冬、如月。
私鉄ターミナル駅近くの、とある居酒屋での、ごくあたりまえな光景。
「ゴメン、ゴメン、すっかり遅くなっちゃって」
「よーぉ、来た、来た」
「遅いぞーーー!」
「やーーーん! 久しぶり、元気してた?」
「よーし、それじゃ、全員揃ったところで改めて……」
「かんぱーーーーーーい!!!」
打ち鳴らされるグラスに、継ぎ足されるビールの音。
酒とつまみの間に交される、他愛のない噂話。
「ねえ、聞いた? あのコ、結婚するんだって!」
「あれ? こないだ別れたんじゃなかったっけ?」
「そっちじゃなくって、また別の男なんだって」
「アイツ、今、海外に行ってんだって?」
「うん、何か知らんけど栄転らしいよ――ナルニアってとこに」
「はははっ、アイツらしいや」
「お前、今大変なんだって?」
「ああ。ちょっと、いろいろあって破門されちまってな」
「――バチカンだか、バカーチンだか知らねぇけど、頭の固えトコだよなぁ」
夜、十時。
鍋も話もすっかり煮詰まり、席もぽつぽつと空き始めた頃、誰ともなく口の端に上る。
「……なあ、お前、覚えてるか?」
「何を?」
「俺たちのクラスにいたじゃん? 髪の長い、委員長みたいな感じの女のコ」
「あー! そういや、いたなー! 転校してきたかなんかで、ずっとセーラー服着てたコだろ?」
「いたいた! よく覚えてるな、お前」
「アイツ、わりと美人だったと思うんだけど、ちょっと古くさかったよな」
「そうそう、何かというと「青春だわ!」とか言っちゃって」
「お前は学園ドラマの主人公か、ってな」
「あれ? 今日、来てたんだっけ?」
「いや、たぶん来てないと思うぞ。アイツ、卒業前に引っ越してっちゃったろ?」
「そっかー、なんか残念だなー」
「ま、連絡先もわかんないし、しかたないんじゃね?」
「――そう言やさ」
「どした?」
「あのコの名前ってなんだっけ? さっきから思い出そうとしてんだけど、なんか出てこないんだよね」
「あー、なんだったっけなぁ。なんか、ここまで出掛かってるんだけど」
「お前知ってるか?」
「バカ言え。お前らのおかげで散々さびしい高校生活を送ってた俺が、あんな優等生の名前なんて知ってるわけないじゃん?」
「えーと、苗字は思い出せないんだけど、名前はたしか――――――――――」
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| A |
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|. S T O R Y .|
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| 傷 ま し く も |
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| 輝 か し い ..|
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| 我 ら が、 ...|
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| 青 春 の 少 女 に .|
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| 捧 ぐ ――――― ...|
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さ び し ん ぼ う
「それじゃあ、お先に失礼しまーーーす!」
鍵を返しに来た女子部員たちがにぎやかに出て行ってしまうと、途端に美術準備室は静かになる。
校舎の突き当たりにある美術室と、隣の教室に挟まれた準備室は細長く、うなぎの寝床のような造りになっている。
両側のスチールラックに、雑然と積まれた画材道具やら、デッサン用の彫像やらの間を抜けた先のデスクに、美術教師である暮井緑はいた。
暮井緑は特に何をするでもなく、きしきしと嫌な音を立てる椅子に背を預けたまま、ぼんやりとタバコを燻らせていた。
近頃は何かとうるさい世情でもあり、ご多分にもれず、本来ならば校内の専用の場所以外での喫煙が許されるはずもない。
だが、彼女はそんなことに注意を払うつもりは毛頭なく、他の教師達からも、拠所ない事情によって黙認されているのだった。
むしろ、彼女がこうして小さな城に閉じ篭っていることに、安堵の気持ちさえ抱いているのが、偽らざる彼らの本音だった。
そのことでとやかく文句を言うつもりなど、暮井緑には全くもってない。
根元までちびたタバコを消し、続けざまに次のタバコに火をつける。
彼女は常時吸っているほどのヘビースモーカーではないが、こうして考え事を巡らす時は、いつもこんな調子だった。
もう一人の自分からは、少し控えてはどうか、と、いつも言われるのだが、こればっかりはやめられそうにない。
咥えたままにライターで火をつけ、親指と人差し指でタバコをつまみ、一際大きく煙を吐く。
もやもやと漂う煙の中に、なにか新しい絵のイメージが見えるような気がしたが、ぶしつけな生徒の声によってかき乱されてしまった。
「すいませーん、失礼しまーっす!」
言葉の意味とは裏腹に、遠慮も礼儀もない声の主は、横島忠夫という一人の男子生徒だった。
横島は部屋の主の返事も聞かず、ずかずかとスチールラックの間をすり抜けようとする。
その際、少しはみ出していた画材道具が肩に当たり、耳障りな音を派手に響かせて崩れ落ちた。
「あ、あたた……」
「……何をやっているの、君は」
暮井緑は、黙考の邪魔をされた不愉快さも忘れ、呆れた声を投げかける。
その先には、石膏の粉に塗れて決まりの悪そうな顔をした横島が立っていた。
「それにしても、君が来るなんてめずらしいわね。何の用?」
「……いや、その、ちょっと相談がありまして」
「相談?」
横島の口から漏れた言葉に、暮井緑は意外そうに眉を傾けた。
学生服に付いた石膏の粉を叩き落としている、この少々粗忽な生徒は美術部員ではないし、担任のクラスの生徒でもない。
彼も、もうすぐ卒業を控えた三年生の一人だが、その特殊な技能のおかげで進路は決まっており、今さら悩むようなこともあるはずがない。
たしかに出席日数には多々問題はあるが、それでもなんとか卒業は出来る範囲と聞いているし、だいいち、学年主任でもない、ただの美術教師に頼むのはお門違いも良いところだった。
「あ、いや、俺のことじゃなくってですね―――」
暮井緑の表情に気付いた横島が、慌てて白い手を振って否定する。
「愛子のことなんスよ」
「ああ、なるほどね」
愛子という、どこのクラスにでも居そうな女生徒の名前を聞き、暮井緑は納得がいった。
横島と同じクラスの、苗字のない委員長は成績優秀で、品行・人柄にも文句はないが、ただ一人だけ卒業することはない。
彼女を卒業させ得ない、ただ一つの問題というのは、この横島の特殊な技能、あるいは才能に深く関わりを持っているのだった。
「もう時間もあんまりないんですけど、相談に乗ってもらって、できれば協力して欲しいなー、とか思って……緑先生に」
こちらの反応を推し量るような、そんな視線を受け止めながら、暮井緑は灰皿に押しつけてタバコの火を消した。
「さすがはゴースト・スイーパーの卵、というべきかしら。よくわかったわね」
やや皮肉にも聞こえる賛辞に、横島は困ったように笑い、大したことはない、とタネを明かす。
「はじめは暮井先生だと思って来たんスけど、なんというか、ほら、一目見ればなんとなくわかりますし」
「……ホントに?」
「はい。暮井先生とは雰囲気が全然違いますから」
「……あのコが聞いたら、またショックを受けるわね」
暮井緑は、エドヴァルド・ムンクの『叫び』のような顔をした暮井の姿を思い浮かべ、冷笑的に口元を歪める。
それは取りも直さず、己が内面も完全に描写できていない、自分の技量の低さへの嘲りでもあった。
実はこの学校には、暮井緑という美術教師が二人存在する。
一人は、今ここにいる暮井緑本人、そしてもう一人は、暮井緑が『グリアン・グレイの絵の具』というオカルトアイテムで生み出した、彼女のドッペルゲンガーである。
あるとき、ふとしたことで手に入れた絵の具で自画像を描いた暮井緑は、ドッペルゲンガーと入れ替わりに絵の中に閉じ込められてしまったが、ここにいる横島とその仲間たちに助けられた経験を持つ。
正体を暴かれたドッペルゲンガーはあえなく滅せられる運命かと思われたが、いろいろとあった末に、片や絵の修行に勤しみ、片や美術教師として生計を立てるという、一風変わった同居生活を送ることとなった。
以来彼女たちは、うり二つの自分たちを区別させるため、オリジナルの方を「緑先生」、ドッペルゲンガーの方を「暮井先生」と生徒たちに呼ばせている。
そのドッペルゲンガーにとって、オリジナルと入れ替わることこそが本来の望みだというのに、こうもあっさりと「似ていない」と言われてしまっては、さぞや落胆することだろう、と暮井緑は思うのだった。
一方、この横島にしても、ただの平凡な男子高校生というわけではない。
あまり世には知られてはいないが、霊能力という異能の力を発揮して、悪霊や妖怪、はては悪魔といった、人ならざるものに関わる『ゴースト・スイーパー』という職業に従事している。
高校在学中の折から、ふとした縁でその筋では超一流と言われる除霊事務所で助手としてアルバイトを始め、次第に内包していたその稀有な才能を開眼させることとなった。
思春期のごく短い間に、霊能者として飛躍的な成長を遂げた彼は、卒業後にはさらなる活躍が期待されているのだった。
さらには、二人の会話に出てきた「愛子」もまた、ただの女生徒ではない。
愛子の正体は人ではなく、長い間学校で使われ続けてきた机が妖怪と化した存在、いわゆる付喪神と呼ばれるモノである。
これまた奇妙な縁で彼らと出会い、クラスの一員として学校生活を送ることとなったが、彼女が教室の机の付喪神である以上、その存在意義は学校に在ることに他ならなく、故にどんなに成績が優秀であっても、決して卒業することはありえないのだった。
そして、異能なるものは彼ら三人だけではなく、他にも多くのモノが関わりを持っていた。
この学校は元来、そういったモノを集める意図や目的などない普通の高校だったのだが、一人、また一人とやって来ては現在に至っている。
しかも、それがほぼ一学年に集中しているのを思うと、縁とは異なものであると、暮井緑はあらためて思う。
その奇妙な縁の中心にいるのは、まぎれもなく目の前に立っている生徒なのだが、彼はあと二月もすれば卒業してしまう。
彼がいなくなったあと、今の微妙なバランスがどうなるのか、そんな不安がちらりと彼女の頭をかすめた。
「―――それにしても、めずらしいこともあるもんっスね。緑先生が学校に来るなんて」
ほんのつかの間、別のことに考えをめぐらせていた暮井緑は、横島の問いかけに意識を取り戻す。
「失礼なこと言わないでよね。私だって、くされ仕事ぐらいたまにはやるわよ」
「くされ仕事って―――そっちのほうが失礼っスよ」
相変わらず教師としてはサイテーな本音を耳にし、横島は苦笑いを浮かべた。
その表情に暮井緑も釣られてしまい、再び口元が歪む。
「ホントはあのコが寝込んじゃっててね。さすがに無理して出させるわけにもいかないし、それで仕方なく私が来たってわけ」
せっかく新しい作品の構想が出来かけていたのに、などどぼやいてみせるが、その顔を見る限り本気のようには見えなかった。
「暮井先生、風邪ですか? 大丈夫なんスか?」
「うーん、本人が言うには、ちょっと熱が出ただけらしいんだけどね」
「熱って、何度ぐらい?」
「今朝計ったときは六十二度ぐらいだったかな」
「それって、ちょっとどころじゃないですよっ!」
「そうは言っても、ドッペルゲンガーの病気なんか私にはわからないし、あのコの言うことを信じるしかないじゃない? 私にはどうすることも出来やしないわ」
暮井緑は肩をすくめておどけて見せるが、横島はその態度がどうも気に入らない様子だった。
無理もない。
普段、くされ仕事は暮井の方に任せっぱなしで、生徒たちにとってみれば自分よりも暮井のほうがはるかに身近な存在だろう。
妖怪だろうとなんだろうと、情が移るのも至極当然と言えた。
もし、本当は熱を出して寝込んでいるのがオリジナルのほうだとしたら、この生徒は心配してくれるのだろうか。
「出て来るときも意識ははっきりしてたし、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
それにね、と、少し嬉しそうにして一言付け加える。
「ようやく体調を崩して寝込むぐらいには私らしくなってきた、ってことじゃない? ま、少し度が過ぎるけど」
「そんなもんですか」
「私と入れ替わるには、まだまだだけどね」
何気なく漏らされたつぶやきだが、その真の意味を知る横島は返答に窮してしまう。
計らずも会話が途切れ、嫌らしい沈黙が準備室に漂った。
たまらず、暮井緑は最後のタバコに火をつけ、箱をぐしゃりと握り潰した。
「―――それで、相談事というのは?」
「あ、はい、実は―――」
陽の陰り始めた準備室での相談は、タバコの煙が途絶えてもなお、続いていた。
放課後の人気の絶えた音楽室から、ピアノの音が漏れ聞こえる。
ゆったりと、そして甘美な第一主題を、愛子が歌うように弾いていた。
技巧的には必ずしも巧いとは言えないかもしれないが、情感を込めて弾く、揺れるような旋律には、どこか聞く人の心を誘う何かがあった。
やがて中間部へ差し掛かると、旋律は次第に複合する度数が重音跳躍となって激しさを増す。
6度、そして4度の連続は、あたかも青春の躍動、あるいは苦悩を表現しているかのようであった。
その跳躍が次第に収まり、再び第一主題に移行する直前で、愛子は弾き間違えた。さっきから、何度弾いてもこうだった。
ふう、とため息をつき、ようやく鍵盤から指を離す愛子に向かって、静かにそっと声を掛けるものがあった。
「惜しかったですね、愛子さん」
ちょうど影になった顔は見えなかったが、愛子にはそれがすぐにクラスメイトの声だとわかった。
血の色のような夕陽を受けて、綺麗な金髪がきらきらと輝いている。
「なんだ、ピート君か。ずっとそこにいたの?」
「はい」
「呼んでくれればよかったのに」
「いえ、なんだか、話し掛けるのも悪いような気がして」
「失敗するところばかり見ているなんて、青春じゃないわ」
そう言いながら口を尖らせてみせるが、特に腹を立てているというわけでもない。
愛子が再び鍵盤に指を置き、ゆっくりと第一主題を弾き始めるのに倣い、かくも有名な旋律を、ピートも一緒になって口ずさむ。
だが、今度は跳躍する遥か手前で、その手を止めてしまう。
今日はもうこれ以上、何を弾いても上手く出来そうにはなかった。
「ショパンの『別れの曲』、ですか」
「……今まで何度も何度も練習してきたのに、何で上手く弾けないのかしら」
さびしそうに呟きながら、愛子は今度こそ鍵盤から指を離し、ピアノの上に畳んでおいた赤いフロスを手を伸ばす。
やたら横に長いそれを丁寧にをかぶせて、静かにそっと蓋を閉めた。
「何年も、何十年も繰り返し弾いてきたのにね……」
心持ち顔を伏せ、愛子はさびしそうにつぶやいた。
そんな愛子の様子を、ピートは夕陽を背にしたまま黙っている。
こんなとき、男はいつの時代も話す言葉を見失うものだった。
「さ、もう鍵を閉めて先生に返すから、ピート君も一緒に出て」
「あ、は、はい」
やがて愛子は顔を上げ、何かを思い切るかのように、すっと立ち上がる。
ピアノの椅子の代わりにしていた自分の本体の机を抱えつつ、ピートにも廊下に出るように促した。
電気を消して、引き戸の鍵を回せば、音楽室に響く音は何も残ってはいなかった。
あくる日も愛子は音楽室でピアノを弾いていた。曲目は、やはり同じ『別れの曲』。
今日はピートさえもおらず、誰も入れぬように鍵さえ掛けているというのに、昨日よりも手前のところで行き詰ってしまう。
愛子は五回目の失敗を繰り返したあげく、鍵盤の上に身を伏せた。
「さびしいなぁ……」
泣き言とも、あきらめともつかないつぶやきが、うつ伏せにした腕の隙間から聞こえた。
だが、そのつぶやきを耳にする者は誰も居ない。
「このまま、みんなともお別れになっちゃうのかなぁ……」
三学期も半ばになると、それまでの、どこかのんびりとした雰囲気とは変わり、卒業に向けた動きが慌しくなってくる。
雪にまみれてセンター試験を受けたかと思うと、休む間もなく私立の入試が待っている。
やれ、今回の出来は良かっただの、ダメだっただのと、互いに相手を見つけては一喜一憂する。
放課後ともなると、補講だの勉強会だのと言っては、そそくさと帰ってしまう。
強者ともなれば、あちらこちらへ受験しに旅に出て、一月近くも顔も見せない者までいる始末だ。
かたや、受験に関係の無さそうな就職組も、研修やら教育やらで席を外しがちだった。
ましてや、先が決まっていないともなれば、なおさら用も無いのに学校に残っている余裕などあるはずがなかった。
「でも、横島君たちぐらい付き合ってくれたっていいじゃない」
半ば八つ当たりに近いものではあるが、どうしても同じ除霊委員の仲間への愚痴が漏れてしまう。
彼らはその稀有な能力を生かし、ゴースト・スイーパーとしての道が大きく開けている。
普通の生徒たちのように、受験や就職にあくせくする必要などありはしないのだ。
ただ、別れの季節というものは、それだけ魑魅魍魎、有象無象が跋扈するときでもある。
そうなれば彼らとてのんびりと遊んでなどもいられず、自然と愛子と会う機会も少なくなってしまうのは否めない。
「こればっかりはしかたない、か」
愛子は努めて平静を保とうとし、自分を納得させる。
それは今のところ、上手くいっているかに思えた。
「そんなことは、とっくにわかっていたんだけどなぁ……」
そう、愛子にはそんなことはとっくにわかっていた。
学校妖怪として生を受けてからこのかた、様々な学校の様々な教室で、別れの風景を見つめてきた。
何十年もの間、季節がめぐるたびに繰り返される青春のほろ苦さをいつも見守って来たのは、他ならぬ自分だったのだから。
「でも……」
微かに湿り気を帯びたため息とともに、ささやかな幸せが逃げていった。
「みんなと一緒にいられないのがこんなにつらいなんて、全然知らなかったよぉ……」
ついにこらえ切れなくなった涙が、鍵盤の上を濡らす。
嗚咽のたびに叩かれた弦が弱々しい不協和音を奏でるが、それすらも泣きむせぶ愛子の耳には届いてはいなかった。
今日も頭数の揃わない授業が終わり、生徒たちは足早に教室を後にする。
愛子もまた、己の本体である古びた机を持ち上げ、中央の階段を器用に昇る。
美術室のある最上階へと向かう途中、上から降りてきた男子生徒たちと遭遇する。
「あら、横島君じゃない。それに、ピート君にタイガー君も」
「なんだ、愛子か」
「なんだはないでしょ、失礼ねぇ」
「わりぃ、わりぃ」
悪びれるでもない横島の様子に、愛子はたまらず肩を落とし、抱えていた机を踊り場の床に下ろす。
そのときになってはじめて、彼らが抱えて運んでいるものに気がついた。
「なに? 何を運んでいるの、いったい」
彼らは両手に、様々な色合いのタイルを抱えていた。大柄で、一際力のあるタイガーは、さらにセメントらしき袋まで持っている。
傍目には、どこかの工事か何か、たとえば浴室の改装でもするかのような感じだった。
しかし、この学校に風呂などあるはずもなく、まして彼らがする仕事とも思えない代物だった。
「ん? ああ、暮井先生に頼んで分けてもらったものを、な」
「何に使うの、そんなもの?」
「うん、ちょっとね」
自分の質問を下手にはぐらかそうとする横島に、愛子は軽いいらだちを覚えるが、頭の上から聞こえてきたタイガーの申し訳なさそうな声に、つい口を噤んでしまった。
「すんませんがノー、ワッシもさすがに、こんな格好で立ち話はツライんジャが……」
「おう、わりぃ――じゃ、愛子、またな」
タイルを抱え直して降りていく横島の後を、ピートとタイガーが続いて降りていく。
彼らが口々に言う、何気ない別れの挨拶を聞き、愛子はまた少し悲しくなった。
この頃では、除霊委員として一緒に活動することもなく、ただこうして置いて行かれるばかりになった。
愛子は、自分の周りに漂う、ぼんやりとした薄い膜の気配を感じ、いよいよ覚悟を決めて階段を昇るのだった。
「失礼しまーす!」
最上階へと上がった愛子は、馴染みとなった美術準備室の扉を開ける。
この部屋の実質的な主である、ドッペルゲンガーの暮井とは同じ妖怪同士ということもあり、こうして部屋を訪れては世間話をすることが多かった。
もちろん、クラスの女のコなどと、他愛のない話に興ずることもあるが、やはりどこかズレたものを感じるときがある。
それは得てして、中学生のときのことだったり、あるいは卒業後のことだったりするのだが、『高校生』というものに縛られている自分にとっては、はるか別世界のことにも等しいのだった。
あいかわらず雑然とした部屋だが、一部だけぽっかりとスペースが空いているのが見えた。
今まで何かを積んでいたかのような場所の周りには、ざらざらとした細かい砂状のものが撒き散らされ、タイルの四角い跡を晒していた。
それを見た愛子には、さっきすれ違った横島たちが運び出す様が目に浮かび、わけもなく腹立たしくなって、足でその痕跡をかき乱す。
あらかた乱し終えると、ようやく気が済んだ愛子は、本来の用件である部屋の奥へと進む。
そこには、ある程度予想通りの格好でタバコをふかす暮井緑の姿があった。
「暮井先生」
控えめな声で愛子が、そっと声を掛ける。
授業中ならともかく、人気のない放課後ならば、わざわざ大きな声を出す必要もない。
だが、暮井緑は愛子のことなど全く素知らぬ風で、何を考え込んでいるのか、壁の一点を見つめながらタバコをふかしていた。
「……暮井先生?」
まるで反応のない暮井緑の様子に、愛子は怪訝そうな声でもう一度呼びかける。
その声に驚かされたかのように、暮井緑はびくりと身体をびくつかせ、タバコを消して身を起こす。
「……な、なんだ、愛子さんじゃない。脅かさないでよ」
「なんだ、じゃないですよ。話しかけても全然返事がないし」
「ごめんなさい、ちょっと考え事をしてたものだから……」
「もしかして、お邪魔でした?」
「ううん、そんなにたいした事でもないわ。気にしないで頂戴」
暮井緑はほんの少しだけ、どきまぎとした挙動を見せたが、それも間もなく裏面へと隠されてしまう。
気持ちを落ちつかせるためか、机の上のタバコに手を伸ばす素振りを見せるが、すぐにその動きを止めた。
本人が口にこそしないが、本体が木製の机である愛子は、本能的に火を嫌う。
そのことを聞かされていた暮井緑の、ごくささやかな心遣いだった。
「それで、どうしたの?」
「あ、あの、さっき、階段で横島君たちに会ったんですけど……」
「ああ、さっきタイルを取りに来たときね。さすが男の子よね、あんな重いのをいっぺんに持って行っちゃうんだもの」
「あんなもの、どうするんですか?」
「なんかね、卒業製作に使うらしいわよ」
「卒業製作? だって、それはもう作ったじゃないですか?」
愛子の頭にまたも大きな疑問が灯る。
美術の時間での卒業制作は、ちょっとしたレリーフみたいなものを二学期のうちに作り終えたはずだ。
長らく西洋美術に触れてきたピートならともかく、ことさら芸術に興味を持つでもない横島やタイガーたちが、いくら卒業の記念だとはいえ、わざわざそんなことをするとは思えなかった。
「なんかね、もう一つ別のを作りたいんだって。学校にずっと飾っておくためのね」
暮井緑はその動機も目的も、飾る場所についても聞かされていたが、約束通りそのことについては話はしなかった。
だいいち、自分は技法についてのアドバイスと材料の手配をしただけで、その他はいっさい関わってもいない。
これは、彼ら自身が作り上げる、もう一つの卒業製作だからだ。
「でも、そんなことを聞きに来たわけじゃないんでしょう?」
まだどこか首を傾げる愛子の疑問を逸らすため、ひいては本来の話をさせるため、暮井緑が水を向ける。
愛子はしばらく口を開くのをためらっていたが、やがて意を決したように問いかける。
「・……先生が辞めちゃうって本当ですか?」
ある程度予想通りだったその質問に、暮井緑は大げさに肩をすくめてみせた。
「――あいかわらず耳が早いわね。ウチの部員にもまだ話していないというのに」
「他の先生にも、仲の良い人はいますから」
「人間のクセに、口が軽いのは困るわねえ」
茶飲み話にそんなことを漏らす相手に二、三の目星をつけ、呆れたとばかりに手を開く。
もっともその口ぶりからは、秘密を漏らされて怒っている、といった気配は窺えない。
「……じゃ、やっぱり本当なんですか」
「そうね、今すぐってわけじゃないけど、長くても次の一学期が終わるまで、かな」
「どうしてです!? せっかく、こうして学校のみんなとも仲良くなれたっていうのに?」
愛子の言外には、ドッペルゲンガーという妖怪が、という一文が隠されているのを暮井緑は察したが、そのことには触れずに答える。
「もともと、私は中尾先生の代わりとして赴任してきた臨時教師だからね。中尾先生の体調が良くなれば交代するのは当然よ」
「でも……」
「そんなわがままが通らないことぐらい、あなたも知っているでしょう?」
無論、愛子はそんなことは百も承知だった。
正規の美術教師である中尾とは、互いに良い関係を築いていると思えるし、事実そうであった。
見た目の若さに反して、付喪神として三十有余年の時を過ごしてきた愛子にとって、年配の中尾とは思い出話に花を咲かせることもできる間柄なのだ。
それでも、せっかく見つけた仲間を失ってしまう、という気持ちには逆らいがたい。
いっそのこと、中尾がこのまま引退してしまえばいいのに、とさえ思ってしまう。
その内なる声に、愛子は己が人とは違う妖怪なのだという事実を、あらためて突き詰められる思いがした。
「……それで、ここを辞めて、どうするんですか?」
「そうね、しばらくは絵の修行に専念してもいいし、またどこかで声がかかれば、他の学校に行ってみてもいいし…… ふたりでじっくりと相談して決めるわ」
暮井緑はそれほど悩むでもなく、これからのことを口にする。
まだ画家として食べていけるには程遠いが、女一人、いや、女二人で暮らしていくには困るほどでもない。
それよりもむしろ、目の前の生徒の進路のほうこそが心配だった。
「――それで、あなたはどうするの?」
「……え?」
「隠さなくてもいいわよ。あなた、この学校を出て行こうかと考えているんでしょう?」
それは、ごく穏やかで軽い物言いだったが、疑問など微塵もない断定でもあった。
密かに抱いていた思いを直に指摘され、愛子は否定することさえ忘れてしまっていた。
「ど、どうして、それを……」
「近頃のあなたを見ていればわかるわよ。クラスのみんなも、あのにぎやかな除霊委員のメンバーも、みんな卒業していなくなるのがさびしいんでしょう?」
今さら暮井緑に指摘されるまでもなく、そのことで悩んでいたのも事実だった。
しかし、学校妖怪としてこの世に生を受けた自分が卒業して何になるのか。
己の存在意義を否定した妖怪など、生き永らえれるはずもない。
好むと好まざるとに関わらず、またぞろ偽りの高校生として生きていくより他になかった。
ただ、どこで生きていくか、ということが問題なのだ。
「……でも、校長先生は、また一年生からやればいい、って、おっしゃってくれているし」
その提案は、愛子にとって非常に魅力的に映る。
日本中の、いや、世界のどこを探しても、ここより理想的な環境などありはしないだろう。
妖怪としての自分をありのままに受け入れてくれ、素性を隠すことも、ましてや洗脳などする必要もなく、共に学園生活を過ごしていける。
そんな夢のような学校など、他のどこにも見つかるはずもない。
ようやく見つけたエデンの園を捨て、不毛の荒野に足を踏み入れるなど、馬鹿げた行為にしか思えない。
「だけど……」
「だけど、不安なんでしょう? もしかしたらみんなが変わってしまうのが」
愛子のためらいを、暮井緑が受けて続ける。
「ううん、変わってしまうというのは正しくはないわね。あなたが恐れているのは、元に戻ってしまうことよ」
「……」
「もともと、この学校には妖怪なんて誰もいなかった。もしかしたら花子さんぐらいはいたのかもしれないけど、それでも噂話がいいところね。それが、ある時から一人増え、二人増え、いつしかいるのが当たり前になってしまってた」
「……」
「そんな奇妙な縁の中心にいるのが彼。あなたと同じ、除霊委員の仲間――」
「――横島君よっ!」
肩を震わせ、俯きながら暮井緑の指摘を聞いていた愛子が、ついにこらえきれなくなって、その名前を叫ぶ。
「横島君がいたから、みんなと一緒になれた! 横島君がいたから、ピート君やタイガー君とも知り合うことが出来た! 横島君がいたから、暮井先生とも会うことが出来た! 横島君がいたから――」
迸る奔流のような思いが、愛子の口から流れ出る。
だが、それもすぐに細く、小さくなって途絶えてしまう。
嗚咽を漏らし、咽び泣く自分の肩に触れる手のぬくもりを感じてもなお、優しく微笑む暮井緑の顔を見ることは出来なかった。
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