空調の効いた施設から一歩外に足を踏み出した途端、冬の冷気が容赦なく暖房に緩んだ頬をびゅうと叩いた。
この冬一番の寒さに思わず身を震わせた皆本は、コートの前をしっかり合わせながら白いものがちらつく夜空に視線を向ける。
ネオンに照らされたビル群の隙間。申し訳程度に覗いた夜空には、先程から雪がはらはらと舞い始めていた。
皆本は粉雪舞う夜空に朝方見た天気図を重ね、軽く口元に苦笑いを浮かべる。
初雪に情緒を感じるのではなく、等高線の気圧配置をイメージした彼は十分変わり者の範疇に入るだろう。
しかし、彼の苦笑は数値で物事を判断しがちな自分に向けたものではない。
その苦笑は大雪を予想し、車での出勤を控えた己の判断ミスを笑ったものだった。
「失敗した・・・これ位の雪なら車で来た方が楽だったな」
天気予報では大雪となるのは夜半から早朝にかけて。
だが彼は、いつもより早めに起きて仕入れたインターネットの天気図に、自己流の分析を加え午後からの大雪を予想していた。
思ったよりも勢力を増さなかった上空の寒気に、じっと恨めしそうな視線を向けてから、皆本は手に持った紙製の手提げ袋に照れくさそうな視線を落とす。
にやけそうになる口元を誤魔化すために吐いた溜息が、白いもやとなって辺りに拡散していった。
老舗デパートの大きな紙袋の中には、綺麗にラッピングされた菓子―――バレンタインのチョコが8分目まで詰まっていた。
「賢木の軽口が蝶の羽ばたき以上に効いたみたいだな・・・」
プレコグの予知に対して、彼がすがっている理論が脳細胞の中をかけめぐる。
地球の反対側で起こった蝶の羽ばたきが、様々な変化を累積させやがては台風に至るという一連の思考実験。
チョコを大量に貰えることを見越しての車通勤と、賢木にからかわれる事への抵抗が、侵入してくる寒気の速度を見誤らせたと彼は自己分析を行っていた。
そのまま予知についての思索に入りそうになった意識。しかし皆本は寸前の所で現実へと戻るべく頭を二三度振る。
思考の中とはいえ、猫をガス室送りにするのは些か気分が滅入るからだった。
白く拡散する溜息をもう一度ついてから、皆本は空に向かって差し出した傘のスイッチを押す。
裏切り者の空に対する彼のささやかな抗議の様に、小気味よい音を立て黒い蝙蝠傘がその翼を広げる。
皆本は右手に提げた紙袋を極力濡らさないよう注意しつつ、最寄りの駅に向かって歩き出した。
―――――― 女心と冬の空(with サスケ様) ――――――
「あ・・・」
バベル本部を出てから数分。
傘に狭められた景色の中に少女の姿を見つけたのは偶然だった。
雨宿りのつもりなのか、雑貨屋の前に佇んだ少女はぼんやりとガラス越しに店内を見つめている。
若草色のハーフコートにピンクのマフラー。
何処か春を思わせる色調が、冬真っ盛りの町の中で所在なげに震えている春の精をイメージさせた。
そんな少女の姿に、皆本は呟くように彼女の名を口にする。
「澪・・・」
最後に会ったのは一年以上前。
その頃と比べ背丈は大夫伸びたように見えるが、華奢な印象はあの頃とあまり変わって無いようにも感じられる。
澪―――パンドラによって保護された高レベルエスパー少女。
彼女の存在に兵部より先に気付いてさえいれば、第四のチルドレンになったかも知れない少女。
出会った当初は保護できなかった自分を悔やんだこともあったが、黒い幽霊の存在を知った今ではその気持ちも幾分治まってはいる。
エスパーを操る謎の組織との戦いで、皆本はパンドラのもう一つの顔を知ることとなっていた。
どうやら兵部は、彼女を戦士として育成しようとパンドラに引き入れた訳ではないらしい。
あれからも度々出会うことはあったが、その度に澪は笑顔の数を増やしている。
兵部が彼女の幸せを願っていることは確かなようだった。
その他の事を完全に度外視した上で、皆本はその一点のみ兵部を評価している。
長い風雪に晒されていた冬の日々の中でも、澪の中には着実に春がその足音を近づけて来ていることだろう。
彼女にとっての雪解けはもう訪れただろうか?
そんなことを考えながら、皆本は傘で顔を隠しつつゆっくりと彼女に近づいていった。
「久しぶり・・・」
最初に目があったのはガラスに反射した姿。
続いて振り返る眼差しと、その口元に浮かんだ微笑み。
皆本は春の訪れがそう遠くないことを確信する。
「傘・・・ないの?」
「雪が降るなんて知らなかったから。相変わらず準備いいのねアンタ」
「準備いいって・・・今晩は大雪だってどの天気予報でも言っていたじゃないか」
「知らない。TVのニュースってあんまり見ないし」
彼女らしい発言に、皆本の口元に笑みが浮かんだ。
彼の部屋のチャンネル権を占拠している少女たちも、ニュース番組には全くと言っていいほど興味が無ない。
皆本は傘を彼女の方に傾けると、自分は信じなかった天気予報の内容を口にする。
「今はこれくらいだけど、予報だとどんどん強まっていくって・・・」
皆本はそのことに特に抵抗は感じていない。
予報を信じ、自動車で通勤したのならこの出会いは無かったはずだった。
己の判断ミスという、蝶の羽ばたきが起こした出会いを彼は歓迎していた。
「・・・駅までで良かったら送って行くけど?」
「私を? 私、テレポートできるのに」
「雨とか雪は苦手なんだろ?」
皆本が口にした能力の特性に、澪は黙って皆本の顔を見つめる。
そのまま数秒間視線を合わせた彼女は、肩の力を抜くように溜息をつくと、笑顔を浮かべながら両の頬を軽く手の平で擦る仕草をした。
マフラーと同系色の毛糸で編まれた手袋が彼女の頬を温め、その頬をほんのりと桜色に染める。
「アンタに隠してもしょうがないわね。寒くて困ってたしお願いしようかしら」
雪が雑踏の騒音を吸収しているためか、不思議なほど静かな夜の街に有線の音楽が流れる。
バレンタインに合わせ誰かがリクエストしたのだろう、流れた曲は名も無きワルツ。
それが映画フィッシャーキングの中で使われた曲であることを二人は知らない。
映画の中、恋に落ちる二人の出会いを演出するグランド・セントラル駅でのダンスシーン。
澪はまるでダンスの誘いを受けるかのように足を一歩踏み出すと、皆本の傘の下に入っていく。
皆本は右手に持っていた紙袋を傘に持ち替えてから、澪を伴い最寄りの駅へと歩き出した。
「・・・相変わらず優しいのね」
「え、何が?」
「分からなければいいわ」
澪は会話を打ち切るように皆本にぴったりと寄り添う。
皆本は彼女の歩幅に合わせ、ぎこちなく歩を進めていた。
ダンスパートナーとしては失格の、しかし彼女にとっては心地よいステップ。
彼が胸に抱えた紙袋からは甘いチョコの香りが漂っていた。
皆本の革靴がカツカツとリズムを刻む。
パートナーに合わせたぎこちなくも優しいリズムに、澪は自分の足音を乗せていく。
やがてぎこちなさは薄れ、二人は雪の降る街を流れるように進みだす。
左折の車、傘をさして走る自転車、歩道に張り出した看板。
ダンスパートナーを気遣うように、皆本は様々な障害から澪を遠ざけ歩いていく。
そんな皆本に、澪は兵部の背を追う時には生じない感覚を味わっている。
澪はどこかむず痒いその感覚を決して嫌いでは無かった。
この男は無自覚に優しいのだ。
隣を歩く男を思い、澪は呆れたように溜息をつく。
自分に車道側を歩かせないよう右手に持ち替えた傘。
濡らさないよう大事に抱える荷物があるくせに、彼はその傘を自分の方に傾けてくれる。
多分、紙袋の中身はバレンタインに貰ったチョコレート。
その中に、あの三人からのチョコがあるのだろうか?
さっきから見ないようにしていた紙袋が、澪はどうしても気になってしまう。
本命からのチョコでなくとも彼は大切に扱うのだろう。
その想像が少しだけ彼女の気持ちを楽にしていた。
「普段、TVってどういうの見るの?」
不意にかけられた声に、澪は驚いたように皆本を見上げてしまう。
ワルツの時間は終わり、彼女の耳に今まで気にならなかった音が一斉にその存在を主張しはじめる。
信号の音、車の排気音、道行く人々の話し声・・・
道行く二人を雑踏のざわめきが包んでいた。
「あ、いや、さっきニュースはあまり見ないって言っていたから」
自分でも唐突な話題だと分かっているのだろう。
言い訳がましく理由を口にする皆本に、澪はクスリと笑いかける。
沈黙をなんとかしようと、精一杯会話のとっかかりを探している彼の苦労が伝わってきた。
澪はその話題を切っ掛けに、皆本に一つの秘密を打ち明ける。
「よく見るのは動物番組。だから学校では理科の授業が好き・・・でも計算は嫌い」
「学校!? 澪、君は学校に通っているのか!!」
掛け値無しに驚いた表情。
皆本が浮かべた喜びにも似た表情が、名前を呼ばれた以上に澪の心を温める。
パンドラとバベルの関係を考えれば言うべき事ではないことは分かっている。
しかし澪はどうしても皆本にそのことを伝えたかったのだった。
「偽名でだけどね。少佐が戸籍を用意してくれて・・・ノーマルの学校に行きたいと言ったときは相当驚かれたけど」
驚いた兵部の顔がどうしても想像できず、皆本は天を仰ぐ仕草をする。
その口元に笑いの形が浮かんだのを澪は別な意味に捉えていた。
「その笑いはなーに! アンタもマッスルみたいに、私に勉強は向いていないって言いたいワケ!!」
「い、いや、誰でも勉強は大切だよ! 笑ったのはアイツが・・・っと、だけど良く自分から勉強する気になったね。偉いぞ!」
「勉強は今でも嫌いよ! 学校に行ってみたくなったのは、アイツらが楽しそうだったから・・・」
アイツらとはチルドレンの3人だろう。
顔を合わせる度に口げんかする薫と澪の姿を思い出し、皆本の口元にそれまでと違う種類の笑みが浮かんだ。
「そうか・・・で、学校は楽しい?」
微笑みかける皆本から目をそらすように、澪は斜め上に視線を走らせてから正反対な二つの答えを頭に巡らせる。
目の前の男を安心させるための楽しいという答え。
心配して貰うためのつまらないという答え。
どちらに偏った答えも本心ではなく、会話を盛り上げる為の話題でしかない。
「んー、そうねー・・・」
どちらの答えでもかまわないと思っているのは、たった一つだけ確実に言えることがあるからだろう。
少佐に保護される前の思い出したくもない生活と比べれば、今の暮らしに不満など有るはずがないということ。
事実、最近の自分には、過去の生活が悪い夢だったように思えている。
パンドラに保護されてからも頑なに少佐にしか心を開かなかった自分。
そんな自分に人を信じる気にさせた男が、ただ黙って自分の答えを待っている。
澪はできるだけ正直に自分の気持ちを話すことにした。
「正直微妙。思った程は楽しくもないし、つまらなくもない。だけど、少佐たちの手を煩わしてまで通う価値があるのかなーなんて、時々考えちゃう」
「でも、兵部は通わしてくれているんだろ? それなら遠慮せずに甘えておけばいい」
「実際の話、学校って調子狂うのよ。最上級生って言ったって、パンドラのみんなと違ってガキばっかりで、小さな事で喜んだり、大したことじゃないことで悲しんだり・・・・・・あの世界があの子たちの全てだからそれが当たり前なんだろうけど―――」
―――アンタも小学生の頃はああだったの?
澪は自分の質問が引き出した皆本の表情に息を呑む。
いつも優しく包む込んでくれるような穏やかな視線。
澪はその中に、一瞬だけ暗い影が落ちたのを感じとっていた。
「あ、君たち程じゃないけど、僕も普通の子供とは少し違っていたから」
澪の変化に気付き、慌てたように浮かんだ表情を隠すと、皆本はまるで大したことではないとばかりに過去の自分を笑い飛ばす。
「自慢しちゃうとね。僕、かなり勉強できたから、君たちの歳には普通の学校には通ってなかったんだ」
「ホントに自慢するとはね・・・勉強嫌いな私にはアンタも十分超能力者よ!」
「みんなにはそう思えたろうね。高校レベルの授業くらいなら1回話を聞くだけで、本を読むだけで頭に入ったから・・・でも僕は愚かな子供だった」
「勉強が出来るのに愚かってイヤミ?」
澪はわざとらしく、ぷうと頬を膨らませて見せた。
皆本はそのふくれっ顔に苦笑しつつ、勉強にコンプレックスが有るらしき彼女の誤解を解き始める。
「いや、転校してしばらく経ってから、本当にそう思うようになったんだよ」
皆本は傘を少しだけ退かすと、降りしきる雪をその顔に受ける。
以前本で読んだ知識が、頬で溶ける雪の結晶を六角形に感じさせていた。
「知識と知恵は違うんだ・・・澪、どうやって雪が降るか知っている?」
「雨が凍るの?」
「残念。雪が溶けたのが雨。雲のある所って相当寒いんだよ・・・じゃあ、雲がどうやって出来るのかは?」
驚いたように目を丸くしたまま、澪は左右に首を振る。
皆本は中学生レベルの気圧と飽和水蒸気に関する知識を、丁寧にかみ砕きながら説明しはじめた。
地球を取り巻く水の循環―――
蝶の羽ばたき一つで予測不可能となる現象を、恐ろしく単純な系として説明する自分に気付き皆本は内心苦笑する。
説明をやめなかったのは、真剣に自分を見つめる澪の視線に気付いたからだった。
先程理科が好きだと言ったのは本当らしく、澪は彼の話を熱心に聞いていた。
過去の自分も今のような表情で授業を聞いていたのだろうか?
皆本はいつしか昔の自分に思いを馳せていた。
目に一杯好奇の光をたたえ、興奮気味に頬を紅潮させながら本当は見えることのない水分子をイメージする。
もっと知りたい。もっと先へ・・・
加速した熱運動が分子間力の束縛を切り離し、水分子を大空へと舞い上がらせる。
そして舞い上がった水分子は高い空を知る。
しかし、それは水分子が望んだ世界なのだろうか。
「・・・という訳で雲ができるんだ。で、コレが知識。僕は小学生の頃から雨が降る仕組みを知っていた」
「先生に聞くよりもよく分かった! アンタって昔から凄かったのね!!」
凄くはない―――皆本は胸の内で呟く。
本当は理解したつもりになっていただけだった。
その証拠に、自分は今朝も天気を読み違えている。
小学校から切り離されて見た世の中は複雑で、至る所で蝶が忙しなく羽ばたいていた。
いや、小学校の中でも常に蝶は羽ばたき、事態は予測不可能な方向へと進んでいっていたのだろう。
それに気付かなかった自分は、単に知識だけに偏った存在だった。
「ありがとう・・・でも、そんな子が出がけに傘を忘れ、ずぶ濡れになったら愚かだろう? 如何にして雨に濡れないかを考える力・・・知恵ってやつが無いとね」
皆本の浮かべる苦笑に澪は首を傾げた。
「当時の僕には知恵が無かった。傘も持たず、毎日雨に降られ、ずぶ濡れ・・・」
「ナニ言ってんの!? 毎日雨が降るわけないじゃない!!」
澪はからかわれたとばかりに皆本の腕をピシャリと叩く。
自分の暗喩が不発だったことに、皆本の苦笑が更に深まった。
「まあ、とにかく、雨に濡れて風邪を引かない為には、知識だけじゃなく知恵が重要って事。こんな日に傘を持たず出かけるようじゃ、君もまだまだだしね!」
駅の構内に着いた皆本は、傘を畳むと澪の頭をクシャクシャと撫でる。
彼が天気を読み間違えたことによる出会いも、別れの時が近づいていた。
「だから・・・君が苦痛じゃなければ、行っといた方がいいんじゃないかな? 学校」
「今度会ったとき、また色々聞かしてくれる? 知識の方でいいから・・・なんか勉強が好きになりそう」
「こんな話で良かったら・・・僕はJRだけど君は?」
澪は少し離れた所にある私鉄の改札を指さす。
「今日はありがとう、それじゃ・・・」
澪は照れたように手を振ると私鉄の改札口に向かって早足で歩き出す。
しばらくその姿を見送ってから、皆本もJRの改札を抜けホームに上がる階段へと向かっていった。
それ―――やる。
皆本は不意に通り抜けた改札を振り返る。
何故か澪に呼びかけられた気がしていた。
「空耳か・・・・・・」
皆本は微かに首を傾げなから、再び改札に背を向ける。
右手に持ち直した紙袋に加わった、チョコ一個分の質量に気付かないまま、皆本はホームへと続く階段を上っていった。
弾む息づかいが駅の雑踏を駆け抜ける。
私鉄の改札前を走り抜けた澪は、駅ビルを抜け、ガードに面した通りに達した所でようやくその足を止めた。
小さな悪戯を成功させた喜びに笑みを浮かばせた口元では、弾んだ息が白く色づき、すぐに雪の舞う夜空へと拡散していく。
拡散した吐息は蝶の羽ばたき程に大気を乱し、その乱れによって生じた差違は徐々に積み重なり、やがて大きな変化を起こしうるだろう。
息を整えた澪は、雪の舞う夜空を見上げる。
ガードの上ではJRの下り列車がゆっくりとホームに入るところだった。
「雨に濡れない知恵か・・・知ってた?」
澪は何処か大人びた微笑みを浮かべると、コートの内ポケットから小さく折りたたまれた傘をとりだす。
夜空に向けて開かれた傘には無数に咲いた花模様。
「女にはわざと雨に濡れる知恵もあるのよ・・・」
澪はわざと皆本の乗った電車から見えるよう、表の通りへと歩き出す。
皆本が自分の姿に気づくかどうかはわからない。
しかし澪は、冬の街に花開いた傘を見た皆本が、いつの間にか増えていたチョコに気づく姿を夢想していた。
湧き上がる空想に軽やかになる歩調。
道行く人々は、みな一様にすれ違う彼女を振り返る。
雪の夜にもかかわらず、彼らは春の訪れを感じていた。
―――――― 女心と冬の空(with サスケ様) ――――――
終
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