言うわ、何でも』
「そっかじゃ俺も言うけどな……」
『………』
「………」
それから。
蝋燭の炎が消えるその瞬間まで、俺たちは、取り留めのない、だけど一生忘れられない話を続けた。
ひんやりとした廊下。ドアの横に体を預けなががら私は思った。
もしも運命の神がいるのなら、多分そいつはあの令子のように意地っ張りで、わがままで、寂しがりやで。
……優しいのだろうとおもう。
そんな運命の女神に嫉妬されたあいつは、幸せだったのだろうか。
多分、横島は幸せじゃなかったなんて口が裂けてもいわないんだろう。
そういう男なわけ、横島忠夫って男は。
私は令子が羨ましかった。
悲しみと同じぐらいに、幸せや愛情を残していける令子が羨ましいとおもった。
そんな男に出会えたあいつが。
私は…。
出会えなかった、とは言わない。
けど結局、お互いに逃げてしまったから。
お互いの運命から。
「エミさん……ありがとうございました」
横島が部屋から出てきた。目が真っ赤に晴れ上がってる。泣き腫らした目だ。
涙を流す男はみっともない、なんて言うやつもいるけど、私は違うと思うわけ。
悲しいときに泣けない奴は幸せなときにも、うれしいときにも泣けない。
この私みたいに。
けど、泣き虫にもほどがあるわ。たっぷり、一時間は待たされたわけ。
せっかくの酔いがすっかりさめちゃったみたい。
「感謝する気持ちがあるなら、これからもう少し付き合うわけ」
私は横島の脇をすり抜け、部屋の中に体を滑り込ませながら言った。
「え、いや、しかし今夜はそんな気分じゃ」
振り返った横島が、ばつが悪そうに言う。
「やっぱりオタク真性のどスケベなわけ。今夜は飲み明かすから付き合えって言ってるわけ。ルームサービスは呼んでおくから、おたくはテーブルの上片付けておくわけ」
「そういうことでしたら、とことん付きあいますよ。俺も痛飲したい気分なんでね」
そういってグラスを傾けるしぐさをした横島は……やっぱりまだ、痛々しかった。
「で、なんでこうなってるわけ?」
二人がけのソファーの上。
なぜか俺の腕枕で気持ちよさそうに寝息を立てていたエミさんが、俺がそっと腕を抜こうとした瞬間、ぱちりと目を開けて、言った。
「いやなんでと言われましても記憶にございません」
俺は、何がなんだかわからないまま、とりあえずそう答えるが……。
令子、もう直ぐ君に会いに逝けるよ、たぶん数分後ぐらいには。
俺の格好は、下着一枚だった。
背広やらワイシャツやらランニングやらスラックスやら靴下やらが、なぜか全部ひっくり返しにして丁寧に畳んである。
一方エミさんのほうは、以前仕事のときに身につけていらっしゃった、呪術の踊りの衣装を身にまとっていらっしゃる。しかも黒い貫頭衣の無いバージョン、パレオ付きのビキニのようなあれだ。
カーテンの隙間から差し込んでくる日差しがまぶしい……痛いぐらいにまぶしい。
いっそこのまま溶けてしまいたい。
「ぷっ、なに今にも死にそうな顔してるのよオタクは。冗談よ、冗談、ちょっとからかってやろうと思ったわけ」
おそらく顔を青くしていたであろう俺を恨みがましい目でじっと睨んでいたエミさんが、ころっと態度を一転。
おかしそうに笑いながら立ち上がり、カーテンを開けた。
南洋系の、若干ブラウンがかった肌が、日差しに照らされて輝いて見える。
おそらく、十時はまわっているのだろう。
太陽が思ったよりも高かった。
「や、やだなぁ。冗談にしちゃちょっときつくないすか?」
俺は、彼女の後姿に見とれつつも、頭を掻きながら言った。
触ってみると髪の毛は若いころみたいに完全にぼさぼさだった。
参ったな、ここポマードあるかな?
「でも、服脱がせたの、私じゃないわけ」
「……」
二日酔いとは関係なく、頭がいたい。激しくいたい。
「四時ぐらいっから記憶ないし」
「……」
胃もいたい。
「まあいいわ、何かあったとしても忘れてあげるわけ。あれ、それとも……」
エミさんは、いたずらっぽい微笑を浮かべながら、ぐでっとソファーの背もたれに寄りかかる俺の太ももの上に座り、
「令子の代わりにおはようのキスでもしてほしいわけ?」
といった。
からかわれている。
からかわれているとは理性で理解しているのに、煩悩の奴が勝手に俺の体を支配しやがり、ちょっとづつエミさんの顔に顔を近づけていく。
「魅力的過ぎる提案すね、それ」
「そんなに魅力的?」
「もちろん」
その時だ。
きらりん、と南のお空が輝いたのいは。
「ん?」
「なにあれ?」
太陽の日差しとはまた違う強烈な輝きに、俺もエミさんも首をかしげ。
図ったかのように光の軌跡が一気に俺とエミさんの間を走りぬけ、床に何かが突き刺さる。
「なっ!」
「何だ今のはっ」
俺は狙撃されたのかと思い、まず窓を、それから床のほうを見る。
窓には、ちょうどボーリングの球大の大穴が。そして床には…
『神通棍!?』
しりもちをついた私の声と、横島の声がハモったわけ。
驚いたなんてもんじゃない。本当にありえない、こんなことは…。
神通棍の形をしたそれは、しばらく放電しながらぶるぶると震えていたが、やがて隙間風に流されて消えた。
そのままの体勢で顔を見合わせる私たち。
もう驚いたのやら何やらで頭の中はパニック状態。
でも同時に令子ならやりかねない、と妙に納得したりして。
「いつでも見ているぞってことなわけ?」
「た、多分、そうじゃないっすか」
横島の奴、いつの間にか若いころの口調に戻ってるわけ。
よっぽど驚いたんだろうけど、ちょっと情けないわね。
でも今ので、こいつの瞳の奥から孤独の色が消えているのが分かった。
吹っ切れたって事なのか、それとも。
たとえ死に別たれても心はいつまでも繋がってる、とでも言いたいのかしら、令子?
そんなの見せ付けられちゃうと、私としてはちょっと面白くない。
「あー、あの、そろそろ服着てもらってもいいっすかね。理性保つのも限界みたいなんで」
ふふっ、横島ったら、私の姿見てガキみたいに緊張しちゃって……、口調といっしょに性格まで昔に戻ったわけ?
「ねー、ほんとにキスしてあげよっか?」
もうちょっとからかってやろう、そんなつもりで言った台詞。
「はぁ?」
「こんどは本気でブチギレて地獄のそこから這い出してくるかもね」
少しだけ淡い期待を込めて。
「ちょっと、何を…」
有無を言わさず、私は横島の唇をふさいだ。
流石にたっぷりとはいかないわけ。
ほんの一瞬、触れるか触れないかってほどのキス。挨拶代わりにもなりゃしないような。
それでも横島のやつ、顔を真っ赤にしてるわけ。
「ほら、令子! 見てるんだったらでてくるわけっ!でなきゃ、横島のこと本気で奪って、あんたのメンツぶっ潰すわよ!」
そして私は、横島の顔をそのままソファーに放り投げ、穴の開いた窓のほうへ向かって叫んだ。
でも私も横島もどこかでそれを望んでいた。あのバカ女が気勢を上げて襲い掛かってくる、その瞬間を。
ほんと、バカな私たち。
ありもしない幻想をこんな楽しげに考えるなんてね。
「エミすぁぁん!」
淡い余韻を吹き飛ばす、半ノクターブ上がった声に振り返ると、横島の顔がまた数センチのところまで迫っていた。
「せっかくだからもう一回!」
スケベ根性丸出して、アホみたいに唇つき出して迫ってくる横島に、私は呆れるしかなかった。
こいつ、洒落も冗談も通じないわけ?
「ふん!」
私は咄嗟に、横島の下半身めがけてひざを突き上げる。
「くけっ!」
横島はまるで鶏が〆られた時のような、奇怪なうめき声をあげてその場に崩れ落ちた。
はぁ、やっぱり今日の私はどーかしてるわけ。
急所押さえながら転がっている横島を見て、一瞬でも『かわいい』と思ってしまった。
人のこと笑えないわけ、これじゃ。
脱ぎ捨ててあった服を着込みながら、横島といると少なくとも退屈はしない、っていってた令子のにやけた顔を思い出す。
確かに、退屈だけはしそうにないわね、こいつといると。
「じゃ、私先にチェックアウトするから。支払いのほうはあんたに任せておくわけ。窓とか椅子の弁償もおねがいね」
「そ、そんなぁ」
支払い全部押し付けられて、横島のやつったら、今にも泣き出しそうななっさけない顔をしている。
「業界有数の資産家になった癖に、なに情けない事言ってるわけ? ま、その方がアンタらしいけどね」
私はそんな横島のおでこをぴん、と指先で弾いてやった。
彼女らしい、悪戯心を含んだ笑顔で部屋を後にしたエミさん。
のどの奥に引っかかっていた魚の骨が取れたような、そんなすっきりとした顔をみて、正直ほっとしていた。
逃がした獲物は大きい、が、今だけはそんな煩悩まみれの思考回路は捨てておく。
いくら煩悩魔人の二つ名を持つ俺とはいえ、今は無粋なだけだって事ぐらいはわかってるさ。
……いいから分かれ! マイサン! 少しぐらい格好つけさせろ!
とにかく彼女を見送った俺は、のそのそと起き上がるとひっくり返しにしてあったスーツやらワイシャツやらを、元に戻す。
なんでひっくり返しにしたんだろう、そのことすらまったく覚えてない自分に若干の嫌気をかんじながら。
いやぁ、記憶が飛ぶほど飲んだのなんていつ以来だ?
もしかしたらおキヌちゃんの独立祝いの時以来じゃなかろうか。
あんときも令子と二人で朝まで飲み倒したんだよなぁ。
部屋の中を見渡せば、空き瓶やらつまみの喰い残しやらが散乱している。
そして、窓ガラスにはひとつの大穴。
ほんと、見事にぽっかりあいていやがんな…。
『しみったれてる横島君なんて、横島君らしくないわよ。もっとぱぁっと生きなさい!男の子でしょ?』
不意に脳裏に響く令子の声。
幻聴か、それともまだ酒が抜けないか?
まぁ、この際どっちでもいいや。
いつまでたっても、令子には尻叩かれてばっかりだな俺って奴は。
確かにしみったれてんのは俺たちらしくねぇ、か。
「……しかし、この窓ガラスの弁償代、いくら掛かるんだ?ちょっとやそっとじゃたりねぇぞ、こりゃ」
スースー吹き込む風を感じながらおれは、文珠で直せば問題なしって気がつくその時まで、しばし頭を悩ませていた。
「ぼーず、ようやく来たあるね?」
厄珍堂店主、煩悩小人厄珍は、俺の顔を見るなり待ちくたびれたとばかりにそういった。
「なんだよ、まるで俺が来るの待ってたような口ぶりじゃないか。あんたらしくもない」
俺に二重も輪をかけて助平な厄珍が、男を待っているなど間違ってもありえないだろうに。
「なに、ちょうど20分ぐらい前、エミちゃんが来てたあるよ」
「エミさんが来てたって、何の用で?」
うっかり、今朝までエミさんとホテルにいたのに、と口走りそうになり、あわてて顔を背ける。
「横島の奴が来るだろうから、いろいろ用意しておけって言ってたあるね。ほい、これ」
厄珍はニマニマと笑いながら、どでかい風呂敷包みをカウンターに乗っけた。
ちいっさい割に意外と力があるんだなこの親父は、と感心してしまいつつ、中身にあたりをつける。
「これは…仕事道具じゃねーか?」
「そ、霊能道具一式取り揃えてあるね。坊主が事務所を閉める時引き取ったのと殆ど同じある。もっとも、中身は全部新品。古い奴はみんな若手のGSにうっぱらってしまたあるね」
「どーせ、あの美神令子の使ってた道具だって触れ込みでプレミアつけて売りさばいたんだろ?」
「わかってるならいちいち言わないのがお約束ね。まったく。日本人の癖にあけすけな坊主ある」
美神令子の雷名は死してなお生きている。
むしろ生きてたころより神聖化されているんじゃないだろうかとも思えるほどにな。
この間なんか、テレビでスペシャル番組まで組まれてたからなぁ。若いころの令子の映像がバンバン流されたもんで、思わず録画しちまったんだよな。
もしかしたらそのうち商売繁盛の神としてあがめらたりするようになるかもしれない、なんて、ふと思った。
神っていうには悪辣すぎる気もするけれど。
しかし、エミさんも良くわかったな、俺が仕事再開する気になったのが。
「で、いくらだ?」
俺は財布の中から小切手を取り出しながら尋ねる。
「金は要らないね」
「はぁ?」
厄珍の言葉に俺は耳を疑う。ヤバイ、これは天変地異の前触れか、とすら思った。令子のやつが全財産賭けてもいいって言ったときと同じぐらいの衝撃だ。
「なんか裏があるんだろ、絶対」
「ないない。ないあるよ。ただの営業再開のお祝いね。その代わり、道具は今後ともうちから仕入れるよろし」
「ほんとかぁ?そんなこといって、実は中身は全部怪しい試供品でしたとか言う落ちじゃないだろな?」
「超一流GSにそんなもの握らせてやっていけるほどこの商売甘くないね。それよりは今のうちに借りを作っておいて、後々まで贔屓にしてもらったほうがずっとよろし。超一流GS御用達の看板も伊達じゃないあるしね」
厄珍は、黒丸めがねの奥の目をにやりとさせながら言う。
どうやら俺も厄珍に利用されるほどのGSになった、ってことらしい。
結局のところ、俺の行き着く先はGS(これ)っきゃないんだって、道具を見てたら改めて思う。
これしか、いや、これこそが令子との繋がりなんだ。
いや令子だけじゃない、おキヌちゃんやシロやタマモとも、GSって仕事で繋がってる。
エミさんや冥子ちゃんや美智恵隊長やひのめちゃん、ついでに中年頭頂ややハゲとかとも、な。
だから心配するなよ。
俺は一人じゃねーからさ、令子。
「わかったよ。ここは有り難くいただいておくことにする」
カウンターに載った大風呂敷をむんずとつかみ担ぎ上げながら、礼を言う俺。
「毎度ありね。あー、そうそう、エミちゃんからの伝言ね」
「あん?」
「今度は私のおごりで、食事にでも行くわけ、って言ってたね。ボーズ、いったいエミちゃんと何があったあるね?」
「別に、たいしたことじゃねーよ。ただ、恋女房と親友についての話で、一晩中盛り上がっただけだって。お前の考えてるような邪な事はなーんもなかったよ。悲しいぐらいなぁんもな」
「体の99%が煩悩で出来ている坊主が言っても何の説得力もない話あるね。草葉の陰で令子ちゃんが泣いてるあるよ」
「あほー。あれがおとなしく草葉の陰で泣いているような女だと思うか?」
厄珍は俺の言葉にしばらく首をかしげていたが、にやりと口端をゆがませる。
「思わないあるね」
厄珍だって嫌に成る程よく知ってるのさ、あの令子の非常識をな。
「だろ?だからやましいことなんてなかったんだよ。じゃーな厄珍。また世話になるぜ」
俺は厄珍に別れを告げて、颯爽と店を出る。
さんさんと照りつけてくる太陽の光が、久しぶりに心地よく感じ、俺は自然と叫んでいた。
「さーて、悪霊しばいて一儲けといくかぁ!」
吃驚した通行人たちの視線が俺に集中したが、そんなことは………
「あ、いや、なんでもないんです、すいませんでしたぁ!」
やっぱり気になって逃げました。
まぁ、この方が俺らしいって言えば俺らしいんじゃねえかな?
なぁ、そう思うだろ……?
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